第十三章 エピローグ



第十三章 エピローグ



 羽田空港の到着ゲートにその男が現れた瞬間、眩いばかりのフラッシュが焚かれ、女性ファン達の黄色い声が飛び交った。野次馬は優に千人くらいはいるだろうか? 最前列に陣取った報道陣が一斉にワッと彼に群がる。

「あっ、今出てきました!! エル・マドリード所属で日本人初のバロンドールを受賞した、K.K.こと、門真和生かどまかずき選手です!!」

「門真選手!! イタリア人女優のクラウディアさんとの密会の噂が出ていますが真相はどうなんでしょうか!?」

「本命はスパイシーガールズのジェシカさんですか!?」

「はいはーい、ごめんねぇ。サッカーに関係のない話は事務所を通してもらってくださいね」

 そう言って彼がウィンクすると、プロの女性リポーター達が真っ赤に頬を染めて思わず道を開けてしまう。欧州一流ブランドのモデルも務めるほどの非の打ち所のないルックスと、超一流だけがまとう周囲全てをのみ込むオーラ。野次馬達も遠巻きに距離を取りながら彼を追う。

 そんな状況に馴れっこの彼は、我関せずにゆっくりと歩みを進めていたが、その視線の先に待ち人を見つけると途端に足を早めた。

 真っ赤なフェラーリにもたれかかり、気だるそうに腕組みをしてこっちを見据えるグラマラスな美女。

 白地にライトブルーのストライプが入ったレディースシャツと黒のタイトスカート。品よく決めたキャリアウーマン風の出で立ち。サングラスをしているのでその表情は窺い知れないが、きっといつものように不機嫌な目つきをしているに違いない。

「じゃ、ここでゴメンね」

 彼は報道陣と野次馬達を制すると、手荷物を引いてその美女の下に駆け寄った。その表情は一転、まるで人懐っこい少年のようだ。

姫姐ひめねえ!」

 彼が声をかけると、サングラスの美女はしばらく彼の顔をまじまじと見つめていたが、やがて抑揚のない声で呟いた。

「……殴っていい?」

「何だよ? 久しぶりの再会でご挨拶だな~」

 相変わらずだ。彼は苦笑するとトランクを開けて手荷物を放り込んだ。他の荷物はマネージャーが宿泊先のホテルへ配送の手配をしてくれているので身軽だ。

「ほら、運転するんでしょ?」

 クルマのキーを差し出す彼女。今時珍しい、マニュアルミッションのガソリンターボ車。

 スポーツカーなので、今や当たり前のアダプティブクルーズコントロールシステム(自動運転システム)は付いていない。

「いや、日本の道久しぶりだから怖い。姫姐お願い」

「何よ? あんたの車でしょ?」

「いいじゃん。姫姐、実質オーナーだし運転上手いでしょ? 戦闘機のパイロットだし」

「戦闘機とクルマを一緒にすんな」

 彼女はそう吐き捨てると、指先でクルクルとキーを回しながら運転席に乗り込んだ。それを見て彼もまた助手席に乗り込む。ヨーロッパからの長時間のフライトはやはり身体にこたえるが、彼女との再会に心は弾んでいた。

 その美女の名は刑部姫子おさべひめこ。国防海軍の空母艦載機パイロットで、和生の二歳年上。父親を戦争で亡くし母子家庭に育った和生は、やはり空母艦載機のパイロットである母親が長期航海に出るときは姫子の家に預けられ、それゆえ彼女とは姉弟同然に育った。

 父親に似て無愛想な彼女だが、小さい頃から何かと和生の世話を焼いてくれ、時折自分だけに見せる女の子らしい表情が、いつの頃からか彼の心をがっちりと捉えて離さなくなった。

 サッカーを始めたのも、元はと言えば自分のことをいつも子供扱いする彼女にカッコいいところを見せたい、という不純な動機からだったのだが、運動神経抜群の両親の遺伝子を引き継いだ彼はみるみる頭角を現し、気がつけば世界の頂点にまで登り詰めてしまった。

 もっとも、肝心な彼女のハートは全くつかめた感じがしない。

 初めて彼女に告白したのは中学二年生の時。高校生になった姫子にはお姉さん風を吹かれて軽くあしらわれた。それでもめげずにアタックしては撃沈を繰り返す中、二人の関係に変化が訪れたのは彼が高校一年生の暮れのこと。

 彼女が都内の大学へは進まず、海軍のパイロットを目指して下関の小月教育航空隊に入隊することを知った彼は、涙ながらに彼女を引き留めようとしたのだが、それまで頑なだった彼女はどういうわけか泣きじゃくる和生を優しく受け入れてくれ、二人は親の目を盗んで身体を重ねた。

 もちろん和生にとってはそれが初体験だったが、実は姫子もそうだったらしく、いつも大人ぶっていた彼女がガチガチに緊張していた姿は今でも忘れられない。その後、彼女の入隊した先が和生の母方の祖父母の家から近かった事もあり、何度か遊びにいったりして、ようやく二人は遠距離恋愛の形で付き合いをスタートさせた。

 そんな順風満帆に見えた二人だったが、別れは突然訪れた。

和生の周辺がにわかに騒がしくなり始めた高校三年生の秋。国内外のプロサッカーチームによる彼の争奪戦が激しさを増す中、姫子から一方的に別れを切り出されたのだ。他に男ができたという理由で。年下なんかに本気になれるわけがないとまで言われ、深く傷付いた彼は内定しかけていた地元のチームを蹴り、中学生の時から声をかけ続けてくれていた欧州の名門チームの扉を叩いた。

 そして彼女のことを振り払うように異国の地でサッカーに打ち込み続けた結果、渡欧一年目から定位置を確保し、一躍スターダムにのし上がったのだった。

 今まで想像もし得なかった煌びやかな世界。近寄ってくる女性達は皆、息をのむほど美しくて華やかで。姫子以外、女性に免疫のなかった彼は、深く傷ついた心を埋めるかのようにあっという間にスキャンダラスな世界にのみ込まれていった。

 そんなある日、母親から届いた彼を厳しく戒める一通の手紙。そこに書かれていたことは彼にとってあまりにも衝撃的で。

 あの日、姫子が自分の将来を想い、嘘をついて自ら身を引いたと知った彼は、いても立ってもいられずに日本へ戻ると、そのまま彼女がいた千葉県柏市にある下総航空基地に直行した。

 既にスーパースターとなっていた彼の突然の登場に基地は大パニックとなったが、そんなことはおかまいなしに姫子を探して見つけると、驚き泣きじゃくる彼女に向かって土下座した。彼女の深い愛情に気づけなかった自分がとても情けなくて、ただ地面に額を擦りつけた。そこで一応、二人は仲直りをしたのだが、まだ教育課程の最中で当面はファイターパイロットになる夢に専念したいとの姫子の意向により恋人付き合いの再開は保留となった。

 あれから四年。教育課程を卒業し、今では厚木基地の「しょうかく」航空隊第一一戦闘飛行隊に所属する一端の戦闘機パイロットとなった姫子だが、未だに彼女から復縁OKの返事はもらえていない。

 和生はチラッと彼女の横顔を見ると、気づかれないように溜め息をついた。相変わらずの仏頂面だ。

「ねえ。俺、姫姐のこと、ずっと好きだよ?」

 この手のセリフを彼女に吐くのはもう、何度目だろう。

「あらそう? 世界のスーパースター様はてっきり金髪美女が趣味なんだと思ってた」

「か―っ、それかよ。それが今回の不機嫌な理由? だから誤解だって!」

「別に不機嫌じゃないわよ。こんな顔なのよ昔から」

「嘘だね。姫姐の笑った顔は世界で一番可愛いもん」

「……帰国早々変なこと言ってんじゃないわよ」

 ポーカーフェイスが崩れる。明らかに動揺している様子で、そこが可愛い。チャンスだ。

「ホントだよ。俺、姫姐に会いたくて会いたくて仕方なかった……。姫姐は俺に会いたくなかった?」

 和生は熱っぽく囁くと、姫子の健康そうな太腿に手を這わせる。

「……やめて。運転中よ」

「どっか寄り道しない? 俺、スグにでも姫姐が欲しい」

「ダメよ……。おば様も待ってるし、あたしも午後から訓練だから」

 ポーカーフェイスが戻る。隙は一瞬だけだった。今度は盛大に溜め息をつくと座席に身体を沈めた。

「姫姐は……まだ夢の途中? 俺の入り込む隙は全くない?」

「憧れの人の背中はまだまだ遥か先だから……」

「はぁ……。実の母親が恋のライバルって、何のジョークだか」

 小さい頃から彼女の憧れは自分和生の母親。女手一つで自分を育ててくれた母親のことは大好きだし尊敬もしているが、こうなると恨みの一つでも言いたくなる。

「……いいよ、あたしのことなんか待ってないで」

 その彼女の一言にいよいよもって和生はキレた。

「なんだよそれ……、ふざけんなよな。いい加減怒るぞ」

 思わず語気を強めると、彼女は押し黙ってしまった。気まずい沈黙が流れる。結局、その後はお互い口をきくこともないままに、車は目的地である海軍厚木基地に到着した。

 姫子は隊舎横の来客駐車場にフェラーリを停めると、しばらくハンドルを握ったまま視線を落としていたが、

「……おば様なら司令室にいると思うから」

 と絞り出すように言うと、逃げるように車を降りようとした。

「姫姐!」

 逃がすか。

 和生は姫子の手首をつかむと、ぐいっと引き寄せ強引に唇を塞いだ。

「んんっ……」

 抵抗する彼女を逃がさないようにがっちりと抱き締め、舌を絡める。

「や……和生。ん……」

 頑なだった彼女の舌が徐々に彼に応え始め、やがて彼女の腕が彼の首に回る。お互いを求める激しいキス。

「愛してる、姫子」

 たまらなくなった和生が服の上から彼女の豊かなバストに手を這わせ、そしてタイトスカートの中に侵入させた途端、物凄い力で撥ねつけられた。自分のことを睨みつけるその瞳には涙が浮かんでいる。

「バカッ……!」

 左頬に弾ける衝撃。彼女はハンドバックをつかむと、車を降りて走り去ってしまった。

「……何だよ」

 指先に残る湿り気。それは間違いなく自分のことを受け入れてくれていた証で。和生は不貞腐れたように舌打ちすると、車を降りた。トランクを開けて荷物を取り出していると、

「和ちゃん!」

 と、不意に背後から声をかけられ振り返る。

「美鈴さん……」

 そこにいたのは坂本美鈴(旧姓谷口)だった。和生の母親の大親友で二児の母。 不惑は過ぎているが、職業柄かとても若々しい、「しょうかく」航空隊整備小隊の先任伍長様だ。

「もしかして……見てた?」

「見てたわよ~? バッチリ」

 悪戯っぽく答える美鈴に、和生はあちゃ~と額を抑えた。

「何だよ、趣味悪いな」

「あら、久しぶりに会ったのにご挨拶ね。あたしだってまさかあんた達がこんな基地の駐車場でオッパジメルとは思わなかったわよ。ま、あたしでよかったわ。刑部少将だったら今頃多分、半殺しね」

 その人物の名前に和生は思わずビクッと肩を震わせる。自分のことを悪い虫と言って憚らない、最大の天敵。

「おじさん、今いるの?」

 彼の動揺を知ってか、美鈴が楽しそうに微笑む。

「あら、聞いてない? この春から市ヶ谷の防衛部長様に栄転よ」

「それ、偉いの?」

「ええ、海軍幕僚長真っしぐらってとこ?」

「げ」

 そんなに偉くなられたらますますとっつきづらくなってしまう。姫子と一緒にいるところを見つかって、何度本気で殺されそうになったことか!

「ほら、そんなこといいからさっさと行きなさい。夕陽さん、待ってるわよ?」

「はいはい」

 美鈴に背中を叩かれ、和生は隊舎に入った。


           *


 子供の頃から有名人の彼は、民間人でありながら基地内はもはや顔パスだ。通り過ぎる顔なじみの隊員達と会釈を交わしながら勝手知ったる隊舎内を進む。司令室の前まで来ると、一呼吸置いてからドアをノックした。

「入れ」

 中から返事があってそーっとドアを開くと、彼女は部屋の中央で腕組みをし、仁王立ちで彼のことを睨みつけていた。その鬼気迫る形相にたじろぐ。

「や、やあ久しぶり」

 彼女は和生の愛想笑いにニコリともせず、ズカズカと目の前までやって来ると、鬼の形相のまま彼を見上げた。

「何か申し開きすることはあるか?」

「へ?」

「ないようだな。では歯を食いしばれッ!!」

「ええ―っ!?」

 バキッ!!

 いきなりの鉄拳制裁に、もんどりをうってその場に倒れる。

「いってぇな! なんだよいきなり!?」

「うるさい!! それはこっちのセリフだ!! 姫ちゃんに何したこのバカ息子!!」

「何って……」

「窓の外見たら姫ちゃんが泣きながら走ってるのが見えたわよ。あんたの仕業でしょ!?」

「ああもう! 美鈴さんといい、揃いも揃って出歯亀してんじゃねーよ!」

 和生はガシガシと頭をかくと、勢いよく立ち上がった。

「はいはい! 確かに焦った俺が悪うごさんした! パンツの中にまで手ェ突っ込んだことは反省してます!」

「あんた……何てことを……」

「いや、その、姫姐とは初めてじゃないし、キスにはちゃんと応えてくれてたし」

「時と場所を考えろって言ってんのよ!! バカ息子!!」

 彼女は盛大に溜め息をつくと、頭を抱えた。

 門真夕陽。

 和生の母親で、尖閣紛争の英雄。階級は大佐で、今や厚木基地司令を兼務する空母「しょうかく」航空隊のトップだ。既に四十代も半ばをとっくに過ぎているのに、三十代前半と見紛うばかりの美貌の持ち主で、息子の目から見ても、結婚せず独り身なのはもったいないと思う。

 もっとも、入籍前に戦死した恋人と添い遂げたいとの思いから、頼み込んで門真家の養女となり、愛する人の姓に改めた母親。実家のアパートも元々は父親が借りていた部屋らしい。だいぶ老朽化が進んでいたので、親孝行をしようとチームとの天文学的な契約金の一部でアパートを丸ごと買い上げ、リフォームをしようとしたら烈火の如く怒られた。なので実家の部屋は害虫駆除を施しセキュリティを強化しただけでそのまま残し、あとの部屋は全て壊して自宅に改築した。

 いまだに彼に恋をしているらしく、普段は厳しい彼女も父親のことを語る時だけは女の表情を見せる。

〝あんないい男とあれほどの大恋愛をしたんだから、もう他の男なんか一生目に入らないのよ〟

 とは美鈴の言だ。国防軍内で伝説として語り継がれている、写真や映像でしか見たことのない父親。

「しかも、よくもまぁあんだけたくさんの女と浮名流して。あたしはあんたをそんな風に育てた覚えはないッ!」

 そこまで言われて和生も少しムッとする。

「親父だってものすごい女たらしだったんだろ? その息子なんだから仕方ないじゃん。遺伝だよ、遺伝」

 どうだ? ヒットか?

 母親の顔色を窺うが、彼女は表情一つ変えなかった。

「敏生はあたしがイエスと言ってからは一切、他の女には手を出さなかったわよ。あんたと一緒にすんじゃない」

 まるで勝ち誇ったかのような母の表情。親父のこと美化し過ぎ…ってか絶対そこ記憶書き換わってるだろ―――――!?

「だから誤解だって! 俺は本気で姫姐のこと!」

 反抗すれば泥沼必至なので父親のことにはあえて口を噤み、誤解を解くことに専念する。

「それをあたしに言ってどうする?」

「言ったよ、姫姐にも。……焦り過ぎた」

 涙を浮かべた姫子の顔。今さらになって反省の念が頭をもたげる。母親はそんな息子の心情を察した様子で、軽く溜め息をつくと子供の頃のように頭を撫でた。

「ま、チャリティーマッチのことは褒めてやる。出場メンバーはノーギャラで全て戦災孤児達に寄付するんだって? 偉いぞ」

 夕陽に撫でられた和生は得意満面の笑みを浮かべた。

「へへ。結構苦労したんだぜ? あんだけ錚々そうそうたる面子集めんの。ブラジルのレイナがスパイシーガールズの大ファンだって言うから合コンセッティングしたら、その夜ジェシカに襲われたり」

 撫でていた手でパシンッと頭を引っ叩かれる。

「そこが脇が甘いって言うのよ。このバカ息子!」

 少し調子に乗ったらこのザマだ。和生は頭を押さえると上目遣いで母親を見た。

「……反省してる。だからお袋からも姫姐に試合観に来るように言ってよ」

「そこは当人同士の問題でしょ。そういう時、敏生は逃げなかったわよ」

「またスグ敏生敏生って……」

「いいじゃない、ずっと惚れてるんだから。あんたもそれくらい姫ちゃんを惚れさせてみな」

「分かってるよ。今回の滞在で決めるつもり」

「頑張んなさい。そうそう、下関のおじいちゃんとおばあちゃんも来るって。すごく楽しみにしていたわよ? もちろん、戸塚のおじいちゃんとおばあちゃんも。当日は挨拶する時間くらいあるんでしょう?」

 かつて、母親が勘当されていたことなど和生は知らない。彼が小さい頃からとても優しかった下関と戸塚、それぞれの祖父母。

「あ、うん。試合前なら。そっか。カッコイイところ見せないとな」

 その前に姫姐とのことも何とかしないと……。

 轟音と共に離陸していく戦闘機を窓の外に眺めながら、和生はどうやって姫子に赦しを乞うか、ぼんやりと考え始めた。


           *


「外で食べてこないんなら、ちゃんと前もって言いなさい」

 キッチンでは母親の葵がブツブツ文句を言いながらも、テキパキと夕食の準備を進めている。

「ごめん。友達が風邪引いて飲みにいくの取り止めになっちゃって」

「友達? 和ちゃんとデートじゃなかったの?」

「ちっ、違うよ! だいたいあいつとは何の約束もしてなかったし!」

 言い返しながらも姫子の心はかなりヘコんでいた。

 あたし、可愛くないな……。

 本当は彼と再会できることをとても楽しみにしていた。それこそ彼の帰国の日を手帳に記し、ここ二、三日はなかなか眠れなかったほどだ。だが、彼が空港のゲートに姿を現した瞬間、どこか遠くへといってしまったような気がした。

 メッシの再来と言われ、今や若くしてフットボール界の頂点に君臨する世界のスーパースター。せめて彼と釣り合う女になるためにと血の滲むような努力をしてファイターパイロットにはなったものの、世界中の注目を集める彼はもはやとても遠い存在。報道陣と野次馬達に囲まれた彼はまるでおとぎ話の世界の住人のようで。

 それなのに、いまだに好きと言ってくれて、激しく唇を貪られた。天にも昇る気持ちで、頭がおかしくなりそうで、思わず彼を突き飛ばし、頬を叩いてしまった。

なんであんなことしちゃったんだろう……。

 自分がもっと素直だったら今頃彼と一緒に食事にでも出かけて、思いっきり甘えたりできていたのだろうか。

「ああそうそう、お昼に和ちゃんが来て試合のチケットとお土産置いていってくれたのよ。テーブルの上に置いてあるでしょ? チケットはあたしとパパと颯太の分もあるって」

 その母親の言葉にドキッとする。和生、家に来たんだ……。

「……あたし、行かない。チケットは颯太の彼女にでもあげて」

「何よ、和ちゃんと喧嘩でもしたの? 昨日まであんなに浮かれてたくせに」

「うるさいなあ、別にいいでしょっ」

 本当に可愛くない。邪魔をするのは取るに足らないちっぽけなプライドだと分かっている。

 小さい頃から弟のような存在だった彼にかき乱され続けている自分の心。それが悔しくて切なくて。こんなことばかりしているといつの日か愛想を尽かされるのだろう。じわっと滲んだ涙を母親に悟られたくなくて、テレビの音量を上げる。

 と、リビングテーブルに置いた携帯が鳴った。メールの差出人は和生。恐る恐る画面を開くと、姫子はその内容に思わずクスッと笑ってしまった。それからしばらく思案した末、返信すると、そのままそっと携帯を胸に抱き二階の自室に駆け上がった。


           *


 東京・千駄ヶ谷の国立競技場。ここでオリンピックが開かれたのはもう二十年以上昔のことだ。そして二年後にはサッカーW杯日本大会の会場の一つになることが決まっている。

 今日のチャリティーマッチはそのために改修工事を終えたばかりの、国立競技場のこけら落としの試合でもあった。

 日本代表対世界選抜。世界選抜メンバーは和生の交友関係からかき集めた、誰もが知る各国代表のスーパースターばかり。当の和生は日本代表の十一番として出場する予定だ。

 会場に到着し、黄色い声援が飛び交う中、下関からわざわざ出て来てくれた母方の祖父母や、戸塚の父方の祖父母、そして姫子以外の刑部一家を見つけて挨拶を交わす。大切な人達との久しぶりの再会を喜び、もっとも姫子の父親には相変わらず緊張したが、一通り挨拶を終えるとその場を後にした。そして足早にロッカールームに向かって歩いていると、

「カズ!」

 と、背後から大声で呼び止められた。

「カイさん!? お久しぶりです!」

 和生が振り向くと、そこにはかつての日本代表の絶対的エースで、一昨年現役引退して即日本代表監督に就任した土方海斗が立っていた。

「相変わらず女癖悪いらしいな?」

「カイさんに言われたくありませんよ」

 二人は悪戯っぽく笑い合うと、ガツンと拳を合わせた。欧州のビッグクラブでも大活躍した大先輩の彼。年齢こそ二十歳近く離れていたが、共に尖閣紛争を戦った親を持つという関係から、土方は何かと和生のことを気にかけてくれていた。

「今日の試合を皮切りにお前のこと、ちょくちょく召集トライするからそのつもりでな」

 FIFAの公式戦および欧州での試合以外は代表召集には応じないとのチームとの契約条項により、土方が監督になってからの和生の代表キャップはまだ片手で数える程度だった。

「ああ、チームとの契約のことならもう気にしないでください。次のワールドカップまでは代表に専念できることになりましたから」

「ん? 契約条項は変更できたのか?」

「ええ、まあ。後ほど発表しますんで。動機は不純ですけど」

「何だよそれ? ま、代表監督としてはありがたいが」

 キョトンとする土方に和生はほくそ笑んだ。

 決めるときは決める、それが男ってもんだ。見てろよ姫姐!

 和生は気合いを入れると、勢いよくロッカールームの扉を開いた。


           *


 課業を終えた姫子は夕食をとるため、パイロットスーツのまま基地内の食堂へ向かった。

 家に帰ってもどうせ一人だ。幹部食堂は何となく憚られて、曹士食堂へと足を運ぶ。幹部食堂と異なり、自分で定食を皿に盛ると、大型テレビの近くの席に腰を下ろした。

 いつものように録画予約はしてきたが、一人で観ると気分が滅入りそうだったのでなるべく賑やかなところにいたかった。試合はちょうど始まろうとしているところで、基地司令の息子が出ているとあって、同じく課業を終えた隊員達が食事がてらわらわらとテレビの前に集まってくる。食堂はちょっとしたパブリックビューイング状態となった。

「あれ? 刑部少尉、何でこんなところに? 今日試合観に行かれなかったんですか?」

「あ、うん、ちょっとね」

 女子隊員達が興味津々といった様子で姫子の周りに集まってきた。

「やーん、やっぱり和生クンかっこいい~! 目元は夕陽さん似かな?」

「全体的な雰囲気はお父様よね~。でもどっちでも素敵! いいな~、刑部少尉」

「な、何が?」

「決まってるじゃないですか! 付き合ってるんでしょ? あんないい男でお金持ってて、しかも年下の彼!」

「うわー、その設定たまんないね~!」

 あらぬ想像をしてキャアキャアと騒ぐ若手女子隊員達に、普段、隊内ではポーカーフェイスが売りの姫子が思わず顔を赤らめる。

「つ、付き合ってないよ……。彼とは幼馴染みってだけで」

「きゃー! オサナナジミ設定キタ―!」

「もう死ぬ! あたし萌え死んじゃう~~~~~~!」

 ハマった。完全に若い娘達のおもちゃと化した姫子は今夜の自分の選択を死ぬほど後悔した。こうなったらハーフタイムにダッシュで家に帰ろう、などと考えていると隊員達の間からワッと歓声が上がった。

『門真が決めた―――――!! 試合開始三分!! 電光石火の先制弾!! 目の覚めるようなスーパーボレ―――――!!』

 試合はいつの間にか始まっていて、画面には早速点を決めて歓喜の輪の中で雄叫びを上げる和生が映っている。

 やば、見逃した……。

 チャリティーマッチだというのに和生の表情は真剣そのものだ。

 まさか……ね。

 そんなことあるはずない、と思いながら画面に映る彼を見つめる。

 早々に先制した日本代表だったが、その後はしばらく膠着状態となり、やがてスーパースター軍団が華麗にパスを繋ぎ始めると、二十五分、三十一分と立て続けに失点し逆転を許してしまった。

 決めたのは和生のチームメイトで親友でもあるブラジル代表の大エース、レイナ。役者の活躍に隊員達の間から溜め息が漏れる。

「やっぱり凄いわね、超一流は。日本は和生クンだけだと正直辛いよね~」

「これじゃあ、今日はもう終わったかな?」

 女子隊員達の会話をぼんやりと聞きながら試合を見ていると、カメラに和生のアップが抜かれた。

「……大丈夫。和生が決めるよ」

「え?」

 闘志のみなぎった目。彼は全く諦めてなんかいない。

 あたし…自惚れていいの? 和生……。

 すると前半四十四分、その姫子の問いかけに答えるかのように、中盤をワンツーで抜け出した和生がイングランド代表のセンターバックとドイツ代表の右サイドバックをスピードに乗った華麗なフェイントでブチ破り、ペナルティエリアの少し外から利き足である左足を素早く振り抜いた。

 ボールは一直線の弾道を描き、ベルギー代表の名守護神の手をはじくと強烈にネットに突き刺さった。

 同点。

「きゃ―ッ!! すご―い!!」

 隊員達がドッと沸く中、姫子は一人、誰にも気づかれないように高鳴る心臓を押さえていた。

〝あたしを手に入れたかったら今度の試合、ハットトリックでもしてみなさいよ〟

 先日、彼から届いたありったけの謝罪メールに姫子が返した言葉。ハーフタイムに入り、ダッシュで帰宅することも忘れて冷めた定食をつついていると、突然胸ポケットの携帯が鳴った。

〝あと一点だ。後半、必ず決める。約束は覚えてるよな?〟

 思わず顔が綻びそうになり、ギュッと唇を噛む。

〝決めてから言いなさいよ〟

 相変わらず可愛くもない返信だと思ったが、もはやこれがデフォだ。今さら自分は変えられない。きっと彼も返信を見て笑っていることだろう。

 お願い、和生。奪って、あたしを。


           *


 後半が始まった。チャリティーマッチだけに世界選抜は後半、メンバーを半分以上替えてきたがそれでも錚々たる顔ぶれだ。祈るような想いで画面を見つめる。このような花試合をここまで緊張して観ているのは、恐らく世界中で自分一人くらいではないだろうか?

 前半終了間際に同点に追いついて勢いに乗ると思われた日本代表だったが、相手がガラッと替わったこともあり、試合はまたも一進一退の膠着状態となった。

 随所にスター選手達の光るプレーが見られ隊員達から歓声が上がるが、姫子にはもう和生しか目に入らない。大のサッカーファンである弟の颯太は今頃、彼女そっちのけで大興奮していること間違いなしだが。

 両者、得点のないまま時間は刻一刻と過ぎていく。そして気がつけば後半も四十分を過ぎ、もう間もなく試合終了だ。

 チームとの契約で後半十五分頃には交代すると思われていた和生も、何故かまだピッチ上に残っている。だがその表情には長旅の影響か、だいぶ疲れが見えていて。

 やっぱり……、思い通りになんかいくはずないよね……。

 姫子は溜め息をつくと、すっかり冷たくなった味噌汁をすすった。正直言って不味いが、こればかりは自業自得。

 なにやってるんだろ、あたし。

 自嘲気味にため息をつき、ぼんやりと画面を眺めていると、テレビからアナウンサーの大声が聞こえてきて慌てて意識を試合に戻した。

 画面の中では中盤でボールを奪った和生がドリブルを始めたところだった。ここにきてとても疲れているとは思えない、キレのある動き。あっという間に二人を抜き去り、さらに突進していく。そのゆく手を阻まんとする、各国代表の猛者達。

 シザース、そしてヒールリフト。

 どこにこのような力が残っていたのだろうか?

 その瞳に宿る、強い光。姫子の心が震える。

 世界的に名だたるスター選手達が和生のドリブルに翻弄され、そのプレーに誰もが引き込まれていく。それが彼の、スーパースターたる所以。そしてそれは持って生まれた者にのみ与えられる、奇跡の瞬間。

 ディフェンダー達を抜き去ると、最後はキーパーと一対一。

 ゴールマウスに立ちはだかるのはエル・クラシコで和生と死闘を演じた、スペイン代表の世界最強守護神。だがこの日、神が舞い降りたのは和生の方だった。

 彼が信じられない動きでこの名手をかわすと、そのゆく手を遮るものはもう誰もいない―――――


〝約束は覚えてるよな?〟

 覚えてるよ……、もちろん。子供の頃から……ずっと……。


 次の瞬間、国立競技場が爆発した。


           *


『放送席!! 放送席!! 今日のヒーローインタビューはもちろん、ハットトリックの大活躍で日本代表を勝利に導いた、門真和生選手です!! おめでとうございます。』

 興奮冷めやらぬ中、和生へのヒーローインタビューが始まった。ゴールの瞬間、姫子は感激のあまり思わず泣きそうになったが、曹士食堂のど真ん中で幹部たる自分が一人泣いているのはさすがに決まりが悪いので、必死になってポーカーフェイスを保つ。

『ありがとうございます! あ、ちょっとマイクいいっすか?』

 画面の中の和生がインタビュアーからマイクを取り上げて口元に当てる。唖然とするインタビュアーを尻目に和生はマイクパフォーマンスよろしく、超満員の観客席に向かって左手を上げた。

『実は今日は皆さんに重大発表があります!!』

 その彼の言葉に試合会場がざわつく。そして姫子のいる食堂も。

『俺、門真和生は来季から二年間の期限付きで、横浜マーリンズに移籍します!!』

 は……? ナニ言っているんだこいつは。世界最高峰のエル・マドリードを捨てて……マーリンズ?

 案の定、会場が驚嘆の声に包まれる。それはそうだろう。

『それからもう一つ。姫姐!! 見てる?』

 ……へ?

 彼の突然の移籍発言で呆気にとられていたところに不意に自分の名前を呼ばれ、さらに動揺する。

『そういうわけだから俺、ここでプロポーズします。……刑部姫子さん!! 俺、小さい頃から、あなたのことがずっとずっと好きでした!! だから……俺と結婚してください!! あ、断ってもいつまでも追いかけ続けるからそのつもりで!!』

 そのまさかの和生の衝撃発言に、女性隊員達からキャーッと黄色い歓声が上がり、食堂中の隊員達の視線が一斉に姫子に集まる。

「ばっかじゃないの……」

 何の色気もない殺風景な食堂で衆目の中、すっかり冷めてしまった鯖の味噌煮をつつきながらテレビ越しに聞く、まさかのプロポーズ。姫子は不機嫌そうにバンッ、と箸を置くと唇をぎゅっと噛み、両手で顔を覆った。

 和生のくせに……。バカ……。

 溢れ出す涙にポーカーフェイスを保つのは、もはや難しかった。


           *


「あの野郎、ぶっ飛ばす……」

 娘へのプロポーズを世界中に発信され、一気に外濠を埋められてしまった刑部が悪態をつく。海軍幕僚監部防衛部長という要職に就く男も、娘のことでは和生にやられっ放しですっかり形なしだ。

「和生の勝ちよ。姫ちゃんは門真家にもらうわね」

 隣に座る夕陽が勝ち誇ったようにからかう。

「お前らと親戚なんて……。何の冗談だ」

 虚ろな目で天を仰ぐ彼に、夕陽と反対側に座る妻の葵が示し合せたように笑った。

「あらー、和ちゃんが姫の旦那さんなんて最高じゃないの。変な男に捕まらなくて感謝しなくちゃ。ねえ」

「そうそう、相変わらず素直じゃないわね。本当は嬉しいくせに」

「娘を盗られた父親の気持ちがお前らに分かってたまるか!」

 女二人にいじられて憤慨するも、その表情は照れ隠しのようでどことなく嬉しそうだ。

 夕陽はひとしきり笑うと、ピッチ上で報道陣に囲まれている息子に目をやった。 考えなしのバカ息子のせいで、きっと厚木基地は明日以降、マスコミ対応で大わらわになるだろう。母親の自分にもとばっちりが来るのは間違いない。だが。

 司令として母親として……、あの二人をしっかりと守ってやらなくちゃね。

 そう考えると武者震いがして、夕陽は「よし」と呟くと夜空を見上げた。

 うん、こういうのも悪くない。

 星が霞む都心の夜空。


 ごめんね、敏生。まだまだそっちに行けそうにないや。

 だってね、これからもっともっと楽しくなりそうなんだもん。


 その自分の謝罪に彼が優しく微笑んでくれたような気がして、夕陽はそっと瞳を閉じた。


                                  ―完―

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Blip @amaral11

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