第十二章 世界で一番 ②
*
手首にあてたナイフを一気に引こうとした瞬間、夕陽は強烈な嘔吐感に襲われた。ベッドの上にナイフを取り落とし、慌ててトイレに駆け込む。ここ最近、ろくなものを食べていなかったので戻すものなどほとんどない。
ひとしきり胃液を吐き出すと、奇妙な違和感に囚われた。ふと気がつけば、もう十日間も過ぎている。
心当たりはもちろん、禁を破り激しく求め合ったあの戦闘前夜。
まさか……。
夕陽は洗面台に一つだけ取り置いてあったそれを手に取ると、再びトイレに駆け込んだ。
そんな……敏生……。
はっきりと陽性を示した赤色の線。一気に涙が溢れ出した。
あたし……また……、また敏生に助けられた……。
生きろ、夕陽。
耳元で彼がそう囁いてくれた気がして、夕陽はそっとお腹を抑えると号泣しながら何度も何度も頷いた。
それが十日ほど前の出来事。
*
「ねぇ敏生……、あたしにこの子を育てる資格があるのかな? 人を殺したこの手で……、この子を抱く資格はあるのかな? でも……でもね。あたしは育てたいんだ。だって大好きなあなたが遺してくれた、大切な命だから」
彼がもし生きていたら、この二人の間に宿ったいのちをきっとすごく喜んでくれたのだろう。ぎゅっと抱き締めて、そしてキスして。
「お願い、敏生……何か言ってよ……。また、前みたいに頬を撫でてよ……。会いたいよぉ…」
やはり駄目だった。ぽろぽろと零れ落ちる雫。泣かないと決めていたのに、涙を堪えることは叶わなかった。だがもう、そっと涙を拭ってくれる彼はここにはいない。
いや、泣いてばかりはいられないのだ。そう、新しく芽吹いた、いのちのためにも。
夕陽は鼻を軽くすすると、大きく深呼吸してからキッと標柱を睨み付けた。それは敏生と初めて出会った時のような表情で。
「いっつもバカで、ちゃらけたフリばかりして。しかもエッチで女ったらしで、ちょっとまずくなるとすぐ土下座でごまかして」
そこまで言うと、夕陽はふっと表情を和らげた。きっと、向こうで困っているであろう彼の顔を思い浮かべながら。
「でも、そのクセ陰では人一倍気遣いで、とっても優しくて、いつもあたしのことを最優先に考えてくれて……」
だから―――――
「神月夕陽はそんなあなたのことが……世界で一番大好きです」
過去形ではない。そう、今も。そしてこれからもずっと。
「あなたのそばに行きたかったけど……でも、この子といっぱい楽しい思い出作ってから行くことにしました。だから……お土産話、首を長くして待っててね」
最後は上を向き、標柱に向かって精一杯の笑顔を作ると、やがて意を決したように体の向きを変えた。その瞳が見据えるのはこの国のトップ、内閣総理大臣。
「最後に、日本国民の代表であり、私達の最高司令官であらせられる内閣総理大臣に一言申し上げたい」
予想外の、その夕陽の言葉に会場は騒然となった。会場が少し鎮まるのを待ってから、夕陽は口を開いた。
「あたしの上官であり婚約者だった門真敏生一等海佐は、航空自衛隊史上最強と言われたファイターパイロットでした。でも彼は一機の敵も撃ち落とすことなく、仲間の盾となって南の空に散りました」
敏生が盾にならなければ、間違いなく、少なくとも「てるづき」は大損害を被り、「はるさめ」のように多くの戦死者を出していたはずだ。だからこそ英雄気取りの安穏とした政治家達が、今の浮かれ切った世間の空気が許せない。
「彼は、戦いを望んでなどいなかった。人間はもっと高潔な存在であるべきだと、最後まであなたが外交努力によってこの紛争を食い止めてくれることを望んで……いいえ、信じていました。そんな彼の願いを……、いえ、この戦いに巻き込まれた全ての自衛官達の思いをあなたは踏みにじった」
〝魔女〟の射るような眼差しで総理大臣を見据えつづける。
「最小限の犠牲で紛争を勝利に導いたあなたは今、まるで英雄のように国民から持ち上げられている。でも……、あたしは軽蔑します。この問題を、武力をもってでしか解決できなかった……、いえ、人の命をもってでしか解決できなかったあなた方政治家を。あたしは軽蔑します。そんなあなた方を選んでしまった、あたしを含めた全ての国民を……!」
泣くもんか、絶対に泣くもんか!!
戦いの相手は一国の首相。そしてその背後にいるのは全ての日本国民。
彼は口を真一文字に結び、夕陽のことを見つめ返していたが、やがておもむろに立ち上がるとゆっくりと歩み寄ってきた。そして身構える夕陽の前まで来ると、深々と頭を下げた。会場がどよめき、今度は夕陽が彼の予想外の行動に絶句する。
「あなたの大切な人を……皆さんの大切な人達の命を散らせてしまったのは……全て私の責任です。言い訳の余地はない。本当に、申しわけございませんでした……」
頭を下げているのでその表情は窺い知れない。だが、その男の足下に一つ、また一つと雫が落ちていくのを認め、夕陽はひどく動揺した。
そう、総理大臣という役割を担っている彼もまた、罪の意識に苛まされる、ただの弱い一人の人間に過ぎなかったのだ。
「~~~~~~~~~~~~!!」
夕陽の頭の中は大混乱となった。謝罪なんかで済む話ではない。だが、目の前にいるのはひどく弱り切った、還暦を迎えたばかりの小さな男。
ずるい……こんなのずるいよ……。
振り上げた拳を下ろす場所を失い、抑えていた感情が
「敏生はっ……あなたにとってはちっぽけなBlipの一つに過ぎなかったかもしれない。でもね、あたしにとって彼は人生の全てだった!! お願い返して!! 敏生を……返してよおぉ……」
両手で顔を覆い、後はもう感情に任せて泣くしかない。これでは悲劇を求めるマスコミの格好の餌食だ。
ごめん、敏生……。あたし、あなたの戦いを台なしにしちゃった……。
崩れるように夕陽の前で
「神月二尉、もうそれ以上はやめなさい」
その声に顔を上げると、目の前に自衛隊制服組のトップである統合幕僚長が立っていた。
「この国を戦争に導いてしまったのは確かに政治家達のせいかもしれない。だが、実質的にあの海戦を指揮したのはこの私だ」
その、他人のせいにすることを潔しとしない眼差しはやはりあの人にそっくりで。
「戦後七十年、未だに真珠湾での騙し討ちの
嘘だ。
あの、マイク越しの苦悶の声には彼の意思は一切感じられなかった。
統合幕僚長は有事に際しての指揮監督権を持っていない。あくまでも総理大臣、または防衛大臣への助言と補佐だ。
恐らく、市ヶ谷の司令部にあって政治家達を説得できず、仲間達を死の危険に晒し続けざるを得なかった己の不甲斐なさを悔いているのだろう。そしてその結果、自身に降りかかった悲劇を。夕陽は目に涙を浮かべ、彼を見つめながらゆっくりと首を横に振った。統幕長の目にも涙が滲んでいる。
「その結果、私は最愛の息子を失った……。息子は考えたのだろう。多くの仲間が犠牲になって、私が償いきれぬ業を背負うくらいなら、自らが犠牲になろうと。そして君のことも守ろうと……」
婚約の報告のため戸塚にある敏生の実家を訪れて、初めて統合幕僚長が父親だったと知り、早く言ってよ! と彼を恨んだのはつい二か月弱ほど前のこと。雲上人の父親を前にガチガチに緊張する夕陽を気遣い、和やかに包んでくれた彼の両親と姉。とても仲のよかった敏生の家族。両親から勘当された夕陽にとって、それは絵に描いたような幸せの光景だった。
「私や妻の誕生日には必ずプレゼントを贈ってくれる……親思いの……優しく素直な子だった。君には……本当にすまないことをした」
「お義父さんッ……!」
夕陽はこらえ切れずに、義理の父親になるはずであった男の胸に飛び込むと、声を押し殺して泣いた。彼もまた、涙を流しながらも自分の礼装の上着を脱ぐと、夕陽の身体にかけてくれた。
「身体を冷やすのはよくない。お腹の子に障る」
彼は夕陽を抱き締め、あやすようにその背中をポンポンと叩くと、そっと引き剥がしてから目の前に蹲る男の腕を取った。
「総理……」
「門真君……。すまない……私は……」
弱々しく赦しを乞う男を、門真は睨みつけた。
「何を情けない顔をされているか!! あなたにはまだまだやっていただかなくてはならないことが山ほどあるのですよ? この国のリーダーとして今度こそ間違った道へ進まぬよう、しっかりと舵を取っていただきたい」
その目はしっかりとこの国の明日を見据えているようで、毅然とした姿に敏生の面影が重なる。
そうだよね、敏生。この子のためにも、今度こそは確かな未来を―――――
夕陽の決意に応えるかのように、湾上に整列した艦艇の内、「いずも」を除いた主砲を装備している十三隻が、一隻ずつ轟音と共に弔砲を放ち始めた。この戦いで散った一四一名の仲間達との永遠の別れ。クリスマスの静かな湾内にそれは物悲しく響き渡り、参列者達の涙を誘う。
統幕長から促された夕陽は壇上から降りようとして、ふと、北の空から微かに響いてきた音に視線を上げた。
あれは……。
その次第に大きくなる音に再び会場がざわつき始めた。北の空に現れたおぼろげで小さな複数の点が、やがて徐々に正体を現す。夕陽が見間違うはずはない。それは「いずも」戦闘飛行隊のライトニングの編隊。
厚木で留守を預かっていたはずの六機は会場の上空に差しかかると派手に散開し、敏生が好んで披露していたハイレートクライムで天空へと消えていった。
それは式典の予定には組み込まれていなかった、仲間達からの惜別のフライパス。
みんな……。
だが、それで終わりではなかった。夕陽が目を見開く。
そんな、そんな……。
北の空に轟音と共に現れた、帝都の空を覆い尽くさんばかりの大編隊。
驚きのあまり夕陽は両手で口を覆った。再び溢れ出した涙が止まらない。
「いずも」戦闘飛行隊に続いたのは敏生の古巣である飛行教導隊と百里第三〇五飛行隊のF15Jイーグル。
そしてその後を厚木のP3C対潜哨戒機と、「いずも」哨戒飛行隊のSH60Kシーホークの一群が追い、あろうことか米海軍第五空母航空団のF/A18Eスーパーホーネットの大編隊までもが続いてゆく。
敏生ゆかりの部隊が過ぎ去った後も、鉄鷲の群れは途切れることなく、次々とクリスマスに彩られた帝都の上空を通り過ぎてゆく。
それは、平和を願いながらも仲間の盾となり散った若き天才パイロットを悼む、海上自衛隊と航空自衛隊の全飛行部隊、そして共に戦った米海軍の飛行隊による、前代未聞の一大フライパス。
政府の許可を得ず、現場主導で成田と羽田の発着便を調整してまで行われたそれは、彼らの想いを踏みにじった愚かで傲慢な政治家達の喉元に突き付けた
敏生……見てる? みんなが……敏生との別れを悼んでくれてるよ……。
この盛大なフライパスの殿を務めたのは第一一飛行隊・ブルーインパルス。
天空へと駆け上がるブルーインパルスのスモークがまるで愛する人の昇華する魂のように思え、夕陽はそっとお腹を撫でるとその場に膝をついて蹲り、あたりをはばかることなく声を上げて泣いた。
涙はこれで最後にするから、と空の彼方へと旅立った彼に固く誓いながら―――
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