第4章  詩人の歌



彼女は名の無き詠い人

路上に佇み想いを綴り

心が奏でた歌を詠う


刃と木片で思い出を刻みつけるように

キャンバスと絵の具で風景を彩るように

ギターと声で歌を紡ぐように


彼女には描くべき色彩も

作るべき材料も

そして奏でる楽器もない


しかし紙と筆さえあればその全てを彼女は描く

―言の葉という世界に託して


希望と絶望

それは光と闇のように廻り


喜びと哀しみ

それは空と海のように巡り


夢と眠り

それは足下の花と彼方の星のように満ち


苦悩と信念

それは信じた道と報われない歩みが交差して


痛みと癒し

それは抱えた重荷が舞い上がる羽根のように閃く


その全てを言の葉に編み込んで描く

―彼女は詩人だった



―言葉


それは誰もが持ち得るものであり

心臓が動くように 呼吸をするように

身近に―当たり前にあるもの


感じたものは色彩

想いに描くのは風景

移ろってゆくのは記憶


それは波のように押し寄せ

星のように巡り

海のように返っていく


生きている人は

ただそれだけで言葉を宿し秘めている

彼女はそんな言葉を求めて旅をする


それは海原に漕ぎ出し

その手によって道を紡ぎ出し

松明にして風景を描く道のりだった


希望や夢 そして喜びを胸に

涙をすくい取る花を探し

悲しみを受け止める海を行く


宇宙を彷徨い

誰も知らない星を探すように

彼方の闇に 消えない温もりへと手を伸べる


落雷の後に残った焦げ後から花を咲かせ

涙の雨から虹を奏で

荒れ狂う風にさえも想いを載せて―彼女は祈る



彼女は路上に佇み

言葉を並べる


訪れる者を拒まず

去る者を呼び止めもせずに


多くを語らず 声を聴き

言葉を紡ぐだけだった


陽と風を静かに受け入れ

流れる風に囁く木のように


訪れる人はその言葉を眺め

あるいは手に取り 胸に秘めて去っていく


時には立ち尽くす人もいる

探しているものがどこにもなく困ったように


そんな時には彼女の方から尋ねることもある

しかしその多くは何と言っていいのか分からずに―口を閉ざしてしまう…


彼女は微笑んで言の葉を促す

何でも好きなように語ればいいと


そうしてようやく―人は語り始める

それは時に痛みであり または喜びである

ある時は過去の苦しみと またある時は未来への期待でもあった


彼女は静かに聴く

樹にそっと手を当てて 舞い散る花片を愛でるように

それらの言の葉を集めて 花束にするように


彼女は詩を描く

胸の内に瞬いた光景と色彩を


その言葉が胸に届いた時

誰もがはっとする


昔置き忘れていた掛け替えのない想いに触れて

思い描いたはずの願いを垣間見て


彼女の言葉を自らの言葉として

受け取った言葉を胸にしまい

抱え―生きていくために


それはまるで救いのように舞い降りる


空から零れる羽根のように

空から射し込む月のように


それはささやかな光でしかないのに眩いほどに温かく

それは許しのように彼女の胸に優しい余韻を残していった



届いた喜びは光のように眩しいのに

その背後に広がる影はそれさえ飲み込んでいく


取り除こうとしても振り払うこともできず

深く暗い海に投げ込まれたかのように沈んでいく


それは軌跡を全て掻き消す光のように残酷で

夕闇に訪れる闇のように圧倒的だった


ふと―闇の中で言葉を松明にして旅をするような気がしてくる

言葉をどれほど火花に変えようとも それは瞬き次の瞬間には影に暗転する


照らす光を頼りに 歩み続けた先に

―彼女は辿り着く


溺れそうなほどの

深い孤独に


本当に救われたいのは

彼女自身だったということを



彼女が言葉を求める人に光を授けるのなら

彼女が求める光を一体誰が与えるというのだろう


彼女はどうしようもなく途方にくれてしまう

本当はこの手は空っぽなのかもしれないと思ってしまう


彼女の中では月と太陽が巡り 朝陽が昇り 闇が沈むように

希望と絶望が星と空のように瞬き そして散っていく


だから彼女はただの言葉ではなく

詩を―自らの心をこそ すくいとる言葉を

必要としたのかもしれない


ただ――生きていくために


それは鼓動のように

絶やすことのできないものであり


それは―呼吸だった



受け取った人は去り際に口々に賛辞を贈っていく

それは日溜まりのように温かな温もりとなって胸に射し込むが


しかしたった一言が―陰りを呼ぶ

時にその才能に賞賛を贈られる―しかしその才能という一言に

彼女は内心で困惑してしまうのだった


―才能…


―そんなものではない―と

―言いたくなる


孤独と痛みの中で ただ光を求めて彷徨い

散ってしまいそうな言の葉を 必死で握りしめ

それを松明のように光に変えて―歩んできた道だった


戻る道は闇に消え 進むべき道さえも見えず

しかし立ち止まれば 飲み込まれる


どれほどの苦しみでも そして絶望であったとしても

彼女は言の葉を頼りに その見えざる火を信じて歩むことしかできなかった


―そんなものが果たして才能と言えるのか―と…



彼女が言葉に出会った時

想えばそれが全ての始まりだったのかもしれない


言葉は彼女にとってただの言語というだけではなく

確かな手触りと温もり そして彩りを伴って胸に迫り来るものだった


ゆえに喜びは眩く しかし悲しみは痛むほどに胸を覆った

しかしその感覚は他人と分かり合えるようなものではなかった


ずれは年を重ねる程に明らかになっていく

そういう意味では彼女は言葉を知り―操れる頃から孤独だった




そのきっかけを彼女は覚えていない

ある時彼女の心が何かで溢れた―それは突然にして

圧倒的な現象だった


鳥が羽ばたくように 魚が泳ぐように

呼吸や鼓動が自然なように それは心に産み落とされた


夜が明けて太陽が昇るように

あるいは陽が沈んで星が満ちるように


言葉が心の中で確かな実感となって

自らの世界を彩るその創造に

彼女は魅せられた


それらは一列なりで描かれた境目無き空と海のように

あるいは境界無き水彩絵画のように

それは心に描き出した世界そのものだった


その時彼女は知る

出逢いの高揚や喜びだけではなく

痛みや悲しみさえも その闇をもって輝きを放つことを

言葉が心の中で確かな実感となって自らの内なる世界を彩る


―それが彼女にとって詩の始まりだった

それは孤独から伸べた手のように

より光へと近づいていくための歩みのはずだった

しかしそれは―頂のない彼方を歩む道でもあった



月が眩く光る

それは闇に捧げた祈りのようだった


しかし雑踏と喧噪は濁流のようであり

その願いさえも聞こえない


彼女は自嘲気味に思う

まるで自分は彷徨い人だと…


海原で漂流し 行き先も分からずに

いつ消えるかも分からない松明を掲げている…


ふと―歌声が聞こえて


思わず―足を止めた


詠っている人は空を見上げて 影を見下ろし

果てを見通して 心の奥底を見つめるように

眼を閉じて 唄を詠う


その姿は心の中の風景を詠うかのようで

彼女はその歌声に眼を閉じて

心が感じる風景に耳を澄ませてみる


それは安らかな風のように心をささやかに通り

煌めく星が満天の光を放つように優しく降り注ぐ


彼の思いが伝わって胸を満たしていく

彼の思いが その温もりが 心を優しく抱き留める


その景色に―彼女ははっと―眼を開いた


その唄は彼女が夜の闇に捧げた祈りの言葉と同じだった

そして朝陽の恐怖に抱き見た夢と同じだった


10


その歌声は生きていることを詠うのだった


希望や出会えた温もり

心の哀しみや愛しさが言の葉となって


音の符は調べを載せて桜のように散り

心の大地に降り注ぐ


朝陽のような勇気となり

星のように優しく降り注ぐ


その歌声が紡ぐ風景に彼女は辿り着く

―思い出した…


指先に触れた煌めきはどれも美しく

愛しくも掛け替えのないからこそ―描くのだと


そう―世界とはこんなにも美しく

それは夜の闇すらも光に彩るのだと


11


その瞳から涙が零れていく…


誰が照らしてくれるというのだろう

その問いに答える人は誰もいない


それでも闇雲に光が射し込む


それは美しさであり 優しさであり

愛しさであり 別れの哀しみであり

瞬く喜怒哀楽であり 花火のように散る感情であり

朝陽であり 夕陽であり 夕闇であり 月の涙であり 雨の歌であり


その中に聞こえる歌に

もう一度光を見つけた


それは生きる勇気であり しかし枯れる花であり

彼女が絶望し 生きる勇気を失う度に 出逢ってくれる虹であり

水であり 光であり そよ風のように

舞い降りたそれは 生きるためにこそ出会う奇跡のようだった


それはどうしようもない哀しみ 言葉には決して表せない喜び

それらは混じり合って無音の滴となって零れていく

彼方の月のように―静かに そして―優しく


彼女は涙に濡れた頬のまま俯いて

両手を合わせて祈り


そして―人混みの中へと消えていく

月明かりがそっと照らす―夜の中へ


12


詩人は詠う

言葉を紡いで

描いた煌めきを

一条の光のように握りしめて


詩を書くことは生きることと同じ

それは生きることへの祈り


果てに救いと許しへと辿り着くための

夢の彼方に描いた物語


それを詩人は

希望と呼ぶのだから

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紡ぐ物語 それは夢の彼方 大野弘紀 @poet_ohno

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