第3章  路上で歌う人が見たもの



路上で唄う人がいた

その歌は彼の人の苦しみであり

生きる喜びであり

そして見た夢そのものだった

言葉に想いを託し

詞には物語を描き

そして人々の心に刻みつけられるように

いつまでも残り続ける一輪の花になりたい


彼はそのために唄うのだった


垣間見た夢のために

いつか抱く願いのために


届けと…彼は叫ぶように唄う


だが通行人はまるで聞こえないかのように通り過ぎる

彼はそれを気にすることなく唄い続ける


時に微笑んで

そして眩しそうに目を細めて


まるで目の前の誰か―ではなく

むしろ遠い空の向こうの誰かへ―向けるように


もしかしたら―それは人ではないのかもしれない

むしろ風や夜といった…この世界そのものへ捧げているのかもしれない


ふと―立ち止まって聴き入る人に彼は気づいた

嬉しそうにお辞儀して―歌を続ける


語りかけるように 囁くように

時に遠くへ そして耳元へ

優しく 儚く 夢のように 愛のように


――その詞は

こんな世界があると物語るように

絵本のように―聴く人に語りかけ

その詩は一緒にその世界を見ようと誘いかけているかのようだった


一緒に―この世界を生きようと…願うかのようだった


そうして背を向けて歩き去る人の後ろ姿に―彼は願う


―どうかあなたに

少しでも安らかな一時を―



深い溜息一つ

闇に溶ける月夜を見上げて


歌詞を紙に書き出しては眺めている

届けたいのは何だろう


月に手を伸ばしても光さえも掴めない

ただ虚しいくらいに遠いことが分かるだけ…


この距離を あの隔たりを

この詩で この歌で

埋めることはできるだろうか


あなたに届くように―


足を止める人がいる

聴いてくれる人がいる


その人の俯いた顔が凛として立ち上がる

淀んだ瞳に光が射す

そして不安げな足取りが確かな調べとなって離れていく

その後ろ姿の眩しさに微笑んで 目を瞑って歌は続く


この唄がもしもあなたの明日に昇る太陽となるなら―

あるいは今日の帰り道に微笑む月となるなら…


これはそのための歌

歌にすることで蘇る心を空に放ちたい

彩られた想いを大地に蒔きたい


ただ自分がこの世界に生きたことを詞にして

あなたに伝えるために詩にして


その瞬間に触れられる喜びに出会うために


彼にとって歌とは世界への願いと同じ

歌の詩を 言の調べを 奏でるように

願いや希望を紡ぎ出すために

歌という夢を―見るために



時間さえあればギターを片手に詠う

誰も知らないメロディーに耳を澄ませて

そこに言葉が舞い降りる

その美しさに涙して 誰かに伝えたくて

歌にして手を伸べたい 誰かと一緒に生きていたいと願うから


あるいは誰かの思いに心の叫びを感じ取り

そこから旋律を爪弾く あるいは絵画から あの日の風景から

忘れられない景色から 残り続ける思い出から 心の奥の囁き声から

何かの唄が聞こえてくることがある まるで語りかけるかのように


うまく言葉が出てくることがあれば まるで出てこない時もある

それは出口の見えない闇の中を彷徨うようなもの


手に触れたものはどれも違うから

頭を押さえ 膝を抱えて でも心はどこまでも空高く

必死に耐えても それは重苦しい沈黙を注ぐだけ

勇気を振り絞って 闇の果てを見つめるしかない


その中に光を信じることしか道は無いのだから


これは義務ではない だから投げ出すことはできる

でもそうしてしまったら自分の中の大事なものが失われてしまう気がする


それは自分が自分であるための

生きるための祈り


闇の彼方で「見つけて」と消え入る声がする

その向こうに見えた光に救われ続けている


その光を誰かに届けたい

待っている誰かがいる気がするから

それが彼の歌い続ける理由だった



彼は旅人

街を渡り歩く吟遊詩人


何気ない景色に見たものを歌にする

寝転がる猫 俯く若者 空の彼方

出逢った人の優しさと 零れる笑顔

そして一人きりという孤独


旅に出逢う全てのものを 歌詞にして

その時煌めく感情を 旋律にして

届けたいあなたを思い描いて 願いを込める


出会った人たちが心に宿したもの

出会った自分が触れた大切な何かを

伝えるために


路地を歩けば賑わいと静けさと

誰にも知られない悲しみと 秘めた物語が宙に舞う


それは直感と成り行きで訪れる

意図しないところに出会いは隠れている

そこには自分自身ではどうしようもできない何かと

その中から選び取ることのできる未来が揺らいでいる

それはこの世界に生きることの神秘と奇跡のよう


―吸い込まれるように建物に入っていく人の姿が目に留まる

立てかけてある看板を見ると画廊のようだった

隣に立てかけてある絵を見て既視感を覚える


それは街…空…建物…

―不思議に思い見つめて

―はっと…周りを見渡した


それは――地上から空を見上げるように映した

この街の景色だった


まるで地面に咲く花が見た景色のようだった


周りを見回して花を探す―風が柔らかく吹いて


人混みの隙間に揺れるものを見つける


思わず近づいてみるとそれは蒲公英だった


そこから空を見上げて―つい微笑みが零れた


その景色は絵と重なった


その絵は花の世界を

そこに映した共感の眼差しだった

そしてその眼差しを―彼も知っていた

それは歌の中に散りばめてあったから



足を踏み入れて 目に留まったのは

怒濤の滝 荒れ狂う海と光

子どもの笑顔と そして手を繋いだ中に見える絆


それらは写実的でありながら幻想的で

啓示的でさえあった


ある一枚の絵の前で足を止めた


それは女性の後ろ姿だった

とても優しくて けれども寂しそうで

今にも動きだし 去って行ってしまいそうなその姿は

悲しそうなのに とても愛しくて

切ないくらいに 儚くて


―だからだろうか…


思わず手を伸ばしていた…

―同時に声がかけられた


―絵には触らないようにお願いします―


はっとして―我に還る

すみません…と手を下ろす


つい―と言葉にして

その先を言おうとして

その後が―続かなかった…


とにかくもう一度謝った彼にその女性は優しく目を細めて

囁くように注意して微笑んだ


怒られると思ったのに…呆気にとられる彼を余所に彼女は行ってしまう


気のせいだろうか―彼女は嬉しそうだった

理由が分からず―確かめるように

もう一度絵と向き合う


この絵にはきっと

何かがあるのだろう


彼は想いを馳せる

この絵の物語を その絵に宿る何かを


――つい…


さっきの言葉の続きを―考えていた


つい……この女性がどこかに行ってしまいそうな気がしたから…

まるで―もう二度と会えなくなるような…予感があったから


待って―行かないで―声を掛けたくなったから


彼は絵に触れたかったのではなかった

その手を取って引き留めたくなったのだ



ゆっくりと時間をかけて絵を眺める

まるで心に焼き付けるように


眼を瞑れば

風景が動き始める


太陽が移ろい 雲が流れ

風が歌い 光が踊り始める


目を瞑って

ただ耳を―澄ませていた


その囁きを 思い出を

煌めきと哀しみと そして涙を

祈りを その歌を―聴いて


彼が耳にしたのは

絵に込められた

この世界への祈りだったのかもしれない



彼は作品展を後にする

それは残像として心に染みこみ

その歌声が残響となって余韻を残していた


微笑みはその名残だろうか


自分と同じような世界を観る人がいたから

だからきっと

込めた思いは―誰かに届く

そんな幸福が夢のように見えたからだろうか


陽が沈もうとしていた

光の幕は下ろされ

夜の帳が降りようとしていた


また一日が終わろうとしている

それは昨日となって余韻を残し

明日となって空白を降り注ぎ

そうしてまた新しい一日に重ねられ

新たな彩りに染まっていく


明日が今日になる前に

今日が昨日になる前に

ここに残しておきたい―彼は駅前で立ち止まる


ここを旅立つ前に―歌にしていこう

言葉をここに―今日という陽に―置いていこう

ギターをケースから出して 暫く爪弾く

口ずさむことがあれば 黙ったまま目を瞑ってもいた


通行人は歌を期待したのだろうか

足を止めた人もいたが

何も歌が始まらないのを不思議そうに

立ち去ってしまった


あの時足を止めた絵が 絵を前にした人々の囁きが

微笑みが 零した涙が そして驚きが

絵画に宿った想いが 人々が出会った物語が

あの時感じ得た――その全てが


音符となって舞い踊る

言葉となって降り注ぐ


その時を その歌を その詩を

紡ぎ出されていくのをずっと―待っていただけ


そうしてうっすらと目を開けて

初めて世界を見るかのように

眩しそうに―その見えた景色に―目を細めて

嬉しそうに―出会えた喜びに―微笑んで


歌う―あの時感じたことを

途中で歌が止まることもあった

そうするとまた暫く静かになって

やがて口ずさんで そうして気づけば歌っていた


それはまるで寄せては返す波のよう

それはまるで動いては止まる風のよう


言葉を編むように

メロディーを紡ぐように

それらはだんだんと形になっていった


人は足を止めては歩んで後ろ姿を残し

その姿に新たに人が寄せられ

静かに聴き入り

そうしてまた歩いていく

人が立ち去っては

立ち止まり


そしてある女性は足を止めたまま聴き入っていた


例えば雨の日の虹 あの日の背中 夕焼けの森 滝の涙の滴

それらを次々と歌い上げていく 列車の窓の景色が移り変わるように


歌い終わると拍手が贈られた

それは決して多くの数ではなかった

それでも―届いただけで

彼は嬉しかった


自分の見た景色も―あなたも一緒に

自分の感じた世界を―確かに―あなたと共に生きたのだと―思えたから


その瞬間―自分は独りじゃないと想える

その確かな繋がりを感じた時

それは勇気や励ましとなって

生きる力になって明日を呼ぶ


その瞬間を希望というのなら

彼にとって歌うことは希望を紡ぐことと同じだった



歌はどこへ行くのだろう

胸にしまった想いはどこに届くのだろう


彼は去っていく人たちの後ろ姿を見送って

ギターをケースにしまう


―とその時

掛けられた声に彼の手が止まった


顔を上げると そこにいたのは

―あの時彼に注意をした女性だった


彼女は尋ねようとする

―今の歌は―と…


彼は答えるように

彼女の絵に賛辞を贈った


彼女は不思議そうにもう一度尋ねる

自分の作品が―そう見えたのか…と


見えたというか…聞こえたというか…

彼の答えははっきりしなかった


この感覚を言葉にするのはとても難しい


誰も空を見ただけで

音色を聴いたりなんかしないらしい

風が歌になんて聞こえない


だから彼の世界はいつも煌めき美しく

そして果てしなく―孤独だった


だからこそ―歌うのかもしれない

この孤独な世界で―誰かと繋がっていたいから

自分独りがこの世界で生きているわけではないのだと


だから―聞こえたのだと―彼は想う

あなたの想いが

そこに宿った言葉たちが

その音色が


まるでその声が聞こえたかのように

彼女は微笑んで頭を下げる


―ありがとう…


そったその一言を置いて―彼女は立ち去る

その一言のために待ち続けていたのだろうか…


そのたった一言が―まるで

夜空の下でキャンバスを立てかけ

筆を片手に流れ星を待つような―そんな姿が浮かぶようだった


夕陽が沈み 太陽が眠りに墜ちて

夜が広がり 星たちが踊り出していた


彼は人混みに紛れてどこかへ行ってしまう


そうだった…彼は旅人

次はどこへ行くのだろう―


夜空に今日もどこかで彼は歌う


届け――

思い描いたのはあの日の後ろ姿だった


たくさんじゃなくていい

たった一人でもいい

どれだけ多くの人に届いたかじゃない

どれほど深く心に届いたかだから


それはきっと

誰かの心の中なのかもしれない

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