第2章  画家が心に描く景色



彼女は売れない画家

心に見た風景に触れるために筆を握り

想いを色に託して散りばめる


崩れ落ちる波 あの空に波打つ雲

雲から降り注ぐ滝 涙に暮れる雨

昇る瞬間の太陽 月夜の静けさに舞う桜

あの人の笑顔 手に触れた温もり


描くだけなら

写真を写し取るのと変わらない


ただ見た物を描きたいわけではない

しかし見えないものを絵に加えたいわけでもない


それは心に感じた躍動

美しいと思わず溜息が漏れた瞬間

そしてささやかな幸福に満たされた思い出

放たれた想い


しかし仕上がった作品には何の感動もなく

あの時の心が震えた瞬間はどこにもなかった…


―思うように…描けない…


苛立ち キャンバスを破り 筆を投げ捨てたこともあった


それでも彼女は新しいキャンバスを立てかけ

新調した筆でもう一度描くのだった


何度でも 届かなくても

救いを求め 希う指先のように


心に見た眩しさを この絵に描きたくて

心に触れた温かさを この眼に見てみたくて


そしてその景色を見るのは自分だけではないと

同じ世界に生きているのだと

―信じたくて


それは彼女が見た夢だったのかもしれない



彼女は店を渡り歩いては

絵を置いてくれないかと頼んで回っていた


急な話に多くの人は困惑し

あるいは変な物を売りつけられるのではと警戒し

終には話をする前に興味もなく拒絶する

さらには了解を得たにも関わらず無造作に捨てられていることもあった


ただ売れなくても―捨てられるとしても…

それでもいいと―彼女は思う


ただ―心の中の風景として記憶の一頁でもいいから…

その心に留めておいてもらえたら…


それはどうか覚えていて欲しいという願いを

絵画に託して届けることと同じだった



触れられなくても

続けていれば次の歩みとなっていく


伝えられなかった思いは

願いに繋がっていく


届かなかった歩みを繰り返し

いくつもの出逢いと別れを経て

ようやく思いが形になっていった


一見しただけで気に入り店に置く人

とりあえず置いたものを客が気に入り興味を持つ人


季節ごとの絵や店の雰囲気に合うものを―依頼を受けることがあれば

部屋に飾りたいから―個人的な注文を受けるようにもなった


励ましの言葉は挫けそうな時に勇気をくれる


「頑張って」

「こんなところで止めないで」

「描き続けて」

「お客さんもとても気に入ってくれていたよ」


その言葉は描き続ける新しい理由となっていく


――しかし…彼女には分からない…

この絵の何を気に入ってくれたのか―を…


知りたいと思うのに 知りたくて仕方がないのに…

誰もがそれについて口を開くと 漠然としか出てこない…


何がその人の心を掴んだのかを知りたくて

続ける理由がもう一つ増えた



―店から彼女が出てきた―


溜息を吐いて―見上げた空はどこまでも蒼く美しく

雲の配置さえも―羽根のようで……


――きれい…


――おい

後ろの人とぶつかる


慌てて―端に退く

思わず足を止めてしまった…


足を止め 心で感じ

魅入ることでさえも―疎まれるのか…


空はどこまでも広いのに―この世界はどこまでも狭い…


雑踏の片隅で キャンバスを立てかけ

彼女は絵を描き始めていた


人の目も気にしない―もう―外の騒音も―聞こえない―

そんな余裕が もう――ない……


早く…早く…

心の中で叫ぶように唱える


この雲は その青さは

すぐに移ろい 違う形になってしまうから


――今

この目に映る瞬間を

ただ―描きたくて


だから必死に手を動かす

目に焼き付けて


キャンバスに写し取るように


筆が奔(はし)る 腕が撓(しな)る


あぁ―雲が動いてしまう…

あぁ―陽の向きが変わる…


雲はあんなにもゆっくりなのに

空はあんなにも速い―


その前に―どうか……

突き動かされるように 絵を一枚完成させた


布に包んで持ち運ぶ

――そういえば……


懇意にしてくれている人から空の絵を依頼されていたことを思い出す

―寄っていこうか…


彼女の足はその店へと向かう

もうあの青さは赤い光に包まれて淡く消えてしまいそうだった



もう陽が沈んでいってしまう―

あの雲の形も移ろい全く違う形となっていく―


―なんて…この世界は儚いのだろう―

彼女はもう一度空を見上げる


同じような日でも同じ陽は二度と無く

揺れ動く花もまたその姿は違うというのに


そして行き交う人を見て

―そのことに―空の移ろいを記憶に留めていく人なんて…

どれだけいるだろう―想いを馳せてみる


考えれば考えるほど 自分が特殊で異質なように思えて


――生きていく場所を

―見失いそうになる…


考えを振り払うように足に力を込めた


彼女に気づいて打ち解けた表情に変わった店主に

彼女も自然と笑顔が綻んだ


彼女は包みを解く

それは先ほど空を写し取った絵だった


歓声を上げて

店主はまじまじと眺め

目を細めた


彼女は聞きたくて仕方がない

あなたはその瞳に何を見たのかと…

知りたいというのに

誰もそれを答えられる人はいない…


微笑む店主の隣で彼女は唇を噛んでいた


それはこんなにも嬉しいはずなのに

どうしてこんなにも虚しくなってしまうのだろう…


…触れられない…

―届かない―…


それは彼女という―絵に救いを見出した者にとって

果てしなく高く聳える壁のようだった


―それでも…彼女は幸せに思う


その瞬間だけかもしれない―それでも―その微笑みと眼差しが

自分の手がけた作品に向けられていることを


自分の作品を喜んでくれる誰かの存在は

果てしない孤独の中で確かに出会えた温もりのようだった



彼女の目は―ふと…ある像に吸い寄せられる


―それはただの後ろ姿だが…

何という後ろ姿なのか


言葉にならない何かを放つ姿に

彼女は魅せられた


それは絵を描き残さなければと衝動と理性の狭間で揺られ

どうか残したいと願う時の感覚に似ていた


買わせてください―頭を下げる彼女を困ったように見下ろして店主は言う

「これは売り物じゃないんだが…」


「貸して頂くだけでも…」

彼女は食い下がる


店主は引き下がらない彼女にふっと―表情を軟らかくした

目を細めて…遠い昔を思い出すかのように


――――――――……


絵を置いて欲しいと願い出る彼女に

やはりこの店主も最初は首を縦に振りはしなかった

彼の人もまた―他の理解無き者達と同じだった

しかし彼女は引き下がらずにもう一枚の絵を差し出し

小さくてもいいです―どうか…お願いできませんか

と―言ったのだった


お願いです―気に入らなければ捨てても構いませんから…

それは彼女にとって自然と零れた言葉だった


無造作に捨てられた絵を彼女は知っている

だがその過去を経ていたからこそ―出た言葉でもあった


その時店主の胸の奥で何かが瞬いた

店を始めて必死で毎日を生活していた頃を


その時彼はなぜ彼女の絵を置いたのかを思い出す


彼女の姿は

過去の自分の姿だった



―陽が沈み…夜に星が瞬く

雲が棚引き月はその幕に閃き踊る巫女のよう

彼女にとって雲は衣であり 風さえも袖となる


閉ざされた闇を射抜くように月明かりが照らす

その光を受けて彼女の後ろ姿は表れる


月の舞いを闇に呑まれたキャンバスに描きながら彼女は一息つく


表れたその姿を見つめる

見れば見るほど不思議だった

引きつけられる…


彼の店主から譲り受けた像の作家は分からなかった

店主に聞いてもアンティークショップで買ったとしか分からなかった


その店に問い合わせても何も分からなかった

誰も知り得ない…彼女は世界から置き去りにされたかのようだった


一体どんな作り方をしたらこんなふうになるのか…

これは―そう…―心を奪うのだ


それは今にも動き出し 去ってしまいそうなくらいに儚く

気づけば手を伸ばしていた


―はっとして

自分が今無意識に伸ばした手を―目の前にして見つめた


―これは奪うのではない…

―掴むのだ


彼女は暫くその場から動かずに像を見つめていた

まるで彼女自身が静止画に映っている女性のようだった



彼女は今日もその後ろ姿を見つめていた

見つめていれば背中が何かを語ってくれるような気がした


虹のように 流れ星のように

何かを教えてくれるような…


首を振る―そんな都合よく分かるわけがない…


そうして彼女の新しい一日が始まる


外に目を向ければ描きたいものはいくらでも目に飛び込んでくる

それでも心を止め 足までも止め 魅入らせる景色はそう多くない

それは出逢おうと思って出逢えるものではなく

待てば勝手に訪れてきてくれるようなものでもない

それでも待ち続けなければ 願い続けなければ

決して描けない絵もまた―あることを彼女は知っている


そうして街を出歩いている時

彼女はふと居場所が消えていくように感じる時がある

まるで自分は彷徨い人だと―彼女は考えてしまう


何を求めているかも分からず迷い歩いている

見つかるかも分からないものを求めて…

そうして出会えた景色に 描いたその絵に彼女は思う


―まるで絵を描くことが

自分をこの世界に繋ぎ止めているかのようだ―と…


ある陽を描いている途中で休めた折に

―ふと―作品を見やる


後ろ姿を夕陽が淡く照らしていた


何とこれは寂しげで…

孤独な背中だろうか…


鼓動が一際高く打つ

彼女は心臓を―捕まれた


――これは…


思わず筆が手から零れ落ちた

涙の滴のように―それは染みとなった


そう…これは―自分の姿…そのものだ…


それは紛れもない他人ではあるが

しかしその背中が物語るのは間違いなく自分自身だったと気づいた



彼女はこの後ろ姿を絵にしてみようと思う


ここには溢れる想いがあっても色がない

無色の世界だけがそこに置き去りにされている


この世界に色彩を与えられるなら

自分の描きたい何かを見つけられるかもしれない


この時を境に作品を見ることはなくなっていった

もうそれは見るまでもなく 心に焼きついている

眼を瞑れば はっきりと思い出すことができる


像を見れば像そのものを描こうとしてしまう

でも―描きたいのはそういうことではなかった


その風景であり

今にも髪が風に靡き 服がはためき その手足が動き出しそうな

色を放ち 光と影に彩られ

彼女が心に描くその―風景だった


この世界が彩りに満ち溢れ動き出すには

この静謐な世界に心を投げ出すことでしか

色は見つけられないかもしれない


見て取った感情を思い描いてみる

―哀しみ… 寂しさ… 嘆き… それとも…決意…

毎日異なる光の陰陽がそこに異なる印象を抱かせる

それはまるで流れ星を待つようなものだった


何度も描き 幾度と無く書き直した

靴 服 髪の艶 周りの風景

分からないことはいくらでもあった


ただ描き続けて 時には食事を忘れ 眠ることも止めて

その何かを見るために 彼女は作画に没頭した


この像を初めて見た時

心を奪われたように


10


絵は完成したが

彼女は愕然とする


それはただの後ろ姿でしかなかった

風景の一つであり 一場面であり

何一つとして探していたものを見出せなかった


これほどまでに努力しても

…届かないのか…


それは自らの限界を突きつけられるようで

それまでの努力全てが虚しくなっていく


描き続けるのは

その果ての何かを見たかったからだった


出会えないなら

そんなものが夢だったなら

これまでの歩みに何の意味があるのか


破こうとして手をやった…


―こんな絵しか描けないなら

絵を描く意味がない…


それは自身に対する深い失望と

画家として生きていくことへの絶望となるほどに


彼女はこの絵に画家としての未来を見出したかったのかもしれない


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その時―電話が鳴った


電話の向こうで声がテナントの一部を貸し出す旨を伝えるが

彼女は上手く飲み込めなかった

…要領の得ない彼女に電話主が尋ねる


忘れていた…随分前に依頼したものだった

電話の向こうで相手が件の人物だと一致して安堵したのか

一息に時間や場所の詳細を告げる


反射的にメモを取りながら

本当は―断ろうとした


それでも自分の絵を置くことができるという場面を想像せずにはいられない

遅れて感情がこみ上げてくる…その沸き上がる喜びに彼女自身が驚いて

―気づいた


まだ―情熱を失ったわけではないということに


まだ…歩ける…続けられる


画家である以上―そこに縋るしかないのだと

彼女は悟る


自分には絵しかないことを

それを彼女は希望と名付けていたことを


それは彼女にとって生きる術なのだということを


12


それは小さな絵だった

そこは通りに面したテナントの入り口


――ふと…目に留まったのか…

足を止める人がいた


一人…また一人と…

入り口に足を運んでいく


そこには何枚かの絵が大小疎らに展示されていた


その中にある女性の後ろ姿があった


―すいません―この絵なんですけど…

―はい―

…声をかけられ歩み寄る彼女の姿がそこにあった


絵は次々と売れた

今までどうして売れなかったのかが不思議なほどだった

だがその後ろ姿だけは そこに独り佇んでいた


夕陽に照らされてその背中は力強くも儚く

今にも消えてしまいそうなほどに寂しく

しかし確かに存在していた


ふと―食い入るように見つめる女性の姿が目に入る

視線に気づいたのか…顔を彼女に向けて―尋ねた


―これは…あなたが描いたのか―と


その女性はなおも問いかける

どうしてこれを描いたのか―と…


その声に隠された想いに

切実な何かが聞こえた気がした

彼女の心は揺り動かされた


それはとある像の話だった

それはこの絵を描くために費やした全てだった


話を聴きながら女性が涙を浮かべ

そして―零れていく…


言葉の代わりに涙を零すその女性に

彼女は―すくい取るべき言葉を見失う


こんなにもすぐ近くに求めた答えがあったかもしれないのに

彼女はその理由を――訊けなかった…


13


―想いは

どこに行くのだろう…


それは舞い散る落ち葉のように

はらはらと…泣くように…降り注いだ


包装する彼女の手が―止まった

言葉を反芻する


彼女は手を見つめて―俯いたように―考えて

―言葉を探す…


描くことに何の意味があるのか

そうして―筆を捨てたことを思い出した


それでも今もまだ描き続けている

その―理由…


―まだ分からない…

でも…それを知りたくて

絵を描いている…


その道を行くことしかできない

そしてそこでの出逢いを重ねることでしか

道は描かれない


それがきっと―夢なのだろう…


包装を終えた絵―それは彼女にはただの後ろ姿にしか見えない

それでも―そこに違うものを見る人もいるなら

その人達のために―描くことはできるかもしれないと…思えたなら

それは―一つの救いとは言えないか…


―こんな…答えでよかったのだろうか…

迷いを示すように絵を差し出す手も何だか頼りなかった


彼女は絵を受け取り胸に抱える


あなたの絵はとても真っ直ぐに心に残る

―あなたに描いてもらえてよかった…


その女性はそう言って微笑んだ

それが―返答であるかのように…


―――……

彼女は一瞬言葉を失い―なんとか頭を下げる

それはふと溢れる雫を――隠すためだったのかもしれない


14


後ろ姿を見送りながら彼女は思う


もしも描き続けることで

出会える景色があるなら

その景色を見てみたい


苦しみも 喜びも―その全てを

ここに詰め込んで―生きるために


―はっとして

彼女はこの光景を目に焼き付ける


それは後ろ姿―そう…あの女性が去るこの瞬間

キャンバスを立てかけてすぐに描き始めた


早く―速く―

心に零れた流れ星のような煌めきが

色褪せてしまう前に…


そこには確かにあの女性の想いが垣間見えた

心に触れた


その温もりを画面に落とし込む

色に溶かして塗りたくる

自身の瞳が見たその眩しさを

その心の見た在り方を

筆に託して描く


その後ろ姿に陽が差し込む

とても優しそうに―安らぎに満ちて

向かう先に何かいいことがありそうなことを予感させるその後ろ姿


彼女はそこに題をつける


その後ろ姿に見たのは

彼女の孤独と

そしてこれから辿る道を

凛として歩む

夢だったのかもしれない

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