紡ぐ物語 それは夢の彼方
大野弘紀
第1章 心に彫った思い出の刻
1
刃が木を削り取る
大地を抉る風のように
木の屑がぱらぱらと床に降り注ぐ
やがてそれは輪郭を表していく
――外には月
三日月は消え入りそうに光っていた
彫刻家は手を休めることはない
一心不乱に手を動かし続ける
手は傷だらけというのに
止めようともしない
止まればそこで時が終わってしまうかのように
夜の静寂の中に
刃と木の摩擦の音が響く
―音が…止まった―
刃が床に堕ちる
―胸を押さえて―
―眼を堅く瞑って―
―息が荒れる―
息を整えて…もう一度…
咳き込んで押さえた手には
――赤い染み
残された時は
もう少ない……
手を見つめて―彼は呟いた
――頼む……
刃をもう一度手にして
再び木を削る音が
火の粉散らす音のように
床に屑となって降り注いだ
木は景色を描き出し
とある後ろ姿を現そうとしていた
ふらつく体を必死に支えて
残された灯火を絶やすことなく
彼は木を削り続ける
その瞳に宿る光は
命の輝きを削ってもなお
生きようとする灯火のようだった
2
人の足音は彼方の雲の流れより遅く
それでいてその数は雨のようだった
その道の片隅に彼は座っていた
敷かれた布に並べられた作品は
木のように佇み 石のような自然さで
静かに風を受けていた
しかし手に取る人はおろか
立ち止まる人さえ疎らだった
彼らにはその作品群など見えてはいない
時計と追い立てる時間しか見えていない
静かに佇む彼とその作品は
まるで時に取り残されたかのようであり
濁流のような川の中で立つ一本の木のようでもあった
彼らにとってそれらの作品はそれ以前の
ただの木片でしかない
彼らがその意味を知ることはないのだから
それは仕方がないのかもしれない
3
止まらない水のように
足音は流れ続ける
その中で――時を止めたように
足を止め はっとして
歩み寄り 手に取る人が――いた
その眼差しは時には愛と慈しみに溢れ
しかしまたある時は闇よりも深い悲しみに溢れていた
彼の人たちは時間に取り残されたのだろうか
それとも過去に置き去りにしてしまった景色を
ここに見つけたのだろうか
その眼差しは驚愕に見開き
その手は震え
滴が零れる程に
心揺れるのだった
彼らの小刻みな声が…問う…
この人に逢ったのか……
この人を知っているのか……
だが彼は首を振るだけで
その理由を言うことはなかった
ただ作品が沈黙に語り
見た者の心の中の風景が答えるだけだった
4
それはある人の涙
ある人の微笑み
愛しい人と一緒に見た夕陽
共に歩いた月夜道
美しくも儚いそれは
目覚める時には淡く溶けるように…
記憶という掌から零れ落ちるように…
消えていってしまう…
それは残像のような
遠い思い出のような
――夢…
その残像は彼の心に訴えかける
夜空に願う星のように
誰にも聞こえることのない
祈りのように
その声なき声は彼に彫刻刀を握らせる
―忘れたくない―
―失いたくない―
―無かったことになんて…できない――と…
温もりを忘れないように
そこにあったかけがえのない何かを心に残しておくために
できあがった作品に彼は首を垂れる
祈りのように 許しのように
どうか―あなたの手に届きますように――と…
それらの作品は時を経て
必ず彼のような人々の手に渡る運命にあるらしい
出会うべくして出会った人たちは口にする……
「娘にそっくりだ」
「あの人は元気にしているのだろうか」
「そういえばあの子はこんな表情をしていたっけ……」
――そんな時だった
足を止めた女性がいた
とある像を見つめていた
それは子犬だった
くるりと丸い瞳をして舌を出して
笑っているかのようだった
「似てる…」
彼女はそっと呟いて―思わず―触れる
その撫でる手は生きているものを慈しむようだった
はっとして――彼女は手を放して 彼に謝る
彼は微笑んで――ゆっくりと首を振る
―夢の中で……
彼は子犬の夢を思い出す
差し出した手とその笑い声
それは――あなただったか…
彼女は訥々と語り始める
犬を飼っていたことを
この像とそっくりな―犬を
亡くした悲しみが残り続けていることを
そして―想わず手にとってしまったということを
語りながら―彼女は犬を撫で続けていた
失われた時を―取り戻すかのように
まるでずっと大事にしていた―宝物のように
ふと―彼女は子犬を抱きしめて
そのまま―動かなくなった
項垂れ 眼を瞑り
それはまるで―黙祷のようだった
5
夢はあまりに美しく
そして儚くも甘く
そして哀しくも愛しい
その刹那に見たものは心を掴んで放さない
流れ星のように
ふと横切る花片のように
言葉にしようとすればするほど散ってしまう
それは夢のように切ない
だから彼は彫刻にして刻みつけるのだろう
言葉にできないのなら
せめて―ここに残せるように
6
――それは
まるで眠るように死んでいく――夢
まるで夢の中に還っていくような――眠り
それは無数の流れ星のように瞬く走馬燈のよう
我が子を抱き
未亡人となり
その背中を見送り
孤独で生活を真摯に護り続け
無常の中に守った日常を最期に
仰ぐ星の彼方 空のような無音の足音を残し
森のような深淵の沈黙に眠る
その表情は―まるで夢の中に還っていくかのようで
日常に何も残す物が無かったかのように淡く
そして瞬く星空のように安らかで
そして永遠の青空のように清らかだった
その傍らに――娘だろうか
涙を溜めて 微笑みを湛え
そして穏やかな時に包まれた姿があった
それはまるで…一つの絵画のような静謐さを湛え
しかし果てしない空のように―どこまでも美しく
まるで死さえも優しく舞い降りるかのようだった
彼はいくつかの場面から一つの想いを選び取る
それは彼女が我が娘を抱きしめた姿でも
孤高に生きた姿でも
あるいは気高き眼差しでもなかった
それは死に際に両手を温かく包み込まれ
幸せそうに目を細めた―彼女の刻だった
7
彼はまるで宛もなく彷徨う旅人のよう
街を渡り歩く 移ろい続ける風のよう
陽の移ろいと景色が 心を留めた場所に
彼は風呂敷を広げ 作品を並べ佇む
その時の その場所の何が
彼の足を止めて 心に引っかかったのかを 探すために
この前の場所が―足音が飛び交う狭い通りであったのに比べて
ここは広く―そして人の足はリズミカルで疎らだった
話し声 通り過ぎる車 鳥の囀り 木の囁き 風の音
それらの全てが 広がる空に 飛び立ち 吸い込まれ 消えてしまうかのようだった
彼は太陽の光に
通り過ぎた人の横顔に
涙が地面に落ちた瞬間に
得体の知れないものを見ることがある
それが何であったのかを知りたくて
彼は無我夢中で木を手にして削り上げる
そこに宿るのは報われない悔しさ 伸ばした手が届かない失望
あるいは愛しい人の笑顔に見た救い 何気ない花に降り注ぐ勇気
愛する人との惜別 そして夢に触れた歓喜だった
―――ごほっ…
彼は突然何度か咳き込んだ
彫刻刀が手から零れる
口元を押さえた掌に血の跡が残っていた
一体いつまでこうして生きていくことができるのか…
この作品は誰かの傍で残り続けるのだろうか…
――ふと…子犬を買っていった女性を思い出す
―浮き上がっては沈んでいく記憶の断片の中に何かが引っかかる―
それは…掴もうとしても届かない まるで―靄がかかっているかのように
一瞬見えたように思えたそれは 朧に…淡く…霞み…消えていってしまう…
―彼はおもむろに木片を取って削り出した
今のが―何であったのかを―知るために
ぽっかりと空いたような時間に取り残される中で
何かを掴もうとするかのように
いつの間にか太陽の移ろいも意識から消えていく……
「――あの…」
投げかけられた言葉は木々がざわめくように
水面に波紋を広げて―彼の意識を呼び戻す
―そこにいたのは
犬の像を買ったあの―女性だった
作品を手にして―興味深そうに見ていく
その口が その手が 目が―止まった
その姿はまるで―彼女の時そのものが止まったかのようだった
あるいは心を捕まれて 凪いだ海になったかのようだった
「…これは―」
それは先日の夢で見た中で象った一枚の絵
夕日が差し込む
辺りは朗らかに淡い光に包まれる
客足は彼方の雲のように疎らで
喧噪は夜空の星のように静かだった
彼女の声はとても小さくても聞き取ることができた
流れる風が―その言葉を届けてくれたからだろうか
そして―作品をもう一度見る
太陽の光は彼女の涙を真珠のように照らす
その涙はまるで祈りのようだった
8
この作品を買った彼女はやはり―大事に胸に守り
育ててきた想いの花のように―愛しんで両腕に抱く
彼女はぽつりと口にする
もう友達もいない
そして家族もいない
そんな自分が
一体誰の心に残るのだろうか―と…
彼は拳を握りしめて頷いた
きっと残る―と…
それはただの慰めではなく
強い決意だった
彼女は寂しそうに微笑んで
深々と頭を下げ―背中を向けた
もう二度と会うことはないだろう
彼は彼女の後ろ姿を目に焼き付けた
最期に残しておくために
―忘れないでいて欲しい
それは数々の作品たちの訴えてきた想いが
垣間見えた風景に重なった瞬間だった
9
鼓動を繰り返し 失われる時を―必死にすくい取るかのように
生と死の鬩ぎ合いにたゆたう海のように―彼は生きた
ただこの作品を完成させたい―その一心で
ただあの時の出会いを
その時胸に抱いた想いを―守るために
この世界に ただ―残すために
彼は祈りながら 汗を滴らせ
血を吐きながらも 手を動かし続けた
命を燃やすように 今しか見えない暗闇の中で
灯火を松明として 歩み続け
造り上げた作品を最期に路上から姿を消した
しかしこの作品が彼の手から彼女に渡されることはなかった
彼が「凛」と題したそれは
紛れもない彼女の後ろ姿だった
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