クライクロッカー
千里亭希遊
時刻者の鳴らない時計
何があろうと朝は来る。
それは希望でもあり絶望でもある。あるいは失望なのかもしれない。
どれだけ致命的な事象が発生していようと何のお構いもなく時刻は進んでいくということであって、『どんなことでも解決しないことはない』と前向きにさせてくれもすれば、『すでに終わっているのに終われない』という強迫観念のようなものを延々と与え続けてくれもする。
詩織にとってそれはどちらかと言えば後者だった。
いつもの通り朝が来る。
鳥の囀りすら聞こえない無音の朝。
瓦礫だらけでもうどれだけの人が残っているのかよく分からない街。
詩織はただただぼんやりと時をやりすごしていた。
例によって目覚ましの鳴る数分前にきっちり目が覚めてしまった彼女は、ぼうっとした視線を時計に投げる。
放っておけば数分後にはやかましく泣き出すだろう。
詩織はそれにのろりと手を伸ばした。
状況が状況のため今では本当に正確なのか疑わしい電波時計だが、詩織はこの時計がずっとお気に入りだった。
恐ろしく体内時計の正確な自分と同じで、決してリズムを崩すことのない時計。
太陽電池で動いているから、60ヘルツの長波標準電波とかなんとかというものの発信受信がうまくいかなくなったり、物理的に壊してしまわない限りは止まることも狂うこともないだろう。
カチカチと、時計の裏を覗いて目覚ましを解除する。
そういえば詩織は長年愛用しているにもかかわらずこの時計のアラームの音を知らない。どんな音がするのだろうとふと気になるが、その好奇心のためだけにやかましい音をこの静謐な朝の空気の中に混入する気にはなれなかった。
何の気もなく視線が上がると、見たくないものが視界に入ってきてしまう。
できれば現実でなければよかったのに。
けれどそれは不毛な願いであり、今更もうどうなるものではない。
「…………不快そうだね」
壁にもたれて未だ眠っている様子だったその男は、予想に反して全く「眠り」という物を感じさせないはっきりとした声を発した。
目を閉じているくせにこちらの視線がそちらを向いたというのを察知しているらしい。しかもこちらの感覚まで読み取っている。一体何者様だというのだ? 何だか何もかも覗かれているような気がして詩織はますます眉をひそめた。
「心外だな。俺はあんたを助けたつもりだった」
眠っているような姿勢のままで話しかけ続ける男。そのために表情が読めない。何を考え何を感じているのだろうか。
「そんなものいりませんでした」
ひねくれや反発やそういったものではなく、静かに詩織はそう即答した。
ふわりと男は目を開ける。ただし視線はこちらへは向けられない。何も無い中空に注がれている。何かを見るために開かれたのではなく、ただ単に覚醒を示すためだけの動作のようだ。
「まぁ、聞かないけどね」
なんとなく詩織は拍子抜けする。何でだろう。会ったばかりの人間に何か聞いてほしいとでも思っていたのだろうか。
「…………貴方はアスカの軍人ですか?」
動揺のようなものを隠すように、見た目で分かるようなことを聞く。
「そうだよ」
男は即答する。だが、それだけだ。
二人とも何も言葉を発しない。身じろぎすらしない。視線すら、合わせない。
────それでも。
何故か、詩織は暖かさを感じていた。
不審は感じていても、出て行けと、消えてくれと、それだけは言えなかった。
そうやって、詩織と男の奇妙な生活は始まった。
何故かお互い名乗りもしない。会話を交わすこともほとんどない。無言のままで日々がすぎていく。
少し変化があったのは一週間と二日がたった日のことだった。
詩織がいつもそうしていたように男もどこからか水や食料などの物資を調達してくる。
それは店舗を狙うというものだが、既に世界のシステムは崩壊していて、もはやそれが当たり前で正しい手段と化していた。
この街に残っているらしい人間の数はそうとう少ないらしく、物資の調達でいさかいが起こるのは見たことがない。むしろ、人の姿すら、この男以外を見たことがない。時々詩織のいじっていないものがどうにかなっていたりするので、人がまったくいないわけではないのだろうが、本当に見かけないのである。
始めの頃詩織は自分でレジを打ってお金を払っていたりしたのだが、お金が意味をなしているとはもう思えない上、なんだかばからしく思えてくるのでもうやめた。
電波時計のおかげで日時を正確に把握できている詩織は、賞味期限内のものを正確に選ぶことができる。
もう日時など把握するのをやめてしまった人間は、きっとおなかを壊したりするのだろう。
男も例外ではなかった。
大人びている様子でいつも人を見下したようなスタイルでそこに存在している彼だったが、その日だけはどうも様子がおかしかった。
顔が青白い。
そしてよくいなくなる。
「…………もしかしてお腹でも壊しましたか」
ぽつりと聞いてみるが意地でも張っているのかちらりと視線をこちらに向けただけだった。
はぁ、と詩織はため息をつく。
そしてそこらに置いていた錠剤のつまった小瓶を掴み、男に向かって投げた。
驚いたようにそれを受け取る男。
「どうせ賞味期限切れの物でもお口になさったのでしょう? 軍人さんというものは時間に正確でないといけないのではないのですか?」
いつも見下されているような気がしていた詩織は、ここぞとばかりに嫌味を浴びせた。
「……時計持っちゃいたんだよ。けどいつだったか化け物ぶっ殺してたらぶっ壊れてた。あれから時間やら日付やら気にするのはやめた」
「…………でしたら整腸剤や胃薬も持ち歩いてはどうですか……」
「あんたが持ってるならもういいだろ」
「……え」
思わず詩織は絶句した。
「シガラキに帰ってきてようやく見つけた人間があんただけなんだ。俺はアスカの軍上層部がもう機能してないのを知ってる。だからありったけの武器弾薬かっぱらってトラックに詰めて少しでもシガラキの人間を守りたいって抜け出してきたんだ。だけど、ここにはもうほとんど人が残ってないみたい」
男は小瓶の蓋をあけて、説明書きを読みながら、錠剤を二粒取り出し、口の中に放り込んだ。天然水のペットボトルをひっつかんで蓋をあけ、少し飲む。
「……で、今日は一体何月何日?」
「六月十五日」
「ふむ。年までは変わってないだろうから、ひと月と三日だ」
「…………はい?」
「時計がぶち壊れてからさ」
「はぁ……」
「それだけの間シガラキで人間見てないってことさ」
「はぁ……」
男が何を言いたいのか掴むことができず、詩織はただ相槌をうつ。
「あんた置いてって他に人のいるとこ探すよりこれからあんたんとこで化け物よけになってやるってこと」
よく分からないという顔をしているのがありありと分かったのか、男はきちんとそう主張した。
「……そんなものはいらないと初めに申し上げました」
男は少し悲しそうな目で詩織をみつめた。今までにないことで少し戸惑う。
「何があったのかは知らないけどさ、俺に少しだけ協力してくれない? このままじゃ浮かばれないんだよ」
よく分からない主張に詩織は眉根を寄せて首をかしげる。
「何かくやしいじゃない。属領ってだけで強制的に軍役させられてさ、その間に故郷は壊滅だとか、腹立つんだよ。最後くらい故郷の人間守らせて。どうせそのうち、この世界は終わる」
「あなたの自己満足のために私を利用するということですか」
「あはは、敬語使ってるかと思えば意外に言い方きっついなぁ……まぁ、そういうことだね。俺が死ぬまででもいいから、少し付き合ってよ。武器弾薬には限りあるし、どうせそう先じゃないさ」
「人には死に急ぐなと言っておいて自分は自暴自棄なのですね」
「これでも必死なのさ」
詩織はあきれたような困ったような変な気分になる。
「…………まぁ、お互い勝手にしましょうか」
「ありがたい」
どうしてありがたがられるのか分からないが、男がとても安心したように微笑んだので詩織はもう何も言わないでおくことにした。
詩織にはあの時から習慣としていることがあった。
それは日没後に近くの公園で歌うこと。
それまでにもたまに行っていたことだが、日没後に限定、それも毎日となったのはあの時からだ。
守ると宣言した男はやはりいつもついてくる。
そしてじっと聞いている。
じっと聞かれていたりすると前までは気恥ずかしい思いをしていた。けれど、何もかもにやけくそになっている現在でももうなんとも思わない。
「……キーボード持って来ればいいのに」
少し休憩して鼻歌をならしていると男がぽつりとそう言う。
昼に自宅で歌うときはキーボード付きの弾き語り状態だからだろう。それしかすることがないから、最近いつも歌っている。ちなみに、キーボードの電源は例によって店から取ってくる電池である。
「あんな大きなもの持ってくるのが面倒なだけです」
「俺がいるじゃない。トラックもあるし」
「そこまでして持って来ようとは思いません」
「そっか」
男はあっさりと引き下がる。
その会話でも忘れようとするかのように詩織は休憩をやめた。
やけくそであるために気恥ずかしさは感じないとはいえ、歌うときは男の方を見ないようにしている。
月と星と街灯(何故か以前と同じく夜に点灯し続ける)の光に照らされた夜の公園を眺めながら、大きく息を吸い込んで思い切り吐き出す。それは音となって空気を振るわせる。その音は周辺に存在する物体たちに吸い込まれていく。何をどう足掻いても動じないものを前にしているようで不安になるが、今はそれもどうでもいいと押し切ることができる。
音に乗せられた思い。それは。
ねぇ、また来てよ。こいつが助けようとする前に、私を殺してください。
────夜に外を出歩く、しかも盛大なる物音をたてるということは、文字通り自殺行為でしかない。
どうやら現在この人間世界を壊滅に追い込んでいるのは、現実主義者たちに散々存在を否定され笑われていた『化け物』という存在たちのようである。
姿かたちはそれぞれバラバラ。
平たく言ってしまえば物語の中に出てくる『妖怪』のような姿をしている。
それらは、妖怪と同じく夜活発に動き出すらしい。昼でもお構いなしに人間を襲っているのには違いないが、夜の方が危険であるようだった。
「…………なんかあんたの音って無機質だよな。メトロノームが歌ってるみたいだ」
さて次は何を歌おうかと楽譜をあさっている時に、男がぽつりと呟く。
それは意外に心に刺さった。その心とは裏腹に、
「……そうですか」
同じくぽそりと呟くようにそう言って楽譜をあさり続ける。
「何か色々歌うよね。クラシックだったりポップだったり。好きなジャンルとかないの?」
「ポップの方が好きです。でも、私の歌い方にはあんまり合わないみたいです」
詩織は物心ついたときには既に声楽教室に通っていた。親が音楽関係の仕事をしているとかそういうわけではないけれど、音楽が好きで、子供にもその好きなジャンルに触れてもらおうということだったらしい。強制というわけではなく、詩織自身も結構楽しんでいた。
「ふーん……」
そう相槌をこぼす声が意外に近くでしたことに詩織は驚いた。すぐ隣で、遊具の上に並べた楽譜を覗き込んでいるらしい。
……どくり
鼓動の音が異様な大きさで耳の奥に響いた。
「…………ちょっ!? え!?」
何だか妙に慌てたような男の声を聞いたのを最後に、詩織の記憶はふつりと途切れた。
ピッピッピ・ピッピッピ……
聞きなれない電子音がする。あぁ、もしかして電波時計のアラームか。こんな音だったの? 何か味気ないなぁ……。
とりとめのないことを思っていると自分の目が開いた。あぁ、寝ていたのか。
「……起きた?」
男の声がする。それで昨夜のことを思い出した。……なんであそこでぶち倒れたりしたんだろう? 実は何か病気にでもかかっていたのか……? ……それは現在死にたがっている自分にとってはいいことなのかもしれないけれど。
声のした方に視線を向けると、ワンルームのこの狭い部屋の中で、せいいっぱい離れようとしているかのようにものすごく隅っこの壁に背を預けてこちらを心配そうに見ていた。
「……何か私近づくと感染してしまうような病気にでもかかっているのですか?」
「……いや…………自覚、なし……か…………?」
「はい……?」
訳の分からないことを言われてどう返すべきなのか戸惑う詩織。
「あんたがぶっ倒れたのは多分俺が不用意に近づいたからだよ……」
「……? 貴方は何かものすごく強力な静電気でも持っているのですか?」
ますます訳が分からない。
「…………うん、何かその様子からしてあんたが死にたがりな理由を少し想像できてしまったかも」
「え……?」
本当に何者様だというのか。こんな訳の分からない状況から一体何を想像してくれたの言うのだろう。
「うんまぁ……もう不用意に近づいたりしないから、安心して」
近づかれたから倒れた。そうなのだろうか。もしかしてあの時が原因で自分は人間恐怖症にでもなっているのか? 確かにこの男との物理的距離があれだけ近づいたのは昨夜が初めてで、その直後に何故か倒れていたようなのだが、けれどこうしてただ話しているだけである限り、少しずつ打ち解けていって人間関係面の距離が縮まっているのかもしれない昨今が何故か少し暖かくもあったりする訳で(それが他に人間がいないことによるただの人恋しさから来るものなのかもしれなくても、今はそれで心地よいのだ)、そういう風に思っている相手に対してそうなったりするものなのだろうか。
「……その時計のアラーム、俺初めて聞いたような気がする」
気を使ってなのか突然話題転換でもするかのように男はそう言った。
「私も初めて聞きました」
「は?」
男がぽかんとした表情を見せた。
「いつも鳴る前に私が気づいてしまうからです」
「へぇ……」
目覚ましより早く起きてしまうということはそう珍しいことではないだろう。しかし、一度もアラーム音を聞いたことが無いほどまでには、それは起こらない事象のはずだ。詩織の体内時計の異様な正確さが改めて分かる事態なのかもしれない。
「……まぁ、どうでもいいことです」
詩織はそう言って無理やりその話題を閉じた。男もそれ以上話題を引き伸ばす気は無い様子だった。
それから男は、本当に詩織とは物理的距離を置いて存在するようになった。
その代わりに態度がとても柔らかなものになる。
「…………何だか最近とてもお優しくて逆に気持ちが悪いのですが」
しばらく経ってから詩織が恐る恐るそう聞いてみると、彼はこう答えた。
「…………最初はただ、世界がめちゃくちゃになっちまってることに対して自暴自棄になってるだけかと思ってたからね」
彼はとても悲しそうな様子でぼそりと付け加えた。
「そんな理由で自殺願望抱いてほしくない」
「……私は死にたいくせに自殺はできない腰抜けですよ」
自嘲するように呟くと、
「いいんじゃね? 『死ぬ勇気』とか、んなもん絶対なくていいよ」
真摯に詩織を見つめながらそう言った。
それは突然、そこにいた。
現れた、などとは言えない。本当に何故か、すでにそこに存在していた。
いよいよこの世の終わりかと思う。
こんな妙ちきりんなわけの分からないモノが出現する時点で全部夢なのではないかと疑いたくなるような事態。
青白い顔、黒色の髪、銀色の虹彩と縦長の黒い瞳孔を持つ瞳、鋭い爪を持つ鳥類のような姿形の腕、青黒い鱗に覆われた胴体、漆黒の翼、獣のような二本の足……。
そいつは突然、にたり、と笑った。
みしり、と頭蓋が悲鳴を上げているのが分かる。何がどうなったのか、それはもうすでに詩織の目の前にいて、その大きな鳥の足のような手で、詩織の頭を文字のとおりに鷲掴みにしていた。
「……おい!?」
男は慌てて何らかの行動を起こそうとしたが、何か分からないものに弾き飛ばされるように飛んで行き、近くの住居の壁に激突して落下、そのまま動かなくなった。
「あ!」
思わず声をかけようとした詩織だったが、はたと名前を知らないことに気が付く。
一緒にいて三ヶ月以上がたったというのに、どうしてお互い名乗りもしなかったのだろうか。
『……死にたいのか?』
声のような言葉のようなものが頭の中に入ってきた。
これは……この変なモノの声なのだろうか……?
『死にたいのか?』
もう一度響く声。幻聴というわけではなさそうだ。
何故か突如として、凪いだ水面のように静かな気分に包まれる。
「……えぇ。とても」
するり、と自然にその言葉が口をつく。
それはまたにやり、と笑う。
『…………人間というものが存在し続ける限り、いつまでもお前のように「死」を望むほどの悲しみや憎しみを抱くものが出る。……そんな感情、なくなればいいと思わぬか?』
一体何が言いたいというのだろう。見た目からして絶対に人間ではないモノから、滔々と人間を語られ、同意を求められても、それはただ胡散臭いだけだった。
眉をひそめていると、更に言葉を続けていく。
『人間など最初からいなければ、そんな負の感情が生まれることも無い』
────そんなめちゃくちゃな理屈が──
あってたまりますかと、それを音に乗せることはできなかった。
キィン
「!?」
突然、頭の奥が何かによってこじ開けられようとしているような不快感が襲った。
『……最初から存在していなければ』
過去の嫌な経験が、無理やりに引きずり出されていく。
『そんな思いは、しなくてすんだのだ』
「………あぁぁ……!」
頭痛がする。吐き気がする。胃が痛い。もうそんな生易しいものじゃない────精神が、悲鳴を上げる。
私などいなければよかったのに。
それを、何度思ったことだろう。
後で振り返れば、なんて甘いのか、もっと気を確かに持たねばと思えても、やはり只中にあってはそう思う余裕は無いわけで。
嫌な出来事全部に一度に遭遇させられたかのような恐ろしい圧迫感に襲われる。
「嫌ーーーーーーー!!」
ドウシテ、ドウシテ。
コンナ目ニ、合ワサレルノ?
アナタ方モ私モ、イナケレバヨカッタノニ。
イナケレバヨカッタノニ。
その感情だけがどんどん増幅されていく。
どくり。
気持ち悪い、気持ち悪い。
人間なんか、いなければよかったのに。
普段ならふと深く思うだけで心を通り過ぎていく言葉が、自分の存在意義にまで増幅させられていくようだった。強制的に、自分の存在が変えられていく……。
そしてふわり、と、何か大きな力が自分と同化していくのが分かった。
『お前はもともと、時の精霊に近い者のようだ。恐らく強大なる者になるだろう』
それが何かを言っているような気がしたが、もう何も分からない。
みしり。
何か暖かい力が流れ込んでくるのと同時に、身体が異様な軋みをあげる。
何故か浮かんだのは、世界が壊れた日にどこかへ逃げ出した恋人の顔でも、身を案じて実家に帰れば無理心中を図られてしまった家族たちの顔でも、詩織を襲ったアスカの軍人たちへの恨み言でもなく。
最後の3ヶ月を過ごした名も知らぬ男の顔だった。
ふつり、と、意識が途絶える。
気づいたときには化け物の姿もあの女の姿もどこにもなかった。
一体どこへ……殺されて、しまったのだろうか。
手も足も出せなかった自分がとてつもなく不甲斐なくて涙が出る。
…………守りたかったのに、どうしても。
初めは本当に、死にたがりを死なせるものかという天邪鬼な思いから強引に付いて行っただけだった。
だから妙な理屈を捏ね回して、そうそう死ぬ気もないのに自分がいなくなるまでなどと言って無理やり納得させたりもした。
そのうちにただの自暴自棄から来る死にたがりではなく、何か辛いことを経験してのことではないかというのに薄々気づいて、本当に、ますます死なせるものかと思った。
することがないからか昼も夜も来る日も来る日も、彼女は歌ったりキーボードを触ったりしてばかりで、ほとんど会話を交わさなかった。
タイミングを失して最後まで自己紹介すらしないまま。
それでも、しばらく一緒にいるうちに、少しずつ彼女のことを知っていった。
彼女の、異様に時間に正確な所だとか、歩くにも呼吸をするにも本当にメトロノームのように規則正しく動いているところなどを発見した時には少し驚いたが、絶対音感のようなモノだろうと(絶対時感とでも言うのだろうか)思った。
彼女のその感覚のせいで時計のアラームを聞くことはほとんど無かったが、代わりに自身が時計のような彼女がずっと泣き続けていたような気がする。それは歌うと言う行動に変えて。
「…………ちくしょう」
梅雨時の生暖かい夜風の中。どこからともなく聞こえてきた歌声をたどって行き着いたのは、小さな公園だった。
そこにいたのは長い黒髪をただありのままに背中に流す後姿。
まるで泣いてでもいるかのように、どこか悲しげで単調な音を紡ぐその人影に、初めは、船乗りたちの伝説で言うセイレーンのようなモノなのではないかと疑った。
そのうち突如公園に数匹の化け物が現れる。男は慌てたがその人影は少しの動揺も見せず歌い続けていた。
これは本当に人じゃなくてあの化け物たちの仲間なのか、そう思ったが、化け物たちが一斉にその人影に襲いかかろうとしたのを目にするともう反射的に身体が動いていた。
全部を片付けてしまって視線を移すと、その人影はじっとこちらを見つめていた。
何を考えているのか読めない無表情と、深い闇を抱えたような暗い瞳。それにじっと見つめられて彼は少し居心地が悪くなる。
「……大丈夫……?」
やっとそれだけ話しかけた。けれどその女は相変わらず何も言わない。しばらく瞬きもしないようにしてただじっと見つめられて、本当に彼はどうしていいか分からなくなった。
「……どうして」
数分が経って彼女はようやく口を開いた。
「どうして死なせてくれないのですか?」
恐ろしいほどの真剣さを持ってただ淡々と問いかけられて、一瞬彼は困惑するが、すぐに何だか腹立たしくなる。
やっと人間に会えたかと思えば、自暴自棄の自殺志願者か。どれだけの人間が生きたくて生きれなかったと思っているのだろう。
「やっと出てきてくれたのに……」
「ふざけるなよ。……よし決めた。何が何でもあんたを生かしてやる」
「…………な……何をご勝手に……」
彼女は当惑している様子だったが、彼はそんなものに構いはしなかった。
「どこまででも付いていってあんたを守り通してやるよ」
そう言うと、彼女はとても迷惑そうに眉間にしわを寄せた。
「困ります」
「問答無用」
「な……何をご勝手に……」
また同じせりふを繰り返し、逃げるようにそこらに置いてあった楽譜をかき集めるといそいそと立ち去ろうとした。
彼はそれを追いかけ、強引に部屋に押しかけて、その隅っこに居座り続けた。
「住居不法侵入ですストーカーですっ」
「だとしても取り締まる奴なんてもういないし、何より人命優先の緊急事態だよ。死に急がないように見張っておかないと」
これだけ強引になれたのは、死に急いでいる姿に腹が立ったというのもあるが、もしかしたら、切なげに歌っていた姿に一目惚れでもしてしまっていたのかもしれなかった。何だか本当にセイレーンのような魔力でももっていそうだった。決して本人の意図するものではないのだろうが。
「…………もう知りません!!」
やけになったのか彼女はぷいと壁際を向いてベッドの中にもぐりこんだ。
少し微笑ましく思いながら、彼も壁にもたれて眠ることにしたのだった。
最後までずっと、死にたいと思い続けたままだったのだろうか?
今もまだどこかで、泣き続けているのだろうか?
クライクロッカー 千里亭希遊 @syl8pb313
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