第二章 七つの丘の街







 馬車アラバは早朝、まだ明けきらぬ薄闇に紛れるように門を出た。

 外から見えないよう何重にも覆われた車の中は、暗くて狭くて息苦しいような感じさえする。途中、何度も合わせ目から外を見ようとしたのだが、その度ナージャの怖い顔が頭に浮かんであきらめた。

「いいですか、くれぐれもおとなしくしていてくださいよ。もし誰かに見られたら、とんでもないことになるんですからね」

 そう釘をさしたナージャの姿はここにない。忠実な乳母は人々の疑いをそらすため、一人ハレムに残ったのだ。いや、正確には一人ではない。姉弟たちの身代わりにと、大宰相の用意した二人の少女といるはずだ。

 生まれた時から側にいたナージャ。いつもいつも空気のようにナージャはそこに在ったから、彼女のいない生活など想像もつかなかった。

 気がつくと、手は無意識に膝の上のアサドの頭を撫でていた。手足を丸めてくったりと、仔猫みたいに眠ってる。

 かたわらには、彼女が手ずから持ち込んだ大事な荷物が置いてある。中身はつがいのカナリアで、死んだ鸚鵡の代わりにと、先日スルタンから贈られたものだ。途中で起きて騒がないよう、今は袋をかぶせてある。

 ――もうすぐお日さまのしたに出してあげるからね。

 ラフィールはアサドの頭を揺らさないよう、ケージをそっと引き寄せた。

 宮殿から大宰相の屋敷まで約一時間。馬を飛ばせば小一時間で着くのだが、今回は病人がいるため、倍近い時間をかけた行程となっている。

 揺れる箱に押し込められている長い間、うつらうつら舟をこいでいたラフィールは、静まりかえった周囲の気配にぱっちりと目を覚ました。

 揺れてない。車輪の音ももう聞こえない。

「ついたのよ! おきて!」

 飛び跳ねたいのを我慢して、ラフィールはゆさゆさアサドを揺さぶった。

 うーん、とむずかるアサドの背を、なおも揺すろうとしたところへ、穏やかな声が割って入った。

「寝かせておいてさしあげて。暗いうちから起こされて、今までずっと揺られていたんですもの。お疲れになったんですわ」

 布のあわせが音もなくほどけて、透明な朝の光が差し込んだ。そのまま大きくドレープが開いて、ミルク色した光の中にほっそりしたシルエットが浮かび上がる。

「お二人ともようこそお越しくださいました。すぐにお部屋へご案内しますので、もう少しだけご辛抱くださいね。――ああ、アサドさまは私が」

 そう言って、女が手を差し伸べたとたん、さっきまでたしかに眠っていたはずのアサドがぎゅっとしがみついてきた。

「アサドはなして、ついたんだってば」

「いや!」

 ぎゅうぎゅうとますます強くしがみつかれて、つぶれた蛙のような声が出た。

 馬車を降りると、世界はまだ、完全に目覚めきってない夢の名残りのようだった。

 そこは小さな中庭で、泉水(チェシュメ)とオリーブの木の他はこれといって何もない。屋敷は庭を取り囲むようにロの字型にそびえ立ち、手すりのついた階段が上の階へとつながっている。

 二人が案内されたのは三階の角部屋で、庭に大きく張り出した窓がひときわラフィールの目を引いた。

「こちらがお二人のお部屋です。お母さまはお疲れのご様子でしたので、一足先に別室へお連れいたしました。お二人ともご気分はいかが? あとで何か軽いものでもお持ちしましょうね」

 退室しようとして、女はふと思いついたように付け加えた。

「申し遅れました。私、アイシェと申します」

 きょとんとしているラフィールに、女は重ねてこう言った。

「サリムの母でございます」

 そこでようやくラフィールは、彼女が大宰相の第一夫人、後宮の女主人であることを知ったのだった。





 心地よいまどろみの中で、ラフィールは星影の歌を聞いた。

 目覚めてもなお歌は続いている。

 ――カナリアだ。

 気づいたとたん、ラフィールは上掛けを剥いで飛び起きた。

 さえずりは部屋の隅から聞こえてくる。

 かぶせてあった覆いをめくると、クリアになった歌声が二重奏で出迎えた。

「はいはい、今だしてあげるから」

 扉を開けると鳥たちはちょんとその手に飛び乗った。そうっと扉をくぐらせて肩のあたりに持っていくと、心得たように飛び移る。

 トゥールルル・・・、と見事なのどを披露しながら髪を引いたりつついたり、カナリアは朝から元気いっぱいだ。

 ラフィールは肩に小鳥を乗せたまま、手早くえさと水を替え、しおれてしまった青い葉を糞といっしょに片づけた。葉っぱだけは今すぐ摘んでくるわけにはいかないので、午後の散歩の時間までおあずけだ。鳥たちはまだまだ遊び足りなさそうだが、扉を開けるとおとなしくかごの中へ飛び込んだ。

 外は今日もいい天気だ。

 中庭に面した三階の窓はちょっとしたバルコニーになっていて、椅子に座ってくつろいだり景色を楽しめるようになっている。先日、近くのすずかけの木にカケスが巣をかけたのはラフィールの秘密だ。そのうち卵でも見つけたらアサドにも教えてやろうと思っている。

 ラフィールはぴんとまっすぐ背を伸ばし、朝の空気を吸いこんだ。

 大きくたっぷり息を吸い、おなかの中をふくらます。吐き出すときは力をこめて、最後に五秒待つのがコツだ。

 ラフィールはすっかり忘れているが、これは元々シエラから発声法として教わったものだ。簡単で、しかも気分がスッキリするので、毎朝自然にやっている。

 気がつくと太陽はずいぶん高くなっていた。ラフィールはあわてて部屋に取って返すと、壁に置かれた寝椅子の上にえいやとばかりに飛び乗った。

「おはようアサド、もう朝よ」

 うーんと唸り声がして、毛布がもこもこ形を変える。起き出すのかと思いきや、布を中に引っ張り込んで、亀の子みたいに丸まった。

「だめだめアサド、ちゃっちゃとおきて! 朝はきまった時間におきろって先生ハキムになんども言われたでしょ。つらいだろうけどとにかくおきて、からだにリズムをおぼえこませるのが大事って」

 目が覚めた瞬間から100%全開で動き回れるラフィールとは違い、アサドは生まれつき極度の低血圧だった。 

 朝は頭痛と倦怠感でなかなか床から起き上がれない。やっとの思いで起き出してもだるさは抜けず、それがともすれば彼を脆弱とみなし、軽んじられる一因となっていることをラフィールは知っていた。そのことが弟の幼い矜持をどれほど傷つけているのかも。だからこそラフィールはことさら明るくふるまって、アサドにはっぱをかけていた。

 毛布から無理矢理アサドを引っぺがし、服を脱がせて着替えさせる。乳母も女官もいない今、それは必然的にラフィールの仕事だった。

 ぐにゃぐにゃした体にシャツをかぶせ、正しい場所に袖を通すのは思ったより難しい。ズボンを引っぱり上げ、胴体にシュッと帯を巻きつけたところで、タイミングよくアイシェが姿を現した。

「おはようございます。昨夜はよくお休みになりましたか?」

 アイシェと侍女がてきぱきと食卓シニを組み立て、運んできた料理を並べている間に、大急ぎで顔を洗い、アサドのためにもう一杯水盤に新しい水を注ぐ。

 こうして二人が身なりを整え、頭も体もすっきりしたところでアイシェが口を開いた。

「では参りましょう」

 セレーネと子どもの部屋は端と端、同じ階の一番遠くに位置している。部屋を離したのは互いに気にせずのびのびと過ごせるようにとの配慮からだ。

 一家の台所を預かる女主人としてのアイシェの務めは多い。だが、どんなに多忙でも、セレーネの世話に関しては決して他人任せにしなかった。

 夜明け前、朝の祈りをすませると、アイシェはまず水差しと清潔な布を用意してセレーネの部屋へ赴く。それから窓を開け、寝具を取り替え、食事、清拭、着替の介助と一連の世話にあたる。それが終わると今度は家族の分の食事を作り、子供たちに食事を届けにいくのだが、食事の前にもうひとつ、欠かすことのできない習慣があった。

「・・・母さま? おきてる?」

 ラフィールは部屋の手前で立ち止まると、覆いをそっとめくり上げ、中の様子を伺った。

 ぴったりと垂れ幕の下がった部屋の中は、夜の続きのように薄暗い。部屋に入ると、湿布や薬湯、甘ったるい脂粉の残り香に混じって、わずかなし尿の臭いがした。

「・・・母さま?」

 返事はない。そのことになぜだか少しほっとして、ラフィールは母の臥所へ近づいた。

 ふと右手にわずかな抵抗を感じて振り向くと、弟の怯えた顔と目が合った。ラフィールはつないだ手に励ますように力をこめると、いつもの挨拶を口にした。

「おはよう、母さま」

「・・・かあさま、おはよう」

 枕元まで近づくと、病んだ肉体の放つ甘酸っぱい匂いがぶわりと鼻孔に広がった。上掛けに隠れて顔は見えないが、どうやら眠っているようだ。

 彼らが部屋を訪ねるとき、彼女はたいてい眠っていた。眠っているときが一番楽なのだろう。

 ラフィールはしばらく反応を待った後、アサドにそっと目配せし、静かにその場を後にした。

 部屋に戻ると、もうすっかり食事の仕度ができていた。

 ちゃぶ台に似た食卓には、大皿料理がいくつかとスープが鍋ごと置いてある。取り皿やカトラリーの類が見あたらないのはその必要がないからで、各人は右の手指を器用に用いて、大皿から直接料理を口にした。

 こう書くといかにも野蛮に聞こえるが、それはまったくの誤解である。手づかみで食べるのは、味はまず指先から伝わるという考えに基づくもので、洗練され、高度に様式化されたその動きはむしろ優雅ですらあった。

 食事が始まると、ラフィールの目は吸い寄せられるようにアイシェへと向かう。

 丸い銀のお盆の上にしなやかに差し伸ばされる白い指。ふわりと皿に舞い下りたかと思うと、ほっそりとした指先を踊るようにひらめかせ、再び舞い上がるそのさまはさながら蝶のようだ。

 不思議なことにその指先は、どんな油っぽい料理の後でも少しも汚れてはいないのだ。

 アイシェの抑制の効いた、ほとんどストイックなまでの美しさは、それまでひけらかすような華やかさしか知らなかったラフィールに深い衝撃を与えた。

 そんなラフィールの執心ぶりがアサドにとって面白いはずもない。

「ぼく、いらない」

 山盛りのピラフの皿を押しやって、アサドがぷいとそっぽを向いた。 

「どうしたの? きらいなものでもあった?」

「おきたばっかりなんだもん、ぼくまだおなかすいてない」

「じゃあ、スープは?」

 ひとさじすくって近づけると、とたんにうれしそうに口を開く。餌をねだるひな鳥みたいなその様子を、ラフィールはくすぐったいような気分で眺めた。

 ハレムにいた時は、ここまで甘えん坊じゃなかった。世話してくれる大人がいなくて、やっぱり心細いのかもしれない。アサドの寝坊やわがままが、自分の気を引くためのものだとは思いもよらないラフィールであった。

 突然押しつけられたに等しい、厄介な預かりものである自分たちを、当時アイシェはどう思っていたのだろうか。

 病を抱えたオダリスクに腺病質のその息子。おまけにその姉ときたら、女らしさの欠片もなく、日がな一日外を駆け回っているような娘だ。アイシェもさぞかし扱いに困ったことだろう。もっともそんなそぶりなど毛ほども窺わせはしなかったが。

 あの屋敷に身を寄せていた間、居づらいとか煙たがられていると感じたことは一度もない。

 彼女には一種独特の才能があって、気づかせたいことや改めるべきところがあったとき、いちいち言葉に出さなくとも、相手の注意を自然と引いて、いつのまにかそう仕向けてしまうところがあった。

 彼女の前に出ると、腹の底まで見透かされているような、妙に落ち着かない気にさせられる。当然、隠し事などできるはずもなく、サリムにとってはさぞかし恐ろしい母親だったに違いない。

 その頃アイシェは三十の半ば。ほっそりとした黒髪の、飲みこまれそうなほど深い琥珀色の瞳が印象的な人だった。

 ラフィールの人格形成に大きく関わった人物を三人挙げるとすれば、一人はセレーネ、次にシエラ、そして忘れてはならないもう一人がこのアイシェという存在であろう。

 かつてアイシェが先代のハレムに仕えていたことは、ナージャの口から聞いていた。直接お会いしたわけじゃありませんけど、と前置きした上で、

「なんでも口数の少ない目立たない方だったらしいですよ。それが舞の一つも舞わせたら、他の舞い手がかすんで見えたっていうんだから人は見かけによりませんね。もっとも肝心の出世のほうはさっぱりで、寝所へはついぞお呼びがかからなかったって話ですけど」

と褒めてるんだかけなしてるんだかわからないようなことを言った。

 ハレムに入った娘たちはまず女官たちの部屋に配属され、宮廷にふさわしい行儀作法をみっちりと教え込まれる。その後、各自の能力に応じ、裁縫、料理、舞踊などの技能を身につけていくわけだが、やがてその中から首尾よくスルタンの目にとまり、寵を競う者たちと、そうでなかった者たちとにふるい分けられていく。

 後者は前者の奉仕者として、侍女となって仕えたり、会計や衣装係として働く。おそらくアイシェも、そういった裏方としての生き方に道を見出した娘たちの一人だったのだろう。隙のない上品な物腰、家事一切を取りしきる女主人としての貫禄は、ハレムでの経験を抜きにしては語れないものだった。

 大宰相の住まいは、高官たちの邸宅が立ち並ぶ一角にあって、その暮らしぶりは意外なほど質素だ。代々受け継いできた家屋敷は、敷地面積こそ広いものの建て替えられることもなく、使われなくなった部屋はそのまま放置されている。全体的に手が行き届いてない感じで、そんなどこかに置き忘れられたような雰囲気がハレムのそれとよく似ていた。

 ハレムといえば、ここにきてラフィールが一番驚いたのがそこだ。

 この屋敷にはハレムがない。

 もちろん実際にはアイシェが暮らしているわけだから、この言い方は矛盾する。言うなれば、ここのハレムは空っぽなのだ。モハティヴにアイシェ以外の妻はいない。仕えるべき女人がいないわけだから、当然宦官も存在しない。屋敷には、先代の頃から仕えていたという老夫婦と、奥向きの女が一人いるだけだ。

 彼らは敷地の外れに部屋をもらい、料理、洗濯といった家事一般から、家畜の世話や庭そうじ、塀の修繕といったあらゆる雑務を担っていた。このことは後宮でたくさんの女官たちに囲まれて育ったラフィールにとって、ほとんど信じられないことだった。

「このうちにはジンがいるの?」

 ラフィールの突拍子もない問いかけに、アイシェは片方眉を上げた。

「どうしてそうお思いになるの?」

「だって3人だけなんて、そんなのぜんぜんたりないわ。母さまにはおせわ係が4人もいたし、宴のときはその倍もおてつだいにきたんだよ? それともほかにだれかいるの?」

「うちは三人家族だし、自分のことはなるべく自分でするようにしているから、そんなに人手はいらないの。広いといっても使っているのは屋敷のほんの一部だし」

 モハティブ家が宮廷の要職を歴任し、権勢を誇ったのは昔のこと。能力主義のトルコでは、本人の才覚とスルタンの引立て次第でいかようにも出世できる。昨今では特にその風潮が強く、大宰相職はもっぱらスルタン子飼いの側近たちによって占められていた。

 アルファイドの代になり、見事大宰相職に返り咲いた後も、その暮らしぶりは変わることがない。莫大な俸給のほとんどはワクフとよばれる公共事業へと寄進されている。

 そんな主人のもとに嫁いできたアイシェもまた贅沢とは無縁の人で、サリムを身ごもり、名実ともに女主人と認められた後も謙虚さを忘れなかった。

 そういう意味では年の差こそあれ、彼らは似合いの一対だった。彼女はこの思慮深く、敬虔な夫を深く尊敬していたし、そんな妻にモハティブは全幅の信頼を置いていた。

 それはともかくアイシェの答えは、とうていラフィールの納得のいくものではなかった。

「でも重いものをはこぶときとか、おしろに使いをやるときなんかはどうするの? アリひとりじゃどうにもならないんじゃないの?」

 アリというのは古くからいる老夫婦の片割れだ。妻のスラは樽のように丸々としているのに、夫の方は棒切れみたいに痩せていて、薪といっしょに自分の足まで割らないのが不思議なくらいだ。

「そうね、いるかもしれませんね」

 アイシェはくすりと目を細め、思わせぶりにこう続けた。

「でもジンはめったなことでもないかぎり、人前に姿を現さないものですから」

「魔法のランプをもってるのね! そうでしょ?」

 目を輝かせるラフィールに、アイシェは指を一本唇にあてた。

「探してごらんなさいませ」 


 その日から、ラフィールの生活に新たな要素が加わった。

 ここには怖い宦官も鍵のかかった扉もないから、その気になればどこへでも行けた。もちろん男性居住区(セラームルク)には決して近づかなかったが、それ以外の場所――中庭、貯蔵庫、厩など――には自由に出入りすることができた。

 不思議なのは、木に登って降りられなくなったり、足をくじいて立ち往生していたりすると、決まって誰かが現れて、連れて帰ってくれることだ。そんな時はやっぱりどこかにジンがいて、見張っているに違いないと思われた。

 ラフィールにとってモハティヴ邸での生活は、最初に想像していたよりもはるかに楽しいものだった。毎日あんまり楽しくて、ここに来た理由も忘れてしまうほどだ。

 ただひとつ気がかりがあるとすれば、それはアサドのことである。

 朝起きてから夜眠るまで何をするにもべったりで、ラフィールから片時も離れようとしないのだ。

 思えばハレムにいた頃は、四六時中女官が世話を焼いていた。それが今ではふたりきり。不安でたまらないのだろうとラフィールは思った。

 元々、子どもの面倒は侍女のセルマの仕事だった。このセルマというのがとにかく無口で、笑ったり大声を出したりしているのを見たことがない。アイシェがそばに置くだけあって、気はきくし、仕事の手際もいいのだが、お世辞にも人好きのする性格とはいえなかった。

 ラフィールでさえそうなのだから、アサドはさらにひどかった。

 セルマが来るとさっと隠れて、いなくなるまで出てこない。セルマの取り分けた皿には決して手をつけなかったし、着替えの時は断固として触らせるのを拒絶した。アサドには人見知りというか、許容範囲の著しく狭いところがあって、そういう時は何を言っても全く聞く耳を持たなかった。

 このことは当然のことながらアイシェの知るところとなった。

「そうですか。セルマはあれで目端のきく女なのですが・・・。アサド様のお気に障るようでしたら仕方ありませんね」

 アイシェは小さく息をつき、どうしたものかと考え込んだ。

 表向きハレムで療養中となっている姉弟が、ひそかに街で匿われていることは、限られた者しか知らない事実だ。無用な危険を招かぬためにも、新たに人を入れるのはできれば避けたいところだった。

「とりあえず、セルマの代わりが見つかるまでは私がお世話いたしましょう」

「えっ!?」

 ラフィールは驚いてアイシェの顔を二度見した。

 一家の女主人であるアイシェの仕事は多い。食事の支度はもちろん、それ以外の家事の采配、病人の看護、さらに刺しゅうや機織りといった内職までもこなすのだ。この上子どもの世話なんて、いくらなんでも働きすぎだ。六つの子どもにだってわかる。

「ご心配なく、セルマなら家のこともわかってますし、時間でしたらなんとでも――・・・」

「わたしがやる!」

 勢い込んでラフィールが大きな声を張り上げた。

「アサドのめんどうくらい、わたしがみる! 着がえさせたり食べさせたり、いっしょにあそんだりすればいいんでしょ? なんだ、かんたんじゃない」

 アイシェはしばらく考えて、とりあえず様子を見ようということになった。

 とはいえ、食事や入浴はこれまで通りアイシェが手伝いに来てくれるし、実質ラフィールのやることといったら、寝起きの悪いアサドを起こして朝ごはんを食べさせることくらいだ。問題はそのあと、夕飯までの長い時間をどうすごすかだが、これが思った以上に難問だった。

 ハレムにいた頃、アサドは一日の大半を部屋の中ですごしていた。例外は侍女と庭に出る時くらいで、それもちょっと日を浴びたと思ったらすぐに部屋に引っ込むような、散歩とも呼べないものだ。

 女たちはどんな時も決してアサドを一人にしなかったし、ちょっと姿が見えないだけでいちいち過敏に反応した。昔は過保護に思えたが、セレーネの身に起きたことを考えると決してやり過ぎではなかったとわかる。

 皇太后の激しい気性はラフィールも身をもって知っていた。あの容赦のない平手打ちは、今も思い出すたび心臓がすくみ上るような心地がする。

 だが、男児というだけで常に命の危険にさらされていたアサドとラフィールでは、その立場はまるで違う。

 皇女には、王位継承に絡む何等の権利も持ちえない。その点、もともと奴隷でありながら、息子が即位してのち皇帝(スルタン)の母として絶大な権力を掌握した皇太后とは対照的だ。

 ラフィールのことを一番気にかけていたナージャでさえ、ラフィールが一人で出歩く危険性について本気で考えたことはなかった。ハレムにおけるラフィールの存在はそれだけ軽かったのである。

 だからラフィールは、今のこの引きこもりのような生活がとうてい我慢できなかった。それでも自分が言い出した手前、最初のうちは努力してアサドに合わせようとした。

「いつもはなにしてあそんでるの?」

「いろいろだよ。絵本よんだりゲームしたり。シュトランジってしってる?」

 シュトランジとはボードゲームの一種で、チェスによく似た遊びである。指し手は赤と白の陣営に分かれ、王、将、象、馬、塔、兵の六種類16個の駒を駆使して勝敗を競う。もしやと思い探してみると、駒とボードが一揃い、荷物の中にちゃんとあった。

 アサドは他にも、ナルド(バックギャモン)やタブラ(双六)、マンカラ(西洋碁)などたくさんゲームを知っていたが、どれもみなアサドの方が上手かった。百戦錬磨の侍女たちに毎日のように鍛えられていたのだから、当然といえば当然である。ルールも満足に覚えられないラフィールとは、はなから勝負にならなかった。

 絵本についても同様である。ラフィールがつっかえつっかえ読むそばから、「それは“鳥(クシュ)”だよ」「こっちは“海(バハル)”」と口出しするから、一体どちらが読み聞かせているのかわからないという有様だった。めかくし鬼やかくれんぼも二人じゃちっとも面白くない。

「ねえ、きょうはべつのことして遊ばない?」

「べつのことって?」

「たんけんよ! この下がどうなってるか知りたくない?」

 実をいうと以前から2階のことは気になっていたのだ。

 ラフィールたちの部屋は3階、屋敷の最上階にあたる。3階が母親や正妻たちの住まいとするなら、2階はその他の女たち――第二第三の妻たちや、妻という枠にも入らない女奴隷たちのための部屋だ。上の階に比べ、部屋が小さく廊下も狭く、昼間だというのに夕方のように薄暗い。立ち入る者もいないのか、床板には薄く埃が降り積もっていた。

 ここがハレムとして実際に使われていたのは今から何十年も前のこと。モハティブの祖父の代の話だ。

 かつて数多の女子どもであふれ返っていたここも、今ではすっかり静まり返り、はがれかけた漆喰だけが時の経過を伝えている。ただ気配だけはかすかにあって、耳をすませば女たちの潮騒のようなざわめきが聞こえる気がした。

「ねえさま、ねえさま、どこいくの?」

 怯えた子犬のような目に、ラフィールははたとその場に立ち止まった。

 昔、ナージャから聞いたことがある。古い屋敷には精霊(ジン)がいて、物を隠したり子どもをからかったり、いろんな悪さをするそうだ。

 “――ジンはね、気に入った子を見つけると、そうっと部屋に忍び込んで、子どもをさらっていくんですよ。その時ジンの体から落ちた砂を吸い込むと、どんなに大事なことも消し炭みたいに頭から吹き飛んじまうんだそうです。

 あとから大人たちがからっぽのゆりかごを見て、どうしてこんなところにと首をかしげてもわかるわけはありません。ついさっきまで確かに子どもがいたはずなのに、だれも覚えていないんです。敷布にはまだほんのりとぬくもりが残っているはずのに。”

 ラフィールはこの話をアサドに聞かせるかどうか迷って、結局話さないことに決めた。アサドが怖がると思ったからだ。

「もしかしたらおもしろいものが見つかるかも」

「おもしろいものって?」

「うーんと、古いおもちゃとか?」

 アサドが馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「とりあえず、はしからのぞいてみましょうよ」

 ラフィールがぎゅっとつないだ手を握ると、アサドはしぶしぶ頷いた。

 床板は色が変わって反り返り、歩くたびミシミシと音をたてる。ラフィールは壁に手をつくと、なるべく体重をかけないようにそろりそろりと歩き出した。

「いたっ!」

 熱いものでも触ったみたいに、アサドがびくんと跳び上がった。

 ラフィールがあわててその手を開かせると、ミルク色した指先に木のトゲがほんのぽっちり食い込んでいた。

「なーんだ、へいきよこれくらい」

 ラフィールはぱくりと指をくわえると、たちまちトゲを吸い出した。

「ほら、とれた。だれかさがしにくる前に、いそいで見てまわらなきゃ」

 尻込みしているアサドを置いて、ラフィールはさっさと部屋に踏み込んだ。

 窓に板でも打ちつけてあるのか、中はさらに薄暗い。手探りでそろそろ奥へ進んでいくと、顔の上に何かがぺたりと張りついた。

「ひゃっ!」

「なに!? ねえさま、どうしたの!?」

 どさどさと物が崩れる音がして、ぶわりと埃が舞い上がった。銅製の盆やひっくり返った鍋の山に、ざっとラフィールの血が下がる。

「どうしたの? いまのなに?」

 ややあって、そう離れていないところから、おぼつかない声が返ってきた。

「・・・ねえさま、どこ? まっくらでなにもみえない・・・」

「ここよ! ああもう、なんで入ってきたの?」

 ラフィールはアサドの腕を引っつかみ、引きずるように外に出た。明るいところで見てみると、膝をちょっぴりすりむいただけで大したことはないようだ。ほっとしたら、とたんに怒りがわいてきた。

「まっててって言ったでしょ!」

 怖い顔してアサドをにらむと、一瞬目を見開いた後、ぷっと小さくふき出した。

「ねえさま、かおになにかついてる」

 無言で蜘蛛の巣をむしり取りながら、ラフィールは二度とアサドと探検ごっこはするまいと誓った。


 一週間もたつ頃には、ラフィールは自分の見通しの甘さに気がつかざるを得なかった。

 子守というのは思ったより大変だ。四六時中アサドがべったり側にいて、息をつくひまもない。無愛想だと決めつけてセルマに悪いことをしたと、ラフィールは深く反省した。

 べつにアサドが特別手がかかるというわけではない。むしろどちらかというと、手がかからない方だろう。放っておけば何時間でも静かに本を読んでいる。そのくせラフィールがちょっとでも離れようとすると、とたんにかんしゃくを起こすのだ。部屋の中ではやることもなく、ラフィールはすっかり時間を持て余していた。

 ハレムにいたときは退屈だと思う間もなかった。ひまさえあれば外に出て、探検したりスケッチしたり一日中駆け回っていた。

 ここに来てから絵は一枚も描いてない。描きたいとも思わないのが自分でも不思議だった。

 ズタズタになったあの絵と同様、画材はほとんどだめになった。唯一無事だった画帳だけはハレムを出るとき持ってきたが、他の荷物とごちゃまぜでまだ荷ほどきもしていない。

 寝椅子(セディル)に寝そべってうとうとしていると、時々ハレムの夢を見る。

 象やガゼルの闊歩する庭だったり、女楽士(サゼンデ)たちのひしめく宴の間だったり、出てくる場所はいろいろだが、中でも断トツ多いのがあの秘密の階段だ。

 現実の階段は跡形もなく破壊されたが、夢では変わらずそこにあって、小さな自分は背伸びして届かない空をつかもうとしている。

 ナージャの夢も時々見る。身代わりの二人の子どもがそばにいて、おしゃべりしたり笑ったりずいぶん仲が良さそうだ。なんだか胸がもやもやして、その日は一日気分が悪かった。

 こんな状態が毎日続いたら、遠からずラフィールはおかしくなっていただろう。幸運だったのはアサドに昼寝の習慣があったことだ。昼を回るとうとうとして、寝たら三時間は目を覚まさない。その時だけはラフィールが自由になれる時間で、こっそり外に遊びに出たり二階を探検したりした。

 昼寝の時間が近づくと、寝椅子(セディル)の上でくっつきあって、アサドに子守唄を歌う。これはハレムにいた頃からずっと続いている習慣だ。

 その日も歌を口ずさみながら、庭で見かけたミソサザイのことを考えていると、不意にアサドが不機嫌そうにこっちに向かって寝返りを打った。

「いまのなに?」 

「いまのって?」

「知らないことばでうたってた」

 こういうの、とぎこちなくアサドがハミングしてみせる。

 それはシエラに教わった短い曲の一節で、アサドに指摘されるまで習ったことさえ忘れていたような曲だった。

 呆然としていると、アサドはますます機嫌を損ねて、その日は結局遊びに行けなかった。あいかわらず、何がアサドの逆鱗なのかさっぱりわからない。

 ばくがねてるとき、ねえさまはなにしてるの?

 ラフィールが部屋を抜け出すたび、アサドは心底不思議そうにそう尋ねた。

 アサドにとって外の世界はいつ怪我をするかわからない危険な場所で、いくらラフィールが説明しても考えは変わらなかった。

 ハレムの庭には及ばないが、ここは広くて入り組んでいて、ハレムにはない雑多なものであふれている。

 ラフィールの好みからいえば、見目良く整えられた中庭より、どこが道かもわからない裏庭の方が面白い。庭の外れには土壁と石とでできた小屋があり、老いた使用人夫婦が暮らしていた。

 やせて棒切れみたいなのがアリ、つめものいっぱいの七面鳥みたいなのが妻のスラだ。アリは寡黙な老人で、最初は取っ付きにくかったが、だんだん親しくなるにつれ、木っ端でおもちゃを作ったり、自分が世話している馬を見せてくれたりするようになった。馬を見るときのアリの目が、びっくりするほどやさしいのをラフィールは知っている。

 一方スラは打って変わって陽気で気のいい女だった。晴れた日はたいてい日陰に腰かけてイモの皮などむいている。はち切れそうな巨大な尻を無理やり押し込むものだから、丸椅子(スツール)はいつも瀕死の状態だ。

 家の裏手には猫の額ほどの畑があり、そこで採れた旬の野菜はしばしば一家の食卓を飾った。さらに奥には鶏小屋もあって、おかげで鶏肉と卵には不自由しなかった。

 スラとは最初に会った時からなんとなく前から知っているような気がしていた。なんでだろうと不思議だったが、気づけば何のことはない。どことなくナージャと感じが似てるのだ。

 目が合うとくしゃっと顔をほころばせ、焼きたてのパンみたいに笑う。スラから見ればラフィールは痩せすぎということになるらしく、揚げドーナツだの蒸しパンだのこしらえては食べさせようとするのだった。少し焦げ目のあるそれはハレムのものとはまるで違うが、もう一つ自然と手が出るような素朴でやさしい味がした。

 それはある日の午後のこと。珍しくスラが表にいないので、裏に回って土間を覗くと、鍋をぐつぐつ火にかけてかき混ぜているところだった。

「それヤフニー? 味見していい?」

 ヤフニーは羊肉と野菜のシチューで、硬くなったパンを肉汁にひたして食べるとうまい。うきうきと鍋を覗いたラフィールは、とたんにうえっと顔をしかめた。

「へんなにおいー!」

「そりゃ馬の毛に玉ねぎの皮だからなあ。うまいもんじゃねえだよ」

 おかしそうに呵々と笑って、スラはえいさと木べらを返した。ちらっと見えたスープの中身はゆでたパスタのようだった。

「素麺(シャリエ)?」

「いんや、ただの糸束だがね。さてはじょっさま、おなかがすいていなさるだね?」

「いとたば?」

 ラフィールはこてんと首を傾けて、黄土色に濁ったスープに目をやった。

「火にかけて、しばらくコトコト煮つめれば、きれいな黄色に染まるだよ」

 そこでようやくラフィールは、これが料理じゃないと理解した。改めて鍋の周りを見渡せば、様々な野草や何かの粉末が小分けに盛って置いてある。乾燥した木の根のような物体を指で摘んで見ていると、

「そりゃあ茜(アカネ)の根っこだで」

とスラが横から教えてくれた。

「これに明礬(ミョウバン)とヤギの糞を混ぜて煮たら、スグリの実みてえな赤色になるだ」

「染めた糸はどうするの?」

「もちろん織るだよ」

 そう言ってスラが手振りで示した先には、見たことのない太い木枠が土間の壁に立てかけてあった。織機である。

 糸を紡ぐことから始まって、染色し、織機で布を織ることは、古来より女たちの重要な仕事の一つだった。女主人であるアイシェも例外ではない。そういえばあの母ですらハレムにいたときは刺しゅうをしたり針仕事をしたり、何かと手を動かしていた。

 ラフィールは物珍しげに織機を見た後、再び吸い寄せられるように植物や泥土の山に目をやった。

「これぜんぶ、赤とか青とかきいろになるの?」

「大青(タイセイ)にモクセイソウを合わせれば緑色になるし、茜は媒染次第で橙(だいだい)にもザクロみてえな紫色にもなるだ」

 魔法みたい。

 ラフィールは小皿の山を見渡して、ほうっと熱いため息をついた。

 染色の材料が残り少なくなると、スラは大きな深鍋を持って裏の畑に取りに行く。面白いことに材料のほとんどは屋敷の周りや裏庭で調達できてしまうのだ。一度いっしょに行って以来、ラフィールはすっかり病みつきになった。

 採集は宝探しによく似ている。土を掘ったり振るったり、摘み頃の若葉の新芽を見分けたり。何より泥だらけになっても怒られないというのがいい。

 染色は基本的に力仕事だ。材料の採集だけでなく、洗ったり干したり、人手はいくらあってもありすぎるということはない。

「今年はじょっさまがいなさるから楽でええだよ」

 にっこり笑って労われて、ラフィールがはりきらないはずがない。毎日あんまり楽しくて、帰るのが遅くなるのもしばしばだった。

 面白くないのはアサドである。昼寝から覚めて独りぼっちだったら誰だって不安になる。それが毎日のように続くとなれば、癇癪を爆発させても仕方ないだろう。アサドの火がついたような泣き声に、セルマがあわてて駆けつけたことも一度や二度じゃない。

「本当に一人でお世話できますか?」

 普段は小言ひとつ口にしたことのないアイシェが、この時ばかりは真顔で問うた。

「ごめんなさい! 次からはぜったいはやくかえるから!」

 ラフィールだってわざとじゃない。早く帰らなきゃと頭ではわかっているのだが、それを行動に移すのがいつもほんの少し遅いだけだ。

 その日も飛ぶように時間は過ぎて、結局部屋に着いたのは、空がうっすらすみれ色を帯びてからだった。静まりかえった部屋の様子に、一瞬入りかけた足が止まる。

 ――どうしたんだろう、泣いてない。もしかしてまだ寝てる?

 そうっと中を窺うと、カフェスから斜めに差し込む陽(ひ)の中にアサドがぽつんと座っていた。どうやら床に鳥かご(ケージ)を下ろして中を眺めているらしい。

「・・・・・・なにしてるの?」

 おそるおそるたずねると、アサドが振り向きもせず言った。

「おきたらねえさまいなかったから、この子であそぼうとおもって」

 この子、と言われて視線を向けると何かを胸に抱いている。卵でも温めているみたいだと思ったが、そうじゃないのはすぐわかった。卵はキイキイわめいたり、羽毛を飛ばしたりしない。

 アサドは手の中の感触を楽しむように、しばらく揉んだり握ったりしていたが、ふと思いついたように顔を上げ、

「でもねえさまがかえってきたからねえさまとあそぶ」

と花がほころぶように笑った。

「おかえりなさい、ねえさま」

 止める間もなく抱きついてきて、キュウっと短い悲鳴が上がる。固まるラフィールとは裏腹に、アサドはひょいとケージを開けると、無造作に毛玉を放り込んだ。それまで隠れていたもう一羽もとたんにバタバタ暴れだし、檻や止まり木にぶつかって二倍の羽毛が散乱する。

 ラフィールは冷たいものが背中を流れるのを感じた。

「つぎはもっとはやくかえってきてね」

 ラフィールが何か言う前に、アサドはにこりと微笑むと甘えるようにすり寄った。

 アサドが体調を崩したのはそれからまもなくのことだ。

 せきやくしゃみ、発熱を伴う症状は一見風邪に似ていたが、咳の仕方ですぐわかった。喘息だ。

 ただちに医師が呼ばれたが、幸い症状は軽く、このまま大きな発作がなければ一週間ほどで良くなるだろうとのことだった。

 その際医師はラフィールに、カナリアは外で飼うよう注意した。

 アサドのような症例は動物の毛や糞が誘因である可能性が高く、原因と思われるものを一つ一つ排除していくことが大事なのだと彼は言った。

 アイシェとも相談の末、カナリアはアリの家に引き取られることに決まった。アリの家なら近くだし、カナリアもその方が落ち着くだろう。あれ以来、カナリアはすっかり怯えて縮こまり、ちょっとした物音にも過敏に反応するようになった。バタバタと狂ったように暴れる姿に、いつか羽でも折るんじゃないかとラフィールは気が気じゃなかった。

 今回のことはラフィールにある一つの教訓を与えた。

 ――アサドのことはなるべく怒らせないようにしよう。

 弟の意外な一面に、ラフィールはひそかにそう心に誓った。

 アサドの体調が落ち着いたころ、またひとつ日常に新たな変化が訪れた。アサドに家庭教師がつくことが決まったのだ。

 通常、皇子は5才から教師に付いて学問を学ぶ。教師はスルタンによって選任され、宦官長の監督のもと、ハレム内の学問所とよばれる部屋で帝王学を授けられる。

 年が明ければアサドも五つ。本当なら、もっと早くにそんな話が出ていてもおかしくない。

 スルタンとしては、問題が片付き、宮殿に呼び戻してから改めてというつもりだったのだろうが、あいにく事態は思うように運ばなかった。

 今回の決定は、彼らの滞在が長引くのを見越してのものといえた。

 アサドの教師に選ばれたのは、五十代半ばの穏やかそうな人物だった。

 彼は長らくメドレセの教授を務めた人物で、一線を退いた後も法解釈の専門家として外廷に呼ばれたり、高官の子弟に教育を施すこともあった。研究者にありがちな偏狭なところがなく、根気強く生徒に接する姿勢がスルタンのお眼鏡にかなったのであろうとモハティヴは推測した。

 教師は二人を同じ部屋でいっしょに授業を受けさせた。これにはアイシェの意によるところが大きい。アサドは警戒心が強く、他人にはなかなか心を開かない。いわばラフィールはアサド専用の安心毛布というわけだ。

 授業は朝の十時から夕方五時まで行われた。なにぶん幼い子どものこと。長時間一つのことに集中するのは難しいと思われたが、それは全くの杞憂に終わった。あのアサドが授業が始まるのが楽しみで、自分から早起きするようになったのだ。

 時々どうしても目が開かなくてラフィールに寝台から引きずり出されることもあるが、あの寝起きの悪さを考えるとほとんど奇跡といっていい。

 帝王学といっても一番初めに教わることはどこも大して変りない。まずはアラビア語の読み書き、それからコーランの素読と暗誦。あとは簡単な算術くらいだ。

 2人とも白紙状態からのスタートだったが、結果は全く違っていた。アサドが習い始めて数週間でアラビア語をマスター、早くもコーランの暗誦に取りかかっていたのに対し、ラフィールの方はまだ28個のアラビア文字に四苦八苦していた。

 八週間後、モハティヴに教師はこんな報告をした。

「アサド様の進歩には目を見張るものがございます。一を聞いて十を知るとはまさにあの方のためにあるような言葉で、その才能を伸ばすためにも、私などより優れた法学者ウレマーの導きが必要かと存じます」

 それから一、二度咳払いして、「さりながら」と教師は続けた。

「さりながら、姫さまに置かれましては今一つ身が入らないご様子で。頭の回転は速いのですが、どうも一つ所にじっとしていられないご気性のようです。姫さまのような方は無理やりものをつめこんでもかえってためになりません。あのような方はいったんその気になりさえすれば、砂が水を吸い込むようにお伸びになるものです」

 おかげで授業の時間は減ったが、アサドといっしょというスタイルは変わらなかった。

「せっかく姉さまがそばにいるのに、どうしてべつべつに勉強しなきゃならないの? いっしょじゃないなら、もうしない!」

 そういうわけで今も二人はいっしょに授業を受けている。

 勉強は時間にすればわずかだが、ラフィールには気が遠くなるほど長く感じられた。けれどラフィールは決して自分からやめたいとは言わなかった。勉強することがアサドにとって大事なことだと知っていたからだ。事実授業が始まってから一度もかんしゃくを起こしていない。

 ある日アイシェは泉水でラフィールと出くわした。虫の居どころでも悪いのか、むっつりと石板を睨みつけている。

「こんなところでどうなさったの?」

「宿題。あしたまでにおぼえてきなさいって、せんせいが」

 ラフィールはうんざりした顔でそう言うと、石板をぱたんと裏返した。

「何回よんでもぜんぜんだめ。ちっとも頭にはいらない。わたし頭がわるいんだわ」

 アイシェは首を横に振り、石板を静かに手に取った。

「アラビア語はね、神様が預言者に呼びかけた特別な言葉なの。だから私たちは美しい文字を書くことに特別力を入れますし、あらゆる芸術家の中で書家を最も褒め称えるんですよ」

 アイシェは息を整えると、石板に書かれた章句スーラを朗々と暗誦した。

「アッラーは天と地の光り

 この光をものの譬えで説こうな、まず御堂の壁龕に置かれた燈明か

 燈明は玻璃に包まれ、玻璃はきらめく星とまごうばかり」

 (『コーラン 上』井筒 俊彦訳 岩波文庫 )

 どう、美しい言葉でしょう?

 そう微笑みかけたアイシェの言葉を、だがラフィールは聞いてはいなかった。

「いまのもういっかい! もういっかいやって!」

 コーランは、授業やハレムの礼拝で聞き飽きるほど聞いたけど、今のはそのどれとも違う。

 アイシェの声はぴんと張られたつるいとのようで、その完璧に抑制のきいた発声は、食べたり祈ったりしている時と同じ緊張感があった。

 アイシェが祈っているのを見たのは数えるほどだが、その姿は一度見たら忘れられない。

 イスラム教でいう祈りは、信仰告白という言葉の表すとおり全身で己の真情を訴え、ほとんど狂おしいまでの身体表現をともなう。直立して一礼、それから腰をかがめて膝まづき、額を床につけては身を起こす。首の振り方、目の動き、それはまるで厳格な舞踊の型の一つのようだ。

 食事の動作が静だとすれば、祈りのそれはまさしく動で、正反対ともいえるのにどちらも同じくらい美しかった。

 ラフィールには難しいことはわからない。だが、アイシェが舞い手としてだけでなく、詩を諳んじることにかけても名手だということは確かだ。

「わたしもアイシェみたいに読んでみたい」

「ではまず字を覚えなければ」

 その日から、アイシェとラフィールは二人して、アイシェの言うところの“おさらい”をするようになった。

 ラフィールにとってそれはなかなか大変なことだった。文字を覚えるというのは、今まで使ったことのない筋肉を無理矢理動かすのにも似て、最初はすごくつらかった。

 やってみて初めてわかったのだが、暗誦は書いてあるものを読み上げるよりずっと難しい。

 ラフィールは最初、歌うことと暗誦はよく似ていると思っていた。むしろメロディがついてない分、楽だとさえ思っていた。

 それが間違いだと気づいたのは、コーランを開いて最初の一節を読み上げた時だ。

 歌は感情をそのまま音にすればいい。シエラから教わった歌はほとんど外国語で、意味などわからなかったからなおさらだ。

 ところが暗誦は、まず言葉ありきである。美しく正確な言葉を話すには感情に振り回されてはならない。かといって正しいだけの空っぽな言葉に意味はない。暗唱には感情を制御する強い意志が必要で、それは文字を覚えるのと同じくらい難題だった。もうやめたいと思ったのも一度や二度じゃない。アイシェが側にいなければとっくに投げ出していただろう。

 ラフィールが読んだり書いたりしている間、アイシェはこれといって何もしない。ただラフィールが読み上げるのを聞いて時々頷いたり、まちがいを訂正したりするだけだ。けれどアイシェがすごく多忙で、この時間をひねり出すのにかなりの無理をしているのをラフィールは知っている。それを今になって、つらいからやめるとはとても言い出せなかった。

 今では授業中、ラフィールが暗唱を始めると、教師もアサドも手を止めて、その声に聞き入っていることをラフィールは知らない。

「せっかくいい喉をしているのだから、何か楽器を習ってみては?」

 ラフィールはするともしないとも言わず、あいまいに口を濁した。サズやウードの寝ぼけたような音がどうしても好きになれなかったからだ。ラフィールにとって楽器とはシエラの奏でるそれであり、いざ習うとなるとそれ以外の楽器は考えられなかった。けれどリュートなら習ってもいいかというと、それはまた別の話だ。あの音色は好きだけど自分で弾きたいわけではないのだ。

 結局アイシェはそれ以上強く勧めることはせず、楽器の件は沙汰止みになった。







 朝は苦手だ。気の置けない仲間たちと、飲み比べと称して夜っぴき馬鹿騒ぎをした朝は特に。

 業を煮やした居酒屋(メイハネ)の親父に蹴り出されるまで飲み続けて、家路についたのはかれこれ三、四時間も前だろうか。

 父がいなくてよかった。最近の父は一体何にかかずらっているのか、連日宮殿に通いつめ、ろくに顔も見ていない。もしこれが父の耳にでも入ったら、あの堅物の父のことだ。延々と、いかに飲酒が神の意に反するか、一席ぶったにちがいない。

 自分が世間でいうところのどら息子だという自覚はある。もしも母の取り成しがなければ、とっくの昔に追い出されるか、家出していたことだろう。

 どんなに遅く帰っても、学院(メドレセ)に時間通り出かける限り、アイシェは何も言わなかった。同様に、地獄のような二日酔いでも、同情は一切期待できなかった。幸い今日はまだましな方だ。

 サリムはあくびをかみ殺し、厩舎のきしんだ戸を開けた。

 とたん、こもった獣の臭いがむわっと鼻孔を膨らませる。

 二日酔いにはいささかきついが、三つの時、初めて馬に跨って以来、毎日のように嗅いできた臭いだ。今さら気分が悪くなるほどやわな体はしていない。

「よう、相棒。元気だったか?」

 いななく馬の背を叩き、サリムは横木を上げて中に入った。

 厩には、毛色の違うアラブ種が全部で4頭飼われている。専属の馬丁はいないが、忠実なアリが甲斐甲斐しく世話を焼いているおかげで、コンディションは完璧だ。

 そのままいつものように馬具を着けようとして、ふと目を落としたサリムは、危うく飛び上がりそうになった。

「おどかすなよ! そんなところにいたら蹴り飛ばされるぞ!」

 気恥ずかしいのも手伝ってついつい声を荒げると、少女はぷいとそっぽを向いた。かわいくない。

 大分前からいたのだろう。馬がちょいちょい身じろぐ間も、怖がる素振りのないのを見て、サリムはふと疑問に思った。

「なんでこんな所にいるんだ? 勉強は?」

「アサドが熱をだして、やすみ」

 ふうんとサリムは納得して、馬にくつわをはめ込んだ。

 手綱をつけ、鞍をのせる。それを下からラフィールが目をまん丸くして眺めている。あんまり熱心なものだから、なんだか背中がむずむずして、サリムはたまらず口を切った。

「・・・なんだよ?」

「なんでそんなもの付けるの?」

「ああ、ハミか。これは手綱をつけるのに必要なんだ。馬の口ってのは敏感だからな。引っぱったりゆるめたりして乗り手の意思を伝えるんだ」

 説明しながら頭の隅で、こいつとまともに口をきいたのはあの日以来だなと考えていた。

 ――陛下より星を賜った。

 計画を父から最初に聞いたとき、たしかそんな風に言っていた。

 ――とはいえ星は天に在るもの。此度のことは、まあ、嵐がやむまでの仮の宿りといったところかの。

 冗談じゃないとサリムは思った。ハレムを牛耳っているのが誰なのか子どもだって知っている。この世でただ一人スルタンの頭の上がらない相手。そんな相手を敵に回すなど、いくらスルタンの命令とはいえ、仮にも政治家とよばれる人間のやることじゃない。

 だが。

 父ならやるだろうなとサリムは思った。

 だからこそスルタンは大宰相に立てたのだ。

 スルタンの“絶対的代理人”。しばしば大宰相を指して言われるその言葉を、サリムは苦々しく噛みしめた。

「出かけるの?」

「メドレセへな。そんな楽しくてたまらないってところでもないぞ」

 腹帯にゆるみはないか確かめながら、サリムは無意識に眉を寄せた。

 将来、宰相や教授あるいは裁判官として身を立てたいと望むなら、避けて通れないのが高等教育への道だ。初等教育を終え、メドレセへ晴れて入学が許されると、それぞれ支持する教授ムダッリスの下、平均八年勉学に励むことになる。授業は文法学を中心に法学、コーラン学といったイスラム諸学、それから哲学、歴史、論理学と多岐にわたり、一日八科目、週五日、メドレセへ通って講義を受けた。

 サリムは今年で二年目になるが、卒業まで辛抱できるか自信がなかった。

 天文学や哲学が一体何の役に立つ? そんなことより一刻も早く政治の場に出て、父の下で学びたかった。

「でも外に出られるじゃない」

 すねたような口ぶりに、サリムは目の前にいるのが何者なのか今さらながら思い出した。

 ――こいつは今まで一度も外に出たことがないんだ。

 母親はかつて身を置いた場所のことを詳しく語ろうとはしないが、幸福とはほど遠いものであったことは確かだ。

「帰りに土産でも買ってきてやるよ」

 軽い気持ちでそう言うと、ラフィールは一瞬きょとんと目を見張り、それからたちまち破顔して、うん、と大きく頷いた。


 動物は好きだ。

 以前はオウムを飼っていたし、ハレムの庭では猿やガゼルが放し飼いにされていた。

 だからというわけではないが、ここに来るととても落ち着く。馬房の隅、踏み荒らされてないわらの山に腰を下ろし、ラフィールはのんびりと草を食む馬を眺めた。

 ほんのちょっと一休みのつもりが、ついうとうとと眠りこんでらしい。気配にはっと目覚めると、驚いたサリムの顔と目が合った。

 サリムの印象は控えめにいって最悪だった。

 アサドを泣かせた。怒鳴りつけた。怒るなという方が無理だ。

 向こうもそれは分かっているらしく、ぎょっと体を強張らせた後、うろうろと辺りに視線をさまよわせた。

「なんでこんな所にいるんだ? 勉強は?」

「アサドが熱をだして、やすみ」

 近くで見てまず思ったのは、“アイシェに似てるな”だった。

 アーモンド型の目。大ざっぱなようで繊細な目鼻。それなりに厚みはあるのに縦に長く、厳つい様子に見えないのは、母親であるアイシェに似たのだろう。もっともポーカーフェイスは別らしい。話している間中そわそわして、早く切り上げたがっているのが見え見えだった。なのに出かける間際になって、土産がどうのと言い出すものだから、思わず笑ってしまった。

 ラフィールの中でどん底だったサリムの株がほんの少し浮上した。

 一人になったラフィールはしばらく馬を眺めていたが、だんだん胸がうずうずしてきて、たまらずぴょこんと跳ね起きた。

「アイシェ、アイシェ!」

 息せき切って飛び込んできたラフィールに、アイシェが片方眉を上げた。

「そんなに急いでどうなさったの? それに何だか変な匂いが・・・」

「まぐさの匂いよ、うまやにいたから。そんなことより、ねえねえ、わたし馬にのりたい! いいでしょ?」

 これにはアイシェもさすがに意表を突かれたようで、次の言葉を発するまでにほんの少し間が空いた。

「さあ、それは・・・私の一存では何とも。今、厩舎にちょうどいい馬もございませんし。モハティヴに相談してみなくては」

 そう言ってアイシェは明言を避けたので、とりあえず馬のことは保留となった。

 それから一週間が過ぎ二週間が過ぎ、半分あきらめかけていた頃、アイシェから回答があった。許可が下りたのだ。

 初心者であるラフィールのために、専用の馬が新たに用意され、乗り方はアリが教えてくれるという。敷地内なら自由に乗り回してよいが、門から外に出ないよう最初に約束させられた。

 モハティヴが選んだのは6才になる栗毛の牝馬ひんばで、聞きわけのいい落ち着いた性格をしていた。

 ラフィールがびくびくあぶみに足をかけても馬鹿にせず、乗るのをじっと待っている。ラフィールは初めてこの馬を見たときから彼女のことが大好きになった。

「この子の名前はラフム(慈愛)にする。やさしい目をしてるから」

 さてこの件は当然のことながらアサドのお気に召さなかった。

 いっしょの時間がへると文句を言うアサドに、ラフィールはつっけんどんにこう言った。

「だったらアサドも見にくれば?」

 アサドが馬を怖がっているのを知っていて、わざと言ったのだ。

 ことあるごとに束縛してくるアサドにほんの意趣返しのつもりだったのだが、こぼれそうな大きな目がみるみる潤むのを見て、ラフィールは自分の方がぴしゃりとやられた気になった。

 そうこうしているうちに、季節は夏から秋へゆっくりとその色を変えつつあった。

 それと時を同じくして、モハティヴ邸に明るいニュースが舞い込んだ。セレーネの体調に回復の兆しが見え始めたのだ。

 あいかわらず食が細く、皮ふの下まで透けて見えそうな顔色をしていたが、徐々に起きていられる時間も増え、特に調子のいい日にはいっしょの食卓を囲むことすらあった。

 久しぶりに見る母の動いている姿に、ラフィールは自分でも意外なほど喜んでいる自分を発見した。

 いつもは母親のことなどほとんど意識してなくて、もしかしたら自分はすごく冷たい人間なんじゃないかと思っていた。でもこうしてアサドがうれしそうに母に懐いているのを見ると、胸のあたりがぎゅっとなって息がつまるような幸福感を覚えた。

 ハレムを出て以来、初めて訪れた母子の穏やかな日常だった。この時ばかりはラフィールも外出を控え、母と弟と三人のささやかな家族だんらんに浸った。

 こうしてセレーネの体が快方に向かって数週間。待ちに待った知らせが彼らの下に届いた。スルタンからお忍びで大宰相宅を訪問する旨を伝えてきたのだ。もちろん、このことはモハティヴも承知の上で、事前に幾度も話し合い、慎重に日を選び抜いてのことだった。

 スルタンが臣下の家を訪ねるのは別段珍しいことではない。その際、自宅のハレムでスルタンをもてなし、自らの所有する最上の女を差し出すことも。

 スルタン一行を迎えた当日、大宰相宅ではささやかな宴が催された。ささやかといっても楽士をそろえ、踊り子を集めた本格的なものだ。アイシェの采配の下、モハティヴ邸はかつてない華やかな賑わいに包まれた。

 スルタンの来訪という思いがけない出来事に、サリムはほとんど夢見心地で、「おまえ、本当に皇女さまだったんだな」とラフィールにしみじみ言って笑われた。

 その夜は何もかも素晴らしかった。

「私のシャハルール」

 父と会うのは半年ぶりで少し緊張していたのだが、羽のように抱き上げられるとそんなのいっぺんにどうでもよくなった。

 アサドも最初はもじもじと恥ずかしそうにしていたが、膝の上に抱っこされ、大きな手で巻き毛をくしゃくしゃにかき回されると、きゃっきゃと声を上げて笑い出した。

 だがその夜スルタンの心を占めていたのは別のことだった。

 アイシェに付き添われ、母が遅れて現れると、その瞬間から父の目にはセレーネしか映っていなかった。

 この日のためにアイシェが用意した純白の衣装に身を包んだ母は、たまさか地上に降り立った月の精のようだった。

 ほっそりとした肢体にぴったり合った白絹は、金糸で睡蓮ニュルフュルの縫い取りがされている。その上にゆったりと羽織った玉虫色のローブは、粒のそろった真珠が惜しげもなく散りばめられ、月の光を浴び全身銀色に輝いて見えた。

 いつもは背中に垂らされている金色の髪は三つ編みにして結い上げられ、ルビーやトパーズ、アメジストなど小粒の宝石が編み込まれている。そして耳朶にはあのダイヤが、今夜はうっすら青みを帯び、白銀色に輝いていた。

「我が妻よ」

 スルタンは熱情に燃える目をひたと目前の妻に向け、万感の思いを込めて呼びかけた。

 かつてシュヴァルの持ち物であった彼女に、セレーネという名を贈ったのはアルファイドその人だ。

 シュヴァル亡き後、一新されたハレムでの第一夜。嘆きの宮殿から引っさらうようにして手に入れた想いびとに、アルファイドは熱く胸の内を語った。

「そなたにチチェック(花)などという凡庸な名は似合わぬ。そなたを初めて見たときから、ずっとそなたを別の名で呼んでいた。そして今、ようやくその名を口にできる。――セレーネ。月の女神の名だ。」

 その時彼女は齢十九。

 腕の中でかぼそく震えるその姿は、初めて見(まみ)えた時と同様いとけなく、触れるのをためらうような儚さがあった。

 そして今。半年ぶりに見るその姿は肉も落ち、長く病床にあった体には倦怠が澱のようにこびりついている。美しかった肉体に病が残した爪痕は隠すべくもないが、それ故にこそ愛おしさが奔流のように男の胸にこみ上げた。

 ――母さま、きれい。

 長椅子(ディヴァン)の脚に寄りかかって、ラフィールはうっとりと母の姿に見入った。

 ああ、それに、母さまの膝を枕にして眠るアサドの美しさときたら! 神さまが恵みのつばさをさしかけたように美しいとは、アサドのような子のことをいうんだわ。

 かたわらには頼もしい父の姿がそこにあって、それはまるであの日の宴を再現したかのようだった。

 あのときと違うのは、ナージャがそばにいないこと。どんなに行儀が悪くても、ナージャの小言が飛んでくることはないのだと思うと、ラフィールは胸に穴が開いたような気がした。

 その夜、スルタンは久しぶりに母を寝所に伴った。

 そこから先はラフィールのあずかり知らぬところだが、残念ながら再会の美酒は最後まで二人を酔わせてはくれなかった。

 セレーネはいくら良くなってきたとはいえ、壮年の男の欲望を一身に受けて耐えられるほど回復してはいなかった。たった一度情を交わしただけで息も絶え絶えに倒れ伏し、声を殺して泣く女をどうこうするほとアルファイドは非情な男ではなかった。

 こうしてアルファイドは、長い夜を、ただ妻のやせた体を撫でたり抱きしめたりするだけで我慢しなければならなかった。半年ぶりに触れる体はふくらみがほとんどなく、骨の凹凸ばかりが目立ち、知らない女のようだった。

 翌日、寝台を検めたアイシェは全てを察したが、できることは何もなかった。

 それから何度か逢瀬を重ね、それが結果的にセレーネの命を縮める行為と知ってはいても、やはりアイシェは見守ることしかできなかった。女が男をつなぎとめようと思ったら、その身を捧げること以上に効果的な方法はない。ましてや口のきけないセレーネに残された手段はそう多くなかった。

 やがて駆け足で秋が去り、ボスフォラスからの冷たい風が冬の到来を告げる頃、一度は良くなったと思われたセレーネの病状が再び悪化した。

 心配したスルタンから度々見舞いが届いたが、訪問はしばらく見合わせることとなった。

 そんな折、見舞いの品々に紛れ、意外な人物から贈りものが届いた。

 表向きはガラタの大使館からということになっていたが、送り主は明白だ。

 トルコと交易を持つ国はどこも独自の情報網を持っている。中でもヴェネツィアという国は、情報の価値に重きを置いており、腕利きの間者を何人も送りこみ、どこよりも正確に都の情勢を把握していた。

 知らせを受けた大宰相は苦笑するのみで、ざっと中身を検めさせた後、褒美を与えて遣いを返した。

 荷物はちょうど長椅子の半分くらいの大きさで、中にはシエラが三人に宛てた贈り物が入っていた。

 セレーネには黒檀と象牙でできた化粧箱、アサドには驚くほど精巧な船の模型、そしてラフィールには厳重に梱包された小さな木箱が渡された。

 箱の中にはいくつものガラス容器が入っていて、割れたり動いたりしないよう板で仕切りがしてあった。

 ラフィールは最初ガラスに入った色とりどりの粉末が何かわからなかった。

 当時絵の具は貴重品で、おいそれと子どもに与えるようなものではなかった。チューブ式の絵の具はまだなく、原料から直接顔料を調合した時代である。

「あの方は姫さまのことをよほど気にかけておいでなのですね。私の思い違いでなければ、この青い粉末は、純正のラピスラズリの粉末です。非常に高価な顔料で、同じ重さの黄金と取引されているのだとか」

 アイシェが指した容器には、海の底からすくい取った砂金のような青い粒が、燐光のようにきらめいていた。

 だがどうしたことか、三人の中でおそらく一番値のはる贈りものを前にしても、ラフィールは少しもうれしいと思わなかった。

「もうおしまいになるの?」

「・・・またこんどにする」

 容器をそっと箱に戻し、ラフィールはぱたんと上からふたをした。スラのところに持って行ったのは、スラならきっと面白がるだろうと思ったからだ。

「ヤグルマギクみたいな青がほしいって言ってたでしょ? これつかえる?」

「そうさなあ。だけんども、わっしがこれを使わせてもらうわけにはいかねえだよ。これをくれなすった人は、じょっさまに使ってほしくて送ってきなさったんだろう?」

「だけどへやにはおきたくないの。アサドのきげんがわるくなるから」

 そういうわけで箱は今、スラの家の染料棚に置いてある。

 玉ねぎやいろんな香辛料の沁みついたそこは、宝箱の隠し場所としては案外ふさわしいのかもしれなかった。







 季節も三月に入った。朝夕はまだ肌寒さを感じるものの、馬の熱気で厩舎の中は汗ばむほどに暖かい。

「――それでカシムの奴、洗濯女を買収して、付け文を届けさせたはいいんだが、女の亭主に見つかって・・・って聞いてるか?」

「え?」

 ラフィールは夢から覚めたような顔をして、サリムの顔を見返した。

「なんだ、ぼーっとして。具合でも悪いのか?」

「ううん、ちょっと考えごとしてて」

「考えごと?」

 二、三秒ほど間があって、少女はぽつりとつぶやいた。

「・・・父さまはどうしてあいにこないんだろう」

 すぐむかえにくるっていったのに。

 うなだれた小さなつむじを見ていると、近頃とみに耳する街の噂が頭をよぎった。

 後宮では新しい女奴隷が寵を得て、スルタンが夜ごと褥に侍らせているとか。なんでも女は燃え立つような見事な赤毛で、美女の産地として名高いコーカサスの出だという。

 この美女を献上したのがメフメト・パシャ。宮廷奴隷出身で、スルタンの太刀持ちシラフタールだった男である。弱冠二十歳の若造だが、取り立てられて今では五名いる宰相の一人に収まっている。才気ある若者の例にもれず野心家で、目下のところモハティヴの最大の政敵といえた。

 スルタンの心移りに関しては、特に思うところはない。いずれそうなるだろうと思っていた未来が、ほんの少し早かっただけのことだ。スルタンは齢四十の男盛り、匂いたつような美姫に囲まれ、孤閨を守り続けるのは土台無理というものだ。子を儲けるのは王族の務めでもある。

 とはいえ、それをラフィールにそのまま言うのははばかられた。

「忙しいんだろう」

 サリムはそっと目をそらし、ぶっきらぼうにこう言った。

「アナトリアじゃまたぞろ狂信者キジルバシどもが騒ぎ出したって話だ」

 アナトリアは帝国発祥の地であり、オスマン固有の民族性を色濃く残した土地柄だ。住民は未だ半遊牧生活を続ける者が多く、組織化し、制度化していく今のトルコにひどい違和感を感じていた。

 それをさらに助長したのが隣国のサファヴィー朝の存在である。

 この新しくイランに生まれた王朝は、元は辺境の一神秘主義教団にすぎなかった。それがわずか10年ほどでイラン全土を制圧したのは、周辺の遊牧騎馬部族を信者に取り込んだことが大きい。彼らを味方にすることで、教団は平原一の騎兵団を手中に収めたことになる。

 サファヴィー朝の何がここまで遊牧民の心を惹きつけたのか。

 彼らの掲げるイスラムは、本来の教えにシャーマニズムや雑多な宗教の入り混じったもので、プリミティブな力強さと大らかさに満ちていた。それは今の体系化されたイスラムにはない魅力だった。

 オスマン領のアナトリアにも同じように感じている遊牧民はたくさんいた。彼らの中にはサファヴィー朝に同調し、叛旗を翻す者まで現れる始末だった。

 これに激怒したのがシュヴァルである。

 反乱を直ちに鎮圧、首謀者たちを処刑すると、彼らに同調する者を徹底的に炙り出し、国内は粛清の嵐が吹き荒れた。この蛮行ともいえる処置は、結果的にアナトリアが空中分解するのを防ぎ、反乱が飛び火するのを食い止めた。

「馬鹿どもめ」

 シュヴァルは一言吐き捨てた。

「儂の領地に手を出してタダですむとは思うなよ。――地獄で後悔させてやる」

 その言葉を実現すべく、シュヴァルは大軍を率いてイランへ向かった。

 戦いは熾烈を極めた。

 戦力の差は圧倒的だった。オスマン軍はイェニチェリに常備騎兵軍団、当時最強と言われた砲兵隊で布陣を固め、逆にサファヴィー軍は鉄砲も大砲もほとんど無いに等しかった。それが半年も持ちこたえたのは、ひとえにキジルバシとよばれる騎馬軍団の活躍あってのものだ。彼らはどんな絶望的な状況にあっても頑として負けを認めず、死に物狂いで戦った。

 勇猛無比なイェニチェリもこれには全く手を焼いた。

 彼らの異常なほどの強さの秘密。そこにはサファヴィー朝の若き指導者、シャー・イシュマイルの存在があった。

 シャー・イシュマイル。希代のカリスマ。

 のちにシャー・ハン・シャー、王の中の王と称えられる彼が、教団の教主(シェイフ)の座に就いたのはわずか七才。父、祖父、兄の三人を立て続けに暗殺されてのことだ。

 彼らに刺客を差し向けたのは、教団の急成長を恐れた地方領主の仕業である。当時イランを支配していた白羊朝はすでに衰退期に入り、王族による内輪もめや領地をめぐる小競り合いで、崩壊はもはや時間の問題と思われた。

 その間、少年は潜伏生活を続けながら、各地を回って支持者を増やし、着実に教団の地盤を築いていった。

 数千人のキジルバシを従え、少年が決起の声を上げたのは、彼が14の時である。

 その若さ、はち切れんばかりの機知、才気。彼を見た誰もが彼に魅入られる。教義でなく体で誑し込んでいるという噂が後を絶たなかった。

 黒髪は夜のごとく、輝く額は太陽のごとく、そのしなやかな立ち姿はさながらバーンの木のごとく。放浪時代のイシュマイルと直接まみえた詩人の言葉だ。

 彼は自ら馬を駆り、先陣を切って剣を振るう一方、胸を打つような詩と言葉で遊牧民たちを魅了した。

 彼は戦士であり教主であり王であると同時に、優れた詩人でもあったのだ。

 彼の信奉者たちは熱狂的に彼を支持し、時にそれは狂信的な域に達するほどであった。

 とはいえ、圧倒的な戦力差はどうしようもなく、戦いは結局シュヴァルに軍配が上がった。

 捕虜はすべて処刑、首都タブリーズを占領し、イェニチェリたちは嬉々として略奪の権利を行使した。イシュマイル自身も負傷し、一時は死亡説まで流れた。

 結局捕まったのは影武者で、シャー自身は無事逃げのびたとわかったが、怒り狂ったイェニチェリによってたかって嬲り殺しにされた。

 敗走するシャーを追撃し、とどめの一手をかけようとしたシュヴァルに待ったをかけたのはあろうことかイェニチェリであった。

 サファヴィー軍は形勢不利と知るや焦土作戦でもってこれに抵抗した。そのため思うように物資が手に入らず、食糧の確保すらままならない有様だった。加えて過酷な気候、荒れ果てた大地、長引く戦況にイェニチェリたちの間には徐々に厭戦気分が広がった。さらに、この絶望的な状況にあってなお、くじけることなく立ち向かってくるキジルバシの猛攻に、ついにイェニチェリたちの忍耐が限界を迎えた。

 このアナトリアの大地にも、じき厳しい冬がやってくる。この地に留まり、春を待って再攻撃をかけようとするシュヴァルに、イェニチェリたちはスルタンの天幕を槍で切り裂くという行為で拒絶を伝えた。

 シュヴァルはやむなく作戦継続を断念、サファヴィー朝攻略まであと一歩というところで引き返すことを余儀なくされた。傲岸不遜なシュヴァルとて、イェニチェリたちを敵に回すほど愚かではなかった。

 イェニチェリは本来スルタンに絶対の忠誠を誓う。戦闘においてはスルタンを囲む壁となり、敵の前に身を投げ出すこともいとわない。その数およそ一万と二千。彼らは鉄の規律で統率されたスルタン直属の精兵部隊で、その権威はいかなる常備軍よりも高い。

 だが一方で、イェニチェリは餌が足りなければ飼い主に噛みつく獰猛な猟犬でもあった。

 彼らはしばしば過大な要求を突きつけ、叶えられない時はより直接的な手段で不満を訴えた。イェニチェリの影響力はスルタンさえ無視できないもので、そういう時折れるのは大抵シュヴァルの方だった。

 こう書くと両者の関係はいかにも険悪に聞こえるが、実際のところ彼らはかなりうまくやっていた方だ。歴代のスルタンと比べても随一といっていい。

 イェニチェリは、その生涯に十三回もの遠征を成し遂げたシュヴァルを敬愛していたし、シュヴァルの方も飼い犬の多少の粗相には目をつぶった。思うに彼らの攻撃性、血を求める残虐な性質がぴたりとマッチしたのだろう。

 一方で、アルファイドとの相性はあまり良いとは言えなかった。

 彼らはアルファイドの平和主義的やり方が軟弱以外の何物にも見えず、侮蔑の色を隠さなかった。彼の代になって、むやみに戦いを仕掛けることがなくなり、略奪の機会が減ったことも不満に拍車をかけていた。

 だからまあ、今回のことはちょうどよかった。平和な時期が続くのは結構だが、血に飢えた獣をあんまり長く放置するのは治安上好ましくない。

 この戦いはイェニチェリたちのいい鬱憤晴らしになるだろう。戦利品という点では物足りないかもしれないが、キジルバシの残党に影ながら支援しているくらいだ。まだまだ隠し財産の一つもため込んでいるのかもしれない。

「ハレムってとこはいろんな規則があるんだろ?」

 突然関係ないことを話し始めたサリムに、ラフィールがきょとんと顔を上げた。

「父上がよく言ってた。ハレムじゃすべてに規則があって、スルタンほど規則に通じておられる方はいないってな。そんな方が自ら規則を曲げてまでお前たちを守ろうとされたんだ。大事に思ってないはずがない」

「・・・・・・もしかしてなぐさめてる?」

 サリムはとたんに苦虫を噛み潰したような顔になると、乱暴に鞍をつかんで出て行った。

 一人残されたラフィールは狐につままれたような顔をして、しばらくその場にたたずんでいた。


 それから数日たった、とある昼下がりのこと。

 その日は午後に一課目、伝承学ハディスの講義があるのみで、終わったら街へくり出そうと浮かれ気分で歩いていた。

「どこへ行くの?」

 頭上からさえずるような声がして、サリムは上を向いたまま固まった。

 シカモアの木の枝に、ラフィールが何食わぬ顔で座っていた。

 そんなところ何を、という驚きもさることながら、サリムを仰天させたのはその身なりだった。

「なっ・・・! それ、おまえ、なんて格好してんだ・・・!」

 動転して、言葉もろくに出てこないサリムをよそに、ラフィールはあっけらかんとしたものだった。

「ああ、これいいでしょ。冬ようの肌着をさがしていて見つけたの。あのとき着たきりだったから、てっきりすてられたんだとおもってた。気にいってたんだ、これ。髪もじゃまにならないし」

 そう言ってラフィールは得意そうにターバンでまとめた頭を振った。

 あの時というのはこの邸に初めてやって来た日のことだ。万が一誰かに見られた時のことを想定して、ラフィールはズボンをはいていた。

 サリムは眉間にしわを寄せ、怒っているような困っているようななんとも微妙な顔をした。目の前には出会った時と寸分たがわぬその姿。長い髪をターバンで隠し、シャツにズボン、袖のふくらんだドルマンジャケットを着た彼女は、そのへんにいるごく普通の少年に見えた。

「いつまでそこにいるつもりだ?」

 まぶしげに樹上を見上げたサリムはふと、ラフィールが片腕をかばうような不自然な体勢でいることに気づいた。

「手に何を持ってる?」

 あ、と少女は短く叫んで、忘れてた、と舌を出した。

 それからすっくと立ち上がり、右手だけで器用にバランスをとると、さらに上の枝を伸ばしてよじ登り始めた。

「ちょっ、こら、おい!」

 木の下であわてるサリムを気にもとめず、ラフィールはつかんだ枝から身を反らし、きょろきょろ辺りを見回した。

「このあたりだと思うんだけど・・・。――あった!」

 ラフィールはぱっと顔を輝かせ、両手で何かをくるむようにして葉むらにそっとさし入れた。

「カケスのひながおちてたの。そのままにしといたら死んじゃうとおもって」

 木からするりと降り立つと、ラフィールは何でもないことのようにそう言った。

「出かけるの?」

「ああ」

 サリムはすっかり毒気を抜かれて思わず素直にうなずいた。

 ここは叱るべきなのか? なんで俺が? 馬鹿馬鹿しい。

 肩をすくめて歩き出す。ラフィールがついてくるのが気配でわかった。

「弟は?」

「ひるね中。いったん寝つくとあの子、なにがあっても起きないの」

 ラフィールはそのままトコトコ後に続いて、厩の中までついてきた。くつわを付け、鞍を置いてもまだそこにいる。サリムは手綱を取り、厩から出たところで初めて後ろを振り返った。

「おい」

「わたしも行きたい。つれてって」

「無理に決まってんだろ!」

 予想を超える要求にサリムはぎょっと後ずさった。

「ねえ、おねがい。ちょっとでいいの。馬にのってそのへんをちょっとぶらぶら見るだけだから。わたしもう、速歩トロットだってできるのよ」

「敷地内だけって約束だろ!?」

「だからちょっとだけだってば」

「母上の許しは取ったのか?」

 ラフィールはばつが悪そうに黙りこんだ。痛いところを突かれたらしい。

「絶対ダメだ。無断でお前を連れ出して、もし何かあったら俺が母上に殺される」

「だって塀のなかはもうあきあきなんだもの!」

 真っ向から睨(ね)めつけられて、サリムは心臓を針で突かれたような痛みを感じた。

 水中で揺らめく炎のような瞳。感情が昂ぶり、色味を増した虹彩はほのかに淡い血の色だ。

 会った最初が悪かったのか、あの目で見つめられるとどうも落ち着かなくなる。

 サリムはそれでも意地になってしばらく視線を無視していたが、じき耐えきれなくなって顔を背けた。

「勝手にしろ!」

 うん!とラフィールは返事をすると、急いで厩に取って返し自分の馬を引いてきた。

 どうせ外には出られやしない。門はアリが見張ってる。

 案の定、門の前にはアリがいて、目が合うとぴくりと眉を跳ね上げた。

 どうしよう、どう言って聞かせるか・・・。言葉を探して泳いだ視線が、ふと吸い寄せられるように茂みで止まった。

 気のせいか、何か動いた。見間違い? かもしれないが、でも――・・・。

 サリムは一瞬だけ迷って、それから決めた。

 サリムが小さくうなずくと、アリの目に一瞬面白そうな色が浮かび、すぐ消えた。

 そのまま呼び止められることなく門が開き、ラフィールは目を丸くした。

「魔法みたい」

 ラフィールがはしゃいだ声を上げた。

「いつもはアリががんばって絶対とおしてくれないのに。ひらけゴマ! こんなにかんたんに開くなんて」

「アリだって意地悪して開けなかったわけじゃないぞ。おまえの安全を守るために――」

「わかってる。だからサリムといっしょなんじゃない」

 言外に自分が側にいるから大丈夫と言われた気がして、サリムはごほんと咳払いした。

「ねえねえ、それより街はどっち? メドレセってここから遠いの?」

「あー、そうだなー・・・」

 こうしてラフィールは安全な隠れ家から、初めて本当の外の世界へ最初の一歩を踏み出した。







 初めてイスタンブルに来た者をまず最初に連れていくとしたらどこか?

 名所名跡は数あれど、サリムなら迷わずこう答える。――バザールだ。

 その街がどれだけ栄えているのかは市場を見ればすぐわかる。当時イスタンブルは、ヨーロッパとアジア、アフリカを結ぶ中継地として、世界中のあらゆるものが流れ込んでいた。

 そういうわけで二人は目抜き通りを西に下り、トルコ語で「屋根つき市場」、通称グランド・バザールとよばれる大市場の前に立っていた。

 ・・・というか立ち往生していた。それも入口のはるか手前で。

 青空の下、ずらりと並んだテントの屋台。その合間に見え隠れするアーチ形の門がおそらく入口なのだろうが、テントの前はどこも黒山の人だかりで、とてもそこまで行きつけそうにない。

 石畳を埋めつくす夥しいほどの人、人、人。一度にこんなたくさんの人を見たのは初めてだ。それに男。こんなにいっぱい!世界にはなんてたくさんの男がいるんだろう。しわしわのやらボロボロのやら、帽子も衣装もてんでばらばら。

 圧倒されているラフィールをサリムはふんと鼻で笑った。

「この程度で驚いてちゃ先へ進めないぞ。まだ中に入ってもいないんだからな」

 そういうサリムも芋の子をこねたような人混みにうんざりした色を隠せない。

「仕方ない、ここからは歩きだ。俺は馬を預けてくるから、いいか絶対動くんじゃないぞ」

 後に残されたラフィールは、だがほとんど聞いてはいなかった。

「らっしゃいらっしゃい! いちじく、ナツメ、干しアンズ! 見るだけならタダ、見るだけならタダだよ!」

「サンダルはいかが、疲れ知らずの丈夫なサンダル! 沓にスリッパ、なんでもあるよ!」

「栄養たっぶり、丸ごと巣入りのはちみつだよ! 甘くて上質、掛け値なしのおいしさだよ!」

 屋外にはためくまっ白なテント。覗けばどこも色彩の宝庫だ。

 形も大きさも様々の食材、中にはどんな味がするのか見当もつかないものもある。それが積み木のように並べられているのはいくら見ても見飽きない眺めだった。

 瑠璃色に染まった葡萄、夜そのもののような黒李、太陽のミニチュアのようなオレンジ。さんさんと降り注ぐ陽光を浴び、ひとつひとつが生きた宝石のように輝いている。

 店と店との間には、買い物客の胃袋を狙って、ごま付きパンシミット売りやケバブの屋台が声を枯らし、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。矢継ぎ早の口上は訛りがきつくて聞き取れないが、意味はなんとなくわかる。ユーモア混じりの客の応酬、どっとわき起こる笑い声、値切ったり値切られたり、時には罵声も飛び交いながら、そこには一種独特の熱気のようなものが渦巻いていた。油断しているとこちらまで熱気にあてられそうになる。

「どけ、坊主。この積み荷が見えないのか」

 突然、目の前にラクダの顔が大写しになり、ラフィールはあわてて脇に飛びのいた。

 ――そういえばサリムはどうしたんだろう?

 馬を預けにいってから大分たつ。ここにいるのが見えないのかとラフィールはきょろきょろ辺りを見回した。

 その音に気づいたのはちょうどその時だ。

 町の喧騒には似つかわしくない物悲しいメロディ。

 哀愁を帯びた旋律に、たぐり寄せられるようにしてラフィールは老いた楽師の前に立った。

 突然現れた聴衆に目もくれず、老人はただ切々と胸をかきむしるような音を弾き続けた。

 後になって、お椀をひっくり返したようなその楽器をラバーブというのだとラフィールは知った。

「こんなところにいたのか」

 突然腕をつかまれてラフィールは飛び上がった。サリムが怒った顔で立っている。

「動くなって言っただろ」

 だってと口を開く前に、おなかがぐぐぅと音を立てた。

「なんだ、腹が減ったのか」

 サリムは勝手に納得すると、「ココレチふたつ!」と声を上げた。

 ちゃっかり自分の分も注文するあたり、食べたかっただけかもしれない。金を払い、ほら、とサリムが差し出したのは、ほっこりしたパンに赤っぽいひき肉らしきものをはさんだサンドイッチ。受けとったとたん、ぷん、と強烈なスパイスが鼻をついて、ラフィールはごくりとつばを飲みこんだ。

「いいから食え。うまいから」

 むしゃりとかぶりつくサリムに、おそるおそる一口かじって目を見張る。

「おいしい!」

 だろ? とサリムと物売りが同時に大きくうなずいた。

 実はこれ、羊の腸を鉄棒に巻きぐるぐる炙って焼いたもの。赤く見えたのは臭味を消すため大量にまぶした赤唐辛子で、ミントの葉だのオレガノだの、大量のハーブをきかせたものだった。

「これおいしい。からいけど。なんていうの?」

「ココレチだ。さして珍しいもんじゃない。それよりさっさと中に入るぞ。この分じゃ何も見ないうちに日が暮れる」

 珍しいものならもう見た。ラフィールは頭の隅で思ったが、黙ってソースを指で拭った。


 グランド・バザールはその名の通り巨大な市場だ。

 広大な敷地にベデスタンと呼ばれる建物と数多の小店舗、多くの隊商宿ハンが集まって、それぞれ無数の小路でつながっている。小路は網の目のようにバザール中に張りめぐらされ、まるで迷路のようだった。

 ――なんだかハレムに似てる。

 ラフィールは、うずたかく積まれた商品に目をやりながら、奇妙な既視感に浸った。

 アーチ型の天井から降りそそぐぼんやりとした薄明かり。こもったような空気の匂いや、石畳の冷ややかさまでよく似てる。

 だが似ているのはそこまでで、うるさいほどの喧騒や行き交う人の体臭、それに何よりこうして歩いているだけでひしひしと湧き起こってくる高揚感は、あそこには決してなかったものだった。

 庇の下に積み上げられた金糸銀糸の絹織物。素晴らしい手触りの絨毯はアンカラ地方のモヘア織、七色に輝くガラス器はヘブロン産の一級品だ。

 だがあいにくなことに、見る者を魅了してやまないバザールの魔法は、ラフィールにだけは聞かなかった。

 ハレムで最高級の逸品に囲まれて育ったラフィールには、そこにあるものはどれも目新しいものではなかった。むしろ母の持っていたものの方が数倍よかった。

 ラフィールはうすぼんやりしたランプの明かりで見る宝石より、青空の下、いっぱいの陽光を浴びて輝く李の方がずっと美しく見えた。

 たった一つの例外は小さな陶磁の置物だ。

 青花の壺や大皿に混じって、ちんまりとうずくまった亀やラクダは、いつまで見ても飽きることがなかった。中でも特に気に入ったのが馬を象った小さな矢立だ。すべらかな陶器の体一面に蔓草模様が描かれていて、オリーブ色のつぶらな瞳はどこか愛馬を思わせた。

 どこからきたの? 小馬さん。

 ラフィールは色のついたたてがみにそっと指をすべらせた。

「赤絵だな。たしかケイトクチンとかいう。明って国の焼き物だ」

「ミン? それどこ? ここから遠いの?」

「足がラクダだからな。三、四ヶ月、下手したら半年ってとこだろう」

 ラフィールはぽかんと口を開けた。

「たかが皿一枚のために、運ぶ方も運ばせる方もとんだ物好きだよな」

「それはお求めになる方の好みの問題でございますよ」

 どこから話を聞いていたのか、この店の主人と思しき老人がするりと会話に割り込んだ。

「この前は青花の水注に50ドゥカートの値をつけた方がおられましてね。さる高官のご子息でいらっしゃったのですが」

「少なくとも俺はそんな馬鹿な買い物はしないな」

 ふん、とサリムが鼻で笑うと、ならばと店主が別の例を引き合いに出す。次第に熱を帯びる二人のかけ合いをよそに、ラフィールは興味津々陳列棚を見て歩いた。

 見たこともない動物や、目の細い奇妙な衣装の子どもたち。異国情緒あふれる置物に夢中になっていると、ひょいと横から手が伸びて明の小馬を取り上げた。

「行くぞ」

 子馬はたちまち箱詰めされて、店を出る時渡された。

「やるよ。初めて外出した記念だ」

 見送りに出てきた店主もうなずいたので、ラフィールはぱあっと破顔した。

「ありがとう」

 店を出ると、周りの店舗は早くも店じまいを始めていた。

「えっ、もうおしまい?」

 あぜんとしているラフィールに、サリムはだから言ったろうと肩をすくめた。

「高価な商品を扱う店が多いからな。暗くなる前に店じまいするんだ。警備につまみ出される前にとっとと出るぞ」

 出口付近の混雑は想像を超えるすさまじさだった。押し合いへし合い、ようやく表通りに出るころには二人ともすっかり疲れ果てていた。

「すごい人だったね」

「世界中の物と人が集まる場所だからな。流行りものはたいていここから始まるんだ。珈琲店カフヴェとか」

「カフヴェ?」

 初めて耳にする言葉にラフィールがぴくりと反応した。

「ああ、珈琲カフヴェ。エジプト由来の飲み物だ。シリア生まれのアラブ人が最近店を開いたんだが、、今までにない変わったものを飲ませるっていうんで評判・・・・・・」

とそこまで言いかけて、サリムははたと口をつぐんだ。

「連れてかないぞ!」

 相手に何か言われる前にサリムはあわてて先制した。

「あそこはお前みたいなガキの来るようなところじゃない。っていうか女子どもはそもそも軽々しく出歩いたりしないもんなんだよ、普通はな。そうでなくとも戒律に反してるとかなんとか法学者に目の敵にされてるっていうのに、そんなところにお前を連れていけるわけないだろ。言うほど美味いもんじゃなし」

 最後のとってつけたようなセリフは完全に逆効果だった。

 サリムはラフィールの食い意地および好奇心を甘く見ていたらしい。 

 五分間の攻防の末、ラフィールは見事サリムを言い負かし、要求を貫くことに成功した。

 サリムにできることと言ったらせいぜい釘をさすことくらいだ。

「追い出されたくなかったらしっかり口を閉じとけよ。恥をかくのは俺なんだからな」


 店はそこからほど近い、古本屋街の一角にあった。通りに並んだ他の店舗と一見何ら変わりない。違うのは商品が所狭しと並んでいるかわりに、がらんとしたドーム状の空間が広がっていたことだ。

 一歩中に入ったとたん、ラフィールはホールに渦巻く濃厚な香りに一瞬くらりと気が遠くなった。

 焦げついたようなほろ苦い、けれで決して不快ではないその匂い。

 吊りランプのほの暗い明りに浮かび上がるそこは、店というより巨大な広間という感じだ。部屋にはテーブルも椅子もない。かわりに背もたれのないベンチが壁にぐるりと置かれていて、客たちはめいめい好きな場所で話に花を咲かせている。

 男たちばかり、三十人はいるだろうか。

 きわどい話題や悪趣味なジョークを唾を飛ばして論じ合う男たち。間近で彼らを見ていると、ラフィールは、なるほど男というのは騒々しい生き物なのだと納得した。

 店の奥には小さな炉があり、男がお湯を沸かしている。ふっとうした湯をひょうたん型の容器に注ぐと、そこから蒸気がもわもわと立ち昇り、立ちこめていた香りがいっそう濃厚さを増した。

 あれがカフヴェ?

 最初にされた注意を忘れ、うっかり話しかけようとしたその時、ホールで陽気な声が上がった。

「よう、サリム!」

「遅かったな。講義じゃ顔を見なかったが、どこで寄り道してたんだ?」

 満席状態の店の中でも彼らの位置はすぐわかった。

 壮年のひげをたくわえた男がほとんどを占める中、若者はほんの一握り。その中でひときわ目につく集団がサリムの友人たちだった。年は皆十代後半から二十代、パリッとした白いシャツにドルマンをそれぞれ粋に着こなしている。

「ちょうどよかった、今みんなで今夜のことを相談してたんだ」

 げっとサリムが蛙でも飲みこんだような顔をした。

「久しぶりにユースフの店でも行くか」

「それより川向こうのラーレの館なんてどうだ? 白桃)みたいなコーカサス娘ばかり、わんさと取り揃えてるって話だぜ」

「白いのもいいが、俺は身の引き締まった黒李が好みでね。この前目利きのアブドゥルが、仕込んだばかりのいいのがいるって――・・・」

「おまえら、いいかげんにしろ!」

 サリムがたまらず声を上げると、みんな驚いたように目を丸くした。

「・・・なんだ、今日はノリが悪いな。悪いものでも食ったか?」

 なんとなく白けた空気が漂う中、一人がおもむろに顎をしゃくった。

「ところでさっきから気になってたんだが、このチビは何だ?」

 とたんに全員の視線がラフィールに集中した。

「すごい色の目だな」

「いくつだお前。出身は?」

「新しい奴隷か? どこで手に入れたんだ?」

 矢継ぎ早に質問されて返事をする隙もない。

 知らない男たちに取り囲まれ、さぞかし怖い思いをしているだろうと思いきや、けっこう楽しそうだった。うろたえていたのはむしろサリムの方だ。

「いいから黙れ、そいつに構うんじゃない!」

 サリムの突然の激昂に、みんなぴたりと動きを止めた。

「なんだ? ずいぶん大事にしてるんだな。おまえの小姓か?」

 左手で下品なサインを示されて、ガッと頭に血が上った。

「馬鹿、そんなんじゃない! こいつは俺の――弟だ」

 ラフィールを含めた全員の目がまん丸に見開かれた。

「それは・・・・・・驚きだな。ガチガチの石みたいな方だと思ったら、親父殿、意外と人間らしいとこあるじゃないか。おい、給仕! このかわいい義弟君にカフヴェをいっぱい差し上げてくれ!」

 人格者の思わぬ一面を見せられて、彼らは一気に沸き返った。

「それで名前は?」

「名前?」

 ええと、と目を泳がせるサリムに、ラフィールはとっさに口を開いた。

「――シャハルール」

「つぐみ(シャハルール)?」

「父はそうよぶ」

 ラフィールはすました顔で言った。

 カフヴェが届くまでの間、ラフィールは興味津々サリムの仲間を見比べた。

 仕立ての良いカフタンに身を包んだいかにも良家の子弟といった者もいれば、エキゾチックな風貌の金瞳きんめの留学生もいる。かと思えば、だらしない身なりの、どう見てもメドレセとは無縁の者もいて、いったいどういう知り合いだろうとラフィールは首をかしげた。

「さあチビちゃん、お待ちかねのカフヴェだ!」

 いったい何が出てくるかと風船のようにふくらんだ期待は、茶碗の中身を見たとたんぺしゃんこになった。

「・・・・・・これ飲むの?」

 どろっとした熔岩みたいな黒い水。焦げた匂いと相まって、とても口に入れていいものとは思えない。ラフィールはおそるおそる口をつけ、

「にがーい!」と顔をしかめた。

 期待通りの反応に、どっと笑いがわき起こる。

「悪い悪い。これは砂糖抜きなんだ。初めてカフヴェを飲むやつにはこれをやるのが決まりでね。今度はこっちを飲んでみろよ」

 そう言うや、魔法のように現れた新しいカップをラフィールは目をぱちくりして受け取った。

「・・・あまい」

 思わずカップを二度見すると、

「地獄のごとく黒く、夜のごとく強く、愛のごとく甘い――それがカフヴェだ」

と青年がしたり顔でうなずいた。

 甘いといっても完全に苦みが消えたわけじゃない。ちびちび舐めるようにすすっていると、焦げた匂いに混じってかすかにフルーティーな香りがする。

「おい、そのへんにしとけ」

 サリムの忠告はほんの少し遅かった。

 突然の異物感に、ラフィールはゲホッと大きく咳き込んだ。

「大丈夫かい? ほら、水を飲んで」

 差し出されたカップをよく見もせずに受け取って、ごくごくのどに流し込む。

 ようやく人心地ついたところで改めてラフィールはお礼の言葉を口にした。

「咳は止まった?」

 思慮深そうな黒い目と、目と同じ色の縮れた黒髪。頭に巻いた布は見慣れない色で、さっき市場で見たターメリックによく似てる。サリムや他の仲間より二つ三つ年上だろうか。落ち着いた物腰といい、質素な黒のカフタンといい、この場にはいかにもそぐわない感じだった。

「カフヴェは上澄みだけ飲むんだ。底に澱がたまっているからね」

 だったら飲む前に教えてくれればいいのに。ラフィールが恨めしそうにサリムを見ると、きまり悪そうに目をそらした。

「じゃあ飲めるところってほんとにちょっとだけなんだ。すごくおいしいってわけでもないし、どうしてそんなに人気があるの?」

 ラフィールの素直な感想に、その医学生――イーライは困ったように苦笑した。

「カフヴェには嗜好品・・・味や香りを楽しむ以外にも、飲むと元気になる効用があってね」

「そうそう、元気になりすぎるっていうんで禁じられるくらい」

「へえ」

 ラフィールは素直に感心して、底にたまった滓を眺めた。

 横からサリムがラフィールにだけ聞こえる声で言った。

「だったら俺もおまえももう一杯くらい飲んどいた方がいいな。家に帰れば母上が手ぐすね引いて待ってるぞ」

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サーダバード ひとひら @pojipoli

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