サーダバード

ひとひら

第一章 ふたつの明星




 序




 至福の門が開いた。

 ここから先は内廷、スルタンと彼に選ばれた者のみが入ることを許された特別な場所だ。

 城門からここにいたるまでの広大な前庭――外廷が、宰相や大臣たちによる国政の場とするなら、内廷はスルタンのプライベートエリア。政務を離れたスルタンが日常生活を送る、神聖不可侵の場所だ。

 これより奥に立ち入ることができるのは、大宰相とごく少数の要人のみ。

 その中に、今日から自分も含まれるのだと思うと、サリムは全身が打ち震えるような悦びを感じた。

 ――アッラーに栄光あれ。

 ひざまずき、震える唇で門の敷居にくちづけながら、サリムは今、鳴り響くファンファーレの音が確かに聞こえたと思った。

 この国に生まれた男なら、誰もが皆、一度は夢見る栄光の瞬間。

 内廷に呼ばれたということは、スルタンの懐に招かれたも同じこと。絶対的な君主専制を敷くこの国で、スルタンの寵を得るということはすなわち、輝かしい将来が約束されたことを意味していた。

 ――最初、父上からの文を見た時は、まさかと思ったが・・・。

 少年の強張った頬に、うっすらと血が上る。

 宮殿から、父の書状が屋敷に届いたのは今朝方早く。

 書状には父らしい簡潔な文章で、スルタンの命である、急ぎ内廷に来るように、とだけしたためられていた。

 ――陛下に目通りがかなう。

 突然の事態に頭が真っ白になったサリムを現実に引き戻したのは、母アリエの一言だった。

「何をグズグズしているの、サリム」

 ヴェールごしとは思えないはっきりした声で、きびきびと母は言った。

「いいから、おまえは今すぐ浴場ハマムで身を清めていらっしゃい。着替えには新品の長袍カフタンを用意させるから、それを着るんですよ。爪の手入れも忘れずにね」

 父に嫁ぐ以前、オダリスクとして先代のスルタンに仕えていたこともある彼女は、宮廷内の礼式作法に関しては誰よりも詳しかった。奥向きの用件に関しては、父でさえ母の意見を求めるほどだ。

 思えばこの時、すでに彼女は、この突然すぎる呼び出しの裏に何があるか、薄々察していたのかもしれない。

「――もし、」

 自分を呼ぶかすかな声に、サリムはハッと我に返った。

「大宰相、モハティブ・ハッルーン・パシャ様が一子、サリム様でいらっしゃいますね?」

 振り返った先に立っていたのは、髭のない、のっぺりした顔の白人の男だった。

 円錐形の白いターバン、奇妙に甲高いその声。――宦官だ。

 サリムは顔を引き締めると、頷くことでそれに答えた。

「お待ちしておりました。お庭まで案内するよう申し付かっております。――こちらへ」

 ・・・庭?

 言うだけ言って、さっさと歩き出そうとする男に、サリムはあわてて声をかけた。

「お会いするのは、陛下の御殿ではないのか?」

 男はちらと流し目をくれると、顔色も変えず答えた。

「いえ、陛下は園亭キオスクでお待ちです」


 内廷のさらに奥、張りめぐらされた塀の向こうに、その庭はひっそりといきづいている。

 咲き誇る花はどれも、今咲いたばかりのようにみずみずしく、澄んだ水をたたえた小池には、珍しい異国の魚が極彩色の鱗をきらめかせて、見る者の目を楽しませてくれる。

 こういったもの全てがたった一人――スルタンのためだけに用意され、存在しているのだと思うと、今さらながら自分がひどく場違いなところに入り込んだような気がして、サリムを落ち着かなくさせた。

 ・・・この道で本当に合ってるんだろうな。

 案内役の宦官とは庭園の入り口で別れ、そこからはサリム一人でここまで来た。一本道だから迷うはずはないのだが、こう広いとちゃんと目当ての園亭を見つけ出せるのか心配になってくる。

 かれこれ小一時間も歩いただろうか。

 ふと、どこかで笑い声のようなものが聞こえた気がして、サリムはその場に立ち止まった。

 耳を澄ませばさやさやと、風が葉叢を揺らすばかりで、辺りに人の気配はない。

 ・・・気のせいか。 

 サリムは小さく首を振り、再び歩き出した。

 当たり前だ、こんなところにそうそう人がいるわけがない。

 ここはスルタンの神聖な庭園。広大な宮殿の中でも、最奥にあたる場所だ。

 政務に倦んだスルタンが、ひとときの安らぎを求めて訪れるというこの庭園は、周囲をぐるりと塀で囲まれ、そこだけが外部と切り離された別の空間のように、静謐な空気に満たされていた。

 ――父上なら、さしずめ聖域とでも呼びそうなところだな。

 純血トルコの名家に生まれ、人一倍忠誠心の厚い父の姿を思い出し、サリムは小さく含み笑いをもらした。

 息子であるサリムから見れば、酒も飲まず女遊びもせず、何が楽しくて生きてるんだかわからないような父だが、ひとたび宮廷に足を踏み入れれば、スルタンの代理人として巨大な権力を行使する立場なのだから、人は見かけによらない。

 能力主義社会のトルコでは、今をときめく大宰相が元は奴隷の異教徒だったり、一介の羊飼いが将軍にまで登りつめるといった話は珍しくもないが、サリムの父はトルコでも屈指の名門の出だ。

 その系統から何人もの名高い宰相を輩出し、彼自身も、先帝と今上帝の二代にわたって宰相として仕えた。

 今や大宰相として飛ぶ鳥を落とす勢いの父だが、それまでの人生全てが順風万般だったわけではない。

 先帝の下では、その真面目すぎる性格が災いして出世が遅れ、御前会議では常に大勢いる宰相たちの末席に甘んじていた。

 先のスルタン、シュヴァル一世は、若い頃は勇猛果敢な戦ぶりで知られ、老いてなお、周辺諸国から不敗の赤虎と恐れられた傑物だったが、同時にまた大変な艶福家としても有名だった。

 何しろ、晩年、脳卒中で倒れるまで、後宮に常時300人以上ものオダリスクを召し抱えていたというほどだ。

 もっとも、これは当時の慣習からいって、別段おかしなことではない。

 コーランでは、男は4人まで妻を持つことが許されていたし、経済的に余裕があれば、愛妾や女奴隷を複数持つことも可能だった。そういった者たちはこぞって宦官を雇い、選り抜きの女たちを集めて、後宮の小型版とでも言うべき自分だけの快楽の園に耽った。

 自分専用のハレムを持つことは、男たちの夢であり、ステイタスでもあったのだ。

 実際、大臣や宰相クラスのほとんどが専用のハレムを所有しており、その数少ない例外である父などは、周囲からあからさまに奇異の目で見られていた。

 父にとって幸いだったのは、後を継いだアルファイド2世が、先帝とは似ても似つかぬ、穏健で公明な人柄だったことだ。実力はありながら、その堅物な性格故に政治の表舞台から遠ざけられていた父に、若きスルタンはいたく同情的だった。

 先帝の取り巻きを一掃する狙いもあったのだろう。即位後、新たに任命した宰相たちの筆頭に父を据え、以来、何かと父の意見に耳を傾けるようになった。今では、スルタンの最も信頼厚い家臣として一目置かれる存在だ。

 だが、人の心は移ろいやすいもの。今ある地位も、スルタンの気まぐれで、いつ他の者に取って代られるともしれない。家柄や血筋が必ずしも成功に結びつくわけではないのは、父自身がいい見本だ。

 だからこそ、とサリムは思う。

 だからこそ、今回のチャンスを逃してはならない。親の七光りだろうとなんだろうと、必ずやスルタンの目に止まり、後ろ盾を得てみせる。

 サリムは顔を引き締めると、まっすぐ伸びた遊歩道に、大きく一歩踏み出した。

 二度目の声が聞こえたのはその時だ。

 笑い声――しかも子どもの。今度は気のせいなんかじゃない。

 やっぱりという思いと、こんな場所にどうしてという疑問に、思わず立ちすくんだサリムの目の前で、がさりと大きく茂みが揺れた。

「っ!」

 ――金色の仔ウサギ。

 瞬間、頭を過ったのはそんな言葉だった。

 ぽわぽわした金色の髪、ぽっちゃりとしたミルク色の頬。

 それが、まぎれもない人間の子どもだと認識するまで数秒かかった。

 まだ小さい。たぶん四つか五つくらい。走ってきたのか呼吸が乱れ、顔から首筋にかけてうっすら薔薇色に染まっている。

 サリムと同じくらい向こうもびっくりしたらしく、目と口をぽかんと開けて子どもはその場に固まった。

 ――なんだ、こいつ。

 最初の驚きから覚めると、サリムはこの突然の闖入者にあからさまに不審の目を向けた。

 見た感じ、育ちも良さそうだし、身なりも上等だ。

 考えられるのは、内廷から迷い込んできた見習小姓というところだが、あまりに年が若すぎる。第一、外には見張りがいるのだ。やすやすと入り込めるはずがない。

「おい、おまえ。どこから入り込んだ?」

 サリムとしては、これでもずいぶん抑えた口調のつもりだったのだが、向こうはそうは思わなかったらしい。大きな瞳が見る見るうちに潤み始めて、しまったと思ったときにはしゃくりあげるように泣き出していた。

 これにはサリムもさすがにあわてた。

 後戻りして衛兵を呼ぶか、何も見なかったことにして先を急ぐか、とっさにサリムが決めかねていると、

「何をしている!」

と鋭い声がその場に飛んだ。

 いや、オレは何も・・・ととっさに反論しようとして、サリムは言葉を失った。

 そこにいたのは、泣いている子どもよりやや年かさの、鋭い目をした少年だった。兄弟なのだろう、よく似ている。だが、サリムが言葉を失ったのは、そんなことが理由ではなかった。

 少年は弟の姿を認め、わずかに表情を和ませた後、今度は打って変わって険しい目でサリムを睨みつけてきた。

 その鋭い視線をまともに受けて、サリムはごくりと息を飲んだ。

 (・・・・・・凄ぇ・・・・・・。)

 有体に云って、少年は決して美形というわけではなかった。

 きりりと締まった顔立ちは整ってはいるが、美しいだけの若者なら内廷にも奴隷市場にもごまんといる。器量という点ならむしろ弟の方に軍配が上がるだろう。当時、金髪の奴隷は男も女もいい値がついた。兄の方はターバンをしていたが、白皙の額にくっきりと弧を描く眉は墨のような漆黒だ。

 否、サリムの目を奪ったのは、髪の色や容貌といった瑣末なものではなかった。

 幼い頃から、珍しいものも美しいものも見飽きるほどに見てきたサリムに、心臓を鷲掴むような衝撃を与えたもの――それは少年の一対の瞳だった。

 その色彩の妙なるさまをなんといったらよいだろう。それは紫とも青ともつかない不思議な色で、夜と朝の狭間のような、燃え尽きる寸前の彗星のような、一度見たら忘れられない色をしていた。そしてそれは、かたわらの弟と、視線の強さこそ違え、全くの相似形だった。

 ・・・・・・待てよ。

 なんだろう。今、頭の隅で何かが引っかかった。

 いわくありげな2人の兄弟、その瞳。

 そもそもこんな場所にまで入り込めるのはどういう類の人間か、遅ればせながらその点に気づいたちょうどその時、どこからか聞き覚えのある声が耳に入った。

「サリム!」

「・・・父・・・上?」

 呆然と、サリムは近づいてくる人影を見つめた。

 緑のカフタンに身を包み、せかせかと、珍しくあわてたようにこちらへやってくるのは、まぎれもなく我が父モハティブ・ハッルーンだ。そしてその後ろで、ゆったりと微笑んでいるのは――・・・。

「陛下!」

 その正体に気づくやいなや、サリムはがばりとひれ伏した。

 もちろん実物にお目にかかるのは初めてだが、人の上に立つ人間というのはやはりというか風格が違う。その金襴の豪奢な衣装も、ターバンを飾るあひるの卵ほどもある金剛石も、生まれながらの威厳の前では添え物に過ぎなかった。

 ――まさか、陛下御自らおでましとは・・・!

 ドクドクと心臓がうるさいくらい主張する。何か言わなければと思うのだが、息をするので精一杯で、何も考えることができない。

 駆けつけてきた父は、サリムの前を素通りすると、後ろにいた兄弟に心配そうに話しかけた。

「お2人ともご無事ですか? 一体これは何事です? まさかお怪我でも?」

「アサドなら平気だ、モハティブ。ちょっとびっくりしただけだから」

 平伏しているサリムの背中を、冷たいものが流れ落ちる。

 父がこんなへりくだった物言いをするところを初めて見た。誰かが父にそんな口の利き方をするのも。

 彼らが何者かは知らないが、怒鳴って泣かせたなんて知れたら、父も自分もただではすまないということだけはなんとなくわかった。

 ――大変なことになった・・・。

 全身の毛穴から冷汗がどっと滲んだ。

「サリム、お前はここで見ていたのだろう。何があったのだ?」

 冷汗と脂汗をだらだら流しながら、上手い言訳を必死で探していると、「よいよい」とスルタンが鷹揚に止めに入った。

「何事もなかったのだ、もうよいではないか。アサドも、もう泣くでない。男の子であろう」

「とうさま!」

 ――父さま!?

 サリムは頭をぶん殴られたような衝撃を感じた。

 ぱっと駆け寄った小さな体を、スルタンが軽々と胸に抱き上げる。

 この時にいたって、サリムはようやく、後宮に、スルタンの愛情を一身に受けた2人の秘蔵っ子がいるという話を思い出した。その独特の瞳の色から、彼らが、ふたつの明星と呼ばれていることも。ただ、聞いた話では、その2人は〝兄弟〟ではなかったような気がするのだが・・・。

 サリムの困惑とはお構いなしに、目の前では、ほのぼのした情景が繰り広げられていた。

「おお、また重くなったな、アサド。・・・おや、靴はどうした?」

「わかんない」

 スルタンの腕の中という世界で最も安全な場所にあっても、どこか不安そうに泳いでいた目が、突然ぱっと輝いた。

 チラリと横目で視線を追えば、茂みの周りに散らばった弟の靴を、少年が拾い集めているところだった。

 兄を見つけた子どもの、弾んだ声が庭園に響く。

「ねえさま、こっち!」

「――姉さまっ!?」

 衝撃の発言に思わず声を上げたサリムを、二組の全く同じ葡萄酒色の瞳がじろりと冷たく睨めつけた。

 視界の隅で、父が呻くように手で顔を覆ったのが見えたが、そんなことを気にしている余裕はない。

 呆然と顔だけ上げて固まっているサリムに、ようやく気がついたようにスルタンが言った。

「そうそう、そなたにも紹介しておこう。息子のアサドに、向こうにいるのがその姉のラフィールだ。そなたとは7つちがいということになるな」

 これが後に、毒蛇ユランとも獅子アスランとも呼ばれた少年王とその姉との、長きにわたるつきあいの最初の一幕だった。




1




 ハレム――それは禁じられた場所。内廷の最奥にひっそりと隠された、もう一つの秘密の花園だ。

 スルタンの妻子や母親、女奴隷たちの暮らすそこは、外の世界から遮断された女たちだけの世界で、スルタン以外いかなる男も足を踏み入れることはできない。

 門の両脇にそびえたつ尖塔からは、宦官が厳しい監視の目を光らせ、ハレムと外の世界とをつなぐ唯一の接点である門は、常時武器を携えた斧兵たちが守りを固めている。

 禁域中の禁域とも言うべき後宮の警備が厳重なのは当然のことだが、窓という窓にはまった鉄格子が、警戒すべきは侵入者だけではないということを暗に物語っていた。

 ハレムにはざっと300人からの女奴隷たちが暮らしている。 

 その多くが奴隷市場で競り落とされた健康で見目のよい若い娘たちだが、中には、地方長官からの献上奴隷や、服従のしるしとして差し出された高貴な血筋の者もいた。集められた女たちの出自や年齢はさまざまだが、いずれも自分の意思とは関係なく、拉致同然に連れてこられた者ばかりだ。

 こういった娘たちのほとんどが異教徒で、ハレム入りが決まった瞬間から、それまでの名前も信仰も全て奪われ、かわりに行儀作法や芸事といった後宮教育を徹底的に仕込まれる。

 トルコ語の読み書きは言うに及ばず、舞踊、裁縫、詩の朗詠、楽器の演奏と、オダリスクとして求められる教養は多岐に及んだ。その中には当然のことながら閨房術も含まれており、才能と美貌に恵まれ、見所があると判断された者は、幼い頃から性の手ほどきを受けた。

 故郷から遠く離れた異国の地で、頼れるものは己の身一つ、ましてやハレムという場所は、悪意と嫉妬に満ちた苛烈な競争の場である。生き抜いていくために、彼女たちがどれほどの辛酸を嘗めねばならなかったかは想像に難くない。

 だが、ここでは女はあくまでスルタンの所有物にすぎず、スルタンを愉しませ、その欲望を満たすことにのみ存在意義があるのであって、彼女たちの意思や感情が顧みられることはなかった。

 ハレムの眼下、冷たい水をたたえたボスフォラスの昏い海には、そうした境遇に耐え切れず、身を投げた女たちの哀しい骸がいくつも眠っている。

 彼女たちにとって、ここは聖地という名の牢獄であり、ひとたび入れば二度とは出られぬさいはての地でもあった。

 ハレムには、女たちが終生をそこで送るためのあらゆる設備が完備されている。

 その部屋数は400とも500とも言われ、スルタンの代替わりごとにさらなる増築、改装がくり返されてきた。その結果、ハレムは今や大小いくつもの部屋が複雑に錯綜する、巨大なラビリンスの様相をきたしていた。

 そんな蜂の巣のように入り組んだ館の中を、物心つく前から、ラフィールは裸足で走り回っていた。

 ラフィール――正しくはイスラフィール。イスラム教で終末を告げる天使の名を持つその少女は、現在7歳。4年前、弟が生まれるまでは、彼女がハレムのたった一人の子供で最年少の住人であった。

 育ち盛りの少女にとって、ハレムは広大でスリルに満ちた格好の遊び場だ。たとえそこが、四方を壁で取り囲まれたろくに日も射さない牢獄であっても、外を知らない少女には唯一の家であり世界の全てだった。

 母親の豪華で行き届いた部屋を抜け出しては、ラフィールは毎日ハレムの探検に出かけた。

 カビくさい衣装部屋も使われなくなった食堂の跡も、ラフィールにかかれば全てが神秘的で謎めいた空間と化した。

 湯気の立ち込める大理石のハマム、礼拝の時間ごとに唄うような祈りの言葉で満ちるモスク、龍涎香アンベルと女たちの濃い体臭が入り混じったにぎやかな共同寝室――。

 ただ一つ、祖母である皇太后スルタナの部屋と、専用の中庭を含む一角にだけは近づかないよう厳しく言い含められていたが、それ以外は事実上フリーパスだった。

 こうして屋内を自由に駆け回り、6歳になった時にはすでに、ラフィールは後宮の誰よりもハレムの細部に精通していた。

 もちろん、回廊を音もなく徘徊する宦官たちは別だ。彼らは存在自体がハレムの一部であり、決して外に漏れることのない仄暗い闇の一部でもあった。

 宦官たちは、上は宦官長から下は修行中の見習い宦官まで、一糸乱れぬ統率でもって女たちの護衛と監視にあたった。時には、罪を犯した女に宦官自ら刑を執行することもあり、すねに傷持つ女たちにとって、その存在は恐怖と同義だった。

 ラフィールの初めての友人は、そんなハレムの闇に住まう者たちの一人だった。

宦官長キスラル・アガ様、よく言われます。姫さまはまるで糸の切れた凧のよう。おとなしくさせておくには、かかとに糸を縫いこんで地面にしっかりつないでおくしかないと」 

 部屋を抜け出したラフィールにこっそりそうもらしたのは、見習い宦官のギュルベヤズだ。少年が笑うと、分厚い唇が突然ほどけて白い歯がこぼれるように現れる。乳母や侍女の言いつけで、飛び出したきり帰ってこないラフィールを探しに来るのは、たいてい彼の役目だった。

 ギュルベヤズ(白バラ)というのは本当の名前ではない。オダリスクと同じように宦官もまた、ハレムに入ると同時に過去を抹消され、ムスリムとして再教育を受けるのである。

 エジプト生まれのその少年は、宦官として仕えるため去勢され、ハレムに売られてきたのだった。

 ラフィールが初めて彼を見かけたとき、少年は真っ白なターバンの下に粟粒ほどの汗を浮かべて、老宦官の後を足早に追いかけていた。無表情で何を考えているかわからない宦官たちの中で、少年の生気あふれる姿は、ラフィールの目にひどく新鮮に映った。

 二人は年齢が近いこともあり、たちまち打ち解けた。乳母や侍女以外、親しくする者もいないラフィールにとって少年は格好の遊び相手だった。宦官がハレムの住人と必要以上に親しくなることは重大な禁忌とされていたが、まだ幼い彼らには、その掟の意味も理由もわかっていなかった。程なくして、ラフィールは少年がここへ来る前はアナイスという名前であったこと、一つ下の弟がいたことを知った。

 彼らは周りの目を盗んでは、かくれんぼや追いかけっこ、宝探しといった遊びに興じた。アナイスが語ってくれる物語や時折くちずさむ異国の歌は、外の世界を知らないラフィールにはどれも耳新しいものばかりで、いくら聞いても飽きることがなかった。

 遊び疲れて小腹がすくと、二人はラフィールが部屋から持ち出したお菓子をふたつに割っていっしょに食べた。中でもアナイスはバクラヴァとよばれる甘いお菓子に目がなかった。バクラヴァとはさくさくのパイ生地の間にナッツをはさみ、上からたっぷり濃い糖蜜をかけた焼き菓子のことだ。ラフィールには甘すぎてちょっと苦手だが、ほろほろこぼれたパイのかけらを無心に口に運ぶアナイスは、その時ばかりは年相応の子どもの顔で、見ているとこっちまでなんだか胸がいっぱいになった。

 だが、こうした時間は決して多くはなかった。アナイスには宦官としての務めがあったし、いつどこで誰が見ているとも知れなかったからだ。

「ねえ、アナイス。ここへはひとりで来たの? おとうとは? どうしていっしょじゃないの?」

「おとうとは来れなかったのです、姫さま」

「なぜ?」

 アナイスの唇がきゅっとつり上がって、驚くほど鮮やかな赤い色が内側からのぞいた。

「乳と蜜の国」

「?」

「わたしとおとうとを買った奴隷商人、手術のあとでそう言いました。わたしたち、ふつうに売るより、手術した方がずっと高く売れる。手術にたえられる奴隷、とても少ないから。手術がおわるとわたしたち、血を止めるため、首まで砂に埋められました。長い夜と長い昼がなんども頭のうえを通りすぎるあいだ、わたしたち、ずっと互いの名前を呼びつづけました。なんどめかの朝がきて、気がつくと声は聞こえなくなっていました。砂から出されたあと、商人、いいました。おとうとは乳と蜜の国へ行ったのだと。同じようなこどもはほかに何人もいる。だからおまえのおとうとはさびしくはないのだと。わたしはとても、運がいいのだと」

 ラフィールは瞬きも忘れて、くいいるように目の前の顔に見入った。

 手術ってなんの? おとうとはどうなったの? もしそんな国がほんとにあるなら、運がいいのはアナイスじゃなくておとうとの方なんじゃないの?

 だが、思うだけで言葉にはできなかった。アナイスの微笑みは透徹な鏡のようで、それ以上の言及を無言で拒絶していたからだ。

 彼ら宦官には、まだ幼いアナイスですら、おいそれとは近づきがたい冷ややかな壁のようなものがあった。それは彼らの抱え込んだ秘密と相まって、よりいっそう彼らを近寄りがたく得体の知れないものにしていた。

 ラフィールは、そういったハレムに漂う秘密の匂いを生まれたときから嗅いで育った。

 言ってみればハレムは存在そのものが巨大な秘め事、少女の好奇心をくすぐる秘密めいた小道具には事欠かなかった。

 隠し部屋に秘密の抜け道、ずっと昔に封鎖され、近寄る者もいない古い回廊――・・・。

 ラフィールがその階段を初めて見つけたのも、そんなうち捨てられた居住区の一角だった。

 その階段は、廊下のどん詰まりのよどんだ暗がりにひっそりと伸びていた。

 きざはしには薄く埃が降り積もり、一歩足を踏み出すごとに金色の埃がふわりと宙に舞い上がる。手すりのない階段を手探りで上っていくと、灰色の視界の中、突如真っ白な光のシャワーが降り注ぐ。

 窓だ。

 階段の踊り場に、ほんの申し訳程度に取り付けられた、格子のはまった小さな窓。

 大人でも、背伸びしなければ届かない位置にあるそれは、幼いラフィールには当然届かなかった。

 幸いなことに、辺りには踏み台となるガラクタがいくらでも転がっていた。

 脚の取れかけたスツールに、クッションや空の行李をいくつも重ねて、そろそろとよじ登る。そうすると、ちょうど窓の縁に小さな両手がちょこんと載った。

 以来、ラフィールは暇さえあればその場所に足を運ぶようになった。

 窓から覗くはてしない空の高みは、ラフィールを魅了した。

 ――手を伸ばせば届く気がする。

 見るたびいつもそう思うのだが、叶ったことは一度もない。

 背伸びして、うんと右手を伸ばしたけれど、今日もやっぱり空は遠くて、ラフィールは爪先立ったまま目を細めた。

 目にじんと、沁み入るような空の青。

 格子窓ラチスから覗く空は、剥いたばかりの果実のようなみずみずしさで、暗闇に慣れた瞳を刺激する。

 初めて見たときは、まぶしくて目を開けていられなかった。

 なんてきれいなんだろう。世界中の光を全部集めたら、きっとこんな色になるんだわ。月も星も、丸天井から降りそそぐきらびやかなステンドグラスも、全部集めたってこの色にはかなわない。ヘブンズ・ブル――至高の青。それは闇を照らす光の色。のどを潤す生命の色だった。

 ・・・それに、父さまの目と同じ色だし。

 ラフィールは自分に向けられる暖かなまなざしを思い出し、にっこりと顔をほころばせた。

 強くて偉大な、自慢の父親。ラフィールにとってハレムが世界の全てだとしたら、父はその世界を形成する一つの巨大な核だった。

 影でハレムを牛耳っている宦官長や、何人もの女官たちにかしずかれ、いつも何かとラフィール母子に辛く当たる皇太后ですら、父の威光には及ぶべくもない。

 そんな偉大な父が、自分の前ではただひたすら甘くやさしい父親の顔で接してくれることが、ラフィールには何よりもうれしかった。

 今、格子窓から見える空の色は、そんな父の瞳と同じ色だ。そして空の下には、この位置からは見えないが、濃く青くグラデーションの広がる海がゆったりと横たわっているはずだった。

 今よりもっと遠い昔、空と海とは同じものだと思っていた。どちらもすぐそこにあるとわかっているのに、届きそうで手が届かない。

 もう少し、あと少し。

 ラフィールは内側からせっつくような衝動のまま、ぷるぷると伸ばした指に力をこめた。

ひいさま!」

 突如響いた大声に、ラフィールは思わずひゃっと飛び上がった。

「まあまあ、またそんなところによじ登って! 怪我する前に、とっとと降りてきてくださいな!」

 そうっと目だけで振り向くと、恰幅のいい女が一人、しかめ面して立っていた。

 彼女はナージャ。ラフィールが生まれた時からそばにいる、ラフィールを一番よく知る人物だ。このムザブ人の乳母やにはラフィールも頭が上がらない。ついこの間も、階段の手すりを滑っているのを見つかって大目玉を食ったばかりだ。

「まってて、いまおりるから・・・!」

 あわてて下に降りようとして、ぐらりと踏み台のバランスが崩れた。ひっくり返りそうになった体を間一髪、たくましい二本の腕が抱きとめる。

「言わんこっちゃない」

 ラフィールの小さな体を抱きかかえ、やれやれとナージャはため息をついた。

「危ない真似はよしてくださいと何度言わせりゃ気がすむんです? この辺りはめったに人も寄りつかないんですよ? 何かあったらどうするんです! まったく、こんな窓のどこがそんなに面白いんだか・・・」

「だって、ここがどこよりもいちばん空にちかいんだもの」

「空なんかどこから見たっていっしょですよ」

 ぴしゃりと少女の言葉を封じて、ナージャはそっとその体を床に下ろした。

「そんなことより、シエラ様が先ほどから姫さまのことをお探しですよ。何でもお国から珍しいものが届いたとか」

「ほんと!?」

 ラフィールはパッと顔を輝かせると、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。

 花が咲いたようだとナージャは思った。

 ハレムの華と謳われる母親から、その美貌も髪の色も受け継がなかった娘を、口さがない連中は出来損ないと噂する。だが、このまっすぐで奔放な、時にひどく手こずらせるところのある小さな主人を、ナージャはこの世の何にもまして深く愛していた。

 ラフィールはすぐさま階段を駆け下りようとして、はたと立ち止まった。

「・・・アサドは?」

「昼寝をなさっておいでです。さっきお見かけした時は、ぐっすり眠っていらっしゃいましたよ」

「そう」

 それを聞いて安心したのか、ラフィールはもう一度弾けるような笑顔を見せた。

 今年三つになる弟のアサドは、最近ようやく片言が話せるようになったばかりで、ねえさまねえさまと、ラフィールの行くところにはどこでも付いて行きたがる。普段は聞き分けのいいおとなしい子なのだが、人見知りが激しく、ラフィールが黙っていなくなったり、無理に引き離そうものなら、泣いて喚いて手がつけられない。最近では部屋を空けるのも一苦労だった。

 だが、無理もない。ハレムの中で、子どもは自分たち姉弟2人きり。しかもアサドは皇子ということで、外出を厳しく制限されており、数えるほどしか部屋を出たことがないのだ。

 ――せめてもう少し、母さまがアサドのことを気にかけてくれたら。

 ラフィールは苦いものでも飲み込んだように顔をしかめると、振り切るように駆け出した。



2



 コーランに曰く、女たちの額には運命が輝く書体で刻印されているという。

 持って生まれた運命がどんなものであっても、神ならぬ身であれば、女たちは黙ってその運命を受け容れるしかない。ハレムの女たちにできることといったら、せいぜい紅をひき肌を磨いて、いつ舞い込むか知れない幸運の到来に備えることくらいだ。

 ハレムでの幸運。それは取りも直さず、スルタンに見初められ、寵愛を得て、大部屋から召使付きの個室に移り住むことを意味していた。

 だが、運良くスルタンに気に入られたとしても、しょせんそれは一時のことに過ぎない。人の心は移ろいやすいもの。枯れない花はどこにもなく、花園には手折られるのを待つ花がいくらでもいるのだ。

 そんな女たちとは一線を画し、ハレムで絶大な権力を揮ったのがスルタンの生母である皇太后だった。

 イスラムの男はべて自分の母親を大事にする。妻や奴隷は好きなだけ持てるが、母親は一人しかいないというのがその理由だ。

 ここハレムでもそれは同じで、神にも等しいスルタンといえど、母親には格別の敬意を払い、その忠告には真摯に耳を傾けた。

 少なくとも表向きは。

「陛下はまたあの女に夜伽を申しつけたのか」

 ハレムの中でもっとも豪奢な、毛皮とじゅうたんを敷き詰めた部屋で、皇太后は苛立ちを隠そうともせず、持っていた羽扇を足元に打ち捨てた。

「聖なる金曜の夜に、よりにもよってあの女と褥を共にするとは!」

 あの女、と吐き捨てるように皇太后が口にしたのは、目下スルタンの一番のお気に入りであるセレーネという名のオダリスクのことだ。

 セレーネは、カイロやギリシア、遠くは黒海の彼方から選りすぐりの美女を集めたハレムでも一、二を争う美貌の持ち主で、初めて寝所に召されて以来、スルタンから変わらぬ寵愛を受けていた。これは移り変わりの激しいハレムの中で、極めて稀なケースといえた。

「あの売女・・・! 奴隷上がりの淫売がよくも・・・・・・!」

 赤い花びらのような唇から、聞く者を震え上がらせるような呪詛がもれる。

 セレーネへの寵愛を削ごうと、これまでに何人もの美姫たちをスルタンの寝所へ送り込んだが、その執心ぶりは一向に衰える気配はない。あの女は穢れた女、スルタンともあろう方が情けをかけるのにふさわしい相手ではないと、ことあるごとに口にしているのに、母親思いの自慢の息子がこのことだけは聞く耳を持たない。あまつさえ、第一の正妻と過ごすべく定められた聖なる金曜の夜にまで、あの女を寝所に侍らせるという始末だ。

 皇太后がこれほどまでにセレーネを目の敵にしているのには、実は理由があった。

 そもそも彼女は現スルタンの父親であるシュヴァルⅠ世の持ち物で、今とは名前も違っていた。

 奴隷市場で競りにかけられようとしていたところを、たまたま掘り出し物を求めてやってきた地方長官の目に留まり、進物ヘディンとしてハレムに献上されたのだ。

 それは今から10年前。セレーネはまだ十にもなっていなかった。

 淡く波打つプラチナブロンド。きめ細かい陶器のような肌。怯えを含んだいたいけな瞳は、少女の育った春のエーゲ海と同じ色で、ふっくらとしたあどけない面差しは、西洋画に描かれた無垢な天使を思わせる。

 仕草も体型もまだまだ子供の域を脱してはいなかったが、花開いたときのあでやかさがすでに兆しを見せていた。

 色好みで知られるシュヴァルが、このほころびかけた薔薇の蕾のような少女を前にして、どれほど狂喜乱舞したか容易く想像がつくというものだ。

 ハレムに召し抱えて以来、シュヴァルは夜も昼も片時もそばから離さず、文字通り舐めるように愛しんだ。

 スルタンにとっては至福の、少女にとっては煉獄のような10年が過ぎた。

 美しく成長したセレーネは、ハレムの歴代の美姫たちの中でも一、二を争う麗しさだった。

 そのかんばせは月のよう、輝く肢体は水晶のよう。彼女の前では、百花の王である薔薇さえも、己を恥じて花片を閉じるといわれたほどだ。

 ただ一つ惜しむらくは、その瑞々しい果実のような唇からもれるのがどんな声だか確かめようがないということ――セレーネは唖であった。

 それが生まれつきのものなのか、あるいは何かきっかけがあってそうなったのかは分からない。口利きした奴隷商人によると、海賊に拐されたという話だが、今となっては確かめるべくもない。だが、家を焼かれ家族を惨殺された恐怖が少女から言葉を奪い、その心に一生消えない爪痕を残したとしても不思議はない。

 それに、口がきけないということは、彼女にとっても周りにとってもそう悪いことばかりではなかった。唖であることは、彼女の美しさにいっそう神秘的な魅力を付け加えることになったし、生き抜くために心ならずも口にしなければならないうそ偽りや追従を、彼女は一切する必要がなかったからだ。

 シュヴァルにとって大事なのは、己の目を楽しませてくれる美しい愛玩物が、褥の中でも変わらず愉しませてくれるかどうかであり、その点では十分に満足していた。

 セレーネという掌中の珠を得て、老いてますます旺んと思われていた矢先、シュヴァルが急逝した。

 酒宴の最中、突如呻き声とともに前のめりに倒れ伏し、侍医が駆けつけたときにはもう事切れていた。

 よわい六十。

 若いころは精力的に遠征に赴き、猛虎と恐れられた男も、晩年は後宮に入りびたり、酒色に溺れる毎日だった。長年にわたる乱れた生活は男から若さと健康を奪い去り、主治医から何度も不摂生を改めるよう進言があったにもかかわらず、一向に耳を貸さなかった。そのツケがこうして回ってきたわけだ。

 その死は突然であったが必ずしも予期されていないものではなく、皇位継承はきわめてスムーズに行われた。というのも、シュヴァルにはあれほどの漁色にもかかわらずアルファイド以外皇子はなく、皇位を争うライバルがいなかったからだ。もっとも過去に何人か妻妾たちが男子を産んだが、なぜかどの子も満足に育たず、その死は顧みられることなく闇に葬られた。

 アルファイドⅡ世、即位。この時、青年は三十歳になっていた。

 側室カドゥンの一人であり、アルファイドの生母でもある彼女の喜びたるやひとしおだった。皇太后の座につくことはハレムにいる全ての女たちの夢であり、彼女の積年の望みでもあった。

 ハレムの支配者にして最高権力者。

 この地位を得るために、権謀術数を張り巡らし、女たちとの血で血を洗う競争を勝ち抜いてきたのだ。有力な大臣に取り入り、宦官たちに金を握らせ、必要とあらば容赦なく女たちを縊り殺してボスフォラスの昏い海に沈めてきた。

 残る望みは、スルタンの褥に自分の息のかかった娘を送り込み、皇太子となる男子を産ませて、自分の権力を揺るぎないものにすることのみ。そこへ突如持ち上がった障害がセレーネだった。

 アルファイドの命により、嘆きの館から密かにセレーネを連れ出したと聞いたときの皇太后の心中はいかばかりか。

 当時の慣習では、スルタンが亡くなると、その妻たちはハレムを出て、嘆きの館と呼ばれる旧宮殿エスキ・サライへ移り住むか、年金をもらって高官パシャに降嫁するか、二つの道を選択できた。

 セレーネの場合、音に聞こえたその美貌に心惹かれる男は多かったが、皇太后を敵に回してまで妻に望むほど愚かではなかった。

 “嘆きの館”は、またの名を“望まれない者たちの宮殿”といい、そこに入った女たちは先帝の永遠の喪に服することを余儀なくされる。

 ただ一人、皇太后だけが新スルタンの即位とともに宮殿セラーリオに立ち返り、ハレムの支配者として丁重に迎え入れられるのだ。

 それが、なんということか、即位したその日にセレーネをハレムへ連れ戻し、新たに改装した部屋まで与えたという。

 コーランの教えでは、父親の手のついた女を我がものにすることは許されない禁忌とされている。ハレムから先帝の女たちを一掃するのは、そんな意味合いもあるのだ。

 放埓だった彼の父親とは違い、清廉で公明正大な息子の人格を信頼しきっていただけに、皇太后の驚きは大きかった。裏切られた気さえした。

 これがまだ他の女であれば、若きスルタンの気まぐれと目をつむることもできた。

 だが、よりにもよってあの女――子まで生した自分を差し置き、十年もの間スルタンの寵愛を独占してきたあの女が、今また愛する息子の心を惑わせようとしているのだ。古くはセルビア王家の流れをくむ門閥に生まれた彼女にしてみれば、プライドを二重に踏みにじられたようなものだった。

 怒りはたやすく憎悪に変わり、その中には、長年の鬱屈した嫉妬や羨望、運命に対する理不尽な怒りも含まれていた。

 母親には逆らったことのない息子だったが、この時ばかりは何を言っても無駄だった。

 聞けば先帝が存命の折、愛妾だったセレーネを祝宴の席で見初めて以来、密かに想い続けていたという。

 これまで我がままなど口にしたことのない息子のたっての願いに、皇太后の方が折れた。

 ここで反対し続けても、おそらく息子は母である自分より女の方を取るだろう。ならばここはひとまず引いて、母としての寛大さを示した方が良い。こんな状況であっても、彼女の理性は明晰だった。

 それでもかろうじて矜持を保っていられたのは、セレーネが石女だったことだ。

 自分には息子がいるが、彼女には子がない。十年もの間、あの獣並の精力を誇った男の閨に毎晩のように侍ってなお、一度も孕むことのなかった女だ。

 いくら美しいといっても花の盛りは長くない。子どもも産めない女がいつまでも寵姫の座に居座り続けることは不可能だ。後ろ盾もなく、若さしかとりえのない女の末路ほど惨めなものはない。

 それが再び後宮に召されて、わずか一年で懐妊したと聞いたときの皇太后の衝撃と驚愕。茫然自失してしばらくは口も聞けないほどだった。

 しかも悪夢はそれだけではなかった。

 最初の出産からさらに三年後、セレーネが今度は玉のような皇子を産み落としたのだ。

 すでにアルファイドは即位前、女奴隷との間に長男をもうけていた。今年15になるその息子は、名をムスタファといい、現在は皇子領であるカッファに総督として赴任している。

 この国では、皇位は必ずしも長子継続ではない。兄弟は父の遺産に対し平等の相続権を持ち、そのため代替りの際、血みどろの権力闘争に発展することも珍しくない。これを未然に防ぐため、スルタンは早いうちから皇太子を立て、皇位の行方を公にするが、だからといって水面下の争いがなくなるわけではなかった。

 現在、皇子は二人きり。ムスタファに何かあれば、状況はすぐさまひっくり返されてしまうだろう。

 それは皇太后にとって許しがたいことだった。

 夫と息子を奪った女の産んだ子が皇位を継ぐ可能性があるなど、断じて認められなかった。

 それ以来、皇太后の尽きることのない憎しみの炎は、セレーネのみならず2人の子供にまで向かい、彼ら母子をその後長い間苦しめることになるのである。




3




 ラフィールが物心ついた時にはもう、母はスルタンの第一の寵姫として、ハレムで不動の地位を築いていた。だからラフィールは、先帝の時代の陰湿な虐めも、皇太后との確執も何も知らない。

 母子に与えられた部屋は、南向きの日あたりのいい個室で、広さはそれほどでもないが、真夏でもひんやりと底冷えのするハレムでは、なによりの贅沢といえた。

 壁を覆うタイルは王宮職人が焼いた鮮やかなアラベスク、石床に幾重にも敷き詰められた絨毯はブルサで生産された最高級のシルク製だ。窓辺には、スルタンから贈られた極彩色のオウムが、黄金の鳥籠の中で自慢ののどを披露していた。

 この他にも、白貂の毛皮やら真珠の首飾りやら、毎日毎日スルタンから降るように贈り物が届くのだ。こじんまりとした部屋は、さまざまな贈り物で置き場所もないほどであった。

 だが母はどんな高価な贈り物が届いても、目を伏せ謝意を伝えるのみで、格別うれしそうな素振りを見せることはなかった。透きとおるようなガラスの瞳にいつも、物憂いような色をたたえていたのを憶えている。

 彼女はどんなひとだったか。

 問われてまず頭に浮かぶのは、美しいひとだったということ。

 それも咲き誇る薔薇の華やかな美しさではなく、手折られるのを待つ花のような、月夜に満ちる白露のような、どこまでも儚い美しさだ。

 ラフィールは、この幻のように美しい存在が自分の母親だということが、今いちピンとこなかった。

 古い記憶を探っても、彼女が赤ん坊だった自分に乳を含ませたり、眠るまで揺りかごを揺すってくれたりといった思い出がまるでない。そういったことは全て乳母であるナージャの役目だった。

 同じ部屋で暮らしているのに、いつも彼女の周りにだけ見えないヴェールがかかっているようだった。

 部屋にいるときの母は、長椅子にゆったり腰掛けて、刺繍をするのが常だった。

 傍らに置かれた籠には、色とりどりのつむが差し込んであって、色目に応じて引き抜いていく指に迷いはなく、見とれるほどに軽やかだ。うつむいて針を動かすその横顔は、はっとするほど美しく、ラフィールは脚台に頬杖をついたまま、いつまで見ていても飽きることはなかった。

 けれどそんな時間もたいてい長くは続かなかった。

 侍女たちが手に手にブラシや香油を持ちより、やれマッサージだの爪磨きだのと女主人の世話を焼きたがったからだ。その様子は、与えられた美しい人形を嬉々として飾りつけるのに似ていた。

 そんなときの母はしつけのいい犬のように身じろぎもせず、おとなしく女官たちの手に身を任せていた。

 飾り立てられるほどに、母はますます美しく、自分から遠のいていくように思われた。

 ――お母さまはもしかしたら、わたしのことを産んだきり忘れてしまったんじゃないかしら?

 その徹底した無関心ぶりに、そんな理由を付けてみたこともあった。

 声をかければ微笑みが返るし、膝になつくと静かに頭を撫でてくれる。確かに嫌われてはいないようだが、彼女の方から積極的に愛情を示してくれることもない。

 幸いなことに、当時ハレムにはラフィール以外子どもはおらず、比べるべき母親が他にいなかった。そのため、ラフィールは母親の淡白な態度に時々首をかしげることはあっても、それが理由で惨めな気分になったり、思い悩んだりすることはなかった。

 むしろ気に病んでいたのは周りの方で、特にナージャはラフィールを不憫に思うあまり、ついつい甘くなりがちであることを自分でも認めていた。

 そしてもう一つ、ラフィールにとって幸運だったのは、父親であるアルファイドの存在だ。

 温厚で情愛濃やかな男であった彼は、寵姫との間に生まれた一人娘に惜しみない愛情を注いだ。

 昼間は政務が忙しくなかなか会いに来れなかったが、来れば必ず膝にのせ、ラフィールが眠り込むまでおしゃべりに付き合った。また、よく晴れた日には、スルタンが幼い娘を伴い、中庭を散策する姿がしばしば見られた。

 “わたしの小鳥シャハルール。” ――スルタンは愛娘のことを好んでこう呼んだ。

 まだくちばしもやわらかいくせに、好奇心ばかり強くて片時もじっとしていない。くりっと大きな瞳は、新しい発見を求めていつもきらきら輝いている。散歩のときなど、ラフィールはよく、舌ったらずな声で突拍子もないことを言ってはスルタンを笑わせた。彼らの周りは常に明るい笑い声が絶えなかった。

 だがそれでもラフィールは、何かが無性に足りないと思うことがたびたびあった。

 たとえば夜中にふと目が覚めて、母の気配がどこにもない時。

 ――ああ、父さまのところへ行ったんだ。

 スルタンの愛妾であった母は当然のように夜は不在がちで、ラフィールは幼い頃から一人寝には慣れていた。どこへ行ったかわかっているし、明け方には母さまも部屋に戻ってくる。

 そう頭ではわかっていても、いったん目が覚めてしまうとなかなか寝つくことができなかった。

 まるで今この夜、生きて息をしているのが自分だけであるかのような恐怖感。

 無論、それは錯覚に過ぎない。

 隣にはナージャが寝ているし、壁を隔てた向こうでは何十人もの女たちが身を寄せ合い、泥のような眠りを貪っている。

 けれど、月明かりさえ届かない部屋の中はとても静かで、そんなときは闇がひときわ黒く濃く、夜が長いと感じられた。

 そのときの、どうにも心もとない不安な気持ち。――ぽっかりと胸に穴が開いて、その空洞に内側から引きずり込まれてしまいそうな得体の知れない恐怖を、ラフィールは成長した後も生々しく思い出した。

 幼い自分の胸に生まれた小さな空洞。それを孤独とよぶのだと、少し後になってラフィールは知った。

 それは始め、まっ白な布地にぽつんと落ちた小さなしみに過ぎなかった。

 父親や乳母の愛情をふんだんに受け、単調だがそれなりに起伏に富んだ日常の中で、普段はそんな感情があったことさえ忘れているのに、ふとした瞬間それは目覚めて、やわやわしい心を頭から呑み込んでしまう。弟が生まれ、ひとりからふたりになってもそれは続いた。

 そんな目に見えない恐怖から、身を守る術を教えてくれたのがシエラだった。

 シエラ。シエラ=レノット。彼女はハレムの中で数少ない、確かな出自の持ち主だった。

 聡明で才気煥発、進取の気性に富んだ彼女はヴェネツィアの元首ドーシェの娘で、その高貴な身分にもかかわらず、自分からハレム入りを希望した変わり種だ。

 当時ヴェネツィアは東地中海における交易の利権をめぐって、オスマン朝トルコとは緊張関係にあった。といってもイタリアの一都市国家にすぎないヴェネツィアが、強大な帝国を相手に真っ向から事を構えるわけには行かず、小競り合いはあるものの表面上は温厚な関係を保っていた。

 そもそもヴェネツィアの、地中海を中心とした東西交易の歴史は古い。

 かつてシリアがビザンツ領で、オスマンがトルコの一部族にすぎなかった頃から、ヴェネツィアは独自の通商ルートを確立し、中継貿易に圧倒的な利を誇ってきた。

 それは同じ北イタリアの都市国家であるジェノヴァやフィレンツェと比べても、頭一つ抜きん出たものといえた。

 ヴェネツィアが東地中海の制海権を長く保っていられたのは、優れた海運力はもちろんだが、なによりその卓越した政治力にあったといって過言ではない。

 歴代の元首たちは皆、時勢を見るのに長けており、その時々に応じてどの勢力に付けば自国の利益になるかを的確に見定め、同盟国から通商特権を得ることで発展を遂げてきた。

 そこへいわば土足で踏み込んできたのが、シュヴァル率いるオスマン勢力である。

 若かりし頃のシュヴァルは精力の塊で、後年、酒や女に注ぎ込むことになる欲望の全てを、まるごと戦にぶつけてきた。シュヴァルはゲームの駒を進めるように西へ西へと兵を進め、彼の代で版図は飛躍的に広がった。

 しかもシュヴァルは、勇猛なだけの猪武者ではなかった。

 海上交易ですでに確固たる地位を築いていたヴェネツィアに対抗して、ジェノヴァやフィレンツェと手を組み、彼らに通商特権を与えることで、ヴェネツィアの影響力をじわじわと追い落としにかかった。

 これに危機感を持ったヴェネツィアが、ついにトルコとの開戦に踏み切ったのが今から30年前。以後、数度にわたる交戦がくり広げられたが、国力の差はいかんともしがたく、何度目かの講和条約の後、ついに停戦に合意した。

 シエラのハレムへの輿入れの話が持ち上がったのは、この最後の講和条約のときだ。

 条約では、ヴェネツィアは莫大な賠償金を支払い、それとは別に毎年決まった額の貢納を収めることによって帝国から通商特権を得ることとなっている。シエラは自分が人質としてハレムに赴くことで、賠償金を減額してほしいと申し出たのだ。

 もしこれがシュヴァル相手なら、鼻で笑われるか、あるいはさらに怒りを煽る結果になったかもしれない。彼にとって女は性欲解消のための道具、あるいはていのいい愛玩物にすぎず、玩具ふぜいが政治に口を出すなど思いもよらないことだったからだ。

 だが折しもトルコでは、シュヴァルの急逝により、アルファイドに政権が移っていた。

 征服をくり返し、武力で他を圧倒した父親とは違い、アルファイドは友好、平和を重んじ、周辺諸国との間に融和政策を推し進めていた。それはヴェネツィアに対しても同様で、アルファイドはヴェネツィアから新たに出されたこの申し出を丁重に受け入れた。

 シエラは並外れた美女というわけではなかったが、教養があり、ヴェネツィア貴族としての誇りと、自分がハレムにいることで祖国の役に立っているのだという強い自負があった。

 アルファイドもまた彼女の知識、特に美術品に関する鑑識には一目置いていた。絵画や文芸についてシエラとの機知に富んだ会話を楽しみ、西欧へ工芸品を発注する際にはしばしば彼女の意見を求めた。

 アルファイドはさらに、シエラに対し改宗の免除という特例を与えた。

 これは当時のハレムでは考えられないことだった。

 アルファイドは異教徒であるシエラの信仰を認めることで、彼女が単なる人質ではなく、ハレムの大事な賓客であり預かりものであることを示したのだ。

 これにより、シエラはオダリスクたちの出世争いとは一線を画し、ハレム内で独自の地位を得るのに成功した。

 そこには、シエラの実家であるレノット家の威光も大いに貢献していた。

 ヴェネツィアの富裕貴族であるレノット家からは、定期的に美術品や絹織物といった品々が届けられたが、シエラはその中でも最も高価な品を何点か、付け届けとして皇太后に贈ることを忘れなかった。その他のそう高価でない小間物類、くしや紅などは、他のオダリスクや女奴隷に惜しげもなく振舞われた。

 シエラの外交手腕は、大臣や商人相手の交渉事だけでなく、ここハレムにおいても遺憾なく発揮された。

 こうしてたちまちハレムに溶け込んだシエラだが、セレーネ母子に対しては最初から同情的だった。

 セレーネへの風当たりが強いことを危惧したスルタンが、内々にシエラに頼んでおいたということもある。だが、それを割り引いたとしても、シエラの心配りには並々ならぬものがあった。

 シエラが初めてセレーネの部屋を訪ねてきたとき、ラフィールはまだ六つだったが、そのときのことはよく憶えている。

「はじめまして、ラフィール。蜂蜜菓子とカシスのコンポートをお持ちしたのだけれど、あなたお好き?」

 ラフィールは大きな瞳をさらにまんまるく見開いて固まった。

 胸元の深く開いたドレスに、耳元のみつあみを結い上げる独特なヘアスタイル。胸などちょっと屈んだらポロリと乳房が飛び出しそうだ。

 ハレムでは到底お目にかかれない格好にラフィールが目をぱちくりさせている中、シエラは自分の部屋にでも入るような気安さで目隠し代わりのカーテンを捲った。

 突然の来訪に、セレーネは戸惑いの色を浮かべつつも立ち上がってシエラを出迎えた。

「はじめまして、セレーネ」

 その呼びかけに、セレーネははっと顔色を変えた。

 シエラが口にしたのはギリシア語――それもクレタ地方の訛りの入った、セレーネの生まれ故郷のそれだった。

「私はシエラ。話には聞いていたけれど、あなたの瞳、暁に昇る明星のようね」

 シエラは、豪華だが、どこかまとまりのない部屋の様子に素早く目を走らせた後、所在なげにたたずむ女主人の手元に目を留めた。

「まあ、見事な刺繍ですこと」

 ハシバミ色の目を細め、シエラはにっこり微笑んだ。

「私も今度上着エンタリを一枚あつらえようと思っているのだけれど、これという布がなかなか見つからなくて。よろしければ私の部屋でいい生地を見つくろって下さらない? こちらへは来たばかりで、親しくおしゃべりできる方もいませんの。次はぜひ私の部屋へいらして」

 もちろんおちびちゃんもいっしょにね、とこれはいつのまにか後ろにぴったり張りついていたラフィールに向かってシエラは片目をつぶった。

 それが単なる社交辞令ではなかった証拠に、数日後、シエラから改めて誘いの文が届いた。

 誰かの部屋へ招待されるなんて、ラフィールはおろか、ハレムでの暮らしが長いセレーネにとっても初めてのことだ。

 侍女に伴われ、やや緊張した面持ちでやってきたセレーネをシエラは満面の笑顔で迎えた。

「うれしいわ。2人ともよくいらしてくれたわね」

 シエラは座り心地のよさそうな金紗の張られた長椅子に誘うと、さっそく2人に飲みものを勧めた。

 浅黒い肌の娘が銀盤に水差しとグラスを載せて運んでくる。水差しの中身が禁じられているはずのワインだと悟り、セレーネははっと息を呑んだ。

「こちらではバラ水にシロップを混ぜた飲みものが一般的なようだけど、私にはどうも甘すぎて。あらラフィール、あなたにはこっちよ。おちびちゃんにワインはまだ早すぎるわ」

 葡萄酒をなみなみと注がれたグラスは、当時最高級と謳われたヴェネツィアン・クリスタルだ。

 紙のような薄さ・軽さに加えて、その透明度は他に並ぶものがなく、ガラス工芸の卓越した技術は当時ヴェネツィアの最高機密とされていた。技術の流出を防ぐため、工人たちは一つの島に集められ、あらゆる便宜と保護を受ける代わりに、逃亡を図ったものは即刻死罪という厳しい統制の下に置かれていた。

 ラフィールはひんやりした李のシェルベットをちびちびやりながら、自分たちの部屋とさほど大きさの変わらないスイートを興味深げに見回した。

 ――思ったとおり。ぜんぜんちがう。

 ラフィールの目にまず飛び込んできたのは、灰色の壁を一面覆いつくすようにかけられた手織りのタピスリーだ。タピスリーは、貴婦人と、額に角のある獣の情景を織り成したもので、ラフィールはそこに描かれているものよりもまず色彩の鮮やかさに目を奪われた。

 燃え上がるようなバーミリオンの背景にくっきりと浮かび上がる、白い獣に藍色のドレスの貴婦人。彼らの足元を埋めつくす小さな花々はどれも驚くほど精緻に描かれ、一つとして同じ花はない。ハレムの中庭には何十種類もの花が植えられているが、ここに描かれているのはそれとは別の、もっと素朴な花々だった。

 ラフィールの関心は、次に部屋の中央に置かれた円卓へと移った。

 緑の天鵞絨で覆われたテーブルの上には、リュートやマンドリン、七弦琴といった楽器が楽譜と一緒に並べてある。さわったらどんな音がするんだろう? つややかな飴色に輝く楽器はそれ自体が美術品のようで、ラフィールはうっとりと見入った。

 部屋には他にも異国情趣にあふれたさまざまな品物が置かれていた。

 家具はどれも象嵌や彫刻の施された立派なもので、ひときわ立派なキャビネットの上には、フィレンツェ焼きの皿や銀の壷、革張りの本といったものが優雅に配置されている。

 トルコでは、敷物や長椅子以外には家具といったものを置く習慣がないので、この点もラフィールの好奇心を刺激した。

 だが、とりわけラフィールの興味を惹いたのはそういった珍しい品々のどれでもない。少女の目を引いたもの――それは、壁のくぼみにひっそりとかけられた一枚の絵画だった。

 描かれていたのは、愁いを帯びた若い女の肖像。軽く目を伏せ、ぽってりした唇をもの言いたげに開いたその表情は、羞じらっているようにも憂いているようにも見える。

 ほっそりとした首から肩へと続くなだらかな稜線。身にまとう薄絹の下にあらわに浮き上がった双つの乳房は、もぎ取られるのを待つばかりの若い果実のようだ。

 この時代、トルコにおける絵画とは、花や鳥などの装飾的な文様か、様式化された肖像画のいずれかで、北イタリアで誕生し、当時ヨーロッパで最盛期を迎えつつあったルネサンス絵画とは特徴も技法もまるで異なっていた。

 絵といえば物語の挿絵くらいしか見たことのないラフィールにとって、その絵は衝撃だった。気がつくと、無意識のうちに立ち上がって絵のそばまでにじり寄っていた。

 ――なんて生き生きしてるんだろう。息づかいまで聞こえるみたい。

 淡いばら色の頬。ゆるくカーブを描く金色のまつげは一本一本隙間なく描きこまれていて、じっと見ていると呼吸にあわせてかすかに震えるのまで見える気がする。

 瞬きするのも忘れて見入っていると、両肩にやさしい重みがかけられた。

「気に入って?」

「・・・このひと、母さまににてる」

 前を向いたままぽつりととつぶやくと、背後から笑う気配が伝わった。

「実は私もそう思っていたの」

 ラフィールは、この異国から来た風変わりな公女にたちまち魅了された。

 彼女はラフィールが初めて出会った本物の知識人であり、少女の心に外の世界の風を吹き込んだ最初の人物であった。

 ラフィールに絵を描くことの悦びを教えたのもシエラだ。

 最初の訪問以来、たびたびシエラの部屋を訪ねては、珍しい舶来品やそれにまつわる物語を夢中になって聞いていたラフィールだが、その日はいつもと様子が違っていた。

 来たときからむっつりと黙り込んで、話しかけても元気がない。訳を問いただすと、どうやらナージャにこっぴどく叱られたようだ。

「まあまあ、一体何をやらかしたの?」

「べつに。あそんでただけ」

 ラフィールは不服そうに否定したが、言いながらそっと手を後ろに隠したのをシエラは見逃さなかった。

「両手を出してごらんなさい」

 ラフィールがしぶしぶてのひらを差し出すと、シエラは驚きの声を上げた。

 もみじのような手は両方とも鮮やかなオレンジ色に染まっていた

「ヘンナね」

 指でこすっても色移りしないのを確かめ、感心したようにシエラは言った。

 ヘンナとは葉から採れる顔料の一種で、発汗防止剤として使われるほか、アイシャドウや染め粉、服の染料などにも用いられる。粉末を水に溶かして使い、塗った時は灰緑色なのだが、乾くと明るいオレンジ色になり、そうなると洗っても何週間も色が落ちない。

「汚したのは手だけ?」

 ラフィールは唇をへの字に結んで黙秘した。代わりに耳打ちしてきた侍女の話によると、ラフィールは化粧用に用意されたヘンナの残りでいたずらがきをしたそうだ。廊下の床や壁、いたるところにぺたぺた手形をつけて回って、ナージャたちは今頃さぞかし後始末に手を焼いていることだろう。

「なぜそんなことをしたの?」

「たのしかったから」

 誰も彼も、なんだって判で押したように同じことを聞いてくるのだろう。説明してもわかろうともしないくせに。

 今まで何度も繰り返されてきた問答にラフィールは飽き飽きしていた。

「きょうはとっても天気がよくて、いつもより影がげんきな気がしたの。うごいたり走ったりすると、手やあしがぐんとのびて、ダンスみたいに影がおどるの。だからわたし、うれしくなって影をおいかけたの。なかなかつかまらなくて、いっぱいあとつけちゃったけど」

 わかる? と澄んだまなざしを向けられて、シエラはちょっと考え込んだ。

「・・・そうね、わかる気がするわ」

 まさかそんな答えが返ってくるとは思わなくて、ラフィールは目を丸くした。

「ほんとに?」

「わたしも昔、母にまとわりついてよく叱られたものよ。母が動くと、長いドレスのすそがふんわり広がってとてもきれいなの。やわらかなドレープに顔をうずめると、父の好きなヘリオトロープの香りがしたわ。風に揺れるカーテンをくるくる体に巻きつけて目を回したりとかね」

 やっぱりこのひとは他の人とは違う。

 昔を思い出して穏やかに微笑むシエラに、ラフィールは改めて思いを強くした。

「でもね、ラフィール。人の迷惑になることをしてはだめよ。これからは何かする前に、どういう結果になるかよく考えることね」

 シエラは最後にそう釘を刺し、会話を締めくくった。

 後日、らくがき騒ぎのことなどすっかり忘れ去られた頃、シエラはラフィールにあるものを贈った。それは分厚い画帳と、黒鉛、木炭、チョーク一式のそろった立派な道具箱だった。

「・・・これはなに?」

 ラフィールは贈りものと贈り主の顔を交互に見比べ、おずおずと口を開いた。シエラは画帳を開き、まっ白いページにすらりとチョークを滑らせた。

「ここにこうして絵を描くの。これなら壁や床を汚さなくてすむし、誰かに叱られることもないわ」

「なにをかいてもいいの?」

「描きたいものを描いていいの」

 ラフィールは道具箱を抱え、どうしていいかわからないといった様子で立ちつくした。

 それから突然、ジャンプして首っ玉に抱きついたと思うと、シエラの頬に音を立ててキスした。

「ありがとう!」

 ストレートな愛情表現に目をぱちくりさせているシエラを残して、ラフィールは鉄砲玉のように飛び出していった。




4




 ハレムに新しく来た者がまず最初に学ぶのは、どこが入っていい場所でどこがそうでない場所かということだ。

 ハレムは秘密の巣窟だ。開けてはいけない扉を開けて、そのまま戻ってこなかったという話はごまんとある。

 女たちに許されているのは、各々にあてがわれた居室にハマム、モスク、共用の中庭といった、ごくごく限られた区域のみ。それ以外、たとえば母后や寵姫たちのスイートや黒人宦官の寝起きする館、スルタンの寝所にいたる黄金の回廊といった場所は、立ち入るどころか近づくことさえ厳しく制限されていた。

 中でもとりわけ宦官たちが目を光らせていたのが、外部へとつながる数少ない出入口である。

 ハレムと外界とをつなぐ門は全部で三つ。一つは外廷の西側、ドーム下の間と呼ばれる大広間の隣にある「車の門」。事実上、外界への正面入口となるこの門は、三つの門の中で最も警備が厳重で、門前には斧兵、門内には宦官の控えの間があり、出入りには細心の注意が払われた。そうめったにあることではないが、スルタンが他の宮殿に赴くとき、同行を許された幸運な女たちが使うのがこの門で、門の名は、女たちがここから馬車に乗り込んだことに由来する。

 他の二つは、それぞれ「幕の門」、「葬送の門」と呼ばれ、前者は騎馬で外出したスルタンが直接ハレムに入るための門、後者は文字通りハレムから死者を送り出すための門だった。

 ハレムの大多数の女たちにとって、再び外に出られるのは、自分が死んだときか、スルタンが死んで嘆きの館に移るときのいずれかで、実際に息をしているかしていないかの違いを除けば両者にほとんど差はなかった。

 女たちは早い段階で、自分たちが籠の鳥であること、決して逃げられないということを刷り込まれる。心を覆う薄絹を全て剥がされ、剥きだしになった心に絶望を刻み込むのはひどくたやすいことだった。鳥が逃げ出さないよう教え込むのに風切羽を抜く必要はない。籠の中以外生きる場所はない。その事実こそが羽を縛り、飛び立つ意思を奪うからだ。

 いったん現実を受け入れてしまえば、女たちは驚くほどスムーズに己の置かれた状況に順応する。宦官の命令も制約の多い生活も気にならない。半年もすれば、魚が水になじむように怠惰で単調な生活に慣れ、開けていい扉とそうでない扉の区別もつくようになる。

 ましてや生まれたときから壁の内側で育てられたラフィールにとって、見えない檻は空気と同じで、なければかえって落ち着かないくらい自然なものだった。といっても、そのあやふやな境界線を踏んでしまったことが全くなかったわけでもない。

 ラフィールは今でも時折夢に見る。

 それは熟れきった無花果とそれに絡みつく金色の蔦の夢で、その色彩は月日を経て、褪せるどころかますますなまめいてラフィールを落ち着かなくさせる。

 その紋章を初めて見たのは、シエラと出会うずっと前。アサドはまだおむつが取れてなかったし、ラフィールも今ほどハレムの地理に明るくはなかった。

 その頃は一日が無限に長くて、アナイスが忙しいときは一人で、そうでない時はいっしょになって、仔犬のようにハレムの中を駆け回っていた。

 その日も夢中になって追いかけっこをしているうちに、気がつくと今まで一度も来たことのない場所に来ていた。

 高い天井、等間隔に並んだ蓮型の柱頭。壁のタイルは見覚えのない模様で、無花果に金の蔦をあしらったものだ。

 宮殿のタイルには場所に合わせて様々な意匠が施され、そこにはすべて隠された意味がある。ハマムには水鳥、モスクには星型のアラベスク、女たちの集う食堂には籠に盛られた色とりどりの果実というふうに。逆に言えば、タイルの模様で今いる場所の凡そがわかる仕掛けになっていて、ハレムに来て日が浅い者には道しるべとして重宝されていた。

 これはなんの花だろう。いったいどんな意味があるのかしら?

 わくわくと目を輝かせたラフィールが、もう少し先へ行ってみようとアナイスを振り返ったその時、かすれた笛の音のような声が回廊に響いた。

「ここで何をしている」

 顔を上げると、はるか頭上から、赤褐色の大きな顔が無表情にラフィールを見下ろしていた。

 絹の上服はそのへんのオダリスクよりよほど上等で、宦官の中でもかなりの地位にあることを窺わせる。男の視線がラフィールからアナイス、そしてまたラフィールへとゆっくり戻り、しばし言葉をためてから重々しく口を開いた。

「帰りなさい」

 穏やかだが有無を言わせぬその口調は、長年にわたり命じることに慣れきった者の声だ。そんな言い方をされたことのないラフィールは、ハトが豆鉄砲でも食らったようにぽかんと相手の顔を見返した。

「二度とここへ近づいてはならない」

「どうして?」

 取りつく島のない言い方に、ラフィールが反射的に口を開く。なおも言いかけようとするラフィールを、素早い腕がつかんで止めた。

「姫さま」

 むっとした顔で振り向いたラフィールは、少年の目に浮かんだ表情を見て言葉を飲み込んだ。

 アナイスは怯えていた。いつも沈着冷静で、遊んでいてもどこか冷めたところのある少年のそんな顔を見るのは初めてだった。

 ここは来てはいけない場所なのだ。皇太后の部屋と同じくらい、あるいはそれ以上に禁じられた。

 ラフィールは腕を取られたまま、遠ざかっていく背中を見つめた。

 でっぷりとした腰を左右に振って歩く姿はいかにも鈍重そうで、彼を出し抜くのは瞬きするよりたやすいことのように思えた。

「さあ、もう行きましょう姫さま」

 うながされるまま歩き出すと、ほっとしたようにアナイスの腕がゆるむ。と、次の瞬間、ラフィールは腕を振り払い、思い切り駆け出していた。

「姫さま!」

 今考えてもなぜあんな無謀なことをしたのかわからない。

 アナイスの悲鳴のような声を無視して宦官の脇をぴゅっとすり抜け、長い廊下を飛ぶように駆ける。だが、それも長くは続かなかった。最初の角を曲がりきったところでラフィールは捕まった。T字に分かれた道のどちらへ行こうか一瞬迷ったところを取り押さえられたのだ。

 後ろからむんずと肩を鷲掴まれて、ラフィールは思わず短い悲鳴を上げた。万力のような強さに、骨を砕かれるんじゃないかと本気で思った。その時の、怒りを殺して自分を見下ろす岩のような顔ほど怖いものを今まで見たことがない。

 あの後、ほうほうの体で部屋に戻ると、すでに報告が行っていたらしく、ナージャが燃えさかる火のようになって待っていた。アナイスもしばらくは顔を見せず、たまに廊下ですれ違ってもすぐに視線をそらされた。

 あの日見た無花果と蔦の奇妙な紋章は、腕の痛みとともに、ラフィールの胸に強烈な印象を残した。

 あの道が黒人宦官の館、ひいては「車の門」へと続くただ一つの通路だと知ったのは、それからずっと後のことである。


 絵を描くことを覚えたラフィールは水を得た魚のようだった。

 どこへ行くにも何をするにもチョークと画帳を持ち歩き、例外は食事のときと眠っているときだけ。しょっちゅう外に出かけては虫や蛙を部屋に持ち込むものだから、当然ナージャはいい顔をしなかった。

「まったく、シエラ様にも困ったもんですよ。おかげでこっちは洗濯物は増えるわ部屋は汚れるわ、迷惑だったらありゃしない。大体絵が描けたからって何になるんです。裁縫や歌のひとつもおぼえた方がよっぽど為になりますよ」

 とはいえ主人には甘いナージャのこと、描いたばかりの絵をうれしそうに披露するラフィールに、眉間のしわもついついほころびがちになるのだが。

「まあまあ姫さま、チェリクもはかずに。また変なものを拾ってきたんじゃないでしょうね?」

 ラフィールが中庭から戻ると、ナージャはまず、服の内から帯の裏まで徹底的に改める。ナージャの鋭い目はどんな小さな隠し事も決して見逃したりはしない。

「姫さま、その背中に隠しているのは何です?」

「ただの虫よ」

「ただの虫!」

 ナージャの黒々とした眉がたちまちきゅっと釣り上がった。

「この前はクモでその前はトカゲ、先だってはよく肥えたまだらのヘビを袖の下に隠していらっしゃったのはどなたでしたっけ!」

「きょうはちがうもん」

 心外そうに――それでも半分ばつが悪そうに――ラフィールは丸めたてのひらをそろそろと開いた。

「――コガネムシ」

 何が出るかと身構えていたナージャの肩から、ほっと力が抜けた。

「・・・まあ、今までに比べたらまだましな方でしょうね」

 お許しが出てさっそくスケッチを始めたラフィールに、ナージャはあきれた様子で首を振った。

「姫さまときたら、そんな虫けらばかり描いて何がそんなに楽しいんだか」

「だっておもしろいじゃない」

 こんなにおもしろいものがどうして他の人には理解できないのだろう。周りの反応にはいいかげん慣れたが、こんな時ラフィールはいつも不思議に思うのだ。

「わざわざそんなもの拾ってこなくても、花とかくだものとか他にいろいろあるじゃありませんか」

「そんなのつまんない」

 小さな脚を震わせてよろよろと手の甲をよじ登る虫を、ラフィールはうっとりと見入った。

「生きてうごいてるからおもしろいんじゃない。花はきれいだけどそれだけだもの。それにほら、この子だってとってもきれい。光があたるあと色がくるくる変わるのよ。そとで見たときはまぶしい青いろだったのに、へやのなかではみどりなの。なぜかしら?」

 つきあいきれないとばかりにナージャは肩をすくめたが、ラフィールは気にしなかった。

 姫さまは変わってる。

 庭園でクモが巣を張る様を一身にスケッチしているラフィールを見て、アナイスもそう言った。

 周りにはきれいな花がたくさんあるのに、どうしてそんなものを描くのですか?

 クモの巣の精緻な美しさをラフィールがどんなにがんばって説明しても、アナイスにはわからなかった。

「アナイスもかいてみない?」

 少年はとんでもないと首を振った。

 ラフィールの画材道具はシエラがわざわざヨーロッパから取り寄せた逸品で、その値段ときたら見目のよい女奴隷の一人や二人、優に買えるほどだ。とても宦官風情が触れていい代物ではない。

「・・・たのしいのに」

 ためいきをつくと、アナイスの能面のような顔がかすかに曇った。その困惑と、わずかに混じった憂いの影をラフィールは前にも見たことがあった。

 あの窓(空にいちばん近い場所!)を見つけたとき、ラフィールは真っ先にアナイスに知らせた。

 きっと面白がるだろうと思ったのに、アナイスが見せたのは、沈黙とこれまで見たこともない真剣な表情だった。

「姫さま」

 厚ぼったい唇を舐め、アナイスは噛んで含めるように言った。

「そこへは二度と行かないよう」

「なぜ?」

「危険だから」

「きけん?」

「何かあったとき、助けを呼べない」

 ラフィールは声を上げて笑った。

「なにかって? 迷子になるとかころぶとか? ナージャみたいなこというのね」

「姫さま」

 アナイスが非難がましくラフィールを見た。だって、とラフィールが口を尖らせる。

「飛べそうな気がするんだもの。まどから羽ばたけるような」

 アナイスの目に一瞬奇妙な表情が浮かんだ。

「・・・姫さまはそんなにここがお嫌いですか?」

 ラフィールはきょとんと目を瞠った。

 アナイスは失言と気づいたのだろう。そそくさとその場を後にしたが、ラフィールに一人で行かないよう釘を差すのは忘れなかった。

 後に残されたラフィールは、ぼんやり地べたに座り込んだまま言われた言葉を考えていた。

 ――ここがきらい?

 そんなこと今まで考えたこともなかった。

 嫌いも何も、生まれたときからここにいてこの場所しか知らないのだ。他と比べられるわけがない。

 その点、アナイスは違う。外の世界を知っていて、だから好きとか嫌いとか言葉にすることができるのだ。

 だけど、ああ・・・そうなのか。ラフィールは、物心ついてからいつも感じているもやもやとした正体不明の不快感が、とたんにはっきり形になった気がした。

 ――わたしはここがきらい。

 それを認めるのはほんの少し後ろめたかったが、認めてしまうとすっきりした。

 あれから何度も一人であの窓に上った。

 アナイスには話してないが、向こうもきっと気づいているだろう。あれ以来、窓のことをお互い一度も口にしないから。

 アナイスとの間に秘密ができたことで、ラフィールはますます絵を描くことに没頭した。

 ラフィールの描き方はいたってシンプルだ。

 面白そうなものを見つけたら、眺めたり触ったり気の済むまで観察したあと、さっと一息に描き上げる。

 その線に迷いはない。少ない線でのびのびと描かれたそれは、まるで肉や皮の下に埋もれたそのものの本質を見透かしているかのようだ。それは練習や誰かに教えられて身につくものではない。

 シエラはラフィールの絵を初めて見たとき、それを見抜いた。

 ラフィールに生きているもの、動くものを見て描くようアドバイスを与えたのもシエラだ。

 ラフィールは生きて動いているもので、ナージャに悲鳴を上げてつまみ出されたもの以外なら何でも描いたが、弟が生まれてからはもっぱら題材は彼だった。

 アサドの寝ているところ、遊んでいるところ、泣き顔、笑顔、しかめっ面、アサドのスケッチばかり何冊も画帳を描きつぶした。もっとも彼が被写体として甘んじていたのはほんの赤ん坊の頃までで、物心つくころには描かれるのを断固嫌がって抵抗したが。

 なぜかこの弟は、昔からラフィールが絵を描くことに病的な拒否反応を示していた。捨てられたり隠されたりしたチョーク類は数知れず、一度などは画材一式庭の池に沈められたほどだ。

 同様に、母親もまたラフィールにとって興味深い題材だった。

「母さま、みて! 母さまをかいたの!」

 頬を紅潮させ、描いたばかりの絵を誇らしげに見せるラフィールに、だが欲しい言葉をくれるのはセレーネではなかった。

「まあ、本当。これは中庭で花を摘んでいるところね。サテンが陽に映えて美しいこと」

 シエラは画帳を手にとって、にこりと少女に微笑んだ。

 セレーネはちらりと画帳に目をやったきり、何事もなかったように刺繍の続きに戻った。どうやら夏物のケープの作り方をシエラに教えていたようだ。

 シエラは度々セレーネたちの部屋を訪れては、世間話や昼食を共にするようになっていた。

 世間話といっても二人の間で口をきくのはもっぱらシエラで、セレーネは軽く相づちを打つ程度なのだが、会話はそれで十分成り立っているらしい。

 ラフィールは不思議に思う。シエラほど才気煥発な人が、人形のような反応しか返さない者を相手に、本当に楽しいものかしら?

 だが、シエラはセレーネとの時間を心から楽しんでいるようだった。そして驚いたことに、それはセレーネも同じようだった。

 いつもは何事にも無感動で抜け殻のような母が、シエラといるときだけ息を吹き返して人間に戻る。

 ラフィールにはそれが喜ばしいことなのかそうでないのか、正直よくわからなかった。

 母にとって、シエラの存在は自分と弟をあわせたより大きいのかと思うと、ラフィールは心臓をぎゅっと握りつぶされたような痛みを感じた。何より、幼い弟が不憫でたまらなかった。

 アサドほど母さまを必要としている存在はないのに。

 はたから見れば彼女も十分母親の愛情を必要としているというのに、彼女自身は気づきもせずに、その分いっそうの愛情を幼い弟に注いだ。

 時折ラフィールが長い散歩から戻ったときなど、窓辺にひっそりとたたずむ二つの影を目にすることがあった。

 黙したまま寄り添うように並んだ影は、たそがれ時の闇にまぎれて幻のように美しかった。

 シエラとセレーネ。この生い立ちも性格も異なる二人の間で、どういった会話が交わされ、どういった絆が培われるにいたったか、それはわからない。

 だがシエラとの交流が、それまで頑なに凍りついていたセレーネの心になにがしかの変化をもたらしたことは確かだ。

 ある時、こんなことがあった。

 ラフィールたちの暮らす部屋には一羽の鸚鵡が飼われている。極彩色の巨大な鳥はナージャと同じくらい年を取っていて、幼い子どもたちのいい遊び相手だった。雨で外に出られない日は、アサドとどちらが先に新しい言葉を覚えさせられるか競争したり、巨大な羽扇のような翼をスケッチしたりしたものだ。かごを開けると心得たように飛び移り、くちばしでつついて手の中の干しぶどうをねだるのだ。

「どうしておまえは逃げないの?」

 くちばしにもう一つぶどうをねじ込みながら、ラフィールはこっそり鸚鵡にささやいた。

 小さいときから不思議だった。中庭の鳥たちは寸暇を惜しんで飛びまわり、時たま梢で一休みすることはあっても決してひとところにじっとしてはいない。

 だからラフィールは思ったのだ。人には空気が必要なように、彼らには自由に飛びまわれる広い空間が必要なのだと。満足に羽を伸ばすこともできない狭い箱の中では、彼らは生きていけないのだ。

 ラフィールにはその気持ちがよくわかった。自分だって時々ここにいることが窮屈でたまらなくなるのだ。じっとしていると窒息しそうで、ただやみくもに大声を上げて駆け出したくなる。

絵を描くことを知ってから少しは楽になったけど、もやもやした塊はいつもおなかのあたりにくすぶっていて消えることはない。なのにこの鸚鵡ときたら、せっかく籠から出してやったというのに干しぶどうのことしか頭にないようだ。

「どうしたの? 飛べないの?」

「生まれてからずっと籠の中にいるんですもの、飛び方を知らないんですわ」

 侍女の言葉にラフィールは大きく目を見開いた。

 飛び方を知らないなんて、そんなこと! 翼を持って生まれてきたのに、その使い方がわからないなんてことあるだろうか?

「でもわたし、おそわらなくても歩けたよ?」

「それとこれとはちがいますよ」

 そんなことを言い合っていると、不意に窓から、気まぐれな風のように小鳥が一羽飛び込んできた。

 洗いたての更紗のような純白の翼に、すっきり伸びた優美な尾っぽ。セキレイだ。

 ハレムには花の香りに誘われて時折こうした闖入者がやってくる。彼らは人間の作る建造物など意に介さない。気まぐれに境界線を飛び越えて素知らぬ顔を決め込んでいる。

 セキレイはピイッと一声のどを鳴らすとくるりと天井を旋回し、来たとき同様すべるように窓から飛び去っていった。

「あっ!」

 あわてて追いかけたが、小鳥はすぐに塀の向こうに消えた。

 ラフィールは小鳥の姿が見えなくなった後も、しばらくの間、その行方を目で追っていた。

 部屋に戻ると、突然放り出されてすっかりおかんむりの鸚鵡が、ぱっさばっさと部屋中に羽をばら撒いていた。

「・・・いいなあ」

 侍女たちがびくりと身をすくめたのにも気づかず、ラフィールは逆毛の立った鸚鵡の背をなだめるようになでつけた。

「わたしにも羽があったらなあ。空がとべたらどこだってすきなとこにいけるのに」

「姫さま」

 押し殺したようなナージャの叱責に、ラフィールはきょとんと目を瞬かせた。

「だってナージャはかんがえたことない? 塀のむこうはどうなってるんだろうって。あっちはこことどうちがうの? どうしてむこうへ行っちゃだめなの?」

 静まり返った部屋の空気にさすがにおかしいと思い始めたそのとき、ラフィールは信じられないものを見た。

 うつむいた頬をつたういくつもの銀の筋――母は泣いていた。膝の上に刺繍板を置いたまま、音もなく彼女は涙を流していた。

 感情というものをどこかへ置き忘れたような母の、泣いている姿を見たのは後にも先にもこの一度きりだ。

 思いがけない事態に侍女たちはすっかり狼狽し、やれ気付け薬だの医者を呼べだの、部屋は一時騒然となった。

 もちろん、ラフィールは後でたっぷりお小言をもらい、罰として一週間の外出禁止をくらった。だが、自分の言葉の何がそんなに母を悲しませたのかは誰も教えてくれなかった。


 なにが悪かったんだろう。

 ラフィールは鏡に向かって自問した。

 たまご形の巨大な檻には、物問いたげな小さな少女が閉じ込められている。

 鏡の中にはもう一人、ブラシを持った貴婦人の姿も映っていて、目が合うと、「もぞもぞしないで、ラフィール」と後ろ髪を軽く引っぱられた。

 正直言ってラフィールは、人に髪を梳いてもらうのが好きではない。くすぐったいし退屈だし、ちょっとでも動くと叱られる。アサドのようにふうわりした猫っ毛くらいならまだいいが、あいにくラフィールは生粋の巻き毛だった。

 巻き毛の手入れは面倒くさい。髪を洗ったら、ひと房ひと房形を整え、完全に乾くまで寝かせてはもらえない。一度濡れたまま寝たら、朝には見事な鳥の巣と化していて、もつれた髪をほどくのに嫌というほど髪を引っぱり回された。

 こんなところだけ母さま似なんだから。

 ラフィールは足をブラブラさせながら、憂うつそうにあくびをかみ殺した。

 母さまはよく毎日こんな拷問に耐えられるものだ。

 ブラッシングだけで忍耐をすり減らしてしまうラフィールには想像もつかないことだが、セレーネの一日は、夜のお勤めと祈りの時間以外ほとんど全てが美しさを維持するために費やされている。散歩や刺繍はほんの息抜き、子どもとすごす時間などほとんどないに等しい。

 朝起きたらまず湯浴み。軽石と香油で全身ピカピカに磨かれたあとは、化粧に着替え、マッサージ。それからようやく遅めの朝食をとって、銀盆が下げられるやいなや、次の宴のための布地やリボンが運びこまれるという具合だった。

 これは何もセレーネだけに限ったことではない。ハレムに住まう全ての女たちにとって、美容は最大の関心事であり、生きる術といってよかった。

 おとなになったら、私もそうしなきゃいけないのかな。もしそうなら、いっそひとおもいに海に飛びこんだ方がマシだ。そんなことを考えていたら、ふと、あの日見た透きとおるような母の涙が頭に浮かんだ。

 母さま――いつもは喜びも悲しみもあの白い貌の下に閉じ込めて、毛筋一本窺わせたりしないのに、何が彼女をあそこまで動揺させたのだろうか?

 ラフィールはしばらく考え込んだ後、よくわからないと結論を下した。

 幼いラフィールにとって、母は大いなる謎だった。

 ラフィールの中の母は、母親という確かな実体を持った存在というより、触れたらさらりと崩れてしまいそうな繊細な砂の花に近い。

 母の涙を見たとき、ラフィールの心にまず浮かんだのは、母さまにもそんな感情があったのかという新鮮な驚きだった。

「きれいな髪ね、ラフィール」

 不意にかけられた言葉に、ラフィールはぱっちりと目を見開いた。

「えっ、なにが? なんのこと?」

 ハトが豆鉄砲を食らったような反応に、シエラは笑って髪を梳いた。

「あなたの髪のことよ、ラフィール。豊かでつやがあって、とてもきれい。毛先まできれいに巻き上がって」

 ラフィールは、ああ、と頷き、気のないそぶりで巻き毛をつまんだ。

「でもこんなの、めずらしくもなんともないよ。黒いかみならほかにもおおぜいいるし」

 ラフィールは自分が周りからどう思われているか知っていた。毛並の悪い仔猫でも見るような、女たちの蔑みのまなざし。

 彼女たちの目は言っていた。

 なぜあの子どもは母親と全く似ていないのかしら。

 ハレムで美しくないということは、蹄の欠けた馬と同じこと。すなわち、価値がない。

 だがその一方で、美しくないことで女たちの扱いが寛大であるというのもまた事実だった。

 ラフィール本人は、いつもは大して気にしてなかった。

 黒髪は大好きな父譲りだし、それにアサドの髪は母と同じ目の覚めるような金色をしている。それは自分が母と同じ髪の色をしているよりずっとうれしいことだった。

「いいえ、ラフィール。あなたはきれいよ。髪のことだけじゃなくてね」

「きれい!?」

 ラフィールは仰天した。そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。

 たまに父さまが似たようなことを言うけれど、それは娘の私を愛しているからで、私自身が美しいわけじゃない。

「でもわたし、母さまみたいな金ぱつじゃないし、ちびだしやせっぽっちだよ。目だけはおんなじいろだけど、ギョロギョロしてなんだか魚みたいだし・・・。わたし、きれいなんかじゃない」

「そうかしら?」

 そっとうながすように両肩を抱かれ、ラフィールはおずおずと鏡の中を覗きこんだ。

 そこにはさっきラフィールが言ったとおりの、やせっぽっちで小さな少女が不安な目をして立っていた。

 ・・・ほら、やっぱり。

 どこかホッとした気分でもう一人の自分に笑いかけたラフィールは、だからシエラが謎めいた笑みを浮かべて自分を見ているのに気づかなかった。




5




 ラフィールはシエラからたくさんのものをもらったが、それがどれほど価値あるものかに気づいたのはずいぶん後になってからだ。

 シエラは奔放な春の風のように幼いラフィールの心にするりと入り込み、やわらかな土壌にいくつもの種をまいた。それは知識であったり自立心であったり絵を描くことの歓びであったりするのだが、ラフィールにはどれも遊びの延長で、それ以上でも以下でもなかった。

 さて、それはとある昼下がりのこと。

 その日は格別することもなく、シエラは部屋でリュートを爪弾き、ラフィールは床に広げた画帳の上でうとうと小舟をこいでいた。

 シエラの奏でるリュートの音色は甘く詩的で快い。サズやタンブーラといった、夜ごと宴で耳にする、体の中の水を揺さぶるようなそれとは違い、見えない手でやさしくのどを撫でられているような心地がする。シエラの口からこぼれるのは遠い異国の言葉だが、なぜだか不思議に懐かしく、いつまでも聞いていたいと思わせた。

 そんな陽だまりのような心地よさにうっとり身を任せていると、リュートの音がふつりとやんだ。

「ラフィール、あなた今、歌ってた?」

 ラフィールは一瞬きょとんとした後、ぱあっ・・・と首まで赤くなった。

「うるさかった? ごめんなさい! 声に出てると思わなくて・・・」

「あら、いえ、いいのよ、ただちょっと、あんまり驚いたものだから・・・」

 シエラは目をぱちぱちと瞬かせ、困惑と驚きの入り混じった表情でラフィールを見た。それからふと思いついたように、

「もしかして今までも歌ってた?」

 ラフィールはますます顔を赤らめて、ぼそぼそ小声でつぶやいた。

「シエラ、この歌よくうたうでしょ? だから聞いてるうちになんとなく・・・」

 それを聞いたシエラの目が悪戯を思いついた猫のように細くなった。

「そうだわ、ラフィール。あなたちょっと歌ってごらんなさいな」

「え?」

「いいでしょう? いつも歌わされているんですもの、たまには私以外の誰かさんの歌も聞かせてちょうだい」

 まんまるく目を見開いたラフィールに、にこりと笑みを投げかけると、シエラはとうとうと歌いだした。


 ほら 波がささやき

 Ecco mormorar l’onde

 木の葉がふるえている

 E trermolar le fronde

 朝のそよ風に 小さな樹々も

 A l’aura matutina, e gl’arboscelli


 リュートの奏でる甘い調べに、コントラルトのやわらかな響き。清らかな朝の空気をそのまま音にしたような、はじまりの部分がラフィールは好きだった。

 歌詞はほとんど呪文のようでまったく意味はわからない。だが、快い音の響きや言葉のリズムが沁み入るように体に馴染んで、まるでずっと前から知っているような気がした。


 緑の小枝の上で 愛らしい小鳥たちが

 E sovra i verdi rami i vagh’ augelli

 やさしく歌い

 Cantar soavemente

 やがて東も明るんできた

 E rider l’Oriente


 自らリュートを爪弾きながら、晴れやかに歌うその姿はいかにも気持ち良さそうだ。気がつくと指がとんとん拍子を取って、続きをくちずさみそうになる。笑いを含んだシエラの目に、促されるままラフィールは、すうっと息を吸いこんだ。


 ほら、もう夜明けだ

 Ecco, gia l’alb’ appare


 不意にすべり出た伸びやかな歌声に、シエラは危うく押さえていた糸を離してしまうところだった。


 海の上に姿を映し

 E si specchia nel mare

 空は晴れ

 E rasserena il cielo

 朝露はまるで真珠のよう

 E imperla il dolce gielo

 そして山々は黄金色に染まる

 E gli alti monti indora


 声は、もしかしたら廊下を隔てた向かいの部屋まで届いたかもしれない。

 気性そのままの、素直でまっすぐな歌声。豊かな声量は心肺が正常に発達している証で、常日頃ハレムを裸足で駆け回っている成果といえなくもない。

 いつしかシエラの声はやみ、澄んだ鈴のような歌声だけが部屋いっぱいに広がった。


 ああ、美しい暁よ

 O bella e vagh’ aurora

 そよ風はあなたの使い あなたはそよ風の使い

 L’aura e tua messagiera  E tu de l’aura 

 渇ききった心の全てを 癒してくれるそよ風よ

 Ch’ogn’ arso cor si ristaura


 歌か終わっても、しばらくは沈黙が続いた。シエラはあまりの驚きで、ラフィールは息切れして言葉が続かなかったためだ。

「なんでそんな顔してるの? そんなにわたし、へんだった?」

 シエラははっと我に返ると、動揺を巧みに笑顔に押し込めた。

「ありがとうラフィール、とてもよかったわ。だけど驚いた、イタリア語なんてよく知ってたわね」

「イタリア語?」

 ラフィールはきょとんとシエラを見返した。

「そうなの? ふうん。だからシエラ、よくうたってたんだ」

 シエラは一瞬目を見張り、次いで小さく吹き出した。

 以来、シエラの部屋からは揺蕩うようなリュートの調べに、時折女主人以外の声が混じるようになった。

 シエラが聞かせてくれる歌は、気分次第でイタリア語、英語、フランス語、時にはドイツ語のものにまで及んだが、いくつも歌い重ねるうちになんとなく、これはフランスの、さっきのあれはイタリア語と大体の見当がつくようになっていた。

 わかるようになったのは言葉だけではない。ラフィールは誰かと声を合わせて歌うようになって初めて、歌というものが時に言葉以上に雄弁であることを知った。

 たとえばいま歌っているこの曲。この曲を歌う時、いつもはほとんど音を外すことのないシエラが決まって声を震わせる。

 シエラはあえてラフィールに言葉を教えなかったから、それが一体どんな歌で、どういう意味あいを持つのかわからない。特別な思い出でもあるんだろうかと思うだけだ。

 ラフィールにとって絵を描くことが心を自由に羽ばたかせることだとしたら、歌うことは泣いたり笑ったりするのと同じことだった。

 ハレムでは皆が自分の歌を持ち、自分の言葉で歌っていた。過去の全てを否定され、体は檻に繋がれていても、心の中に培った歌までは奪えない。灰色の塀で囲まれた鳥籠の中はいつも、女たちの口ずさむさまざまなメロディで満ちていた。

 ラフィールの記憶の中で一番古いメロディは、ナージャの歌う子守唄だ。ナージャの祖母がそのまた祖母から教わったというその歌は、どこかせつなく懐かしく、シエラの奏でるリュートの音になぜだかとてもよく似ていた。

 セレーネからは、子守唄どころか添い寝をしてもらった記憶すらない。だからラフィールの知っている子守唄といえばナージャの歌うそれであり、アサドが生まれると今度はラフィールが歌って聞かせた。

「ねえさま、もっと」

 舌っ足らずな声で甘えるようにねだられると、どうしてもいやとは言えない。真夜中近くまで歌い続けて、見かねたナージャが強引に寝かしつけることもしばしばだった。

 アサドは癇性な性質たちで、ラフィールが自分以外のことに関心を持つのを極端に嫌がった。放っておくとラフィールの全ての時間を独占したがったので、外出するときはいつも、アサドの昼寝を見計らい、逃げるように抜け出した。

 一歩部屋を出ると、ラフィールはとたんに心が浮き立った。

 朽ちかけた階段を小鳥のようにさえずりながら、裸足で一気に駆け上がる。すきとおった声が周りの壁に高らかに反響して、まるで空の高みから鳥たちがさざめき合っているようだった。

「アサド様はわたしのことがお嫌いのようですね」

 階段の中腹辺りで、ひっそりと踊り場にたたずむアナイスの顔には微苦笑が浮かんでいる。

「・・・そんなことないと思うけど」

 ラフィールはうつむいて、もつれた髪を指でいじった。

 べつに嘘はついてない。あの利かん気な弟は、アナイス個人を嫌っているわけじゃなく、シエラも画帳もペットのオウムも、とにかくラフィールが心を寄せる何もかもが気に食わないのだ。

 今日も自分を部屋に置き去りにして、アナイスと会っているラフィールを怒っているに違いない。けれど困ったことにラフィールは、アサドのそんな独占欲が決して嫌ではないのだった。弟の子どもらしい嫉妬心やわがままは、ラフィールをいつもくすぐったいような幸せな気持ちにさせた。

「もう少しあごを引いて。そうしたらのどの奥が開いて、歌いやすくなるから」

 シエラはテンポを少し緩めて、たっぷりと息継ぎのための間を取った。

 最初に比べると、ずいぶん音程が安定してきた。

 あまり細かいことを言って、覚えたばかりの歌う楽しさに水を差してはと、シエラはあえて簡単な発声法を教えるにとどめた。同じ理由で歌詞についても、細かいことは一切省いて、大意だけを伝えるようにした。

 こうしていると昔を思い出す。かつてヴェネツィアにいた頃は、サロンに若き芸術家たちを集めては、夜な夜な芸術談議に花を咲かせたものだ。才能ある詩人や俳優、音楽家まで、当時シエラのサロンに招かれることは芸術家としてのステイタスでもあった。

 シエラはふっと口元にかすかな笑みを浮かべると、気持ちを切り替えるようにリュートを抱え直した。

「それじゃ最後にもう一度、今度はもう少しテンポを上げていくわね」

 ラフィールがこくりと小さく頷いて、短い前奏が始まった。


 バラがひらき

 Quant voi la rose espanie

 青い草と よい天気を見るときに

 L'herbe vert et le tans cler

 うぐいすが鳴くときに

 Et le rosignol chanter

 わたしの美しい恋人が私にせがむ

 A dont fine amors m'envie

 わたしと一緒に楽しみ 遊んでおくれと

 De joie fere et mener

 なぜって――・・・

 Car qui ―――・・・


 リュートの音が唐突にやんで、ラフィールは口をオーの形に開けたまま固まった。何が起きたのかわからず、目を瞬かせていると、

「これはこれは」

と背後から、収穫月の太陽のような豊かなバリトンが部屋に響いた。

「私のつぐみシャハルールはかわいい羽毛だけでなく、見事なのどの持ち主でもあったか」

 くるりと青い目を回し、アルファイドは莞爾として笑った。

 スルタンが日中ハレムに姿を見せるのは珍しいことではない。外出など決まった予定のない日は、内廷と後宮の間にある「境の間」と呼ばれる私室で過ごすことが多いが、気が向けば庭の散策に出たり、今日のようにふらりとハレムに立ち寄ることもあった。

「陛下」

 シエラは優雅に一礼し、目を伏せたまま謝辞を述べた。

「わざわざのお運び恐悦に存じます」

「いや、実を言うと、今日は母上のご機嫌伺いに参った帰りでな。すぐに執務に戻るつもりであったのだ。そうしたらどうだ、天女フーリもかくやという歌声が聞こえてくるではないか」

「ええ、それが――・・・」

 その間、ラフィールは一言も口をきかなかった。

 ラフィールがもう少し幼ければ、シエラのドレスの影に隠れて出てこなかったに違いない。というのも、アルファイドは一人ではなかったからだ。

 一緒にいたのは背の高いしわくちゃの老人で、アルファイドと同じ純白のターバンに絹のカフタンを身に着けていた。ただし、アルファイドが金襴の豪奢なカフタン、馬の目ほどもあるエメラルドの|ターバン飾りを付けていたのに引きかえ、老人の方は服装も装飾品もいたって控えめなものだった。

 ――おとこのひとだ。

 ラフィールは、老人の箒のような白い髭をまじまじと見つめた。

 後宮という隔離された世界の住人であるラフィールが、父親以外の男性を目にすることはまずない。せいぜい弟であるアサドか、ときどき診察にやってくる宮廷医ぐらいだ。

 ラフィールは、アサドのすべすべのほっぺや、宦官のつるりとしたあごを思い浮かべ、もの珍しさを隠そうともせず老人の長い髭を見つめた。

 ハレムに入れる男性はスルタンのみというのが大原則だが、厳密には医者や宗教家など少数の例外があり、また時にはごく限られた重臣を宴会に招くこともある。といってもこのようなことはそう度々あることではなく、アルファイドがいかにこの父親ほども年の離れた大宰相を信頼していたかがわかる。

 ラフィールがなおもちらちら様子を窺っていると、深いしわに埋もれた小さな瞳とぶつかった。

「!」

 ラフィールはぱっと顔を赤らめて、スルタンの長衣の裾にしがみついた。

「これこれ、一体どうしたのだ?」

 ぽんぽんと娘の頭を撫でながら、アルファイドはそれまで無言で控えていた老臣に上機嫌で話しかけた。

「私の小さなシャハルール、いやこれからは夜鶯ビュルビュルとでも呼ぼうか。のう、モハティブ、そちもそう思わぬか?」

「まことに」

 大宰相は穏やかに同意した。

「驚きました。――一瞬、異国の森にでも迷い込んだかと」

 その何気ない口ぶりに秘められた棘に気づいたのは、おそらくシエラだけだろう。

 ハレムで唯一の異教徒である自分が、公用語であるトルコ語以外の言葉で皇女に歌を歌わせる。他意はなかったとはいえ、このことが皇太后の耳に入れば、母親であるセレーネの立場をも危うくしかねない。大宰相の諫言を、シエラは重く受け止めた。

 それ以降、シエラはラフィールに二度と歌を教えなかった。ラフィールもあの時のことがよっぽど恥ずかしかったのか、自分から進んで歌おうとはしなかった。

 シエラがリュートを弾く横で、長椅子に寝そべったラフィールがスケッチにいそしむ。そんな日常がまた戻った。

 ひとつだけ以前と変わったことといえば、スケッチしていて熱が入ると、無意識にハミングが口をつくようになったこと。そんなとき、シエラはリュートの音色を弱めて、足並みを合わせるようにゆっくりと、遠い異国のメロディを紡ぐのだった。







 その時までラフィールは、薄くてもろい卵の中でまどろむように暮らしていた。

 幼い瞳に映る世界は混沌としていてあやふやで、筋書きのない影絵芝居のようだった。時間の流れはきまぐれで、気が遠くなるほどゆっくりと、いつまでも同じところで足踏みしているかと思えば、いつのまにか冬から夏へと季節は飛んで、今見ているのは現実なのかそれとも夢の続きなのかわからなくなることもしばしばだった。

 弟の誕生は、そんな灰色の世界に突如として色彩をもたらすものだった。

 その日のことはよく覚えている。

 明け方近い昏い夜、ラフィールは祝砲の音で目が覚めた。

 祝砲は7回続いたはずだが、ラフィールが覚えているのは最後の3つだけ。その後祈りを呼びかけるアザーンの声が荘厳な聖歌のように天上を漂い、ラフィールはぼんやりした頭でそれを聞いた。

 昨日はみんなおかしかった。しばらく前から周囲が妙に色めき立っているのは感じていたが、昨夜はついに最高潮に達した。侍女もナージャもピリピリ張りつめて、吊り上がった目じりから青い火花が散っている。

 理由を聞いても、なんでもないの一点張りで、誰も何も教えてくれない。ただ一人、母だけがいつもと変わらず、彼女の周りだけが静謐な空気を保っていた。

「姫さま、起きてくださいな。晴着に着替えるんですよ」

 ラフィールは不機嫌だった。

 気が高ぶってなかなか眠れず、やっとうとうとしたところを叩き起こされたのだ。

 ナージャはぐずるラフィールをものともせず、さっと服をはぎ取るとハマムにぽんと投げ入れた。それからたっぷり小一時間、むっとするような蒸気の中、皮ふが剥けるほどごしごし体を擦られた。

 茹で上がってぐったりしたラフィールに、ナージャがてきぱきと服を着つけていく。冷たいレモネードを口にして、ようやく人心地ついたラフィールは、この日初めて意味のある台詞を口にした。

「なにがあったの?」

「皇子さまがお生まれになったんですよ」

「おうじさま?」

「姫さまの弟君ですよ」

 汗の浮いた顔を誇らしげに輝かせて、ナージャは答えた。

 こうしている間にも、贈りものの長い行列が続々と運ばれてくる。それはあっちへ、これは向こうへと、贈りものを振り分ける侍女たちの黄色い声で、部屋中ひっくり返したようなかしましさだった。

 圧巻は、スルタン、皇太后、大宰相から献上された三つのゆりかごだ。それぞれ寝具が収められ、金糸の刺繍が施されたキルトで丁重に覆われている。中でもスルタンから送られたものは、豪華さの面でも美しさの面でも飛び抜けていた。

 金のゆりかご。宮廷の工房で、職人たちが知力の全てを振り絞り、粋を凝らし、贅を尽くした逸品だ。

 外側は金の板でくまなく覆われ、その上には唐草模様をかたどった金の装飾版がふんだんに貼りつけられている。さらにその表面には、ダイヤモンドやルビー、エメラルド、トルマリンといった大小さまざまな宝玉がこれでもかといわんばかりに散りばめられ、目も眩むような輝きを放っていた。

 それは美しい作品だった。単に美しいばかりではない。帝国の巨大な富と権力、地上における神の影とまで言わしめたその威光が見る者を圧倒し、惹きつけてやまなかった。

 皆が皆、うっとりとゆりかごに見とれている中で、ラフィールは早くも退屈し始めていた。

 母さまはまだもどらない。

 一体いつ帰ってくるのだろう。そう考えて、ラフィールは初めて昨日の夜から母の姿を見ていないことに気づいた。

 実際は夕食後、日没の祈りマグリブの前にはすでにセレーネは中庭のあずまやに居を移していた。

 ハレムでは臨月が近づくと、出産に備えて専用のあずまやが準備される。あずまやは清潔に整えられ、銀製の桶や水差し、キルトや出産用椅子といった必需品が運び込まれた。

 出産は翌日未明、生まれたのは男子。スルタンにとって二人目の皇子誕生だった。

 男子誕生の知らせはたちまちのうちに宮廷中を駆け巡った。雌羊五頭が生贄として捧げられ、祝砲が7つずつ計五回、一昼夜にわたって撃ち鳴らされた。さらに、未だ夜の気配の残る中、廷丁が大声でその知らせを触れまわったため、日が昇るころには都中の知るところとなっていた。

 子どもを産み落とした後、母親のすることはほとんどない。赤ん坊は、産婆の手から乳母の手へと引き継がれ、母親にはしばしの休息が与えられる。その間、さまざまな儀式的行事が執り行われ、宮廷は祝賀の華やかな熱気に包まれた。

 結局、母子がそろって部屋に戻り、ラフィールが初めて弟と対面を果たしたのは、その日の昼近くになってからだった。

 セレーネはもともと母親としてはごく淡白な質で、日頃からスキンシップの類はほとんどない。そのためセレーネの体の変化にもほとんど気づかず、いざ弟が生まれると聞いても、それがどういうことなのか具体的なところはなにもわかっていなかった。セレーネの、ふっくらといくぶん丸みを帯びたおなかに、自分と同じような子どもがもうひとり入っているなんて、ほとんど途方もないことのように思われた。

 だからいざ、ゆりかごの前で、産着に包まれたピンク色のふにゃふにゃした生き物を見たとき、ラフィールは信じられない思いだった。

「姫さま、弟君ですよ」

 ゆりかごをのぞき込み、おそるおそる手を伸ばしかけて、ラフィールはキャッと小さな悲鳴を上げた。

 人さし指を、クモの子のような小さな指が、ぎゅっと万力のような力で握りしめていた。

 ――なんてつよい力。

 ラフィールは驚きも忘れ、感心した。

 こんな小さな体のどこに、これほどの力が隠されているのだろう。

 指はぎゅっとカミツキガメのように食い込んで、なかなかもぎ離せなかった。

 一本一本引き剥がして、やっと自由を取り戻すと、まるで生木を裂かれたように赤ん坊はわっと泣き出した。

 凄まじい声だった。

 ラフィールはただ目を丸くして、この初めて見る、小さくて得体のしれない、だがなぜか強烈に引きつけられる存在を見つめた

 ラフィール3歳。まどろみという安寧からさめた、それが彼女のはじまりの記憶。

 以来、彼女の心臓は常にアサドの白い手に握られている。


「アナイス、きいて! 弟ができたの!」

 アサド誕生から数日、未だ祝宴の興奮冷めやらぬある日、ラフィールは喜び勇んでアナイスにこの大ニュースを伝えた。

 アナイスはとうに耳にしていたらしく、ただ表情を曇らせて、もの言いたげな、迷うようなまなざしでラフィールを見るだけだった。

 ラフィールはなぜそんな顔をされるのかわからなかった。

 ――アナイスも喜んでくれると思ったのに。

 アサドが生まれて、ラフィールの生活は一変した。

 それまで暮らしていた側室用の部屋を出て、新しく移った部屋は専用の中庭と小部屋が3つも付いていた。ハレムではおそらく皇太后のスイートに次いで二番目にいい部屋だ。

 そこは以前、アルファイドのかつての愛妾が住んでいた部屋で、彼女はセレーネが身ごもる何年も前に最初の皇子を産んでいた。その子はとうに成人し、皇太子の地位についている。

 トルコの慣習として、皇子たちは十五になるとララと呼ばれる傅育掛に伴われ、地方に総督として赴任する。その際、生母は息子についてハレムを出るのが習いだった。

 部屋は長いこと使われていなかったはずだが、女官たちの手によって隅々まで清められ、全てにおいて心地よく整えられていた。特に床には上等な毛皮が何枚も敷かれ、足腰を冷やさぬよう細心の注意が払われていた。

 変わったのは部屋だけではない。侍女の数は以前の倍、国庫から支給される手当は使いきれないほどの金額で、その気になればセレーネは何でも欲しいものを手に入れることができた。

 周りの態度も変わった。それまで廊下ですれ違ってもにこりともしなかった女たちが、てのひらを返したように愛想を振りまき、用事はないか手は足りているかとご機嫌伺いにやってくる。そうかと思えば、皇太后の悋気を恐れ、極力関わり合いになるまいとする者もいて、女たちの反応は様々だった。

 その中で宦官たちだけは今までと変わらず、静観の構えを崩さなかった。

「ねえねえアナイス、おへや見にきて。とうさまにおしゃべりする鳥もらったの。いっしょにおかしたべようよ」

 アナイスは袖を引っぱる小さな手を、硬い表情で見下ろした。

 宦官である彼は、ラフィールの耳には決して入らない、いくつかの話を知っていた。

 たとえば、ゆりかごにあった縫い針の話。

 縫い針は寝具の上からぶっすりと、抜き身の短剣シミターのように突き刺さっていた。

 幸い使用する前に乳母が見つけて事なきを得たが、鋭すぎる切っ先は見る者を芯から慄え上がらせた。

 ゆりかごは皇太后から贈られたものだった。

 これは脅しであり、いわばデモンストレーションの一種であって、明らかに本気ではない。だが、こうまであからさまに殺意を見せつける、そのやり口は明らかに常軌を逸したものだった。

 ここハレムで、我れと我が子を守りきるのは、スルタンの寵愛を得るのと同じくらい難しい。

 他人の欲望に踊らされ、自らの野心に灼きつくされて、気がつけば血で血を洗う争いにいやおうなく引きずり込まれていく。

 アサドの誕生はこの先降りかかる無数の災厄の発端であり、彼らの本当の受難はまさにその瞬間始まったのであった。


 アサドの誕生で身の回りに様々な変化が訪れたが、ラフィールはほとんど気にもとめてなかった。

 ラフィールの意識は全てこの新しく目の前に現れた生き物に向いていた。

 それまで眠っていた感情や感覚の全ては、まるでこの時のために取ってあったかのように、こんこんとわき出でてアサドの上に降りそそいだ。

「わたし、ラフィール。あなたのねえさまなの、わかる?」

「姫さま、いくらなんでも無茶ですよ。まだ目もお見えにならないのに」

 乳母に笑われ、ラフィールはむっつりした。

 こんなにぱっちり目をあけているのに、見えないなんてへんなの。

 はやく目が見えるようになるといいのに。

 はやくわたしのことわかるようになればいいのに。

 ねえさまってわたしのことを見て、よんで、おいかけて、ああはやくそんな日がくればいいのに。

 生まれて間もない弟は、たいてい寝てるか泣いてるかお乳を飲んでいるかのどれかだったが、そんなアサドをラフィールは、あやし、抱っこし、でたらめな子守唄を歌って寝かしつけるまねをした。

 あやす方もあやされる方もどっちもどっちだったから、見ている方がハラハラしたことだろう。

「まあまあ姫さま、そんなにお世話をやかれたら、私どもの仕事がなくなってしまいます」

「どうして、ばあや? いなきゃこまるわ。わたしじゃお乳はでないもの」

 ナージャなどは、ラフィールがあんまり弟にべったりなのを心配して、事あるごとにお尻を叩いて部屋の外へと追い出した。

「さあさ姫さま、アサドさまの面倒は私どもにまかせて、たまにはお日さまでも浴びていらっしゃい。子どもは遊ぶのが仕事ですよ」

 離れるのが嫌で、最初はなかなか外に出たがらなかったが、もともと好奇心の人一倍強いラフィールのこと、迷路のようなハレムを探索する楽しみを見つけるまで時間はかからなかった。

 アナイスはこういう時、絶好の案内人であり導き手だった。

 誤算だったのは、赤ん坊もいずれ歩けるようになることを失念していたことだ。

 アサドが生まれて2年が経とうという頃、事件は起こった。

 その日ラフィールがいつものように散歩から戻ると、部屋の中はテーブルをひっくり返したような大騒ぎだった。アサドが部屋を抜け出したまま、戻らないと言うのだ。部屋には大勢いたはずだが、アサドが出て行くところを見た者は誰もいなかった。

 子守をしていた若い女官は、ほとんど半狂乱だった。

 ほんの数分うたたねしていただけなのに、と泣きじゃくりながら彼女は何度も同じことをくり返した。

 なぜいなくなったのかわからない。今日は朝からご機嫌で、食事も残さず平らげたし、寝つきもすごくよかったのに。

 ラフィールはその答えを知っていた。弟は自分を探しに行ったのだ。引きとめようとぐずるアサドに、ラフィールはすぐ帰るからと言ったのだ。

 いなくなってからすでに三十分が経過していた。宦官にも知らせたので、見つかったらすぐ連絡が入るはずだが、まだ何も言ってこない。

 誰かに何か言われる前に、ラフィールは弾かれたように飛び出していた。


 皇太后は鬱々としていた。

 こめかみに錐揉むような鈍痛を感じる。昨日今日始まったものではない。あの女が――サフランのような金色の髪に水晶の肌を持つあの女が、後宮にやってきて以来ずっと絶え間なく続いている痛みだ。

 最近は特にひどい。母親と同じ目の色、髪の色をしたあの呪われた子どもが誕生して以来、はらわたが煮えくりかえって、今にも喉元をせり上がってきそうだ。

 あの女は、一体どれだけ私のことを苦しめれば気がすむのか。夫と息子を奪っただけではまだ足りず、この上さらに皇位まで。

 5年前、娘が生まれた時はまだ平静でいられた。

 娘など何人生まれたところで、飼育されている家畜が増えた程度のことだが、生まれたのが男となると話は別だ。もはやスルタンの寵が移るのを待つなどといったような悠長な真似はしていられない。

 長年の鬱積した憎しみは煮つまって発酵し、もはや溢れ出すぎりぎりのところまで来ていた。

「今日は久しぶりにお庭に出てみませんか? 皇太后さまのお誕生日に陛下がお植えになった早咲きの薔薇が、今日あたりほころびそうだということですわ」

 穏やかな陽ざしを浴びれば、少しは気も晴れるかもしれない。

 女官の勧めに、皇太后は白色絹紗の外衣エンタリの上に、白貂の毛皮の縁飾りのついたゆったりとしたローブを羽織り、かかとの高いビロードの靴を履くと、仕上げに象牙の柄のついた孔雀の羽扇を手に取った。こうして外出の装いが準備万端調ったところで、螺鈿細工の扉がゆっくりと開かれた。

 瞬間、廊下の端をさっと過った小さな影を、皇太后の鋭い眼は見逃さなかった。

「おやまあ、これはどうしたことかしら」

 皇太后は蕩けるような笑みを浮かべて、ゆっくりと歩み寄った。

 柱の影には子どもが一人、怯えて縮こまっていた。薄いヴェールをすっぽりかぶり、しゃがみこんで震えている。

「薄汚いネズミが一匹」

 ばさりとヴェールがむしり取られて、つやのある金の頭があらわになる。

 そのとたん、言葉にならない激昂が皇太后の胸を貫き、気がつけば衝動のままに白い手を振り上げていた。

「出ておいき! ここはおまえのような者の来るところではない!」

 ばしっと乾いた音がして、扇から羽が数枚飛び散った。

 次の瞬間、足下に跳ねとぶように転がったのは、輝く金の巻き毛ではなく、もつれた黒い髪だった。

「ねえさま!」

 ガラスを引っかくような悲鳴に顔をしかめ、ラフィールはよろよろと立ち上がった。

 頭の中がくらくらする。顔全体、中でも頬と唇が焼けた砂でもなすりつけたみたいに熱い。口の中に鉄の味が広がって、どこか切ったのだとわかる。

 間に合ってよかった。ラフィールは心底そう思った。

 ちょっとすり傷をこしらえただけでビービー泣くような子だもの。血なんか出たらひっくり返って、一日二日起き上がれないに違いない。

「ねえさま、いたい? だいじょうぶ?」

 だいじょうぶ、とうなずくと、じわりとアサドの目がにじみ、とたん、火がついたように泣き出した。かすかな衣ずれの音がして、はっと顔を上げると、皇太后が立ち去っていくところだった。

 何事もなかったように取り巻きたちを引き連れて、冴えた横顔には先ほどの激情のあとはみじんもない。

「まったく躾のなってない」

 皇太后は振り返りもせず聞こえよがしに言った。

「ペットならペットらしく部屋につないでおくことね」

 泣きじゃくるアサドを抱きかかえたまま、ラフィールは足音が完全に聞こえなくなるまで石のように動かなかった。


 部屋に戻ると何も聞かずに、ナージャは傷を手当した。

「もうこんなとこ、いたくない! わたしたち、一生ここから出られないの?」

「出られますとも」

 腫れ上がった頬に冷たい湿布を当てながら、ナージャはそう請け合った。

「ほんと? いつ?」

 目を輝かせるラフィールに、時期がきたらとナージャは言った。

「ひめさまが年頃になれば、陛下がきっと良いお相手を見つけてくださいます」

 結婚すればハレムから出ていけると、ナージャはそう言っているのだ。

 皇女の結婚はほとんどが政略的なもので、夫となる男はスルタンが選定する。皇女はたいてい自分よりずっと年上の有力な政治家と結婚したが、だからといってこの結婚が必ずしも不幸なものであるとは限らなかった。結婚してからも皇女は生涯その身分を保障され、結婚すれば妻は夫の持ち物として絶対服従を余儀なくされるイスラム社会において、他のどの女性よりも多くの自由を享受できたからだ。

 だがそんなことは今のラフィールにはほとんど意味がなかった。

「なあんだ」

 ラフィールは肩を落として丸くなった。

 結婚なんて、そんな先のこと想像もつかない。年頃になるって、あと2年? 3年? それまでずっと今日みたいなこと我慢しなきゃならないの?

「そんなにあせらなくても、いつかはここを出ていけますよ」

ナージャは何もかもわかっているというように、ぶたれた頬をやさしく撫でた。

 そんな二人のやりとりを弟は黙って横で聞いていた。

 これが薬となったのか、それ以降アサドは二度と部屋を抜け出そうとしなかった。抜け出そうにも、誰かしらそばにぴったり張りついて、一人になる間を与えなかったというのが本当だが。

 そしてそれは二人がハレムを出る日まで長いこと続いたのであった。







 目を閉じれば、時を経てなお鮮やかにまぶたに浮かぶ黄金の一日。

 一見華やかで雲の上のような生活も、その内情は決して甘いものばかりではない。

 けれどその日は今思い返してもまちがいなく、幼年期における最も輝かしい瞬間の一つだった。

 その夜、スルタンの大広間で盛大な宴が開かれた。

 皇太后やセレーネ、その他主だった愛妾たちが一堂に会し、正面の台座には、黒貂の毛皮で縁どられた真紅のローブに身を包んだアルファイドが、ゆったりと人々を見下ろしている。その腰には金剛石の散りばめられた短剣、白いターバンの飾り毛にはエメラルドとルビーが燦然と輝き、この壮年のスルタンの自信と威厳を引き立てていた。

 スルタンの隣には皇太后、反対側には母がいて、乳母に抱かれたアサドにナージャ、それにシエラもそこにいる。スルタンの前で座ることを許されないオダリスクたちは黙って壁に寄りかかり、生ける彫像のように楽の音に耳を傾けていた。

 体の芯を揺さぶるようなあの独特の楽の音。ラフィールはその不思議な音楽を、大きな繻子のクッションに埋もれるようにして聞いていた。

 女楽士サゼンデたちの奏でるそれは、聴く者の心を絡めて離さない妖しい魔力を秘めている。楽の音に合わせ、踊り子たちの色鮮やかなスカートが、広がりながらくるくると円を描くのを眺めていると、ラフィールは半分酔っ払ったような奇妙な浮遊感に襲われた。

 流れる色彩の輪舞、アンクレットの鈴の音、手拍子のしびれるようなリズムと脈動、女たちの汗と脂粉と龍涎香の混じった甘い匂い――・・・・・・。

 その華やかさ美しさは、とてもこの世のものとは思えない。触れればはかなく霞と消える、一夜のまぼろしのようだった。

「私は果報者だ」

 何もかもが銀粉をまぶしたようにきらめく青い月明かりの下で、アルファイドの声だけが朗々と響いた。

「徳篤き母に玲瓏たる月のような妻、それにふたつの明星までこの手に抱いているのだから」

 ふと目をやった視線の先に、セレーネの抜けるように白いうなじが飛びこんできた。

 豊かに波打つ金の髪を今夜は珍しくアップに結い上げ、貝殻のような可憐な耳朶があらわになっている。その耳朶の先に月明かりを吸って銀色の灯火のように輝いているのは、大粒の涙のようなダイヤモンドだった。

 ドロップ型の巨大なダイヤの周りには金の蔦が絡まり、朝露のような真珠の粒がきらめいている。金剛石は紫味を帯びた希少性の高いもので、双つそろうと色味を増して冴え冴えとした菫色に輝いた。この至高の宝石はアサドを出産した折にスルタンから下賜されたもので、女奴隷たちの嫉妬を恐れなかなか身につけようとしなかったのを、今回スルタン自身から強く乞われて身につけたものだった。

偉大なるわが王に栄光あれスブハーナ ラッビヤ=ルリアジーム

 唱和する歓呼のさざめき、笑い声。

 それは一見非の打ちどころのない幸福の情景。月が雲に隠れる前に、最後の煌めきを放つように。

 それが家族が顔を合わせた、最後のハレムの夜だった。


 それは突然のしらせだった。

 ヴェネツィアとの友好の証として、長らくハレムで預かりの身であったシエラの身柄が、本国に返還されることに決まったのだ。

 ラフィールは事の次第を呆然として聞いた。なだめるナージャの言葉も一切耳に入らなかった。

「あちらも荷作りやなんかでお忙しいでしょうから、今までみたいに押しかけてご迷惑かけるんじゃありませんよ」

 もちろんおとなしく言うことを聞くようなラフィールではなかった。

 ナージャの監視をかいくぐり、久しぶりに訪れたシエラの部屋は、刃こぼれしたくしのようにあちこち物が欠けていて、知らない部屋のようだった。

「来たのね、ラフィール」

 シエラは来るのが分かっていたような口ぶりで、にこりと少女に微笑んだ。

「今日はロクムとヘルヴァがあるの。たしかあなた、ピスタチオ入りが好きだったわよね」

 ロクムは木の実や薔薇水、ピスタチオなどの入った一口大のゼリー菓子、ヘルヴァはすり胡麻に砂糖と香料を混ぜて作った、サクサクした口当たりの練り菓子だ。どちらもすごく甘いのに、ふたつめみっつめとつい手が出る菓子だった。

 招き入れられるままラフィールは、クッションをいくつも重ねた長椅子の、定位置となった場所に腰を下ろした。

「不思議ね、最初はこんなに甘いもの、食べられたものじゃないと思っていたのに」

 シエラは乳香樹ミルラの香料入りを一つかじって苦笑した。

 円卓はすっかり片づけられていて、タピスリーや額縁も全て壁から外されている。部屋の隅には梱包された道具類がいくつも積み重なっていて、ラフィールは突如、痛いほどの鮮明さで、シエラがここから本当にいなくなってしまうのだと悟った。

 ラフィールの青ざめた顔を見て、シエラは隣に腰を下ろすと、粗布にくるんだ包みを差し出した。

「あなたにもらってほしいものがあるの」

 包みの中身は見なくてもわかる気がした。ラフィールが初めて部屋を訪ねた日、二人で眺めた女性の絵だ。

 何かに強く焦がれるような、遠くを見つめるそのまなざし。

 あの瞬間、自分たちは確かに同じものを見て、同じ気持ちを共有したと思っていたのに。

「私のこと、怒っているでしょうね」

 驚いたように何か言いかけたラフィールを、シエラは穏やかに遮った。

「いいのよ、それが当然だわ」

 ラフィールはその時初めてシエラを見て、彼女がひどく傷ついていることを知った。

 ――私は罪深いことをした。

 外の世界を知らない小鳥にさんざん世界の美しさを見せつけた挙句、再び自由を取り上げるほど残酷なことがあろうか。

 ――この子は私を憎むだろう。

 それはシエラの想像以上に鋭い痛みをもたらした。

 そして彼女は、合理的人間の見本のようなこの自分が、目の前の子どもにすっかり心を移していることを知った。それはほとんど愛情と呼んでもさしつかえないものだった。

 あなたは私を憎むでしょう。

 でもいつの日か叶うなら私のことを許してほしい。

 いつかあなたが大人になって、私のエゴも愚かさもわかってくれる日が来たら。

「だからその絵を持っていて」

 ラフィールはまだあまりにも幼くて、言われた意味がわからなかった。

 ただ、肩に置かれたぬくもりがあまりにも心地よくて、このぬくもりが消えるのがさびしいと思っただけだった。


 シエラの帰国に際し、多くの者が別れを惜しみ、その幸運を羨んだ。彼女は持ち物の多くを処分し、ハレムの者に分け与えたため、表立って彼女のことを悪く言う者は一人もいなかった。

 シエラが手元に残したのは、身の回りのものがいくつかと、楽器や陶器など特に大事にしているものが数点、それにラフィールが描いたスケッチのみだった。

 セレーネは餞別に素晴らしい飾り布チェヴレを送った。

 オーガンジーの薄布に、水仙、アマリリス、チューリップラーレなどの花々を絹糸と金糸で刺繍したもので、セレーネはこれをシエラの帰国が決まってから二ヶ月かけて縫い上げたのだった。

 刺繍されたのはどれも、後宮の庭で自然に見かける花ばかり。世界各地から集められた、ヴェネツィアでは聞いたこともないような珍しい花々に、来たばかりの頃はいちいち足を止めて見入ったものだ。そんな自分につきあって、辛抱強く隣にたたずんでいたセレーネの姿が、昨日のことのように目に浮かぶ。

 最後の日、セレーネは見送りに現れなかった。

 この頃セレーネは三人目の子を妊娠中で、激しいつわりとめまいのため、床につくことが多くなっていた。その状態で刺繍などしたものだから、病状はさらに悪化し、起き上がることもままならない有様だった。

「あのひとにくれぐれもよろしくと伝えて」

 シエラは最後までセレーネの体のことを気にかけていた。

「何かあったら連絡をちょうだい。私はいつもあなたたちの味方よ」

 抱きしめられた体は温かく、いい匂いがして、ラフィールは鼻の奥がつんと痛んだ。

 親しい人との別れなどついぞ経験したことのないラフィールにとって、それが初めての喪失の痛みだった。


 シエラがいなくなって、ハレムは火が消えたようだった。

 ラフィールは目に見えてふさぎ込み、部屋にいることが多くなった。ハレムのどこに行ってもシエラの気配がまとわりついて、思い出すのがつらかったからだ。

 同じ理由で描くのもやめた。画帳と画材はもらった絵とまとめて布に包みこみ、見えないところにしまい込んだ。

 ラフィールのそんな変化を周りの大人は心配し、アサド一人が喜んだ。いっしょにいる時間が増えたからというのがその理由だ。一方ナージャは元気がないのは栄養が足りてないせいだと決めつけ、一日三回、口のひん曲がりそうな薬湯を飲ませようとする始末だった。

 しかし部屋にいたところでラフィールの気が晴れることはなかった。

 安定期に入ってもセレーネのつわりは一向に治まる気配はなく、薄暗い部屋の中、侍女たちはささやくように会話した。物音ひとつ立てるのにも気を使うような生活が、走り回るのが大好きな育ち盛りの子どもにいいはずはない。こうしてラフィールの神経は徐々に先細っていった。

 そしてある日、たまりにたまった鬱憤がついに弾ける時がきた。

 ――こんなところになんかもう、一秒だっていたくない。

 それはほとんど暴力的といっていいほどの衝動だった。腹の底から突き上がる、今まで感じたことのない激しい感情。気がつくとラフィールは発作的に部屋を飛び出していた。

「姫さま!?」

 背後で誰かが声を上げたが、ラフィールは振り返らなかった。

 ハマムへ向かう女たちの横をすり抜け、乾いた石畳の上を裸足のまま駆け抜ける。階段を上り、バルコニーを通って、ラフィールは曲がりくねった狭い廊下を右へ左へとひた走った。

 一人になりたいと思った時、頭に浮かぶのはいつだって同じ場所だ。自分だけの秘密の隠れ家。空に一番近い場所。

 そしてそれがほんの鼻先、あの角を曲がってすぐというところで、次の瞬間、ラフィールはその場に凍りついた。

 階段は跡形もなく崩れ去り、よどんだ暗がりに瓦礫の山が墓標のように横たわっていた。


 あのあと、怖くなって逃げるように部屋に戻った。

 しばらくは頭がまっ白になって何も考えられなかったが、一日たち二日たち、最初の痺れるような衝撃が抜けると、だんだんあれが本当にあったことなのか自信が持てなくなってきた。

 だって理由がわからない。あんな誰からも忘れ去られた階段を、どうしてわざわざ壊そうなんてする?

 確かめに行かなくちゃ。けれど頭ではそう思っても、いざ出発しようとすると足がすくんで、ふたたびあの場所を訪れたのは何週間もたってからだった。その時には瓦礫の山はすでになく、どこに階段があったのかもわからなくなっていた。


 セレーネの流産が明らかになったのは、それから程なくのことだ。

 長く患った末に、胎児は死亡、母体であるセレーネの体にも深いダメージを残した。スルタンは深くこれを悲しみ、くれぐれも体をいとうようにと高価な毛皮や毛織物をふんだんに遣わした。他にも病床の慰めとなるような花や果実が折々に届けられ、今回のことで気落ちした部屋の者たちを大いに元気づけた。

 ラフィールも何かしたかった。考えた末、ラフィールは外に出られない母のために季節の香りを贈ることにした。朝一番に庭に出て、その日開いたばかりの花を病床に届けるのはラフィールの役目だ。持ち帰る花がきりりと締まったアマリリスからひらひら浮かれた金魚草になる頃には、シエラのことも階段のこともうっすら霞がかったものになっていた。

 ある朝ラフィールが庭から戻ると、部屋の中は香ばしいバターの匂いで満ちていた。

「わあ、すごい! どうしたの、これ?」

 ラフィールのすばしこい目は、たちまち銀盆いっぱいのお菓子の山を発見した。

 ナッツたっぷりのパイ生地にとろりと糖蜜をかけたおなじみのバクラヴァの他、ピスタチオやクルミ入り、砕いた木の実をくるくる巻いて焼き上げた「宰相の指ヴェズィール・パルマウ」なんてものもある。

 中でもバーデム・タトルスと呼ばれる焼き菓子は、生地の中にアーモンドを練りこんだ焼き菓子で、かじるとサクッと香ばしく、口の中いっぱいに濃厚なバターの香りが広がる。ハレムの数ある菓子の中でも、ラフィールの一番好きな菓子だった。

「陛下からですよ。さっき使いの者が来て、冷めないうちにお召し上がりくださいって」

 ばら色の頬をした若い侍女がにこにこしながらやってきて、両手で花を受け取った。彼女も甘いものが大好きなのだ。

「すぐに召し上がりますか?」

「うーんと、アサドは?」

「奥様とハマムヘ」

「じゃあ待つ」

 そう言いながらラフィールは、湯気を上げている焼き菓子を軽い気持ちで一つつまんだ。

「食べてはいけません」

 不意に手首をつかまれて、ラフィールはびくりと肩を跳ね上げた。

 横を見ると、いつのまにそこにいたのかアナイスが硬い顔で立っていた。

「届いたのはこれだけですか?」

「だと思うけど…」

「なら全部捨てなくては」

 アナイスはさっとお菓子をもぎ取るや、叩きつけるように足下へ投げた。

 ラフィールがあっけに取られていると、騒ぎを聞きつけた猫がのどをゴロゴロ鳴らしながら足に頭を擦りつけてきた。

 ハレムでは女たちの無聊を慰めるため、猿やコウノトリ、異国の珍鳥やガゼルなどさまざまな動物が飼われている。中でも、しなやかで、優美な尻尾を持ったアンゴラ種は女たちのお気に入りのペットで、部屋から部屋へ猫たちは我が物顔に出入りした。

 少々意外に聞こえるかもしれないが、実はラフィールはあまり猫が好きではない。

 鳥籠にすぐいたずらしようとするからというのが一つ。もう一つは他でもない、皇太后が猫好きというのがその理由だ。聞くところによると、何でもさる国の大使から贈られたという愛猫に、毎晩手ずからブラッシングしてやっているのだとか。

 無心に玉を取るところや、寝ながらピスピス鼻を鳴らしているところはたしかに可愛いとは思うが、他の女たちのように、ところかまわずキスしたり、頬ずりしたいとは思わない。

 猫は甘い匂いに気がつくと、ヒゲをぴくぴく震わせて、ぺろりと欠片を嘗めとった。とたん、夢中になって食べ始めたものの、長くは続かなかった。

 ギャーッ!と絹を裂くような、およそこの世のものとも思えない絶叫が上がったかと思うと、猫は床をのたうち回り、白目を剥いて絶命した。ふわふわの毛が全身固く逆立って、まるで別の物に変じたかのようだった。

 ラフィールはいっぺんに血の気が引いて、くにゃりと膝が抜けかけた。アナイスが素早く肩で支えたが、寒くもないのに体が震えて、貼りついたように猫から目を離すことができない。

「姫さま」

 アナイスはつかんだ腕を揺さぶって、自分に注意を向けさせた。アナイスがこんな強引な真似をするのは初めてのことだった。

「姫さま、よく聞いてください。これからは、人にもらったものや見慣れないもの、口にするものは特に注意が必要です。今回は運よく私が居合わせましたが、次もまた幸運に恵まれるという保障はないのですから」

「どういうこと?」

 いつもと違うアナイスに、ラフィールはむくむくと不安がわき起こるのを感じた。

 アナイスは、以前、あの秘密の階段に行くのを止めたときと同じ、怖いくらい真剣なまなざしをしていた。白目の部分が透きとおるように青みを帯びて、黒目が砥いだばかりの刃のように鋭さを増すのだ。

 目を合わせるのはほとんど苦痛に近かったが、ラフィールは構わずその目を見返した。

「もう会う必要はないと言われました」

 誰にとは、言われなくてもラフィールにはわかった。

 アナイスたち宦官は、大宦官の意志の下、一つに統括されている。そこに個人の意志はなく、感情が考慮されることもない。

「本当は、ここにこうしていることも許されないことなのです」

「どうして!? なんでいきなりそんなこと! 今までそんな話、いちども――・・・」

 アナイスは何も言わない。

 その時、ラフィールは唐突に理解した。

 大宦官がアナイスに言い渡した言葉の本当の意味。

 彼は判断を下したのだ。もはやこれ以上ラフィールを、ひいてはセレーネたち母子を守る必要はないと。

 いつの頃からか、薄々気づいてはいた。廊下で道に迷ったり、暗くなるまで庭で遊んでいたりすると、決まってアナイスがやってくる。幼い頃はなんとも思わなかったが、そういつも都合よく現れるはずがない。

 彼は見張っていたのだ。

 アナイスは警護を兼ねた監視役として、長い間ラフィールの傍で影となり日向となって働いてきた。表面上はあくまで遊び相手を装って、ラフィールに関するありとあらゆる情報を大宦官に報告していたのだ。

 彼ら宦官は時勢を読み、常に有利な方につく。今まではスルタンの寵愛厚い愛妾としてセレーネ側だった彼らが、なぜここにきて翻意したのか、それはわからない。はっきりしているのは、セレーネの置かれた立場が今後ますます厳しいものになるだろうということ。ラフィールとアサドの身にも危険が及ぶ可能性があるということだった。

「・・・もう、会えない?」

 すがるように袖をつかむと、射干玉色した瞳孔がさざめくように瞬いた。

「わたしはどこへも行きません」

 艶のあるなめし革のようなてのひらが、なだめるように手の甲を覆った。

「わたしが会いにこれなくなって、もし会いたいと思われても、決して探したりしないと約束してください。なにも本当にいなくなるわけではないのです。――わたしの居場所はここだけですから」

 離れる前のほんの一瞬、掠めるように触れていったやわらかな指先――それがラフィールの憶えている最後の彼の記憶となった。


 セレーネの流産以来、部屋に立ち込めていた陰鬱な空気は、この一件でさらに深刻さを増した。あの日部屋に届けられた焼き菓子の贈り主は結局わからないままで、そのことがいっそう女たちの不安を煽った。

 侍女たちの間で囁かれる、不安、恐怖、猜疑心。猫の次は自分ではないかと女たちは恐れおののき、ちょっとしたことで泣き出したり、不眠を訴える者もいた。

 そんな空気が伝わったのだろうか。アサドが最初の発作を起こしたのはちょうどこの頃だった。

 季節は夏から秋への変わり目、日差しが弱まったとたん、ボスフォラスからの海風が冷気を帯びて吹きつける。だから最初、アサドがぜいぜい言い出したときは、てっきり風邪かなにかだと思いこんでいた。

「胸がヒューヒューいってるよ」

 ラフィールはぺたりと耳をくっつけて、アサドの胸の音を聞いた。

「こわれた笛の音みたい。くるしい?」

 うん、とアサドは答えたとたん、顔を真っ赤にして咳きこんだ。

 嫌な咳だとナージャは思った。

 いつものコンコンいうのとは違う、痰のからんだ重い咳。小さい子どもというのは元々熱の出やすいものだが、今日は呼吸が苦しいせいか特に辛そうだった。

「姫さまはもうお休みください」

「もうちょっと」

 アサドの様子が気になって、とても眠れそうにない。ナージャもそれ以上強くは言わず、アサドの隣で眠れるように寝具を整えてくれた。

 熱は夜中にさらに上がった。

 呼吸のたび、薄い胸がふいごのように上下して必死に息を吸い込もうとするのだが、のどの粘膜が腫れ上がって充分な空気を取り込めない。苦しがってのどを引っかくものだから、はだけた胸に幾筋も血のあとがにじんだ。この頃になると、ナージャもさすがに異変を察して侍医に使いをやっていた。

「アサド、だめ。血が出ちゃう」

 止めようとするラフィールの手を嫌がり、闇雲にアサドが手足を振り回す。振り上げた拳ががつんとこめかみに当たり、ラフィールはとっさにぱっと手を放した。

 発作が起きたのはその時だった。

 それから医者が来るまでの数分あるいは数十分、成すすべもなく見守るしかないあの恐怖を、ラフィールは一生忘れないだろう。

 アサドの目が急に釣り上がり、くるんと裏返ったかと思うと、背骨がぴんと反り返ってガクガク痙攣を始めたのだ。それは、あの毒入りクッキーを食べて絶命した猫の、最期の姿に酷似していた。侍女たちは怯えきり、中にはヒステリーを起こして泣き出す者までいた。

 痙攣を止めようにも、手足はぴんと突っ張って押さえることもできない。何度目かの格闘の末、はね飛ばされたラフィールは、しりもちをついたまま、恐怖とどうしようもない無力感で立ち上がることもできなかった。

 発作は五分ほど続いた。

 それからまもなく医師が到着し、いくつかの適当な処置を施すと、症状はあっけないほど迅速に収まった。

「ぜんそくですな」

 老医師はしわだらけの手を白布で拭い、そう診断を下した。

 そして、この発作が主に天候の変化や精神的ストレスが引き金となって起こること、発作が起きたらまず衣服を緩め、水分をたくさん飲ませて痰を切れやすくすることなどを説明した。

「むずかしいびょうきなの?」

 ラフィールの問いに老人は目元を緩めてかぶりを振った。

「ご安心なされ。どんなに激しい発作に見えても、それで命を落としたりするようなことはめったにございませぬ。何度か発作をくり返して、神の思し召しのままにインシャッラー、大人になる頃には消えてなくなることでしょう」

「本当でございますか?」

 気遣わしげにナージャが横から口をはさんだ。老人は気分を害した風もなく、鷹揚に頷いた。

「まず間違いなく。アルファイド様も、先の皇帝陛下におかれましても同様でございました」

 侍医の言葉に嘘はなく、処方された飲み薬に滋養ある食べ物、それにここ何日かの穏やかな日和で、アサドの体調はめきめきと回復した。

 アサドのお相伴に預かって三度目のおやつを食べながら、ラフィールはふと、ここ何日も鸚鵡にえさをやっていないことに気づいた。

 あわてて鳥籠に目をやるが、いつもの場所にそれがない。

「ナージャ、オウムは? どこへやったの?」

 ナージャは素早く辺りに目をやり、早口で言った。

「片づけましたよ。一週間も前にね」

 ラフィールは言われた意味がわからずに、「え?」と思わず聞き返した。

「猫ですよ。いつもエサをたかりにくる、あの白猫の仕業です。決まってますよ。あの猫には上等のキリムを何枚ダメにされたやら…」

「ちょっと待って、何のこと?」

 ナージャはひとつ言葉を飲み込んで、早口に言った。

「朝目が覚めると、そこらじゅう羽根が散らばってましてね。みんなが起きてくる前に急いで片づけました。こんなときだし、騒ぎにしたくなかったんですよ。あの後すぐアサドさまが発作を起こされて、それどころじゃなくなりましたし」

「・・・・・・死んだってこと?」

 ラフィールは信じられない思いで、鳥籠があったはずの場所を見た。

 猫がいたずらするからと、置き場所にはいつも気を配っていたのに。いったいなんでと口にしかけて、ラフィールはハッと顔色を変えた。 

「それってほんとにネコがやったの? この前みたいに・・・じゃなくて?」

「姫さま!」

 ナージャが怖い顔でラフィールをにらんだ。

「いいえ、猫です、まちがいありません。引っかいたような跡があったし、猫っていうのは自分より弱い生きものを見ると、いたぶり殺さずにはいられないもんなんですよ」

 ナージャは強い口調で言い切ると、話は終わったとばかりにパンパンと手を叩いた。

「さあさ姫さま、元気を出して。起きちまったことはどうにもなりゃしません。甘いものでも食べて、外で遊んでいらっしゃい」

 ナージャの話はとうてい納得できるものではなかったが、これ以上大事にしたくないのはよくわかった。

 鸚鵡がいないことに皆気づいていないはずはないのに、誰も何も言わないのがかえって妙だった。

 妙といえば、心を揺さぶる出来事が立て続けに起こっているのに、思ったほど取り乱していないのが我ながら不思議だった。その瞬間は衝撃で息もできないほどなのに、二、三日もすればとたんに曖昧模糊として、心が凪いでしまうのだ。

 今思えばそうやって無意識のうちに自分を守っていたのだろう。でないときっと耐えられなかった。ぽっきりと心が折れていたに違いない。

 シエラからもらった絵のことを思い出したのは、ちょうどそんな時だ。

 どうして忘れてたんだろう。いったん思い出すと矢も楯もたまらず、その場で包みを開けたくなった。けれど、みんなの前でそうすることは、なぜだかひどく恥ずかしいことのように思われた。

 幸い明日は金曜日。その日は正午に集団礼拝があって、エザーンが流れる時間になると皆モスクに移動する。妾も奴隷も出払って部屋が無人になるその時なら、他の誰にも邪魔されず、ゆっくりあの絵を見られるはずだ。そう考えるとわくわくして、ラフィールは久しぶりに気持ちが浮き立つのを感じた。

 さて当日。ラフィールはいったんみんなと部屋を出た後、人込みに紛れ、こっそり部屋に舞い戻った。

 辺りに人がいないのを確かめ、長椅子の下からごそごそ包みを引っぱり出す。包まれていた布をほどき、現れた絵を目にしたとたん、ラフィールは頭が真っ白になった。

 絵は、何が書かれてあったのかもわからないほどズタズタに切り裂かれていた。

 表面のキャンパス地は何度も切りつけられたせいで、布地がめくれ裏の木枠が覗いている。同梱されていた画材も同様で、スケッチブックだけは奇跡的に無事だったが、コンテやチョークは折れてバラバラ、木炭は砕けて粉状になっていた。

 ――だれが一体、こんなこと?

 ラフィールは今はもう原形さえ留めない、かつて美しかったものたちの欠片を震える指でかき集めた。

 階段のときと同じだ。

 目の前の残骸が、自分が大事にしてきたものの変わりはてた姿だと認識したときの、息が止まるほどの衝撃。

 それが今度は部屋の中、アサドやナージャが寝起きする、まさにこの場で起きたのだ。

 ラフィールは恐怖が吐き気のようにこみ上げるのを感じた。

 ――いやだ、どうして? こわい、こわい・・・・・・!

 シエラ、とほとんど無意識に少女は小さく名を呼んだ。口に出した瞬間、ああ、いないんだと新たな失望がわき上がって、くたくたと体から力が抜けるのを感じた。

 シエラはいない。アナイスも。あの秘密の隠れ家、わくわくと胸躍る冒険の舞台だった階段も今はどこにも存在しない。

 ふと床の上に目をやると、散乱したスケッチに点々と指紋の跡がついていた。

 さっき端切れをかき集めた時、炭粉で指を汚したのだ。黒い粉は爪の中まで及んでいて、シエラと出会って間もない頃のことを思い出させた。

 あのときシエラは、ヘンナでオレンジ色に染まった手を取り、こう言ったのだ。

 ――まあまあ、一体何をやらかしたの?

 あたたかい、やさしい手だとその時思った。

 リュートの弦を押さえるから指の腹は少し硬いけど、白くてふっくらなよやかな貴婦人の手だ。

 そのなつかしい指の感触、肩に置かれたてのひらの重みがまざまざとよみがえって、気がつくとラフィールは大きくしゃくり上げていた。

 シエラはいない。もう会えない。心の奥深く、押し込められていた悲しみが、今ようやく出口を見つけ、奔流となってラフィールの心をかき乱す。

 ラフィールは泣いた。

 言葉を知らない獣のように、頑是ない子供のように。

 まもなく皆が帰ってくることも、その後起こる騒ぎのことも、その時ばかりは全て忘れて、ラフィールはただただ声を振り絞り、こぶしを握って泣き続けた。







 猫の吐しゃ物から相当量の砒素が検出された。

 医師団からそう報告を受けた時も、大宰相は眉一つ動かさなかった。結果は予測の範疇で、すでにある疑惑を裏づけたにすぎなかった。

 半年ほど前、ハレムの医師から初めてセレーネに毒を盛られているふしがあると聞いた時も反応は同じだった。

 さもあらんと彼は思った。むしろ今までよくもったものだとも。

 大宰相モハティヴ=ハッルーンは、皇太后の若かりし頃を知る数少ない人物で、その誇り高く火のような気性を熟知していた。だから事を重く見たスルタンにひそかに調査を命じられた時も、一筋縄ではいくまいと眉を曇らせただけだった。

 予想通り調査は難航を極めた。

 侍医の所見では、セレーネはすでに重度の砒素中毒に侵されており、毒物は少量ずつ長期にわたって摂取された可能性が高いとのことだった。

「おそらくアサドさまの出産直後から・・・」

 侍医はさらに声をひそめ、先の流産も毒物による疑いが濃いことを告げた。

 死んだ胎児は男子だった。この一件に限って言えば、皇太后のもくろみはまんまと成功したわけだ。

 流産以来セレーネは体調を崩し、しばしば夜のお召しにも応えられないほどだった。

 症状はのどの渇き、冷汗、腹痛、嘔吐、排尿時の痛みなど多岐に渡るが、そのどれもが砒素による中毒症状に一致した。

 まずはなんとしても毒物の混入を防がねばならない。

 モハティヴは毒の経路を突きとめようと、厨房からセレーネの部屋まで随所に見張りの宦官を配し、徹底的に見張らせた。その他にも菓子やシロップ水(シェルベット)、化粧品から手洗い用の水に到るまで、口に入る可能性のあるものは全て厳しく検めた。

 その結果、毒物の痕跡はゼロ、毒見にあたった奴隷たちは皆ピンピンしていた。

 ――毒は食物に含まれていたのではなかったのか。

 毒を盛るのに、なにも飲み物や食品に混ぜるだけがやり方ではない。くしや指輪に塗布したり、肌着に毒をしみ込ませたり、方法は幾通りもあるのだ。

 モハティブは途方に暮れた。毒がどんな形状で、どう投与されたのかもわからない今、混入した経緯を突きとめるのは至難の業だ。

 セレーネの病状は日に日に重くなっていく。あとは毒を盛った本人から話を聞く以外ないが、それは毒を見つける以上に不可能な話だった。

 もしかりに皇太后を追いつめる確かな証拠があったとしても、一介の従臣である自分がスルタンの母后を追及することはできない。スルタンも、たとえこのままセレーネが死ぬことになっても母親を糾弾することはないだろう。愛妾一人と実の母親、天秤にかけるまでもない。そしてそのことを皇太后自身もよくわかっていた。

 ――結局、今度もあの方の思惑どおりというわけか。

 モハティヴは半ばあきらめ混じりにこの結果を受け止めた。

 そんな彼が初めて動揺を見せたのは、猫の検屍に関するある一言がきっかけだった。

「して、毒はどの菓子に混入されておったのだ?」

「全てにございます」

 大宰相は沈黙した。

「・・・全てとな?」

「ひとつ残らず」

 今度の沈黙は長かった。

 現場にあった焼き菓子は、アーモンド入りのやくるみ、ピスタチオを挟んだもの、糖蜜がけ等取りまぜてざっと三十個はあった。

 セレーネはもともと食が細い上、砒素の影響で慢性的な吐き気と胃痛に悩まされていたから、菓子のほとんどは同室の者たちの口に入ったことだろう。

 そこまで考えて大宰相は慄然とした。

 皇太后の狙いはセレーネだけではない。彼女のふたりの子どもたちにまで及んでいたのだ。運悪く侍女の誰かが食べたとしても、その者たちのことなどはなから眼中にないのだろう。

 流産の報告を受けた時の、スルタンの悲しみに歪んだ顔が頭に浮かんだ。

 もはやこれは愛妾一人の問題ではない。皇子の命、ひいては帝国の基盤をも揺るがす一大事だ。

 医師を下がらせ、部屋の香炉が燃えつきた後も、モハティヴは一人物思いに沈んでいた。

 やがておもむろに矢立てからペンを抜くと、広げた紙に最初の一文を書き始めた。


「ねずみが嗅ぎ回っているようだね」

 長く垂らした黒髪をいくつも侍女に編み込ませながら、皇太后は目だけで笑った。

 卵白を用いた美容液と朝夕二度のマッサージのおかげでしわはほとんど目立たない。ほどくと腰まである髪は、染め粉の世話になっているとしてもまだまだ豊かで艶がある。

「宦官たちはとりあえず様子見といったところか」

 手鏡をためつ眇めつ眺めながら、皇太后はひとりごちた。

 大宰相が毒物の究明を進めていると知ってなお、彼女は余裕を崩さなかった。

 もし万が一、全てが明るみに出たとしても、誰も自分に手は出せない。彼女は、自分の息子が決して母親を断罪するような真似はできないことをよく知っていた。

 もっとも、毒の所在さえ明らかにできない連中だ。何ができるとも思えないが。

 皇太后には絶対の自信があった。

 その気になればセレーネなどとっくに始末できていた。そうしなかったのは、のどが爛れ髪が抜け、胃の腑が灼けるあの苦しみを、できるだけ長く味あわせたかったからだ。

 シュヴァルの息子たちに与えたような、恩恵に満ちたすみやかな死をくれてやる気はさらさらなかった。

「もういいわ。お下がり」

 皇太后は犬でも追い払うようにさっさと侍女を下がらせると、鏡台の引き出しから宝石箱を取り出した。真珠母貝を嵌めこんだ七宝焼きの箱の中には、宝石の原石と思しき赤い結晶が収められている。

 皇太后はしばし無言でそれに見入った。

 ――なんて鮮やかな赤い色。あれから何十年もたつというのに少しも色あせてはいない。

 その石の名は鶏冠石レアルガル。目の覚めるような赤色からルビーサルファーとも呼ばれるそれは、かつて彼女がシュヴァルの一イクバルにすぎなかった頃、ジプシーの老婆にもらったものだった。

 当時彼女は16才。陰謀とはまるで無縁のうぶな少女で、母親のことや遠いふるさとを思いだしては一人涙に暮れていた。

 彼女が生まれたのは、バルカン半島に点在するスラヴ系君公国のひとつ。歴史があるといえば聞こえはいいが、目立った資源も産業もなく、周辺国家との軋轢や貴族たちによる内乱で、民たちはすっかり疲れきっていた。

 彼女の上には姉が四人、そのうち二人が未婚であったが、シュヴァルが所望したのは末のヘレナであった。彼女の美貌は幼いころから評判で、その噂は遠くアナトリアまで轟いていた。彼女の名前であるヘレナも、元はといえば美貌で鳴らした曾祖母の名にちなんだものだ。

 ヘレナは建国以来綿々と続く血筋にも、誰もが誉めそやす美貌にも、少女らしい密かな矜持を持っていた。

 だが、その矜持は後宮に入ったその日に粉々に打ち砕かれた。

 故国からの長く険しい旅を終え、後宮入りしたヘレナを待っていたのは、老練な宦官による念入りな身体検査だった。

 歯はそろっているか、肌に疵はないか、体はどこも健康か。それに何より正真正銘の処女であるか、じっくり検められるのだ。

 小一時間もの検査が終わるころには、疲労感と屈辱でヘレナは息も絶え絶えの有様だった。

 シュヴァルから最初のお召しがあったのは、それからまもなくのことだ。

 ヘレナがシュヴァルとまともに顔を合わせるのはこれが初めてだった。

 それまで何度か宴会の場で、女たちを脇に侍らせているシュヴァルを見かけたが、ヘレナはかたくなに目をそらせ、決して顔を上げようとはしなかった。どこの馬の骨ともわからない娼婦のような女たちと同席させられるだけでも屈辱なのに、同じように媚を売るなどまっぴらだ。

 そして迎えた運命の日の当日、ヘレナは宦官に伴われ、一人ハマムへ赴いた。夜の準備のためということだが、くわしくは知らされていなかった。

 そこでヘレナを待ちうけていたのは、さらなる屈辱の上塗りだった。

 イスラム教では、人目にさらさないところに毛を生やしておくのは罪深いこととされ、脇や鼻、耳の中まで脱毛する。赤くなるまでゆであげられた後、敏感になった肌に焼けつくようなペーストを塗りたくられ、何も知らないヘレナは悲鳴を上げて逃げ惑った。

 敬虔な正教徒として、また五世紀もの歴史ある王家の末裔として、真綿でくるむように育てられた彼女にとって、この扱いはほとんど陵辱に近かった。

 恐怖と羞恥に慄く裸身に、女奴隷たちはさらに香油を塗り、コロンをふりかけ、体の芯が疼きだすまでしつこく揉みほぐした。

 そうして化粧をほどこされ、夜着を着て、輿に乗せられる時分には、気力も尽きてまるで屠殺場に連れて行かれる豚になった気分だった。

 寝台の上は上掛けが大きく盛り上がっていて、シュヴァルが寝ているのがわかった。

 ヘレナは寝台の脇にたたずみ、今すぐ走って逃げ出したい衝動と戦った。

 好色な異教徒にこの身を汚されるくらいなら、いっそ一思いに舌でも噛んでしまおうか。――いや、だめだ。もしそうなれば祖国は直ちにトルコ軍の猛攻を受け、住民は虐殺、美しかった大地は焦土と化すだろう。

 ヘレナは絶望をあきらめとともに飲み下すと、覚悟を決めて寝台に上がった。教わったとおりそっと布団のすそをめくり、おずおずとその身をすべりこませる。――と、そのとたん、すごい力で腕をつかまれ、気がつくと寝台に仰向けに押し倒されていた。

「待ちかねたぞ」

 粘ついた声が耳朶を掠め、ヘレナはぞっと総毛立った。とっさにはねのけようともがいたが、上に重石でものっていように体はびくともしなかった。

「よしよし、噂にたがわず活きがいい。少しばかりししが足りぬが、なに、じき円みが出てくるだろう」

 シュヴァルは新しく手に入れた獲物に満足げに、なおもぶつぶつ言っていたが、ヘレナはそれどころではなかった。

 傍若無人な男の手が、みずみずしい処女おとめの肌を愉しみながら下へ下へと這い降りていく。

 そのあまりのおぞましさにヘレナが必死でもがいていると、パン、と乾いた音がして目の前が真っ赤に弾け飛んだ。

「焦らしているつもりか?」

 殴られたショックで硬直しているヘレナの腹に、シュヴァルは片足を上げてのしかかった。

「やんごとなき血筋の王女も、山出しの奴隷女もやることはそう変わらぬな」

 分厚い肉の塊が再び覆いかぶさってきて、むっとするような体臭がヘレナの全身を包んだ。

「存分にかわいがってやる」

 そして地獄が始まった。


 シュヴァルとの悪夢のような初夜は、ヘレナの心と体に大きな傷を残した。

 あの後、ヘレナは一週間ほど床につき、しばらくは用を足すのもままならないほどだった。

 あれ以来、スルタンのお召しはない。

 最初こそそのことに安堵を覚えたヘレナだが、じきにそれはチリチリとひりつくような焦燥に変わった。女たちの自分を見る目に気づいたからだ。

 手はついたもののそれきりお声がかからない女への、蔑むような哀れむような冷ややかなまなざし。それはヘレナの女としての自尊心を粉々に踏みにじった。

 一夜を共にしたことで個室と奴隷は与えられたが、多淫多情のシュヴァルのハレムでその種の女はごまんといた。

 最近では、部屋にいると、女奴隷の愚痴とも慰めともつかない繰り言を延々と聞かされる羽目になるので、もっぱら庭を散策するのがヘレナの日課となっていた。

「もし、そこないと高貴なる御方」

 ちょうど糸杉の前を通りかかったときのことだ。

 足元から突然嗄れた声がして、何気なく目をやったとたん、ヘレナはぎょっと後ずさった。

 そこにいたのは、今まで見たこともないような、醜い、猿に似た老婆だった。

 とんがった鷲鼻に腐った魚のような眼、いびつに並んだ乱杭歯はところどころ欠けている。黒い衣にすっぽり身を包んだその姿は、幼いころ読んだ絵本の中の魔女そのものだった。

 陸の孤島にも等しいハレムだが、時たまこうして占い女や物売りなどが入り込むこともある。変化に乏しい後宮で、彼らの訪問は外界の風に触れる数少ない機会であり、よほどのことでないかぎり衛兵も目をつぶっていた。

 ヘレナは一瞬、無視して通り過ぎようかと思ったが、好奇心がより勝った。

「私に何か用なの?」

 老婆チンゲネはぬめった鱗のような目でじっ・・・とヘレナを見つめた後、おもむろに口を開いた。

「お嘆きめさるな、貴きお方。そなた様はまれに見る強運の持ち主であらせられます」

「なんですって?」

 きっとまなじりを吊り上げて、ヘレナは老婆を睨めつけた。薄汚い乞食ふぜいが何を言う。怒りに頬を紅潮させたヘレナを、老婆は平然と見返した。

「もしその気がおありなら、この婆めがいくらでもそなた様のお力になりましょう」

 老婆はヘレナの手を両手で押しいただくようにして持つと、ヘレナが我に返る前に痩躯を揺らして去っていった。

 ――おお、いやだ。一刻も早く部屋に戻って、薔薇水で手を洗わなくては。

 ヘレナは無意識に腰帯の裾で拭おうとして、初めて手に何かを握りしめていることに気づいた。

 こぶしを開くと、そこには流したばかりの血のような赤い石がぬらぬらと輝きを放っていた。一瞬それが自分の血に見えて、ヘレナは鋭く息を呑んだ。

 ――あの老婆のしわざだわ。

 ヘレナはとっさに投げ捨てようとして、寸でのところで思いとどまった。そして自分でもなぜだか理由がわからないまま、結局部屋まで持ち帰った。

 うるさい侍女を追い払い、石をまじまじ眺めていると、胸の奥から何かが陽炎のように立ち上るのを感じた。それは今までふたをしてきたさまざまな思いであり、感情だった。

 ――お父さまは私を見捨てた。

 紛争の長期化と相次ぐ財政改革の失敗。そのツケを私一人に押しつけて、お父さまは悪魔に娘を売ったのだ。

 最後まで目を真っ赤に泣き腫らしていたお母さま。けれどその目には、ひそかな安堵が浮かんでいなかったか。これで王家は晴れて安泰、身の安全は保障され、いつ国庫が空になるかと頭を悩ます必要はない。

 姉たちは異教徒の妾として引き渡される妹を不憫に思いつつ、誰も自分が替わるとは言い出さなかった――・・・。

 腹の底からむくむくと怒りがわき上がってくる。

 不思議だった。この石を見ていると、これまで物分りのいいふりで無理矢理飲みこんできた思いが堰を切ったように次々とあふれ出していく。

 それは胸につかえていたものをようやく吐き出しきったような、不思議な爽快感だった。

 同時にヘレナは、心の深いところからひたひたと不思議な力がみなぎってくるのを感じていた。

 ――私は、古の王家の血脈を受け継ぐ者。その名を汚し、軽んずる者を私は決して許しはしない。

 ヘレナの思いが高まれば高まるほど、結晶はますます赤くみずみずしく、その輝きを増していくように思われた。

 程なくして、スルタンから二度目の呼び出しがあった。

 宝石と黄金で飾りたてられた豪奢な寝台の上で、ヘレナは前回とは打って変わって大胆に、ほとんど淫奔なほど乱れてシュヴァルを悦ばせた。

 男の硬い肉の下で木の葉のように揺さぶられながら、ヘレナはまぶたの裏に炯々と燃える赤い火を見ていた。

 二月後、ヘレナの懐妊が確認された。

 ヘレナ自身が兆候に気づいたのはそれより前で、確証を得たヘレナがまずしたことは、あの老婆と再び会う手はずを整えることだった。

 産まれるのは絶対に男でなくてはならない。

 妊娠が発覚した当初から、それだけがヘレナの望みだった。

 女など何人産んだところで、生母が顧みられることはない。ハレムでの地位を不動のものにするには、なんとしても皇子を産んで、その子を玉座につけることが必要なのだ。

「いくらでも力になると言ったわね」

 眼前に引き据えられた老婆を見下ろし、ヘレナは傲然と言い放った。

「なら今がそのときよ」

 以来、老婆の姿はたびたびハレムで見かけられるようになった。

 老婆は来る度、匂い袋やら怪しげな人形ひとがたの描かれた護符といったものを持参して、肌身離さず持っているよう言い含めた。ヘレナは内心眉唾物だと思っていたが、万が一でも可能性があるならと黙って指示に従った。

 その甲斐あってか、半年後、ヘレナは玉のような男の子を産み落とした。

 直ちに妾から側室に取り立てられ、部屋は一回り大きなスイート、片手に余る数の女奴隷を与えられた。

 だが、このささやかな勝利にいつまでも安穏としてはいられなかった。

 スルタンにはすでに皇子が二人いて、そのうち一人は割礼も間近の、次期皇太子と目されている少年だった。

 後ろ盾のない、生まれたばかりのこの子に王座が回ってくる確率は限りなく低い。                       

 ヘレナは今度もまた老婆に知恵を求めた。

「この婆めにおまかせあれ」

 次に姿を見せた時、老婆は懐に小さな包みを忍ばせていた。包みの中身は、粒のあらい、ざらめによく似た粉末で、これがヘレナが砒素という実に有効な手段を手にした最初の瞬間だった。

「これは砒素と申しましてな。無味無臭、水に溶けても濁りませぬ。これを毎日ほんのひとさじ、お食事に混ぜるだけでよいのです。さすれば見る見る生気は薄れ、最後にはゆるやかに心の臓が止まりましょう」

 もしこの時へレナが三年早く生まれていたら、何も言わずに包みを処分し、老婆とは二度と会わなかっただろう。同様にあと三年も若ければ、ことの重さに震え上がって、ささやかな野心など吹き飛んだに違いない。

 だが実際にはヘレナは十九、十分に帝位を狙える皇子の母で、必ずや頂点まで上りつめるという決意と、そのためにはすべてをなげうって顧みない苛烈さをあわせ持っていた。

 この時のヘレナには、後年あり余るほどに持つ、富も知識も人脈も何一つ手にしてはいなかった。だが運命は彼女に最良の導き手を用意していた。

 老婆はヘレナに、世の中には二通りの人間しかいないこと――すなわち搾取する側とされる側――を教えてくれた。

 奪われるのがいやならば、手段を選ばず弱みを突いて、相手を完全に支配するのが肝要だとも。

 誰にどんな弱みがあるか、老婆は不気味なほどよく知っていた。

 そういった者たちのほとんどが老婆の顧客であり、いかに多くの人間がたやすく他人に心を許すか空恐ろしくなるほどだった。

 ――では、おまえは? 

 ――ひとごとみたいな顔をしているが、自分はそうでないとでも言うつもりか?

 突如わいて出たその声に、ヘレナは瞬間火のような怒りを感じた。

 ――いいや、自分は彼らとは違う。

 操るのはこの私。ここへきたのが運命なら、皇子を得たのも私の運命。必ずや息子を帝位に担ぎ上げ、この国を影から支配してみせる――・・・!

 数日後、夜にまぎれるようにしてひとりの娘がやってきた。

 年の頃は十五、六、見るからにおどおどした様子で、部屋に通されてからも立ったり座ったりと落ち着かない。

 しばらく娘を観察していたヘレナは、単刀直入に切り出した。

「母親の具合がよくないそうね」

 ビクッと娘の肩が揺れた。

「たしかおまえはプレブナの出だったわね。あのあたりは干ばつ続きで暮らしも楽ではないでしょう。それでなくても妻子がいて病気の母親がいて、おまけに幼い兄弟姉妹まで抱え込んでるんじゃ、お前の兄も大変ね」

 実際、彼らの生活はすでに抜き差しならないところまできていた。

 長年積み重ねてきた借金で田畑はすでに人手に渡り、一家そろって首をくくるか、じわじわ飢え死にするのを待つかという状況のはずだ。

 黙ったままの娘に、ヘレナは一拍置いて言った。

「私が用立ててもいいわ」

 娘がはっと顔を上げるのに構わずヘレナは続けた。

「かわりにちょっとした頼みごとがあるの」

 娘は第一皇子とその母に仕える女奴隷の一人だった。臆病だがまんざら馬鹿でもないらしく、皇子の水差しに入れるよう例の薬を渡したときも、蒼白な顔で頷いただけだった。

 最初は何も変わらないように思えた。

 薬の効き目はゆるやかで、せいぜい風邪を引きやすくなったり腹がゆるくなったりする程度だった。はじめはビクビクしていた娘も二月三月たつうちに、毎朝水差しに混ぜるそれが毒だという認識すら薄れていたに違いない。

 かりそめのモラトリアムは、集団風邪という形で終わりを迎えた。

 住人たちには共通して、発熱、嘔吐、下痢などの症状が見られたが、中でも皇子の衰弱はひどく、呼吸困難を伴う発作を何度かくり返した後、力尽きたように亡くなった。

 結論から言うと、集団風邪そのものはこちらの意図したことではない。だがまったく予期していなかったかといえば嘘になる。

 トルコでは基本ナイフやフォークは使わない。食事はすべて手づかみで、右の手指を使用する。水差しの中に混入した砒素は手を洗うたび指に付き、食物といっしょに口に入る。体内に蓄積された砒素は免疫を壊し、臓器を蝕み、徐々に体を弱らせていく。

 抵抗力が落ちているから軽い風邪でも命取り。何人も罹患したのに一人だけ症状が重かったのはそのためだ。

 集団風邪の一件が隠れ蓑となり、皇子の死は病死という形で粛々と処理された。

 同じ頃、旧居住区の階段の下で、うら若い女の死体が見つかった。

 明かり取りの窓もなく、うっかり足でも踏み外したのだろうと人々は噂したが、なぜ彼女がそんなところにいたのか疑問に思う者は誰もいなかった。


 第一皇子の死から三年、二人目の皇子が急死した。腎不全だった。

 生来病弱な質だったとはいえ、七つやそこらでと首をかしげる者もいないではなかったが、いたずらに事を荒立てるよりはと皆一様に口をつぐんだ。その中には後の大宰相、モハティヴ=ハッルーン=パシャの名もあった。

 妙だと囁かれ始めたのは三人目、アルファイドの異母弟にあたる嬰児が生後四週間目にして突如死亡してからだ。乳母が用足しにほんの数分ゆりかごから目を話した間に、吐いたものをのどに詰まらせ窒息死したのだ。

 今度こそ追及の目が向くかと思われた矢先、乳母が自ら首を吊って死んだ。赤ん坊の死に責任を感じてのことと思われた。ヘレナは持てる限りの力を尽くして事態の収拾にあたった。今や唯一の皇子の生母という威勢も大きかった。

 ヘレナにとって思わぬ追い風となったのは、シュヴァルの“調査の必要なし”という鶴の一声だった。

「これ以上くだらぬことで儂を煩わせるな」

 シュヴァルは宰相たちのいる前で傲然と言い放った。

「息子などこの先いくらでも作れる。二人や三人失ったとて造作もないわ」

 こうして毒殺騒ぎの真偽は、形になる前にうやむやになった。

 しかしいったん口の端に上った噂はそう簡単には消えなかった。ヘレナの威信を恐れ誰も口には出さないが、黒い噂は燠火のようにその後も長くくすぶり続けた。

 そしてそれは幼いアルファイドにとっても同様だった。少年の胸に芽生えた不信の芽は、年を経るにつれ成長し、成人した後もちくちくと彼の頭を悩ませた。

 今や毒はヘレナにとって、扱いは難しいがきわめて忠実な猛獣のようなものだった。

 その牙が鋭ければ鋭いほど、危険であればあるほど行使したときの快感は大きい。自分には人を殺せる力がある。その事実はどんな愛撫や賞賛よりヘレナを恍惚とさせた。

 皇太后は箱に収めた赤い石にもう一度だけ視線をやり、名残惜しげに蓋をした。

 鶏冠石は乾燥や光に弱い鉱物で、その鮮やかさを保つのは至難の業とされている。しかも衝撃に弱く壊れやすいため、たまに取り出して眺めるにも格段の注意を払っていた。

 彼女にとってこの石は幸運の護符そのもの。思えば彼女の運命は、この石を手にしたときから始まった。

 かつてヘレナと呼ばれていたうぶな娘はもういない。

 今や彼女は栄誉ある後宮の女主人として、数百人もの女たちの上に君臨し、その影響力はハレムのみならず帝国全土に波及する。

 ヘレナが嫁いでのち、祖国は数年自治領として最後の足掻きを見せた後、帝国に属国として取り込まれた。国王夫妻は幽閉され、小国とはいえ正妃として嫁いだ姉たちの行方は杳として知れない。

 戻るべき国も家族も失って、残されたのはこの身一つ――。

 そういえばあの老婆は面白いことを言っていた。

 すべてを手にしたつもりでも、人は結局その手につかめるだけのものしか所有することはできないと。

 ならばこの石は人生そのもの。今まで積み上げてきたすべてといっても過言ではない。

 砒素と硫黄からできた禍々しい毒の宝石。欲望をあおり憎しみをかきたて、犠牲者たちの血が流れるたび石はいっそうの輝きを放つ。

 これ以上私にふさわしい宝石があろうか。

 私は皇太后。帝王の母。後宮300人から成る女たちの頂点に立つ存在。その地位を脅かす者は誰であろうと容赦しない。

 過去、身の程知らずにも、この私を追い落とそうとした愚かな者たち。

 秘密をかぎつけた侍女、ゆすりを働こうとした若い宦官、皇子たちの死因を密かに探らせていた哀れな母親たち。最後の仕上げとして、ただ一人事件の全貌を知る老婆を始末して、すべて終わったとその時は思った。

 邪魔者は消え、証拠もない。この先二度と手を汚すことはないと信じていたのだ。

 あの女が現れるまでは。

 これでもずいぶん我慢した。息子の在位中、その治世を血で汚すことだけは避けたかったから。なのにあの女、汚らわしい淫売が息子さえ産まなければ――!

 毒は脱毛剤ルスマに混ぜた。

 脱毛剤を調合する女官を一人買収するのは実に容易なことだった。

 女は病的な盗癖の持ち主で、従わせるにはほんの少しそのことをほのめかすだけでよかった。ハレムでは盗みは重罪、拘束され、運が悪ければそのまま一生を終えることもあった。

 脱毛剤を選んだのは、すぐに洗い流されるからというのが一点、もうひとつは使用する頻度が高いためである。最低でも月に二度、熱心な者は週に何度もハマムへ通って自慢の肌に磨きをかけた。

 その際用いられたのがルスマと呼ばれる鉱物で、これに生石灰と水を混ぜ、ペースト状にしたものを肌に塗って使用した。

 ルスマにはもともと微量の砒素が含まれ、長時間貼りつけたままにしておくと皮膚が黒ずんだりするが、女官に渡したのはそんな生易しいものではなかった。純度だけなら過去に老婆が持ってものよりはるかに高い。ユダヤ人の工房で医薬品として抽出・精製されたのを直接仕入れた逸品だ。

 一回に使う量はほんのわずか。しかし徐々に蓄積されていくそれは、美しかった肉体を確実に蝕んでいった。

 あの女の命も残りあとわずか。

 今頃になって老いぼれが横槍を入れてきたが、何をやってももう遅い。

 脱毛剤はすでに回収し、痕跡は完璧に消した。もし出たとしても握りつぶせばいいだけの話である。

 のらりくらりと日和見を決め込んでいた宦官どももセレーネに先がないとようやく気づいたのか、最近では打って変わって恭順の姿勢をとっている。

 宦官。あのおぞましくも醜怪な、冷酷非情の不具者ども。

 後宮に入り、初めて彼らを目の当たりにしたとき、ヘレナの胸にこみ上げたのはえずくような嫌悪感だった。

 肉体上の不具のもたらす怒り、執着、喪失感。彼らは卑屈な態度の下に、常に女たちに対する憎しみと歪んだ欲望を抱いている。

 彼らの表面上の従順にだまされてはいけない。彼らの望みは女たちの身の破滅。火のないところに煙を立て、いさかいの種をまくのが彼らの仕事であり、彼らに残された数少ない愉しみの一つなのだ。

 哀れな生きもの。彼らは権力と欲望の生み出したひずみそのものだ。

 何はともあれ、彼らがセレーネを見限ったことで、大宰相の追究は暗礁に乗り上げたも同然だ。

 事はすべて順調に運ぶかに見えた。しでかした事の大きさに女官が怖気づくまでは。

「あのお苦しみよう、私とても見ていられません。いただいたあのお薬が、あんな恐ろしいものだったなんて――・・・!」

 ――馬鹿な女。

 皇太后は銀羅紗の帽子の向きを直しながら、忌々しそうに舌打ちした。

 小心者ならそれらしく、おとなしく引っこんでいればいいものを。

 まあいい、ちょうどいい頃合いだ。面倒なことが起こる前に、さっさと始末してしまおう。

 皇太后はうなじにかかる後れ毛をさっとてのひらで撫でつけると、満足そうにためいきをついて手鏡を置いた。


 それから数日後、ハレムを激震が走った。

 セレーネが大宰相モハティヴ=ハッルーン=パシャに下賜されることが決まったのだ。

 通常、臣下に下されるのはスルタンの手の付いてない女に限られる。今回の処遇は、残り少ない余生を心穏やかに過ごさせてやりたいという、スルタンのせめてもの温情の表れといえた。

 セレーネにはこれまでの長きにわたる献身への報奨として、つつがなくというには十分すぎるほどの年金が付与されることと決まった。加えて毛皮や宝石、衣装など、セレーネがハレムで所有していたものはすべて新居へ持って行ってよいとの仰せだった。

 この破格の扱いに、人々はスルタンの想いが未だセレーネに向けられていることを悟った。

 出発の日、セレーネはわずかばかりの持ち物と寝台だけを積みこんで、住みなれた部屋を後にした。

 本人は輿に横たわったまま、見送る者のないさみしい出立であった。

 本来なら母親に泣いて取りすがったであろう子どもたちはその場にいない。体調を崩し、別棟で療養中というのがその理由だった。

 この分では息子の命も母親同様長くはあるまい。

 女たちはこっそり目と目を見交わして、小声でそう噂した。


「衛兵より先ほど知らせが参りました。馬車アラバは無事、門を出たそうでございます」 

「――そうか・・・」

 アルファイドは玉座に深く背を預け、長々と安堵のため息をついた。

「誰にも気づかれてはおらぬだろうな?」

「今のところは」

 大宰相は重々しく首を垂れた。

 遅かれ早かれこの企てが見破られるだろうことはどちらもよくわかっていた。皇太后の針のように鋭い目はどんなごまかしも通じない。

 だが今しばらくの猶予があれば、少なくとも愛しい者たちをこの場から遠ざける時間は稼げるだろう。毒の経路が明らかになり、二度とこのような事態が起こらないと確信が持てるまで、アルファイドは彼らを呼び戻すつもりはなかった。

「・・・寂しくなるな」

 ややあって、ぽつりとスルタンは呟いた。

 それは地上における神の影と謳われる帝国君主の顔ではなく、どこにでもいる父親の、夫としての顔だった。

「しばらくのご辛抱でございます」

 モハティブはなだめるように言った。

「しばらくとは?」

「おそれながら、あと二月か三月。遅くとも半年後にはご帰還が叶われるかと存じます」

 残念ながら、大宰相の予測した未来は永遠に実現することはなかった。

 彼らが再び家族として暮らす機会はついになく、幸福なまどろみにも似た幼年時代はこうして終わりを告げたのだった。


 宮廷から彼らの姿が消えてまもなく、小さな事件がハレムで起こった。女官が首を吊ったのだ。

 最近仕事に身が入らず、上役から叱責され落ち込んでいたという仲間の証言から、たいした調査もされないまま事件は自殺として片づけられた。

 こうして一人の名もない女の死はあっという間に霧散して、女たちの関心は早くも次の愛妾のことへと移っていった。




第一章・完

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