第13話 母をたずねてバブリシャス

 澄み切った青空と綿菓子のような白い雲、無限の色を秘めながら人の眼には白く映る陽の光。この三つが揃った日を、人はピクニック日和と呼ぶのだろう。

 そんな中、彩萌市記念体育館と隣接する広々とした公園のベンチに並ぶ一組の男女、葉群紫月(はむらしづき)と東雲(しののめ)あゆは、世界の終わりを眺めるような瞳で、視界の中を所狭しと入っては通り過ぎるカップルや子連れの主婦達を見送っていた。

「終わったな、補習」

「終わったね、補習」

 制服姿の二人が盛大にため息を吐く。いまの彼らは、出席日数の欠如による単位の不足と期末考査の赤点獲得によって、進級前の春休みでありながらも自らの母校で補習を受けた帰りだったりする。

 揃いも揃って別の意味で素行不良なのもあって、紫月もあゆも一般的な学校では問題児に近い扱いを最近受け始めている。紫月の場合は主に探偵としての仕事が原因に絡むのだが、あゆの場合はここ最近、以前までの優等生人気者キャラとしての地位をちょっとずつドブに捨て始めている。理由はあえてここでは明記しない。

 紫月は特に訳も無く呟く。

「平和だな」

「平和だね」

 この二人が「平和」の二文字を口にする場合、大抵は大事件の後だったりする。

 さらにぼうっとしていると、何かを見つけたらしい、あゆが小さく唸る。

「お?」

「どした?」

「あれって青葉じゃね?」

 あゆが目線で指した先に見えたのは、二人と同年代くらいの少女が現代式乳母車――つまりはベビーカーを押してのんびりとお散歩しているという変わった風景だった。

 たしかに彼女の顔には見覚えがある。でも、おそらく別人だろう。

「……気のせいだろ」

「なんか、こっち来るよ」

 一旦は二人の前を通り過ぎた例の少女が、ベビーカーと共にいきなりバックして、こちらにすたすたと歩み寄ってきた。

 正面に立つなり、少女が片手を挙げて挨拶する。

「よう、お二人さん。デートの真っ最中かい?」

「葉群君、何か話しかけられてるよ?」

「気のせいだろ」

 無視だ、無視。変な女にはもう関わりたくない。

「葉群君、何で君はさっきから私と目線を合わせてくれないんだ?」

「葉群君、名指しで質問されてるよ?」

「気のせいだろ」

 ベビーカーに乗せられた赤ん坊までガン見してくる。やめてくんない? マジで。

「葉群君、かまって」

「気のせいだろ」

「…………」

 少女はしばらく黙り込んだ後、紫月の顔面にアイアンクローをプレゼントした。

「やあ、葉群君。今日は御日柄も良く、絶好のアイアンクロー日和ではないか」

「すんませんすんませんマジでごめんなさい俺が悪かったです」

 そろそろ頭蓋骨が限界だ。さっきからみしみし音が鳴ってるし。

 青葉が機嫌を取り戻してアイアンクローを解くと、紫月はベビーカーで健やかに眠っている赤ん坊と青葉の顔を交互に見遣る。

 見たところ、赤ん坊は生後六か月といったところか。体格は大きくもなければ小柄でもない。肌色から寝息のリズムまで健康的なことこの上ない。

 赤ん坊をさらに凝視して、紫月は次に、青葉の鉄面皮を上目遣いに覗き込む。

「青葉、お前……」

「先に言っておくが、私の子供ではないぞ」

「見損なったぞ! 他人の子供を拉致って自分の子に仕立て上げ――」

 踵落としを喰らった。鼻血ブー。

「馬鹿か貴様は。何でこの年で私がサイコな誘拐犯に転身せねばならんのだ」

「冗談だって。どうせ知り合いの子供の面倒を見てるとかだろ?」

「それも違う」

「は?」

「まあ事情を説明すると――」

 この時、紫月と青葉は気付いてしまった。

 いつの間にか、あゆが忽然と姿を消しているのだ。

「……東雲さんが居ない」

「奴はいつもこんな感じだ。気にすることは無い」

 気を取り直して、青葉はこれまでの経緯を説明する。

「今朝の話だ。自宅の前で赤ん坊の泣き声が聞こえてな。玄関先に行ってみたらダンボール箱に入れられたこの赤ん坊が放置されていた」

「何じゃそら。つーか、それだったらすぐ警察に届けりゃいいじゃん」

「そういう訳にもいかなかった」

 青葉はベビーカーのポケットから一枚の紙切れを取り出し、紫月に手渡した。

「詳しい状況が把握出来ない状態だったからな。その書き置きに従うしか無かった」

「なになに……? 『警察には連絡するな』?」

 書き置きと称された紙切れには、赤ん坊の名前と性別、前述の要求が記されていた。

「で、シンってのがこいつの名前か」

「おそらく親が付けたニックネームだろう。フルネームを書かなかったのは、書いたら何か拙いことが起きるからだ」

「お前はそれが分かっててそいつの面倒を見てんのか? 絶対にヤバいって、それ」

 紫月から見た貴陽青葉という女子高生は、極めて常識的な感性を持つ良識人だが、稀に神経を疑うような行動や言動に走る傾向がある。今回がまさにそれだった。

「私もそれは重々承知している」

 青葉が珍しく困惑気味に頷く。

「でも、よく考えてみろ。何も分からないままこの子を親元に帰したとしよう。その後、また別のところに捨てられたら? 最悪の場合、殺されるかもしれないんだぞ」

「うーん……」

 普通なら「そんな大げさな」と苦笑するところだが、紫月とて幾多もの死線と人の醜悪に向き合ってきた、言わば『引き返せない境界』に位置する人間だ。もし自分が青葉と同じ立場になれば、きっと彼女と同じ判断を下していたかもしれない。

 それに、さっきも青葉が言ったように、シンちゃん(仮名)を捨てた親の背景が分からない以上は、下手に警察を頼るのも危険な気がする。

「青葉の言うことはまあまあ分かる。で、お前は今後、そいつをどうするつもりだ?」

「必要な情報が集まるまではこちらで保護する。私の親には既に話を通してあるからな」

「なら良かった。ま、精々頑張れよ」

「何を他人事みたいに。君も育児に参加するんだぞ?」

「……はい?」

 何を言われたのか、さっぱり頭に入ってこなかった。

「あの……青葉さーん? よく聞こえなかったんだけど、いま、何を?」

「どうせ補習が終わったら春休みの終わりまで暇なんだろう? 君にも私と一緒にシンちゃんの面倒を見てもらう」

「いや、あのね? 何か当たり前みたいに言ってるけど、俺は別に関係無くね?」

「何だね? 私の旦那役がそんなにご不満か?」

「青葉がお嫁さんはたしかに魅力的かもしれんがそういうことを言ってんじゃねーよ」

「まあまあ、紫月君や。よく考え直してみなさいよ」

 青葉がベビーカーからシンちゃんを抱え上げ、紫月の鼻先に突き出した。

「どうだ? 可愛いだろう」

「だからどうした?」

 「可愛いは正義」とよく言うが、これとそれとは別問題な気がする。

 青葉がさらにまくしたてる。

「こんなにもプリティな純白の天使と短い時間でも一緒に過ごせる機会はそうそう訪れるもんじゃない。いまならいたいけな女子高生のオプション付きだ。さあ、どうする?」

「ごめん。俺、コブ付きに興味無いんだ」

「なんてご無体なっ!」

 青葉が鬼気迫る面持ちで威圧してきた。

「日中は親も仕事でこっちには構っていられない。だからといって育児経験の無い私一人では荷が重い。男の協力無しにはどうにも立ちいかない。これが現代育児の現状だ」

「…………」

 普段は何事も自分一人で何とかすると言って憚らない強情な性格の彼女がここまで食い下がるということは、今回ばかりは本当に独力で攻略出来る範囲を超えているらしい。

 そう考えると、紫月も下手に首を横には振れなかった。

「分かったよ。でも、刻限は今日の夜までだ。理由はそっちも分かってんだろ?」

「充分だ」

 礼の一つも言わず、青葉はいつもの無表情に戻って淡泊にこちらを促す。

「早速買い出しに出よう。オムツやらミルクやら、欲しい物は山ほどある」

「そうだな」

 頷きつつ、紫月は別のことを考えていた。

 こちらが夕刻までの付き合いと宣言したのには立派な理由がある。それまでにこの赤ん坊に関する情報を集め回って成果を挙げられなければ、それこそ警察を通じて福祉施設に送ることを検討しなければならないからだ。いまの話ぶりからすると、そう何日も赤ん坊を保護している余裕が青葉に無いのは火を見るより明らかである。

 青葉は年不相応に聡明だ。勿論、その程度の線引きは理解している筈。

「ぇぅ……ぇ」

 青葉によってベビーカーに戻されたシンちゃんが、ようやく目を覚まして小さく唸る。

 それから間を置かず、

「ぇえエええええええエッ!」

 と、大泣きしてしまった。

「うお、威勢がいいな、コイツ」

「寝起きの悪い奴だ」

 青葉は落ち着き払って、正面からシンちゃんの顔を覗き込む。

「どうした? オムツの時間か? それともミルクが欲しいのか?」

「ふむふむ、なるほど」

 紫月は大げさに首を上下させる。

「おうおう、そうか。お前も違いの分かる男か、そうかそうか」

「? 何の話だ?」

「いいか、青葉。シンちゃんはこう言ってる」

 紫月は満を持して告げる。

「青葉。ミルクの時間だ母乳出せ」

「…………」

 勿論、これは単なる冗談だ。

 しかし、青葉は自らの胸を見下ろし、

「……私、母乳なんて出したこと無いぞ」

「その大きさなら出るよ、きっと」

「マジか。だったら物は試しだ。レッツチャレンジ」

「ごめん俺が悪かった。やらなくていいよ、いやマジで」

 青葉がブラウスのボタンに指を掛けたところで、紫月は彼女の両手首を掴んでその蛮行を全力で阻止する。

「何だ? 君は私の搾乳プレイを見たくはないのか?」

「さっき自分で出したことが無いって言ったばかりだろうが……!」

「やってみなければ分からんだろう」

「分かった。もう二度とセクハラしないから、とりあえずボケをボケで返すのだけは止めてくれないか!?」

 シンちゃんの絶叫が続く中で繰り広げられた押し問答は、いつしか周辺の人達に多大な不審感を植え付けていた。


   ●


 こうして紫月と青葉の期間限定育児奮闘記が始まった。

 まずは、ベビー用品の買い足しからだ。朝にシンちゃんを見つけた段階で青葉が色々と買い揃えていたようだが、さすがにオムツやミルクといった消費が前提の品物については補充分ないし予備分が必要だ。

 そういった、高校生の手には余る難物はドラッグストアで一通り揃えられる。

 ところが、いざ店の前に到着するや、別の問題が発生していた。

「さっきから泣き止まんぞ」

 シンちゃんがベビーカーの上でびえんびえん泣いている。オムツはさっき公衆トイレで替えたし、ミルクではないがある程度の水分補給もさせた筈だ。

「何がいけなかったんだか……」

 青葉がシンちゃんをベビーカーから抱え上げる。

「それにしても、どうする? このまま店の中に入れたら周りに迷惑が及ぶぞ」

「どうするったってなぁ……あ」

 ここで紫月は重要なことを思い出す。

「そういや赤ん坊の泣き声って五種類に大別されるとか聞いたことがあるような……」

「ほうほう」

 青葉はシンちゃんを紫月に渡し、自らのスマホで検索をかけ、その結果を読み上げた。

「なになに……? えーっと、Neh Eairh Owh Heh Eh の発声パターン五種類から赤ん坊の要求を聞き取れる? 紫月君。この子はいま、どのパターンで泣いていると思う?」

「俺の聴覚がイカれてなきゃ、Owh……じゃないか?」

「その場合は寝かしつけて欲しいと言っているらしい」

「このデカい声量でそんなことを?」

「赤ん坊の声量については千差万別だ。別に驚くことじゃない。それよか、原因が分かったんならやることは一つだ」

 ところで、読者諸氏は、赤ん坊には『輸送本能』が備わっているという話をご存知だろうか。災害などの危機に瀕した際、親は当然のように赤子を抱えてその状況から抜け出そうと全力での逃走を試みる訳だが、その時に赤子は自らが大人しくしなければ親共々命は無いと悟り、騒ぐのを止めてぐっすりと眠りにつくという。つまり、何者かに抱えられて歩いていれば、如何に元気な赤ん坊でも容易に鎮静化させられるのだ。この本能を有する赤ん坊は、主に生後三か月から半年までの間、という説が濃厚らしい。

 閑話休題。これに倣い、紫月はあるプランを実行に移していた。

「ねんねん、ころーりよー……って青葉てめぇコノヤロー、なに一人でくつろいでんだ!」

「大声を出すな、ダーリン。シンちゃんが起きたらどうするんだ?」

「誰がダーリンだ」

 青葉が缶コーヒーで一服している間、シンちゃんを抱えた紫月は、往来の真ん中でひたすら八の字を描くように歩き回っていた。

「……くっそ、青葉の奴。将来は旦那に見放されちまえばいいんだ」

「何か言ったかね?」

「言ったとしても教えてたまるか、このバカタレ」

 不機嫌がしばらく引っ込まなくなる紫月であった。



 買い物を終えて向かった先は、青葉の自宅付近の住宅街だった。今朝に赤ん坊を抱えていた不審な者が居なかったか、周辺住民達に対して聞き込みをする為だ。

 仕方ないとはいえ、自分の勤め先のライバル会社である白猫探偵事務所が入ったテナントビルの前を通るのはいささか気が引ける。まあ、仕方ないか。あのビルの三階が青葉とその社長の自宅になっている訳だし。

「それにしても、本当にいいのかよ」

 紫月が不機嫌を引きずったまま訊ねる。

「一応、俺はお前の商売敵ってことになってんだぞ。そんな奴と本業の真似事なんぞやって、そっちは社長に怒られたりなんかしないのか?」

「それは君も同じだろう」

 青葉がベビーカーの上からシンちゃんの顔を覗き込みながら返答する。

「池谷社長がその程度のことで嫌味を言う人じゃないのは理解してるがな」

「青葉はうちの社長に気に入られてるからな。問題はそっちのヒゲ親父だろ。あのオッサン、俺のことを何かと敵視してるみたいだし」

「彼の無礼で気を悪くしたようなら謝罪する」

「いいよ。年頃の娘が心配な親心ってことにしてやる」

 青葉の父親――白猫探偵事務所の社長である蓮村幹人は、紫月に対してあまり良い印象を抱いていない。見た目麗しい愛娘の周囲に集るハエの一匹だと思われているのか、或いは単純にライバル会社の社員として敵視されているのか、そのあたりの心理は定かではないが、少なくとも青葉との接触を快く思われていないのは確かだ。

 次は付近の生花店で花の手入れをしていた若い女性に声をかける。

「すみません、ちょっとお訊ねしてもよろしいですか?」

「え?」

 女性は振り返るなり、目を丸くして紫月の顔を凝視する。

「あ、やっぱり葉群君だ」

「……えっと、どちら様で?」

「やだなー、覚えてない?」

「全然」

「酷いなぁ。これでも私、君のことは結構面白い奴だって思ってたのにー」

 思ってたから何だ、とか言っちゃ駄目なのかしらん?

「ほら、中三の頃、同じクラスだった植田彩姫(うえだあやひ)。思い出した?」

「…………」

 駄目だ。中学時代の記憶が全然無い。

「ごめん。俺、中学時代は本当にどうでも良かったから覚えてない」

「素直だなぁ」

 人懐っこく笑う彩姫だった。

「変な話だよねぇ。君の噂は全校中に知れ渡ってたってのに」

「HA?」

 失敬な。俺はいつでもどこでも品行方正かつ人畜無害な優等生だぞ? 変な噂が流れるような蛮行をやらかした覚えは一切無い。なんならこの場で八百万に誓おう。

 しかし、次の彩姫の述懐により、紫月はたった数秒で日本の神を全て裏切ったと悟る。

「本当に覚えてないんだね。ほら、他校の不良がよくこっちの学校に入り浸ってた時期があったじゃない?」

 あったじゃない? じゃねーよ。覚えてないんだから。

「こっちの不良もそいつらと一緒になってわいわい騒いでる時期が続いてさ。道行く女の子をナンパしまくって、私もそれに捕まっちゃったの。それを助けてくれたのが君だったんだよ。結果的にこっちの不良もあっちの不良もたった一人でボコボコにして……」

「その事件なら聞いたことがある」

 青葉がするりと話に割り込んできた。

「二つの中学校の不良全員が男子生徒一人に襲いかかった結果、揃いも揃って返り討ちに遭って救急車が十五台以上すっ飛んでくるという大騒ぎになったとか」

「そういや、そんなことがあったなぁ……」

 ようやく思い出し、紫月は遠い目をしてのほほんと過去の回想に浸り始める。

 あれは単に女子生徒が襲われていたからではなく、道端で座り込んでいた件の連中がカレーパンをぶん投げてこちらの頭に命中させてきたからだ。最初は無視して帰ろうと思ったが、次は焼きそばパン、その次はメロンクリームパンが命中したので、さすがの紫月も堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。

 あの後、社長に思いっきりシバかれたっけなぁ。いくらなんでも暴れすぎだって。

「ところでさ、葉群君」

 彩姫が紫月と青葉、シンちゃんの顔を見回して訊ねる。

「もしかして、君って結婚してんの?」

「その通り」

 代わりに青葉が即答し、急に自分の体とシンちゃんの全身をこちらに詰めてきた。

「私達は正真正銘の夫婦だ。一週間後はパキスタンへの新婚旅行が決定している」

「よし、青葉。弁護士呼んで来い。離婚調停のお時間だ」

「へ……へぇ、面白い彼女さんだね」

 彩姫なりに理解しようと努めたのは理解した。でも、間違っていることに変わりは無い。

「驚いたなぁ。あの葉群君が……そうか……」

「違うからね、植田さん。こいつは単に俺の社会的地位を脅かしたいだけだからね?」

「人生初の失恋ってこんなにもあっけないんだ……」

「何で青葉のボケに乗っちゃうの? 嘘でしょ?」

 頼むから、もうちょっと普通の女の子が周りに一人くらいは欲しいです。

「……って、そうじゃなくて! 植田さんに聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「朝方に不審な人物を見なかったかどうか、覚えてる限りでいいから教えてくれないか? 些細なことでもいいから」

「うーん……私はさっきシフトに入ったばっかりだしなぁ……」

 彩姫はひとしきり悩むと、切り替えたように面持ちを明るくする。

「あ、店長だったら朝っぱらから来てるし、もしかしたらそういう人を一人くらいは見てるかも。ちょっと呼んでくるねっ」

 そう言って彼女が店の奥に引っ込むと、ややあって四十代くらいの褐色肌の女性が紫月と青葉の前にやってきた。彼女が例の店長だろう。

「お待たせしました。この近くで不審者を見なかったかどうか、ですよね」

「ええ。さっきの従業員の話では、店長は朝早くからここにいると伺いまして」

「なるほど。それにしても、不審者ですか……あら?」

 女店長が青葉に抱えられて眠っているシンちゃんを見て顔色を変えた。

「その子ってもしかして……」

「何かご存知で?」

「ええ。頭巾をかぶった女の人が、ダンボール箱に入った赤ちゃんを抱えて何処かへ走っていくのを朝方に見たんですけど……もしかしてその赤ちゃんがそうだったりして?」

「青葉」

「間違いない」

 この情報は紫月と青葉にとって、まさしく破壊力絶大とも言える代物だった。

「その話、もうちょっと詳しく聞かせてもらえます?」



 彩萌駅から一つ隣の川瀬駅を最寄りとして、そこからすぐの住宅街にひっそりと建つ寂れたアパートの二階が紫月の自宅だ。家から駅までは電車を使う程の距離でもないし、通学先である彩萌第一高校とも離れてはいないので普段の通勤通学はもっぱら歩きだが、今回は手荷物が多いので珍しく交通機関を利用させてもらった。

 紫月が居間でシンちゃんのほっぺたを指先で堪能している間、キッチンを借りた青葉が夕食の支度に取り掛かっている。いま思えば、青葉が料理している場面はいまに至るまで全く見たことがなかった。

「お前、ほっぺたぷにぷにだな。後で青葉と触り比べしてやるよ」

「私のほっぺたは一回一万円だぞ」

 調理の手を休めず、青葉が淡泊に通告する。

「ちなみにおっぱいは一秒二万円だ」

「ご存知でちゅかー。それなりのピンサロだったら最初に金さえ払えば触りたい放題なんでちゅよー。あのお姉ちゃんってケチな奴でちゅねー」

「あうーっ」

「…………」

 まさか利用したことがあんの? とは訊ねて来なかった。いくら青葉でも超弩級の下ネタについては対応しかねるようである。

「しかしまあ、このガキも面倒な立場に生まれてきちゃったもんだねぇ」

 紫月は開いたまま畳の上に放置されていたメモ帳を拾い上げる。

「園崎慎之介(そのざきしんのすけ)。有名老舗和菓子メーカー『園崎屋』社長・園崎俊夫(そのざきとしお)の孫にしてその家の御曹司。俊夫氏の実の娘である園崎夏帆(そのざきかほ)と婿養子の間に産まれた、生後七か月の乳幼児――まさか青葉ん家の近所に園崎夏帆のママ友が住んでたなんてな」

 さっきの花屋の証言によると、ここ最近になって顔を見せるようになった主婦として、夏帆の顔が何となく印象に残っていたらしい。そこから紫月は周辺住民、とりわけ主婦と思しき人物達に聞き込みの焦点を絞り、その果てにこの情報を獲得するに至った。

 これでシンちゃんの素性は判明した。問題は、母親である夏帆の行方だ。

「園崎屋の電話番号も一緒にメモってある筈だ」

 青葉がフライパンをガスレンジに乗せて火を点ける。

「でも社長に直通する番号まではホームページにも載っていなかった。しかし、随分と評判の悪い老舗のようだな」

「たしかに有名な会社だがよ、異物混入とか材料の産地偽装みたいな話は聞かないぜ?」

「そうじゃない。ネットに立てられたスレッドで、元従業員を名乗る匿名の投稿者が口を揃えて園崎屋をブラック企業扱いしていた。どうにもきな臭い」

「その会社にしてこの状況あり、ってか」

 自身が指定した刻限が迫っているにも関わらず、このまま青葉にシンちゃんを任せて自分だけ遁走するという利口な選択肢を良しとしない自分がいる。この場合、己の内心に深く在る違和感を受け入れてしまった方が後悔せずに済みそうだ。

 紫月は小さくため息を吐いてから答える。

「予定変更だ。最後まで付き合うよ」

「君ならそう言ってくれると思った」

 具材をフライパンに投入すると、テフロンの上でジャージャーと水分や油が騒ぎ始めた。

 紫月は少し大きな声で訊ねる。

「青葉ー、今日の夕飯は何だー?」

「青葉特製・肉と野菜の炒め物、with卵だ」

 バカ丸出しのネーミングセンスとは言わないでおこう。ご飯が抜きになりそうだ。

「食器を出しながら待ってろ。すぐに完成する」

「あいよ」

 紫月はシンちゃんをスリングで抱えながら、棚から食器とお箸の準備を始めた。


 あらかじめ炊いておいた米が盛られたお茶碗と、青葉特製肉と野菜の炒め物と茄子のお味噌汁、冷蔵庫の残り物からは漬物や明太子の残りが卓袱台の上にエントリーした。

 勿論、シンちゃん用の離乳食である絹ごし豆腐の卵綴じも既に用意されている。

これは余談だが、生後七か月を過ぎると食事にリズムを加え、様々な味や舌触りを楽しめるように工夫するのがベターだと、育児ママ御用達の品揃えを確立する有名な株式会社のホームページには記載されていた。以前のシンちゃんがどういった食生活を送っていたかは知らないが、前述のメニューに関しては青葉が例の情報源に従った結果だ。

 紫月と青葉が同時に手を合わせて「いただきます」と言うと、シンちゃんは二人の真似に全力を尽くし、言葉にならない声と奇妙な頭の運動で作法を体現した。もしかしたらシンちゃんは他の同年代と比べて賢くなる素質があるのかもしれない。

 紫月が炒め物に舌鼓を打っている間、青葉がシンちゃんの口にスプーンで卵綴じを運んでいる。シンちゃんは決して吐き出したりむせたりすることなく、するりと口の中に運んで、頬をもごもご動かして呑みこんだ。

「美味しいか?」

「あぶっ」

「そうか。ならば、もっと食べて将来はこの私より大きな人間に成長するがいい」

 こうして見ると、青葉は青葉で意外としっかりお母さん役をやりきっている。よく考えれば、彼女は人として持ち得る一般的な技能には一通り優れているので、そこらの毒ママよりも育児に関するレベルは上なのかもしれない。

 しかし、青葉自身の人格は、育児をする上で大きな問題を一つだけ抱えている。

「紫月君」

 青葉が顔をしかめて言った。

「さっきから箸が止まってるぞ」

「ああ、悪い。ちょっと考え事を……」

「何を想像しているのかは大体分かる。でも、大きなお世話だ」

 心なしか、彼女が怒っているように見えた。


 食休みとして、一時間くらいは寝そべってみることにした。それが終わったら、今度こそ園崎屋と渡りをつける算段を青葉と協議しなければならない。

 来客用のマットレスの上で、紫月と青葉はシンちゃんを挟んで横になって向かい合っていた。こうしていると、本当に青葉と夫婦になったみたいな錯覚に陥りそうになる。

 眠りこけたシンちゃんのお腹を撫でながら、青葉が落ち着いた声音で言う。

「君は心配性だな」

「何が」

「顔を見れば分かる。どうせ、捨て子だった私が子育てしてる姿が滑稽に見えたんだろう」

 青葉は出生直後、『こうのとりのゆりかご』と呼ばれる、いわゆるベビーポストに入れられた捨て子だ。その後は福祉施設を転々とし、最終的にはいまの親に拾われ、彼の勧めで探偵の端くれとして働いている。

 だから、青葉自身は母親の顔を全く知らない。故に、母親がどういうものなのかを、彼女は本質的に理解していない。

「たしかに私は母親になる資格を得るには条件が足りていないのかもしれない。でも、だからこそ、この子を私と同じ憂き目に遭わせたくない。警察にこの子を届けなかった理由の一つだ。身勝手なのは重々承知してる」

「だったら園崎夏帆のママ友に預けりゃ、お前の心配事は全て解消されると思うぜ?」

「それも駄目だ」

「何故に?」

「私自身がこの子に愛着を持ったからだ」

 青葉らしくない、正当性に欠ける理由だった。

「だから本当のお母さんに会わせるまで……せめてそれまでは、一緒にいたい」

「…………そうか」

 シンちゃんのお腹に乗った青葉の手の甲に、紫月は自分の掌を重ね合わせる。

「三十分だ」

「え?」

「あと三十分だけ休もう。それが終わったら園崎屋と渡りをつける。それで解決だ」

「ああ」

 納得する青葉の笑みは、心なしか少し寂しそうだった。


   ●


 紫月の自宅に園崎慎之介が保護されるより一時間前の話だ。時刻は夕方の四時半。夕飯の買い出しを終えたついでにセレブがよく立ち寄ってくる時間帯に差しかかったところで、一人のお客様が黒狛探偵社の応接間にやってきた。

 ソファーに腰を落ち着ける二十代後半ぐらいの女性が今日の依頼者だ。

「園崎夏帆です」

 彼女はまず、そう名乗った。

「お噂はかねてより前から存じ上げております」

「ふっふーん、私達も有名になったもんよねー」

 不遜にも依頼者の前で鼻を高く伸ばしているのは、黒狛探偵社の社長、池谷杏樹だ。見た目は女子中学生と大差無いくらい小柄で若く見えるが、その実年齢は今年で四十二歳の立派な社会人なのである。

 若干苦笑いしている夏帆を前に、杏樹が快活に笑いながら訊ねる。

「で、今日はどういったご用件で?」

「その……本当は探偵さんにするような依頼では無いのかもしれませんが……」

 やけに躊躇が長い。余程人に聞かれたくない内容なのだろうか。

「私の息子を、父から守って欲しいのです」

「DVですか?」

 がらりと真剣な面持ちになり、杏樹は軽く身を乗り出した。

「でしたら、我々よりも警察に相談した方が……」

「違うんです。決してDVでは……いえ、DVよりもっと酷いというか……」

 さっきから容量を得ない。女性ではよく見る傾向だ。

 この場合、どういった対応がなされるべきか、杏樹は当然のように知っている。

「園崎さん。最初から、順を追って、ゆっくりと説明して頂けますか? どこから話したらいいか分からない場合、そうするのが一番です」

「……分かりました。少し長くなりますが」

「構いません。その為の探偵社ですから」

 その一言で安心したらしい。夏帆は一旦間を置き、ゆっくりと説明を始めた。

「……私の実家は、いわゆる老舗の和菓子屋で、それなりに大きい企業なんです」

「存じ上げております。園崎屋、ですよね」

 本社の所在地が彩萌市なのだから知らない訳が無い。

「ええ。私はその社長の娘でして……一年以上前に会社の従業員だった男性と結婚して、半年ぐらい前に彼との間に子を儲けました」

 彼女の旦那はいわゆる婿養子であり、そして園崎屋の次期社長候補という訳だ。

「ですが、私が子供を産んだ矢先、旦那は上からの指示によって職務に忙殺されるようになりました。だから夫婦として、家族として過ごす時間があまりにも短くなりました。そして一か月前、過労が原因で旦那は亡くなってしまいました」

「なんですって?」

 単純に驚いたのもあったが、それ以上に不可解だった。

 次期社長候補を過労死するまで働かせる? 普通はありえないだろう。子供まで儲けたなら尚更だ。むしろ、その旦那は依怙贔屓されているものと思っていた。

「いま申し上げました通り、旦那と接する時間は短いものでした。それに彼は嫌なことを全部自分で抱え込んでしまう癖がありまして。それを言い訳にするのは卑しいと分かってはいるのですが、私は彼の変化に全く気付くことが出来なかった」

「彼の変化に気付くのは物理的に不可能だったと思います」

 杏樹は自分なりにフォローを入れた。

「しかし、やや気になりますね。子供が生まれてから急に忙しくなったとおっしゃいましたが……」

「はい。だから、何故そうなったのかを私なりに調べてきたんです」

 夏帆はテーブルの上に晒した資料の中からイヤホン付きのICレコーダーを差し出す。

「これには旦那と親しかった同僚の証言が記録されています」

「拝借しても?」

「どうぞ」

 杏樹は早速、イヤホンを耳に付け、レコーダーの再生ボタンを押した。

 夏帆と、例の同僚と思しき男性との会話が続く中、これまた不可解な音声が流れる。

『――ええ。元々うちの会社はバイトや派遣をボロボロになるまでこき使って、用済みになったらポイ捨てしてるようなところですからね。俺やあいつみたいな店長連中はみーんな揃って頭を抱えてますよ』

『労基局に告発した人までいるそうですね』

『北関東ブロックで一人、そんなことをやった店長がいるって話は聞いたことがあるけど……その店長、最近になって行方不明になったらしいし、あんまそういうレベルの話には関わりたくないなぁ』

 のっけから物騒な話題だった。証言者の最初の台詞がこれでは先が思い遣られる。

 さらに会話の内容を聞いてみる。

『あ、そうだ。何故か知らないけど、俺もあいつと最近あまり会ってなかったんですよ』

『そうなんですか?』

『不謹慎かもしれませんが、半年ぶりにあいつの顔を見たと思ったらそれが棺の中ですからね。俺にもどういうことか全然分からなくて……正直、いまも混乱してる』

 どうやらこの同僚も事情が本当によく分かっていないらしい。

 でも、いくつかの謎は一連の会話で判明した。

「……園崎さん。あなたのお父様の会社ってもしかして――」

「いわゆる、ブラック企業です」

 気が引けると言う割に、夏帆はきっぱりと断言した。

「池谷社長はブラックバイト、というものをご存知ですか?」

「ええ、勿論」

 ブラックバイトとは、非正規雇用の基幹化に伴って現れた日本特有の造語である。雇用者側が学生アルバイトの法に関する無知に付け込んで、正社員並みの重責となり得る仕事を押し付けたり、或いはアルバイト側のシフトを勝手に決めてしまったりするという、少なくとも労働基準法をリミッター全開で逆走する外道な労働形態がこれにあたる。もともとは低賃金でこき使える若者連中を用いて人件費を節制したいという思惑から始まった悪行という説が主流らしい。

「私の父はブラックバイトを声高に推奨してます」

 さらりと信じられない発言をする夏帆であった。

「低賃金で浮いた分のお金は全て上層部側の給料やボーナスに回され、当の現場は常に人件費かつかつの状態。一か月どころか一日あたりに入れられる人員が強制的に制限され、その従業員を扱う店長達も人手不足に伴ってなし崩し的に異様な出勤日数の増加を余儀なくされる。私の旦那が出向した先は、その中でも最悪な環境だったと聞いています」

「誰かが意図的に旦那さんを、その劣悪な環境の店舗に放りこんだ、と?」

「ええ。誰が何の為にそんなことを旦那に強要したのかは知りませんが……そうやって調べていくうちに、私は考えました。仮に私の息子が将来園崎屋を継ぐことになったとして、そんな酷い実態の会社に勤めさせる訳にはいかないって」

 ここで、ようやく件の息子の話になる訳だ。

「だから私は息子と、この彩萌市から夜逃げしようと考えました。でも、一つだけ問題があったんです」

「何か、逃げられない理由でも?」

「逃げられない訳じゃないんですけど……父と懇意にしてる、とても合法的とは言い難い団体に追ってこられたら、彩萌市を出られたとしても子供が無事で済むとは思えなかったんです」

「その団体とは?」

「中国マフィアです」

 これまた面倒な連中に話が結びついたものである。ついこの間、似非超能力者達を従える宗教団体と本格的に戦争したばっかりなので本当に勘弁して欲しい。

「比較的小規模ですが、それでも裏社会ではそれなりに名の知れた人達です。私なんかが逃げ出そうとしたところで、すぐに居場所が割れて家に連れ戻されるのがオチです」

「私達に園崎さんと息子さんを、その中国マフィアから守って欲しいと?」

「ええ。出来れば、誰にも露見しないような逃走手段を確保したいのですが」

「貴女一人ならまだしも、乳幼児のお子さんまでいるとなると……って、あれ?」

 杏樹はここで重要なことに気付いた。

「そういえば、いまお子さんってどうしてます?」

「……それなんですけど」

 夏帆は本当に言い辛そうに、息子――園崎慎之介の行方を語った。

 それを聞いて、ブラック企業園崎屋とか、ブラックな中国マフィアなんぞ、杏樹の中ですぐにどうでも良くなってしまった。

「白猫に預けた!?」

 よりにもよって、ホワイトな連中まで巻き込んでしまったらしい。おかげでこちらの頭も真っ白だ。

「正確には白猫の事務所の前に置いてきたんです。これなら、今日一日は少なくとも息子の安全は保障されると思いまして……それに黒狛は社長を含むたった三人の従業員だけで軍隊一個小隊を全滅に追い込んだことがあるという噂を聞いたんです」

 正確には三人ではなく四人だが、問題はそこじゃない。彼女は自分の息子を誰の目にも付かない安全地帯に預け、命懸けの危険な仕事を全てこちらに押し付けようとしている。しかも、噂に尾ひれがついた誤情報を頼りに。

 夏帆はさらに言い訳を重ねる。

「警察に預けると園崎屋に慎之介が返還されかねなかった。だから、警察には絶対に引き渡すなっていう書き置きを――池谷さん?」

「……あのー、大変申し上げ辛いのですが」

 杏樹は嘆息混じりに告げる。

「その息子さん、おそらく白猫の中にはいませんよ」

「え?」

 杏樹には何となく分かっていた。白猫の事務所の前に置き去りにされた赤ん坊を、あの皮肉屋なヒゲ親父がまともに面倒を見るとは思えない。

 だが、一人だけ、彼の部下にはとんでもない物好きがいる。

 そして、その物好きには一人だけ、とても優秀な協力者がいる。

「どうしよう……よりにもよって、白猫に預けちゃうなんて……!」

 杏樹には既に察しがついていた。

いま、園崎慎之介の身柄は、白猫探偵事務所所属の貴陽青葉とその相棒――我が黒狛探偵社所属の葉群紫月が預かっている、と。


   ●


 老舗和菓子メーカーの末裔たる男児を警察に預ければ、それこそ世間を揺るがしかねない大スキャンダルに発展する可能性がある。ありもしないデマを拡散するのがお家芸と噂されるマスゴミ共が編纂した偏差値最底辺の週刊誌なんぞに載った日には、おそらく会社側が三日もしないうちに記者会見を開く羽目になるだろう。

 この場合、公の場で慎之介の身柄は移譲不可能だ。よって、誰にも知られない範囲――つまり個人と会社の間で話をつけるしか、紫月と青葉に取れる手段は無かった。

 ここは商業ビルの建設現場、その一階だ。本来は立ち入りが禁止となっている場所ではあるが、肝心の交渉相手がここを指定してきたのだから仕方ない。

 この闇夜、この場所において、紫月と青葉、そして慎之介以外は人っ子一人存在しない。

「青葉。シンちゃんの様子は?」

「起きてはいるが大人しいものだ」

 青葉がいわゆるガラガラを鳴らしながら答える。微笑ましい光景だ。

「それにしても来るのが遅いな。場所を指定したのはあっちだろ?」

「おそらく電話口では素性が分からないから警戒しているんだろう。相手からすればデマの可能性も一考に値するだろうし」

「こっちはこっちで気が気じゃないんだよ、全く」

 お願いだから、平和的かつ速やかにこの茶番を終いにしたい。こっちだって別に園崎屋に対して何らかの危害を加えようとしている訳ではないのだから。

 シンちゃんのご機嫌取りに夢中な青葉を眺めながら紫月が気を揉んでいると、遠くからいくつかの足音が頭上の建材に反響する。

 ようやく来たか、と安心するのも束の間、再び緊張感が全身に迸る。

 どういう訳か、黒服に身を包んだ連中が、紫月達の周囲を手早く包囲したのだ。

 彼らは全員、拳銃で武装している。しかも銃口は余すことなく全てこちらに向いている。これはまた、よくない風向きだ。

「おーい、シンちゃん。お前のパパがこんなにたくさん駆けつけてくれたぞー」

「その子の父親はこの中にはおりません。何せ、既に他界しているものですから」

 モーゼの如く、怪しげな黒服連中の群集を裂いて現れたのは、紺色のストライプを水色の生地に走らせたスーツをぴっちりと着こなす恰幅の良い体格の老人だった。髪型は時代錯誤も甚だしいちょんまげ、右手に携える杖の柄には女神のカメオが嵌めこまれている。

「初めまして、葉群紫月君、貴陽青葉さん。私は株式会社・園崎屋の代表取締役社長、園崎俊夫と申します。今日はこのような場所にお呼び立てして申し訳ない」

「こちらこそ、突然のお電話に応じていただき、ありがとうございます」

 紫月が一歩前に出て紳士の対応をする。

「ところで、園崎社長。貴方の傍に侍っておられるそちらの方々について説明を」

「いや、失敬。彼らは私のプライベートな友人です。今回につきましては、なにぶん我が園崎家の恥に関わる重要な案件なものでして……ご無礼を承知で、私と慎之介の護衛という形で同伴を要請したのです。気を害したのであれば、平にご容赦を」

「ならば先に得物の拙い方を下げてはいただけませんか? こう言ってはなんですが、貴方のお孫さんにはまだ少々刺激が強いと思われますので」

「なるほど、見事な胆力だ。どうやらそれなりの場数を踏んでいるらしい」

 俊夫が腕を上げ、掌を閉じると、黒服連中が一斉に銃口を下ろした。

「電話で話を聞く限りでは、貴方達二人が慎之介を保護してくださったということで、私としても非常に感謝しております。まさか警察にも引き渡さぬよう配慮してくださるとは、いやはや、最近の若者は機知に富んでおられるようで」

「慎之介君が入れられていたダンボールの中に奇妙な置き手紙がありました。その指示に従ったまでです」

「置き手紙?」

「誰が書いたものかは知りませんが、どうやらご存知無い様子で」

「……あの馬鹿娘が」

 紳士的な面持ちが一変して、彼は苦虫を噛み潰したような顔を露にする。

「よくここまでの面倒をこさえたものだ、あの愚か者は」

「園崎夏帆のことだな?」

 青葉がガラガラをシンちゃんの手に握らせてから訊ねると、俊夫はこれまた驚いたような反応を示した。

「私の娘のことまでご存知とは……」

「そのことで私の方からも質問がある」

「おい、青葉、やめとけって――」

 紫月が止めようとするが、青葉は決して聞く耳を持ってはくれなかった。

「彼女が私の自宅前にこの子を置き去りにした理由を、園崎社長は何かご存知なのでは?」

「それを答えたとして、私達の事情に関しては目を瞑ってくれるのですかな?」

 俊夫が浮かべる満面の笑みに若干の影が過る。

 青葉の口調も剣呑になる。

「答え如何では、というところではある」

「あくまでこれは園崎家の問題。如何に貴女が慎之介の恩人といえど、これ以上我が一族の問題に首を突っ込むのは如何なものかと」

「私はこの子をこれ以上不遇な憂き目に遭わせる気が無いだけだ」

「では、どうなさるおつもりで?」

 俊夫が再び手を挙げると、黒服連中が一斉に銃口を上げた。

「撃ちたいのなら好きにするといい。さて、それではシンちゃん――」

 青葉がシンちゃんの背中を片方の掌に乗せて、大きく振りかぶる。紫月もため息混じりに、懐に忍ばせた十手の柄に手を伸ばした。

「はい! たかいたかーいっ!」

 シンちゃんを宙に高々と放り投げ、青葉はジャケットの裏から二丁のベレッタを電光石火の如き速さで抜き放ち、両手を広げて発砲。拳銃のスクラップが四丁分仕上がった。

 背後の一人が青葉の背中に銃口を向ける。

 その射手を、既に至近距離まで迫っていた紫月が十手で殴り倒した。

「撃て、殺せ!」

「止めろ! 慎之介に当たる!」

 黒服共の怒声が俊夫の指示にぶつかり、場は騒然となって混乱する。

 その隙に、頭上から落ちてきた慎之介を青葉がキャッチ。紫月が先行し、目の前を塞ぐ黒服の連中を十手の快刀乱麻で薙ぎ倒して突破口を開く。

「いくぞ、青葉!」

「ああ」

 青葉が右腕でシンちゃんを抱えたまま左手で発砲。相手が握っていた銃を悉く破砕し、もしくは足元に撃ちこんで前進を妨げ、自らは全力疾走でその場を退散する。

 三人はどうにかビルから脱出し、あとは敷地内から出るだけとなった。

「お前らは先に行ってろ」

 紫月が突然身を翻して立ち止まった。

「何を言っている? まさかあの人数と一人でやり合う気か?」

「時間稼ぎくらいにはなる。お前は早く警察に通報しろ」

 こうなった以上は世間体云々を考慮してやる必要は無い。いまは青葉とシンちゃんの命が最優先だ。

 青葉は一瞬だけ逡巡し、すぐに首を縦に振った。

「分かった。絶対に死ぬなよ」

「誰に言ってんだ」

 額に飛んできた銃弾を、紫月は蝿でも払うかのように十手で弾き飛ばす。

「行け、青葉!」

 二人はそれぞれ正反対の方向に駆け出し、各々のミッションを開始した。


 紫月ならあの数を全滅はさせないまでも、生き残るだけなら可能だろう。

 問題は、シンちゃんの最終的な安全地帯だ。銃声すら届かない場所まで逃げて警察を後から呼んだとして、シンちゃんを警察に引き渡すか否かという選択肢を迫られた時、自分は果たしてあっさりとこの子を手放せるだろうか。

 それに、青葉は薄々感づいていた。たしかに、まともな感性を持ち合わせているなら、あんな連中を抱き込む一族のもとにシンちゃんを委ねたいと思う母親はそうそういない。そういうことなら、如何に生殺与奪の駆け引きに長けた連中でも予想がつかないであろう場所にシンちゃんを一旦置き去りにする理由としては有り得なくも無い。

 警察か、実家か。どっちも寝床としての環境は期待出来そうにない。

「こんな夜更けにベビーとお散歩かい、お嬢さん」

 建設現場の敷地を出てすぐの位置に立つ街灯の暖色光が、アロハシャツを着た青年をスポットライトの如く照らし出す。

 両手にはグロック19が一丁ずつ。さっきの連中の仲間か。

「駄目じゃないか。もし悪いお兄さんに引っかかったらどうするつもりだい?」

「誰だ、貴様は」

「俺はタオ。園崎のジイさんの召使い……みたいな?」

 陶なる青年が軽薄に笑う。

「そんなことより、早速本題に入ろうか。そっちのベビーちゃんをこっちに寄越しな。そうすれば、さっきあっちに残った小僧の無事も保障してやる」

 青葉の背後で乾いた銃声が断続している。まだ戦闘中なのか。

「このままだと彼氏の生殖能力にちょっとした問題が起きる。お前さん、案外子供好きっぽいし、せめて一人ぐらいは血の繋がったガキは欲しいんじゃないの?」

「……紫月君と私の子……か」

 想像すると顔がにやけそうになる。もしそんな逸物が生まれたとしたら、顔はどっちに似るんだろうか? あと、性格はどっちに似るんだろうか。

「だったらノンプロブレムだ。奴はそう簡単には死なない」

「あっそ。でも、さすがにお嬢ちゃんは違うでしょ」

 陶が右手の銃口をこちらに向ける。

 奴の戦闘スタイルは青葉と同じ、二丁拳銃によるガン=カタと推定される。本来ならこちらも同様の戦術で相手の武器を破壊すればゲーム終了だが、左腕にシンちゃんを抱えている以上はそうもいかない。立ち振る舞いからも相当な手練れだろうし、このままシンちゃんを庇いつつこの危険な状況を脱するのは無理があるか。

 陶の人指し指が引き金にかかる。

「最後通牒だ。ガキを渡せ」

「断る」

 特に何の言葉も無く、陶が発砲。

 青葉は銃口から火花が散ると同時に身を横に逸らし、銃弾を回避、続いて地を蹴って正面から突っ込んで行った。

 さらなる発砲に合わせ、青葉が左腕でシンちゃんの耳を塞ぎ、右手のベレッタを一閃。弾丸同士が両者間で火花を散らしてあらぬ方向へ飛ぶ。

「マジか……!」

 脚と右腕を狙う弾丸を全て正面きっての発砲で弾き、処理しきれない弾は普通に回避して、青葉は走りながら追加で発砲、今度は彼女が陶に弾を当てにいく。

 しかし、驚いたことに、陶も青葉と全く同じ芸当をやってのけた。

 発砲直後の弾丸を弾丸で相殺し合うという、普通なら考えられない射撃の応酬が数秒間だけ続き、とうとう青葉が陶の間近に迫る。

「この女っ」

「どけ!」

 渾身の膝蹴りが、クロスした陶の両腕に直撃。相手の体がバランスを崩しかけた一瞬を狙い、ようやく青葉は陶の横を抜けた。

 背中に嫌な気配。体勢を立て直した陶が銃口を向けているのだ。

 青葉は即座に身を翻す。陶が目を剥き、咄嗟に銃口を上げて発砲を取り止める。もしそのまま撃っていれば、弾は青葉だけでなくシンちゃんにも当たっていただろう。

 あまり気乗りしないが、青葉もシンちゃんも生き残るにはこれしか方法は無い。

 青葉は相手が見えなくなるまで後退し、そのまま人通りの多い通りに出る。ここまで来れば、追ってきたとしても戦闘にはならないだろう。

 陶も青葉と同じ銃遣いだ。人間という一種の有機物が入り乱れている為に気配を乱す恐れのある街中よりも、無機質で気配を持たない遮蔽物が多いステージを好む筈。なら、この場合は前者を選んで逃げに徹するべきである。

 相手がただのチンピラだったら通用しない手だが、今回は幸運として働いてくれたようだ。もう、背後に追ってくる気配は無かった。

「あう、あう」

 シンちゃんが青葉のブラウスの襟をちょいちょい引っ張ってくる。何だか楽しそうだ。

「よーしよし、ちゃんと大人しくしていたんだな。偉いぞ」

 実際、シンちゃんは他の赤ん坊と比べたら少々大人しい。育児初心者のママだったら喉から手が出るくらい欲しがるような、実に扱いやすい赤ん坊だろう。

 青葉がシンちゃんに頬ずりをかましていると、少し離れた路肩からクラクションが三回鳴った。

 気になって視線を遣ると、質素な銀色の車の助手席の窓から、池谷杏樹が身を乗り出して手を振っていた。

「おーい、青葉ちゃーん! こっちこっち!」

「池谷社長?」

 歩み寄り、青葉は訝りつつ訊ねる。

「こんなところで何をしている?」

「話は後。それより、後ろに乗って」

 何を言いたいのかは知らないが、青葉は杏樹が促す通り、車の後部座席に乗り込んだ。

 すると、すぐ隣には、既に別の見知らぬ女性が乗り込んでいた。

 青葉とその女性が顔を見合わせている間に車が発進。運転席の東屋轟がバックミラーをちらりと見遣りつつ杏樹に訊ねる。

「社長、とりあえず白猫の事務所に向かうんすよね?」

「ええ。幹人にも約束は取り付けてあるし。いまはあいつが不在みたいだけど、西井さんが留守番してるから事務所は自由に使ってくれて構わないってさ」

「あの人にしては随分と太っ腹っすね。最近、態度が丸くなったんじゃないっすか?」

「ちょっと待て。それは何の話だ?」

 青葉が隣の女性と杏樹の顔を忙しく見回す。

「事情がいまいち読めない。それに、こちらの方は一体……」

「あれ? 青葉ちゃんならとっくに察してると思ったけど」

 杏樹が振り返り、不思議そうに目を丸くする。

「ほら、いま青葉ちゃんが抱えてる赤ちゃんの、本当のお母さん」

「それって……」

「初めまして、貴陽青葉さん」

 その女性は、息子の慎之介に目もくれず、悲痛そうに頭を下げて挨拶する。

「園崎夏帆と言います。信じてもらえないかもしれませんが……私はその子――園崎慎之介の母なんです」


   ●


 白猫探偵事務所の応接間のソファーには、黒狛探偵社の池谷杏樹と東屋轟と、その依頼者である園崎夏帆が腰を落ち着けていた。

 そもそも何で黒狛の連中が夏帆と一緒にいて、あの場に現れたのか。その理由は簡単で、夏帆が黒狛に自分と息子の保護を依頼という形で求めたからだ。杏樹はこの時、既にシンちゃんが青葉の手に渡っていると推測したので、まずは車で市中を駆け回って青葉と紫月を探していたらしい。

 それはさておき、青葉は姉貴分である西井和音と共に、杏樹と轟が座るソファーの後ろに立ち、居丈高に夏帆を威圧的に見下ろしていた。

「事情は良く分かった」

 移動中の車内と、そしていまこの場で、青葉は夏帆とシンちゃんがいま置かれている状況についての説明を杏樹の口から受けたばかりだ。

 でも、いくつか納得がいかないこともある。だから、いまも尚、シンちゃんは本来の母親である夏帆ではなく、ずっと青葉の腕に収まっていた。

「要は夜逃げの下準備を済ませるまでにこの子を誰にも見つからない安全な場所に隠しておきたかった……という訳か。まあ、たしかに、策としては悪くない」

「そのせいで貴陽さんや、他の色んな人達に迷惑を掛けたことは謝罪します」

「誰がそんなことを謝れと言った?」

 青葉は眉を寄せてまくし立てる。

「謝る内容も相手も全く違う。あんたに置き去りにされたこの子が何も不安を感じていなかったと思うか? もう少しマシな方法だってあったんじゃないのか?」

「慎之介を助けるにはこうするしか無かったんです。警察に相談しようにも、民事で解決しろって取り合ってもくれないだろうし、だからといって相手が相手だから他のママ友を巻き込む訳にもいかなかったし……」

「言い訳なんて聞きたくない」

 青葉はソファーを回り込み、夏帆の近くまで寄り、その胸倉を思いっきり掴み上げた。

「ぐっ……!?」

「いいか、よく聞け」

 杏樹や和音が口をぽかんと開けて見守る中、青葉は厳かに告げた。

「あんたのクソ親父は面白いお友達を連れてるみたいじゃないか。たしかに、そんな奴らとつるんでる会社を息子に継がせたくないのも分からない訳じゃない。だがな、私とシンちゃんを逃がす為に一人で囮を引き受けた奴がいるんだぞ」

「青葉ちゃん、もう離してあげた方が――」

「あんたは自分の息子が心配じゃないのか?」

 制止しようとする杏樹をぎろりと横目で睨むと、青葉は視線の焦点を夏帆に戻す。

「いいか。もし彼が死体になって帰ってきたら、私はあんたを絶対に許さない。八つ裂きにして川に棄ててやる」

「ちったぁ冷静になれよ、お嬢ちゃん」

 轟が落ち着き払って水を差しに来た。

「あっちも勝手ならそっちも勝手だろ。奴らの要求を呑んでそのガキを渡しちまえば、少なくとも紫月とお前さんの命は助かってたんだよな。事の発端が何であれ、それについてはお嬢ちゃんの判断ミスだったとしか俺には思えないんだが」

「…………そうだな。すまない」

 反論の余地が無いのを悟り、青葉は夏帆から手を離した。

 シンちゃんが不憫だと思う気持ちと、紫月の生死に対する心配で冷静さを欠いていたのは認めざるを得ない。

 杏樹が立ち上がり、後ろから青葉の両肩を持つ。

「大丈夫。紫月君の強さは貴女が一番良く知ってるでしょ?」

「…………」

 葉群紫月は強い。これまでの事件や戦いで、私は幾度となく彼に救われた。当然ながら信頼はしている。

 だからこそ、いまは不平不満を垂れている時ではない。

「うー、うー」

 シンちゃんが腕をぱたぱたさせて唸っている。まるでスマホのバイブみたいだ――などと思っていたら、青葉のスマホがポケットの中で本当に振動していた。

 着信画面に表示された番号と名前を見て、青葉は泡を喰ったように応答する。

『ん? おお、繋がった。もしもし青葉? 俺だけど。そう、俺、俺』

「こんな状況でオレオレ詐欺の真似事か、この大バカ野郎め」

『いやー、すまんね。ピンチを抜け出したら気も抜けちゃって』

「……良かった」

 青葉も気が抜けて、その場にへたりこんでしまった。



『……良かった』

 青葉の安堵したような吐息を聞き、紫月も思わず苦笑した。

「心配かけて悪かった。本当ならもうちょっと連絡が遅れる予定だったんだけど……」

 紫月が横目に、園崎俊夫の背中に馬乗りをかましている東雲あゆを見遣る。

「途中で東雲さんの助けが入ってね。なんとか二人で連中を制圧して、園崎屋の社長をひっ捕らえてただいま尋問中」

 紫月達の周囲には気絶中の黒服連中がゴキブリの死骸みたいに広がっている。当初の予定ではどうにか相手の銃を奪取して皆殺しにする予定だったが、あゆの助けが入ったおかげで余計な屍を量産せずに済み、その上で重要参考人の確保にも成功している。さすがは風魔一族の末裔だ。やること成すこと、全てにおいてスケールと攻撃力が違う。

「ある程度は事情が判明してね。聞きたい?」

『事情はこちらも全て掴んでいる。それより、私が聞きたいのは、あゆがこのタイミングでいきなり現れた理由だ』

「ああ……それか」

 紫月の胸中に馬鹿馬鹿しい気分が訪れる。

「東雲さん、実は最初から俺達の動向を見守っていたらしいよ」

『何故?』

「面白そうだから、だってさ」

『…………』

 青葉も呆れて絶句したらしい。紫月も初めてその話を聞いた時は大体似たり寄ったりの反応をしていた。

「まあ……理由はどうあれ、東雲さんが来てくれなきゃ俺も危なかった」

『そうか。でも何でだろう。感謝する気が全く起きないな』

「同感だよ。じゃあ、俺はまだ園崎屋の主人に聞きたいことがあるから、とりあえず一旦電話切るぞ。何か新しいネタを掴んだらそっちにも連絡する。また後で」

 青葉の返答も待たずに通話を切り、紫月は地面に伏せる俊夫の傍に屈んだ。

「ハイハイ、お爺たま? 事情はさっき話したので全部? 他にも何か面白いネタがあんなら握って出してくだちゃい。ちなみにいまはエンガワの炙りが食べたい気分でちゅ」

「他に何を言えと?」

 さっきの紳士的な装いは何処へやら、俊夫が匹夫のように口角を釣り上げる。

「お前達が欲しそうな情報は全て話した。だから、早く私の腕を極めている小娘を退かせるんだ。ていうか、何て馬鹿力だ、畜生!」

「女の子に馬鹿力とは失敬な」

 あゆは極めていた彼の片腕を、さらに背中側へと引き寄せる。骨や筋肉などの過干渉によって人間の可動域を超え、俊夫の喉からさらなる嗚咽が漏れる。

「がああっ……! やめ――これ以上は折れる……!」

「紫月君。この人、関節の一個ぐらいは外しちゃってもいいよね?」

「だーめ。俺がこれから始めるのは尋問であって拷問じゃない」

 紫月は懐から、青葉が愛用するモデルと全く同じベレッタを抜き、銃口を俊夫の額に突きつけた。弾は入っているが、少なくとも発砲する気はさらさらない。単に、こうしておいた方が相手も大人しくなるだろうと判断したからだ。

「あんたの娘さん、聞けば未亡人らしいじゃん。その旦那さんもあんたの会社の従業員だった訳だ」

「それがどうした?」

「その旦那さん、何で死んだんだっけ?」

 俊夫の眉がぴくりと動く。

「正直に答えてくんない? それでも不慮の事故ですって言うならこっちも納得するからさ」

「……あの男は、夏帆を私の元から連れ出そうと目論んでおった」

 とうとう抵抗する気力も無くなったのか、俊夫が目を伏せて述べる。

「毎月恒例の店長会議は本社のビルで行われる。その会議が終わった後、私は本社内で偶然聞いてしまったのだ。夏帆の旦那だった男――三藤が友人の同僚相手に「もし自分がこの会社から居なくなったとしても、お前はいつも通りに装っていろ」、などと話しているのを」

「あんたはそれを、娘さんと旦那さんの夜逃げの前兆だと察した訳だ」

「ああ。だから私は三藤の仕事量を大幅に増やして、会社から抜け出すに抜け出せない状況を作り上げた。そして私は奴に言うつもりだったのだ。これ以上馬鹿な考えで身を滅ぼすのは上手くない――と」

 暗に、「仕事量を通常通りに戻して欲しくば、夜逃げするという考えをいますぐにでも捨ててしまえ」――そうやって三藤氏を脅迫し、園崎屋に縛り付けておくつもりだったのだ。

「だが、三藤は私がその忠告を成す前に過労死しおった。計算外もいいところだ」

「少なくとも、あんたに殺意は無かった訳だ」

 これで夏帆がシンちゃんを青葉の自宅前に放り出した理由の説明にもなる。婿養子としてやってきた旦那を過労死させるような家族がいる環境でシンちゃんを育てられる気がしなかったのだろう。

「でも、あんたが部下へのパワハラを行ったという事実は変えられない」

 紫月はジャケットの懐からスティック状のICレコーダーを取り出した。

「悪いがいまの発言は記録させてもらった。こいつと夏帆さん、それから三藤さんの友人の証言さえあれば、如何に相手が大企業であろうと労働基準監督署も黙っちゃいない。立ち入り検査で不正労働の事実と、いま俺と東雲さんがぶちのめした連中との蜜月も白日の下に晒される。あんたはもうオシマイだ」

 三藤氏がいままで転向、及び勤務した支店の出勤日数や労働時間に関わる過去の記録、彼の過剰労働に巻き込まれたその他従業員の連勤日数、残業時間、勤務体制――いままで黒い宝箱の奥底に封じられていた財宝は、この騒動を鍵として世間に解き放たれるだろう。

 同時に、園崎屋の社長も交代となる。はてさて、後釜は誰になるのやら――それについては、もう既にこちらの知った話ではない。

「……ああ、オシマイだな」

 俊夫が虚ろな目をして呟く。

「だが、お前達も道連れだ」

「は?」

「私の警護を担当していた腕利きの一人が既に慎之介のもとへ向かっている」

 俊夫が自棄を起こしたように嗤うと同時に、紫月は近くに転がっていた杖を見遣る。

 柄に嵌めこまれた女神のカメオ。その瞳にあたる部分が、赤く点滅していた。

「まさか……」

「え? なに? どゆこと?」

 あゆが状況を呑みこめずに目を瞬かせている。

 紫月は杖を拾い上げ、カメオをさらに凝視する。

「仕込み杖か。こいつは一本取られたな」

「中々の推察力。もしや君は探偵なのですかな?」

「??? おーい、私にも分かるように説明してくれー」

 完全にやられた。連中が大人数で来た時点で、ここ以外にも別の仲間が配置されている可能性を考えておくべきだった。

 紫月はいまだ能天気に目を丸くしているあゆに説明する。

「こいつにはトランシーバーと似たような仕掛けが内臓されていたんだろう。俺達がドンパチやってる最中に、外で待機させていた別の仲間に指示を送っていたんだ」

 おそらく青葉も外で何者かと交戦して、その相手は万が一に備えて青葉かシンちゃんのどちらかに発信機か何かを取り付けたのだろう。俊夫の目的があくまでのシンちゃんの奪還だとすれば、陽動を引き受けたつもりの紫月が逆に相手の陽動に乗せられていた形になる。本命は数による力押しではなく、実力者による単独行動だった訳だ。

 いまの説明で、ようやく危機を認識したあゆが蒼白になる。

「ちょっと待って。貴方、いま道連れとか言わなかった?」

「そうだ!」

 俊夫が半狂乱になって叫ぶ。

「園崎屋はもうオシマイだ! だったら夏帆も慎之介も――いや、私に仇を成した全ての者を道連れにしてやる!」

 かすれた哄笑が建物の鉄骨に反響して、必要以上の音量で鳴り響く。

 しばらく叫ばせてみた後、紫月はふっと口元を緩めた。

「――終わるのは、あんた一人だけさ」

 俊夫の哄笑がぴたりと止む。

「何だと?」

「一つだけ、いいことを教えてやる」

 建設現場の外側から甲高いクラクションが聞こえた。おそらく、黒狛の誰かが紫月達を迎えに来たのだろう。

「あんたはいま、最も触っちゃいけないスイッチを入れちまった」

 母性本能を刺激され、闘争本能によって銃把を握った彼女がどういった反応を示し、襲い来る脅威に対してどう迎撃するか――それは、想像するに余りある。

「悪いがこの勝負、俺達の勝ちだ」


   ●


 シンちゃんに取り付けられた発信機の存在に気付いたのは、なんと紫月との通話が終わった直後だったりする。あと何十分も経たないうちに、さっき交戦したガン=カタ遣いが白猫の事務所にやってくるだろう。

 もう遠くへ逃げるには時間が足りない。だから、青葉は例の発信機をジャケットのポケットに入れ、和音のオートバイに二人乗りして記念体育館に隣接する共同公園に赴いた。

 帰りの足が必要なので、和音はオートバイと共に体育館の駐輪場に待たせておいた。

 公園の中央で一人佇んでいると、正面の視界に人影が揺らいだ。

「逃げるどころか迎え撃つ為に俺を呼び寄せるとはな」

 現れるなり、陶が飄々と肩を揺らす。

「全く、俺もつくづく運には恵まれない。運び屋が単なる高校生だったら、弾を一発も浪費しないで、都合二キロの距離をこうしてマラソンせずに済んだってのに」

「それは大変ご苦労だったな」

 青葉は彼の目の前でコイン型の発信機を握り潰し、人工芝の上に落として踏みにじった。

「先に警告しておく。いますぐ私の前から消え失せろ」

「悪いが、さっき依頼内容がベビーちゃんの保護から皆殺しに変わったんだわ。お前を殺したら、次はお前の彼氏、それからベビーちゃんの保護に関わってる全員だ」

「手っ取り早く仕事を片付けたいなら、背後から私を撃てば良かったものを」

「今日は正々堂々やりたい気分なのさ」

 陶は左右の太腿のホルスターに収納された銃のグリップにそれぞれ手を添える。

「一人の銃遣いとして、足枷の外れたお前さんに真剣勝負を挑ませてもらうぜ」

「そういうことなら受けて立つ」

 青葉も同様に、クロスさせた両手をジャケットの裏に突っ込んだ。

 夜風に乗って小さな新緑が舞い、二人の間をゆらゆら通り過ぎる。

「勝負だ、貴陽青葉」

「来い」

 頼りなく落ちた葉が人工芝の切っ先に触れた時、二人は両手で銃を抜き、全く同じタイミングで駆け出した。

 並走しながらの、挨拶代わりの乱射。銃口から唸るマズルフラッシュが夜闇のせいでいつもより眩しく踊る。大気を叩く銃声が、静寂の中でより大きい波紋となって広がった。

 弾丸が青葉の頬を掠める。陶の狙いは正確だ。

 相手は歴戦のガンマン。そんじょそこらの警官とは次元が違う。

 でも、青葉とて、それは同じだ。

「くっ……!」

「ちっ」

 弾と弾が正面から交差し、青葉の脇腹と陶の右手の銃にそれぞれ一発ずつ掠めて通り過ぎる。走力が少しでも劣っていたら直撃していたところだ。

 二人は直角に折れ曲がって正面から互いの間合いに接近し、銃口を向け合い、容赦なく発砲。直前に首や脚を逸らしていた為、両者共に直撃は免れていた。

 青葉が右足を軸に右回転。陶の横を奪うが、彼はすぐに右腕で青葉の右腕を退かし、左手の銃で発砲。青葉が左に避ける。陶が肘打ちと共に余った片手で発砲しようとするが、直前で青葉が銃の台尻をぶつけて相手の銃口を逸らす。

 至近距離における銃口のポジションと立ち位置、体勢の奪い合い。ようやくお互いが一番得意とする戦闘スタイル――ガン=カタによる命のやり取りが始まった。

 腕前は互角。いや、陶の方が少し上かもしれない。経験則によるものか、こちらの動きが数秒単位で先読みされている。

 でも、どんな形であれ、私に予知は通用しない。

「であっ!」

 奇妙な発声と共に脚を振り上げ、爪先で陶の左手から銃を弾き出した。

 陶が慌てもせず、余った右手の銃口をこちらに向けてくる。青葉は自分の左手から銃を真後ろに振り落とし、空いたその手で陶の右手首を掴み上げ、右手の銃を頭上に発砲。宙を舞っていた陶のグロック――そのバレルが放射状に陥没する。

 陶が左手で青葉の胸倉を掴んで強引に彼女を投げ飛ばし、左の銃で発砲。滞空中の青葉は右手のベレッタを額に翳し、飛んできた弾をブロックして、使い物にならなくなったそれを放り、受け身を取ってからすぐに起き上がる。

 陶が、終わりだ、と言いたげな眼をして再び照準をこちらに合わせてきた。

 発砲。

「何だと!?」

 吹き飛んだのは青葉の頭ではなく、陶の銃だった。

 青葉は左手に構えたベレッタの照準を陶の額に合わせる。

「勝負アリ、だ」

 これで陶の銃器は全て破壊した。この距離なら、相手が次の武器を取り出す直前だったとしても即座に頭を撃ち抜いてゲームオーバーだ。

「……やられた」

 観念したのか、陶が脱力して尻餅をつく。

 一瞬だけ両手が空いて隙だらけに見えた青葉の手に再び収まっていたベレッタは、取っ組み合いの最中で青葉が咄嗟に放り捨てた左側だ。一丁ずつ片手の銃を破壊して油断したのはお互い様だが、その先に対応した青葉の方が一枚上手だった、という訳だ。

「降参だ。日本人はこういう時、煮るなり焼くなり好きにしろ、とか言うんだろうな」

「残念ながら私に人肉を楽しむ趣味は無い」

 青葉は春に似つかわしくない冗談を吐き、故障させられた右のベレッタを回収する。

 陶は青葉の様子を見るなり、遊び疲れたように、背中を人工芝に投げ出した。

「なあ、青葉」

「馴れ馴れしいぞ」

「いいじゃねぇか」

 彼は屈託なく笑った。

「今日は楽しかったぜ。久しぶりに熱く燃えて、負けて悔しかった」

「銃撃戦はスポーツじゃないんだがな」

「そんぐらい知ってるよ。それから、最初からお前に俺を殺す気が無かったことも」

「そうか」

 特に驚きはしない。見透かされても構わないと思ったからだ。

「最後にもう一つだけ、親切心で警告しておく。これ以上私達の邪魔をする気なら、いますぐにでも銃を捨ててこの稼業から足を洗え」

「そいつはキツいな」

「だが、もし今後、私達に味方するというのなら――」

 去り際に立ち止まり、青葉は青い月をバックに振り返った。

「銃は捨てるな。私にリベンジするまで、絶対にな」


 濃い闇に消えていく青葉の背中をぼうっと見送ってから、陶はしばらく悩んでいた。

 傭兵稼業を続けたいなら青葉のダチになれ――か。魅力的な提案だな。あのお嬢ちゃんは既にチン付きらしいから、そういう関係への発展は望めないだろうが――問題は、祖国に残してきた女を捨ててまで、青葉一人の為だけに、この彩萌市に永住する覚悟を決められるかどうかだ。

「……勝ちてぇんだよなぁ、畜生」

 祖国に安寧を求めるか、望めもしない勝利を得る為にスリルを求めるか。

 俺は、どっちに行きたいんだ?

「――決まってんだろ、そんなの」

 男は自分の中に理想として在り続ける、『世界で一番イイ女』を現実に求めている。

 そいつを探す俺のセンサーは、この街であいつと会ってから、ずっと勃ちっぱなしだった。


   ●


「今度こそ、終わったな」

 さっきまで通話に使用していたスマホをポケットに仕舞い、紫月は鼻を鳴らした。

「そっちの用心棒は青葉が片付けた」

「馬鹿な……陶が倒されるなど……!」

 俊夫が脂汗で顔面を濡らし、憎々しそうな眼差しで紫月をねめつける。

 ここは黒狛の事務所だ。白猫の事務所に幹人が帰ってきた為、杏樹がこれ以上彼の根城で厄介になる訳にはいかないと判断したので場所を移したのだ。少々面倒だが、彼には後で感謝しなければなるまい。

 俊夫の両脇は杏樹と轟が固めている。これで彼もさっきのような小細工は使えない。

「あんたの選べる道は二つに一つだ」

 紫月が淡々と述べる。

「大人しく身を引いて、夏帆さんとシンちゃんがあんたのもとを離れていくのを指をくわえて黙って見ているか、或いは出るトコ出られてあんたが園崎屋を離れるか。俺達は夏帆さんから正規に依頼を受けている。よって、彼女を護る手段を選ぶつもりは無い」

「人様の事情に土足で踏み込んで利潤を貪るハイエナ如きが偉そうに――」

「そのハイエナに負けたのは何処の誰だ?」

「小僧、貴様」

「はいはい、すとーっぷ」

 杏樹が手を振って男二人の口喧嘩を制止する。

「さっき園崎屋の秘書さんと連絡を取って、車をこっちに向かわせてる最中だから。それが来るまで静かに待ってもらえると有り難いんだけど。主に私の精神衛生上の理由で」

「俺も同感だ」

 轟が太い肩を竦める。

「それに、選択の余地なんてこのオッサンにはもう無いっての」

「何だと?」

「旦那は『重点監督』って知ってます?」

 その語句を聞いた途端、俊夫の眉間がぴくりと動く。

「『過重労働重点監督』。若者の使い捨てが頻発する企業に対して厚生労働省が実施する、いわゆるブラック企業の一斉摘発みたいなモンですわ。ライズ製薬がこの街で戦争規模の事件を起こしたのを受けて、例外的に彩萌市内の企業のほぼ全てに、近々その調査員が派遣されてくるんだってよ」

「馬鹿な、そんな話は一度も聞いていないぞ!」

「だろうな。俺だって、知ったのはついさっきだ。ねぇ、社長?」

「ええ。後で会社に戻ったらメールチェックしてみることをオススメします」

 杏樹が涼しい顔で言う。

「うちの会社にも来てる通知なら、園崎さんの会社にもそのメールが来てるでしょ?」

 忘れがちだが、黒狛探偵社はいまどき珍しい有限会社である。個人経営なので誰かに株を買ってもらっている訳ではないものの、会社としての機能が確立されている以上は労働基準法に遵守している必要がある。勿論、ここも調査対象として認定される。

 ならば、大企業の株式会社がその摘発を受けない理由は無い。

「園崎屋は労働環境の改善を余儀なくされ、そして貴方はおそらく方々から退陣を迫られる。私達は彼女の依頼で逃がし屋の仕事も兼任してるから、貴方のもとから夏帆さんも慎之介君もいなくなる。選ぶまでも無い。貴方はいずれ、全てを失うのよ」

「そんな……」

「ま、ご愁傷様」

 絶望に暮れる俊夫を一言で切り捨て、紫月はひらひらと手を振って玄関口に向かった。

「紫月君、どこ行くの?」

「いますぐ会いたい人がいるんです」

「おっけー、行ってらっしゃい」

 たった一言を聞いただけでこちらの真意を汲むあたり、杏樹も親として非常に優れた感性を持ち合わせた一人だと言える。自分を拾ってくれた人が彼女で良かったと心底思える瞬間だった。

 紫月は事務所を出て、早足で歩を進め、やがて全力で駆けだした。



 彩萌駅前の噴水広場で、青葉と夏帆は向かい合っていた。白猫の事務所で待機中だった夏帆をこの場に呼び出し、青葉自身は和音のバイクでここまで送ってもらったのだ。

 夏帆の腕に抱かれるシンちゃんは、青葉をつぶらな瞳でひたすら見つめていた。

「名残惜しいが、お前とはここでお別れだ」

「あぶっ」

「良かったな、お母さんと会えて」

「うぅ」

 シンちゃんがもみじのような手を必死に青葉へ伸ばそうとしている。

「あーうー」

「駄目だ。私はお前の母親ではない」

「うー!」

 彼の訴えを聞き流し、青葉はくるりと背を向けた。すると、噴水が水面を叩く音さえかき消すような大音声が響き渡る。

 夏帆がシンちゃんを必死にあやしていると、青葉は押し殺した声で言った。

「……一つだけ、言い忘れていた」

 青葉は振り返り様にベレッタを抜き、その銃口を夏帆の額に突き付けた。

「園崎夏帆。いま私の前で、二度とその子を捨てないと誓え。そしてもしその約束を破ってその子を再び一人にするのなら、私はお前を地獄の果てまで追ってでも殺してやる」

「…………ええ」

 夏帆は瞑目して、シンちゃんをさらに深く抱き寄せる。

「本当に、ごめんなさい――シンちゃん、貴陽さん」

「さっきも言った。私への謝罪など要らん」

 青葉は銃を仕舞い、「じゃあな」と捨て置き、早足で二人の前から遠ざかった。

 しばらく経っても、シンちゃんの泣き声が耳からこびりついて離れない。抱きしめた時に感じたぬくもりが火種のように燻って腕と胸に残っている。彼の取り扱いに苦労したこともあったが、それさえも総じて楽しいと思えてしまった。

 駄目だ、感傷に浸っては。私は成すべきを成しただけに過ぎない。

 もうこの一件は、私には関係無い。近くで待っている和音のバイクに相乗りさせてもらって、白猫の事務所に帰って、事の顛末を社長に説明して――やることはまだ沢山ある。

「そんなにしけた面すんなよ」

 音も無く正面に現れた紫月が飄々と言った。

「最後までやることはやったんだ。だったら、もっと胸を張ってもいいと思うぜ?」

「……紫月君」

「ん?」

「君から見て、今日の私は立派な母親に見えたか?」

「いいや、全然」

 彼の返答に迷いは無かった。

「そもそもまともな母親ってのを知らないんだ。青葉も含めてな」

「君に聞いた私が間違っていた」

「でも、資格はあると思う」

 紫月は黒いジャケットのポケットから缶コーヒーを取り出し、青葉に差し出した。

「ずっと傍で見てたんだ。あの子を拾ったのが青葉で本当に良かった。少なくとも俺はそう思ってる」

「私も――」

 本音が口をついて出そうになる。しかし、寸でのところで押し留められた。

「青葉?」

「――何でもない。それより、貰ってもいいのか? それ」

「ああ。今日は本当にお疲れ様」

「…………」

 青葉が無言で缶コーヒーを受け取ると、紫月も全く同じ缶を反対側のポケットから取り出した。

 奇しくも二人が握るそれは、紫月が人目に触れる店先でシンちゃんをあやしている合間に青葉が飲んでいたものと同じ缶コーヒーだった。

「つくづく嫌味な奴だ」

「ん? 何が?」

「何でも無い」

 こんな奴なんかに、言える訳が無かった。

 私も、傍にいる相手が君で良かったと思っている――なんて。



                 #03 母をたずねてバブリシャス おわり

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ヒゾウの探偵 中村 傘 @natsumuraV3

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