君に告げる別れは自分のために

ぐみ

さよならはだれがため

 その通達は当たり前だけれど、突然だった。

 私にとってそれは、今まで「順当」に訪れ、覚悟と共に受け取ってきたものだった。だから、頭の中でそういうことがあり得るとわかっていても、自身の身近におこる訳がないと無意識にタカをくくっていたのだ。

「3年B組のアタカ君が事故にあったそうです」

 沈痛な面持ちで、直接知らせを受けた教頭が職員室で言い放った。私はその名前に体を強ばらせた。

「事故って、なんの?」

 アタカのクラスの担任が、現実感がわかない表情で教頭に問う。担任の先生は教員歴10年のそこそこ中堅である。他の先生たちは顔を見合わせ、怪我の具合はどうなのだろう、授業はどうする?などとささやき合う。

 教頭は眉間のしわを押してのばすような仕草をしたが、いっこうに改善されない。

「細かい事故の内容はお伺いしていません。ただ、即死だったそうです」

 それで、職員室はしん、と静まった。


 もともと、私は教師になる気はなかった。


 小学生から長距離走を続けていた。ずっと走っていたい、その思いからスポーツ学のある大学に進学した。


 運動は好きだ。頭の中で物事を考えるスペースをどんどん削って、私とは別の生き物に生まれ変わる。そうして自分の気持ちにばかり結果を詰め込むばかりで、運動全般は好きだったのだが、「チームワーク」が得意でなかった。

 他の生き物と連携するという理性的な制御や、気配りが煩わしく、億劫だった。

 理性が足かせになって、うまく生まれ変われないジレンマ——(これについては、私は本能に帰ると思っているのだけれど)。そんな私が行き着いたのが、長距離だった。

 走ることだけが頭のなかにある。ペース配分や、体の疲労頻度。そういったランナーにとって必要な情報は始めはきちんと組み立てていた。やがてそれは頭の中のノイズが持ち込まれるようでいやだった。けれど走り込んでいくうちに、そのノイズはゲームのパラメータみたいに当たり前にある情報として頭の中に整理して配置された。パラメータをきちんと把握していなければ、私は走り続けることが出来無いから、なんとか頭のなかに配置したようだった。

 それがなんとかできたら、もう私は走るだけのイキモノになった。

 走ること、そのものになった。

 本能に帰った私は他の音から解き放たれてただただ走る葦になる。

 何度か、不意にやってきた少年とぶつかったり、自転車にぶつかりかけたり、車との接触さえしかけた。視界にはいってきても脳が認めない。走ることを求める。

 走れ走れ走れ。

 足の裏が大地を踏みしめて、それを蹴り上げる瞬間。さっきよりも大きな一歩が踏み出した時。体が大きく倒れこむように先に、先にと進むのだ。

 体を今よりももっと前へ。もっと遠くへ。先へ。先へ。先へ!

 心が高揚して、たまらない。私だけになるその瞬間がたまらなく好きだった。

 そんな、たった一人でいることの高みをこよなく愛していた私が、教員免許をとったのは母を安心させるためだった。自発的ではあったが、自分のためではなかった。就職活動よりも走っていることを優先していても「教員免許があるから学校の先生という道はぎりぎりまで選べるんだよ」という言い訳でもあった。


 長距離走は孤独だ。


 誰かと競いながら、自分とも戦う。

 息が、足が、悲鳴を上げる。そして悲鳴と一緒にもっと遠くへいける、と囁くのだ。その矛盾した辛さを辛さを超えると、走るものだけがもたらされる快楽、ランナーズハイにたどり着く。一度経験すると病みつきになる。走ることに一時期取り付かれていたほどだ。

 そんな私も、陸上で一番を走り抜けるほど才能があった訳ではない。華々しい記録のない私が陸上で実業団にはいれるわけもなく。

 企業への内定はとことんもらえず、たまたまひっかかった嘱託教員にしがみつき、4年目を迎える。

 体育の教師の私は、アタカ君が男子ということもあって授業を受け持ったことはない。ただ、彼には些細なしこりがある生徒であった。


 彼は優秀な生徒だった。

 中学から推薦入試で入ってきた彼を、体育の先生の出張が重なって穴埋め面接官の一人として出会った。

 快活そうな笑顔の奥に、アンダーリムの眼鏡が彼を知的に見せていたにも関わらず、私は不愉快さを覚えた。

 成績、内申点ともに申し分のない彼は、白髪の混じる教師陣からは形式的な面接内容だけでほぼ推薦が決まったようなモノだった。

 まだ教師に成り立てで、代役をしっかりこなさなければと気負っていた私は必要以上に彼の内面を聞き込むような質問を重ねた。

 アタカ君はそれに対しても模範的な回答を返した。その時点で私はいけ好かないやつだな、と感じていた。

「まあまあ、先生、時間も迫っていますし。それでは、アタカくん。最後に何か質問はありますか?」

 3年の学年主任が私をいさめるようにすると、アタカくんは私をちらりとみて、目を細めた……ような気がした。

「そう、ですね。学園は自由な校風と、伺っています。私も体験入学で身を以て経験させていただきました。先輩たちはとても学園生活を楽しんでいらっしゃると思いましたし、質問にも明瞭なお答えをいただき、私自身もそのように楽しく学びたいと考えております。

 ……先生がたについても、自由というのは初めて知りましたが、『とてもオトナらしい対応』をいただき、私も身が引き締まるような思いです」

 ——馬鹿にした。

 かっ、と私の頭に血が上りかけた。

 あれはやはり、嗤ったのだ。

「ははは、ありがたいことだね」 

 そして主任は苦笑いを浮かべて受け止めた。ほかの面接官の視線が痛かった。

 アタカは一礼して、一寸の乱れもなく面接の教室を出て行った。

「先生、がんばっているのはわかるけど、やり過ぎは良くないよ」

「……はい、申し訳ありません」

 ぎり、と奥歯を噛み締めた。


 試験が終わり、面接につかった教室の机を戻すのを用務員の田中さんに手伝ってもらった。

 田中さんは物腰がやわらかく、つい愚痴をこぼしたくなるような好々爺だった。

 私は


 高校生は体は成熟しているが、精神は未熟である。

 では、精神の成熟はいつ迎えるのだろう?


 私はこの問いの答を当時から自身に投げかけ、未だ見つけていない。

 彼は苦手な人間で、教師と生徒という立場でありながら、彼にとって私のような存在は手のひらで転がし得るものなのだろう。

 アタカくんは当然のように入学し、私は3年生の体育担当だった。あのときの悔しさはあったが、わざわざ近づく必要もない、と一年にはことさら近づかなかった。


 嘱託の私は無理してでなくていい、といった。

 けれどいかなければいけないと、思った。


 順当でないことはなんて残酷なのだろう。

 涙はどうして、と非情であると、運がなかったと、だれもが口々にいう。

「原付で、スピードの出し過ぎだそうです。彼、原付の免許をこっそりとっていたようなの。それで」

「電柱にぶつかって、対向車線に体が放り出され、車にはねられたそうなの」

「運が、なかったんだ」

「なんてこと」

 ひそひそしくしくとささやかれる言葉。

 校則では原付の免許取得を禁じている。生徒たちの無責任な行動の拡大を防ぐためだ。教師は生徒の監督責任がある。だが、彼らはそれにあらがう。教師だって彼らとぶつかり合いたいわけではないが、好奇心に満ちた彼らは容易に常識の枠を超えて痛いめに合いたがるのだ。

 それを経験だと、人はいうかもしれない。

 けれど、そうして心身に傷を負うと、咎められるのが教育者だ。

 生徒を守り、なおかつ彼らの反抗心をうまくいなし、あるいは監視下で反抗させることで大事にならないようにするーーもちろん、彼らに気づかせないように。

 そういうことが面倒だと感じてしまう、またはそういうふうにとらえてしまう私は教育者として歪んでいるのだろう。

 教師になってからも、教師になる前からも、それを面倒だと思うのだからやはりこの職業には向いていない。

 クラスメイトが涙し、縁遠い生徒たちであっても顔色は悪い。青春を謳歌する彼らから、死というものは概念的で物語の中にあるものだ。それが急に肉薄して身にしみたのだろう。

 それは私もそうかわらない。線香の香りと涙、嗚咽が死の香りを私に運んできて日々の生活を思い返す。けれど、それはあくまで自身を顧みること。

 アタカくんにわいてくる感情はあまりない。

 ざまあみろ、と思う気持ちがあればもっと自分が嫌いになっただろうが、それすらない。

 父親のはれたまぶたと、赤い鼻、そして言葉を紡ぐととたんに嗚咽になってしまう、母親の姿、そして呆然と、両親の姿と遺影をみて、首を振る兄弟の姿。

 痛ましい。

 そればかりで。


 私にとってやはり彼は他人だ。

 それでも、この中で彼へ向けた刃のしこりが残っている。

 多分、彼が亡くなったから明確になっただけで、きっと彼が生きていれば毒づくことはあっても謝ることはなかっただろう。

 今も、謝ることはできないし、生きていても謝ることはない。

 ただ、彼へ刃を向けてしまった後悔だけが私をこの場に導いた。


 彼へ別れを告げるけれど、謝ることはない。ただ、この、彼との最後の場所にやってきたのは、自分のためだ。

 遺族でも、学校のためでも、もちろん彼のためでもない。

 私が楽になりたいから、私は彼へと刃を向けたけれど、義務は全うしたということで罪悪感を消すため、それだけ。


 子供じみていると私のどこかが笑い、それが悪いかと嗤った。


 たとえ地獄の汁をすすっても、この癇癪がとれないまま、私はずっと一人で走っていくのだ。

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