ワーストプランナー

らいちょ

第1話


 夜になって雨が降り始めた。ベランダ越しに曇天の空を見ると春雷なのか、雲の切れ間から青白い稲光が走っていくのが見えた。その雷雲の真下は今豪雨なのだろうか。

 景色を見遣り、そんな事を考えながらスマホのコールを続ける。

 彼への電話は未だ繋がらなかった。

 私は部屋の中で溜息を漏らす。無口でいると雨足が強くなったのかザーッという音が窓の外から響いてきた。こんな雨だから電波状態が悪いのか、はたまた雨宿りに地下にいるから繋がらないのか……、自分の中で電話を取らない彼の理由を考えてみる。

 ま、そんなものは自分を騙す嘘に過ぎないと自覚しているが。

 コールを切り、スマホをベッドの上に投げ捨てた。

 そのまま自分もベッドに身投げして、近くにあったクッションを抱きしめる。

「どうして……。どうして電話に出てくれないの……。タケル」

 くぐもった声で彼の名前を吐露する。最近タケルとのすれ違いばかりが続いていた。

 告白したのは三ヶ月前。共通の友人からの紹介で私達は知り合い、私はタケルの事が好きになり、彼に気持ちを告白して私達は恋人になった。

 付き合い始めて全てが順風満帆だったわけじゃない。喧嘩もしたし、幾度か別れ話も出た。

 でもその度に話し合って。ぎゅーっと抱きしめ合って。最後は仲直りをした。

 私達は幸せだった……はずだ。

「ねぇ……。どうして?」

 疑問を吐露するが、答えてくれるものはどこにもおらず。

 私は潰れそうな気持ちで再びスマホを手にした。

 メールボックスを確認するが彼からの返信はない。いたたまれない気持ちになって私はスマホを壁に投げつけようとするが、すんでの所で気持ちを抑え、ギュッと握り締めた。

 怖いのだ……。スマホを破壊してそのまま彼からの連絡が途絶え、距離が開き、そして去っていく事に。そうならないという確証がどこにもない。その事実が何よりも怖かった。

 タケルは私を避けているのだろうか。

 認めたくないのか、そんな考えを払拭するように必死に頭を振る。

 幾ら考えても埒があかず、私はこの詰まる気持ちを誰かに相談したくなり、ベッドから起き上がると机の上に置きっぱなしになっていた家の電話の子機を手に取った。

 かけ慣れた番号をプッシュする。スマホを使わなかったのは、彼からの突然の電話にも即座に対応できるようにだ。いつでもすぐに電話を取れるよう準備をしておく。

 それは私のタケルに対する気持ちの現れでもあった。

「もしもし……。ユーコ?」

『どうしたの?』

 数回目のコールで彼女は電話に出た。ケータイに掛けたのだから、すぐに出てもいいと思うのだが、返答する彼女の声は少々焦っているような感じがした。

「相談したい事があるんだけど」

『あぁ……。うん。相談ね』

 妙に歯切れが悪い。いま話を聞く環境にないのだろうか。

 ユーコは私の友人である。明るい性格で誰からも愛され、クラスのムードメーカー的な役割を担っている子だ。タケルもユーコからの紹介で知り合うきっかけを持った。

 そんな彼女なら今の状況を相談出来ると思ったのだが……。都合が悪かったのだろうか。

「ごめん。都合悪かったかな?」

『えぇ……。あぁ……。うん。ちょっとね』

 再び会話の歯切れが悪くなる。私はその時、彼女の癖を思い出した。

 ユーコは嘘をつくのが下手だ。あらかじめ作っておいた嘘なら幾らでもつけるのに、唐突な対応の嘘には妙に歯切れが悪くなる。頭の回転が遅いのか、それとも咄嗟の対応に鈍いのかわからないが、彼女と口裏を合わせる時はこっちが主導権を握って話を進めないと嘘が成立しない。そんな事実を知っているからこそ、今ユーコが嘘をついている事は即座に理解できた。問題は一体何に対して嘘をついているかだ。

「外、雨がすごいね……。さっきそっちの方から稲光がしたけど大丈夫?」

『うん。凄い雨だった。帰りはびしょ濡れになったよ。雷も凄い鳴ってる』

「夜になって雨が降り始めたから、夜まで何処か外にいたんだ……」

『え、えぇ……。うん。そう。友達とね』

 ダウト。何故歯切れが悪くなるのかを考える。夜まで外にいた事だろうか。違う。私はユーコの親じゃない。それにユーコの親は共働きで夜遅くにしか帰らないので、そんな事の嘘をついても意味がない事は知っている。だとすれば一緒にいた相手の事だろうか。

 私に対して嘘をつかなければいけない相手……。そこに思考が到達すると同時に私は胸がつかえるような苦しさを覚え、言葉を詰まらせた。

「……タケルがね、最近私を避けているようなの」

『そうなんだ』

 私の悩み相談にユーコは淡々とした返答を述べた。いつもならリアクション高めに私の意見に同調して相談に乗ってくれる彼女だが、電話口の彼女は同一人物とは思えないほど沈んだ感情で簡素な言葉を並べるだけ。心ここにあらずな言葉に不信感さえ募るほどだ。

「いまタケルがどこにいるか知らない? ケータイに連絡しても繋がらなくて」

『あ、あぁ……。私も知らないかなぁ……』

 ダウト。つまり彼女はタケルの居場所を知っているという事だ。なぜタケルの事に関して彼女が私に嘘をついているのか……。

 それは彼女の口から聞くのが一番の方法だろう。

 私は右手に握ったスマホのリダイヤルを押した。先程まで電話をかけていた相手にコールをする。それは未だ電話の繋がらない私の彼氏タケルの番号だ。

「ねぇ……」

 私が問いかけると電話口のユーコは無言になり、息の詰まる聞こえた。

「ねぇ……。私、今ユーコに家の子機で電話をかけながらスマホでタケルに電話をかけているの。でね……。どうしてユーコのケータイの側からタケルのコール音が聞こえるのかな?」

 冷めた口調で尋ねるが、ユーコはもう答えてはくれなかった。そして示し合わせたかのように電話とスマホの通話が同時に切られる。耳朶に響くはツーツーツーという無機質な音だけで、再びリダイヤルしてみるが着信拒否をしたのか、すぐに切られてしまった。

「……ダウト」

 静寂の続く部屋の中で私はそう呟いた。壁に向かってスマホを投げつける。虚しい破壊音は直後近くに落ちた落雷の音に掻き消え。停電し闇の訪れた部屋の中で私は唇を噛み締めながら悔し涙を流していた。

 私の彼と私の友人は、私を騙し続けていたのだ。



            ○



「……別れよう」

 数日後。ようやく話し合いの場に顔を出した彼は、開口一番にそう言った。

 ありふれたファミレスの一室。ただここだけが酷く空気が重い。

 私は無言のままコーヒーのカップにミルクを注ぎ入れる。

 彼の隣にはユーコがいた。彼女は無言のまま口を真一文字に曲げ、紅茶のカップをじっと見つめていた。

「説明して」

 私は淡々と尋ねる。タケルは複雑な表情を浮かべ、私とユーコを見遣り溜息を漏らした。

「ごめん。キミと付き合ってみて初めてわかったんだ。俺はユーコの事が好きなんだ」

「……そう。で、別れて欲しいと」

 コーヒーのカップを傾ける。いつもは砂糖を入れるが今日は入れる気になれなかった。

 ユーコを見遣る。依然視線は俯いたまま、テーブル上のカップを見つめている。

 そうする事で反省の旨を示している……。そんな風を装っているのだろう。

「ユーコ……。アンタはずっと知っていたの?」

 私の問いかけにユーコの体がビクッと反応を示す。あの日の電話口の彼女もこんな反応をしたのだろうか。ビクついた態度に今にでも平手を食らわせてやりたい気持ちを必死に抑え、私はカップをソーサーへと戻した。

「騙していたの? 私の気持ちを知っていながら、心の奥底ではほくそ笑んでいたの?」

「悪いとは思ってた」

 ユーコは俯いたまま呟く。歯切れが悪くない所を見ると、それは嘘ではないのだろう。

 だが嘘ではないという事は、「悪いとは思ってた」けどタケルと浮気して私を騙していたという事になる。……それは裏を返せば、悪いとは思っていなかったから浮気をしたという事ではないだろうか。

「悪いとは思ってた……?」

 私のオウム返しに彼女はようやく顔を上げた。俯いていて今まで表情が分からなかったのだが、その顔は反省の色があるとは到底思えず、明らかに自分の方が正しいという顔をしていた。

「でも……。タケルは私の事が好きなの」

 その言葉を聞いた直後、私は無意識の内にテーブルに置かれたお冷の入ったコップを手に取り、彼女の顔に浴びせていた。コーヒーでなかった事は私の僅かながらの自制心だろうか。

 周りのテーブルから悲鳴が漏れ出る。周囲の注目が集まる中、ユーコは紅茶の入ったカップを手に取り自らの頭の上に浴びせた。その奇異なる行動に周囲からは再び悲鳴が漏れ出るがユーコは気にした様子を見せず、薄ら笑いを浮かべ私を見遣る。

 見下したような目で……、私を見遣る。

「こうすれば満足?」

 これが殺意と呼ばれる感情なのかとこの時初めて理解した。私の心の中には沸々と煮立つような感情が渦を巻いている。ドス黒く、ドロリとしたものが眼球や口腔内から噴き溢れるような感覚に陥り、私は震える手でコーヒーカップを手にした。

 状況の異常さを感じ取ったのか、タケルはずぶ濡れになったユーコを引っ張る形で退席する。

 残された私は自制心を働かせるために、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。砂糖を入れていないコーヒーはミルクを入れていたとしても苦く、頭の中に痛みのような刺激を残す。

 カップをソーサーに置いた頃、タケルは疲れきった表情のまま一人で戻ってきた。

「ユーコは帰したよ」

「そう」

 タケルの言葉に私は簡素に答える。今ユーコの所在なんてどうでもよかった。

「――で、タケルはどうするつもりなの?」

 私の問いにタケルは沈んだ表情で席に腰掛け、震える手でお冷の水を飲み干すと、意を決したかのように私に向かって深々と頭を下げた。

「別れてほしい……」

「いや」

 タケルの言葉に私は即座に拒否の姿勢を示した。

「俺が悪かった。キミと付き合っていながら浮気をしていた事は、心から反省している。でも俺の言葉を聞いて欲しい。俺はヒカリと付き合ってよく分かったんだ。俺が本当に好きなのはヒカリではなくユーコだった。これが俺の真実だ。だから別れてほしい」

「どうしてユーコなの?」

 私の問いにタケルは答えてくれなかった。言葉を詰まらせ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。私にはその感情が全くと言っていいほど理解できなかった。

 タケルはそれ以降貝のように口を閉ざし、問いに答える気配がなかったので私はその場を立ち去る事にした。タケルの気持ちがなぜ揺らいだのかはわからない。けど揺らがせた張本人なら知っている。ユーコだ。ユーコが余計な事をしなければ私達は今でも幸せな関係を築いていたはずだ。アイツが友情も愛情も信頼も全て壊していった……。

 そう答えを導き出した時――、私はファミレスを出て雲一つない晴天の空の下を歩いていたのだが、周囲の喧騒が次第に耳朶から薄れて周りの世界が真っ暗になっていくのを感じた。光のない世界を私は歩いている。足元には水たまりのような感触があり、泥濘か穴に足を取られたのだろうか足がもつれふらついて千鳥足になった所で世界に光が戻った。

 喧騒が耳朶に響く。雑踏の只中に私は立ち尽くしていた。

「どぞー」

 そんな私の目の前にポケットティッシュが差し出される。その男はティッシュ配りのバイトなのだろうか、ダサい色合いのブルゾンにダボッとした腰履きジーンズを履き、死んだような目つきで行き交う人々に次々とポケットティッシュを差し出していた。足元のエコバッグにはまだ沢山のポケットティッシュがあり、仕事が順調に進んでいるようには見えない。

 別に同情するわけではないが私はそのポケットティッシュを受け取る事にした。ポケットティッシュには広告が一枚入っていて、黒地に赤い文字で【アナタの最悪を提案致します】と書かれていた。

 なんというか悪趣味だ。ゴシック的な要素を引き出したいのか、それともホラーテイストを表現したいのかこの広告主の意図は不明であり、最悪の提案という意味が分からない。一体何を売りにしたいのか分からないが、私はこの言葉に興味を抱いていた。

「ここから近い……か」

 広告に表示された住所はここからそう離れている訳ではない。私は無意識の内にその住所に向けて歩みを進めていた。私に対しての最悪の提案とは一体なんなのか……。

 私は知らず知らずの内に【最悪】に興味を持ち始めていたのだ。



            ○



 薄汚れた雑居ビルの片隅にその店は存在した。場末のスナックのような塗料の剥がれた扉には金属製のプレートがあり【ワーストプランナー】と書かれている。

「ここが……」

 どこか薄気味悪さを感じつつもノックして扉を開ける。店主がいるのかどうかは分からないが「すみませーん」と声をかけても反応は無い。中は間接照明が薄暗く店内を照らし、狭い白壁の通路と手入れの施されていないひび割れたリノリウムの床に場末のスナック感が半端なく出ていた。

 本当にここが私の最悪を提案してくれるというのだろうか。今ここにいる時点で既に十分最悪な気分なのだが、残念ながら店側からのサービスは何もない。これで天井のミラーボールがヨタヨタと回り一昔前のムード歌謡曲が流れようものなら、いよいよ最悪だ。

「すみませーん」

 私は先程よりも一際大きく奥の部屋に声をかけた。これで誰も出てこなければ本気で帰るつもりだ。騙されたという残念な気持ちを抱えて……。

「何か御用でしょうか?」

 耳朶に吹きかけられる言葉。その甘く響く低い声色に私はビックリして悲鳴を漏らし、慌てて振り返った。そこには長身痩躯の男が立っていた。男はバーテンダーの格好で片手にコンビニの袋を携えており、私を見据えるなり目を細めてゆっくりと笑みを作る。

「申し訳ありません。用事で店を開けて買い物に出ていました所、アナタが店に入るのをお見掛けしたもので……」

「あ、はい。すみません。ノックして声を掛けたんですけど、誰もいなくて」

 私の言い訳めいた言葉にも男は特に反応を示さず、私を避けて奥のカウンターへと入っていく。肌は色白く、スラリとした目鼻立ち。大人の色香を感じさせるこの男性を前に私が呆然と立ち尽くしていた所、男はカウンターからコルク製のコースターとウーロン茶の入ったグラスを出すと、私に優しい笑顔を向けてきた。

「生憎、開店前でこれしかお出しできないのですが」

「え、あ、ごめんなさい!」

 店の営業時間までは確認していなかった。私が慌てて店から出ようとすると、男は特に焦った様子も見せず「では、アナタはどんな最悪を御所望ですか?」と尋ねてきた。

「え、いいんですか?」

 私は聞き返すが、男は笑顔を蓄えたまま崩す事はない。私はやや不安な気持ちに駆られながらも興味には抗えずカウンターへと歩みを進めた。

 背の高いオシャレな椅子に腰掛ける。こういう雰囲気に慣れていないせいか、かなり居心地が悪い。私も大人になればこんなバーに飲みに来るのだろうか。

「あの……。ここって本当に私の最悪を提案してくれるんですか? 最悪の提案って一体なんなんですか?」

 見慣れない物が並ぶバー内をキョロキョロと見回りながら私は尋ねた。おのぼりさんのような行動に後で恥ずかしいと思ったのだが、男はそれに対し特に反応を示さずグラスを拭く手を止めると、無言のままバーカウンター越しに顔を近づけて見つめてくる。

 黒水晶のような黒瞳に見据えられ、私は言葉を失う。

「アナタは最悪を求めてここへと来た。私はそんなアナタへ最悪を提供する事を生業としています。最悪の想定人……。つまりは【ワーストプランナー】という訳です。――まだ腑に落ちないという顔をしていますね。当然です。この説明では納得もし難いでしょう。では一つ、アナタの物語をお聞かせください。葛西ヒカリさん」

 笑顔を浮かべそう語る男に対し、私はビクッと反応を示した。

「どうして私の名前を……?」

 この人に名前を明かした事はない。なぜこの人が私の名前を知り得たのか……。不安な気持ちに駆られながら見遣ると、彼は申し訳なさそうな顔でカウンターテーブルの上に一枚のケースを差し出した。

「先程接触した際に落とされましたよ」

 見慣れたピンク色の定期入れ。慌てて見遣るとそれは間違いなく私のものだった。

「す、すみません」

 定期入れを奪い取るように掴むとバッグの中に押し込んだ。占い師めいた口調だったのに手口は非常にシンプルだ。こうなってくると【ワーストプランナー】も胡散臭い気がする。

 そう感じると先程までの不安も嘘みたいに晴れ、いっそイカサマなら全部話してもいいかなという気持ちになった。どうせ大した事は言わないはずだ。愚痴を聞いてテキトーなアドバイスをあげてお金をもらう手法なのだろう。でもイケメンのお兄さんに自分の愚痴を聞いてもらえるのなら、それもいいかなと思えた。

「お兄さんの……、名前はなんですか?」

「ヒミツです」

 緩やかな笑顔で彼は拒否を示した。でも私は下がらない。

「私の名前を知ったんですから、教えてくださいよ」

「では私の事はナナシとお呼び下さい。私はこの物語の主要な人物ではありませんので」

「なんのメタ発言ですか?」

「いいえ。ここにアナタが訪れた時からアナタの物語は既に始まっています。私はそのキャストには含まれない。ナナシは名無し。役無し名無し。ま、厄でも無いので疎まれる事もありませんが。私の本質はアナタの世界にキャストとして関与する事ではなく、アナタの世界に【或いは一つの最悪】という選択肢を添える役目ですので」

「はぁ……」

 イケメンなのだが、何を言っているのかさっぱり分からない。が、ナナシと自己紹介をされたので私も彼の事をそう呼ぶ事にした。

「ナナシさんは、恋人と友人、二人同時に裏切られた事はありますか?」

 私はそれを口火に今までにあった事を全部ぶちまけていた。タケルが私と付き合っていながら私の友人であるユーコと浮気をしていた事。その後話し合いの席で浮気をしていながら、私に別れ話を告げユーコを選んだ事など、感情入り混じった話は約二時間ほどにも及び、全てを話し終えた私はマラソン完走にも似た疲弊感に打ちひしがれつつ、差し出された三杯目のお茶を一気に飲み終えた。

「……だからっ、私はユーコが許せないんです!」

 不満のはけ口に酒を煽るサラリーマンのようにグラスを傾け、テーブルに叩きつける。

 酔ってはいない。だが延々と身の上を話した事で自分に酔っていたのかもしれない。ナナシさんは飽きた様子も見せず私の話に耳を傾けると、いいタイミングでグラスにお茶を注ぎ入れた。

「――で、ヒカリさんはどうしたいのですか?」

 一連の愚痴を聞き、お茶を冷蔵庫に入れながらナナシさんが尋ねる。

「タケルとは別れたくありません。私はタケルが好きなんです。でもタケルはユーコの事が好きだって言うし、二人は私に秘密で付き合っていたし……」

 自分で言って悔しくなり、私はグラスを傾けた。中身はお茶のはずだが年代物のウィスキーのようにほろ苦く感じた。きっとこの味は私の人生の味なのだろう。

「でも私はユーコが許せない。友情を壊して人の彼氏を取っても平然としていられるあの子の気がしれない。あいつからタケルを取り戻したい。けどタケルの気持ちは……」

 そこまで語って再び理論が堂々巡りとなり、私はグラスをテーブルに叩きつけた。

「どうすればいいっていうのよ!」

「そんな方々に【或いは一つの最悪】を提案するのが、私ナナシの仕事でございます」

 穏やかな笑顔でそう告げたナナシさんは一枚の名刺のようなものをカウンターテーブルの上に置いた。私が何かと顔を覗かせると、掌で名刺を隠し見せないようにする。

「さて――、ここからはアナタにとって重要な局面となります。重々選択をお間違えにならないようお願い致します」

 ガラリと変わった雰囲気に私は息を呑む。緊張感に満ちた表情に私が変わった事でナナシさんは伏せていた掌をゆっくりと持ち上げ、それを開示した。

「ここにあるものはアナタの運命を大きく変えるものです。またそれは【或いは一つの最悪】と呼べるもの。この選択肢を選ぶ事でアナタは想い人を取り返す事が可能になる。しかしその結末は決して良きものにはなりえない。なぜならばそれは【ワーストプラン】だからです」

 運命を変えられる選択肢がある。だがそれは一つの最悪を意味する。

 私は今その只中にいる。今という最悪を進むか、運命を乗り換え新たな最悪を迎えるかの二択を私は迫られていた。

 だが私の答えは既に決まっていた。

「私にとって今が最悪なの。彼を……、タケルを取り戻せる最悪なら、私は喜んでその運命へと乗り換えるわ」

「アナタのこれからの旅路に健やかなる安寧がある事を……」

 名刺を手にした私に対し、ナナシさんは少し悲しげな笑顔でそう語った。

 そこで私の記憶はプツリと途切れた。


 そこからの記憶は酷く曖昧だった。疲弊していたせいもあるのだろう。私は帰宅し晩御飯もそこそこにお風呂にじっくり浸かると疲れもようやくほぐれ、自室のベッドの上でスマホと名刺を手にしていた。名刺にはアドレスが書かれてある。スマホにそのアドレスを打ち込むとどこかのサーバーに繋がった。

 そして――、私はその最悪を理解した。

 運命を大きく変える【或いは一つの最悪】とは、この事だったのだ。

「確かにこれは【最悪】ね。人生を大いに狂わせるものだわ。でも私にとってそれは願ったり叶ったりな状況だけど……」

 歯牙を見せて嗤い、私はゾクゾクするような気持ちを抑え、画面をタップした。

 私は【ワーストプラン】を選択したのだ。



            ○



「ねぇ……。幸せってどういう事なのかな?」

 私はタケルに抱かれながらそんな事を尋ねた。幸せという言葉の概念は酷く曖昧だ。

 お金がある事が幸せなのか。寝食に困らない環境が幸せなのか。はたまた値札を気にする事なく高級ブランドを買い漁る事がそうなのか。幸せの価値観が人それぞれである以上、その概念は酷く曖昧で私には【幸せ】という言葉自体が言葉のていを成していないようにも思えた。

 タケルは私の首筋にキスをして、柔肌を揉みしだく。荒い吐息が耳朶をくすぐり、タケルは私の体を貪るように行為に耽った。互いの体を絡ませ合い相手の体温を感じていると【幸せ】の概念は分からないにしろ、心が穏やかに落ち着いていく事に気がついた。

「幸せってこういう事なのかな?」

「なにがだ?」

 小さくくぐもった声を漏らし私の中で果てたタケルが聞き返す。額に脂汗を滲ませ荒い呼吸を繰り返した彼は私の上に覆い被さると、それ以上の会話を拒むように唇を重ねてきた。

 男の人にはこの感覚が分からないのだろうか。心も体もぬくもりで満ちた今、この落ち着きと慈しみにも似た感覚こそが【幸せ】であると思うのだが――。


 ――なら、きっと今の私は【幸せ】ではないのだろう。

 心も体も酷く冷えている。タケルのぬくもりを感じたかった。

 けどこの気持ちも今日で終わる。ようやく届いた荷物を前に私は笑みを見せた。

 私が感じたそれが私の【幸せ】の概念だとするならば、私はそれを【最悪】を要してでも【幸せ】を取り戻さなければならない。

 私はその【最悪】を手にスマホの電源を入れ、二人を呼び出す事にした。

 


 あの日ほどではないにしろ、空はどんよりとした雲が覆い被さっていた。

 午後からの降水確率は八○%を越えている。傘を持ってくるのを忘れた。呼び出すのを午前中にして正解だったようだ。

 呼び出しに指定したのは近場にある人気の無い公園だった。何の配慮か知らないが公園内の遊具が全て撤去され、殺風景な空間が広がっている。鉄棒やブランコの支柱であったであろう鉄パイプの切断跡がそのまま放置されているあたり非常にシュールな光景に思えたが、そこで遊ぶ訳ではないので哀愁を感じる事もなく、私は待つ事にした。

 指定した時間から一分と遅れる事なく二人はやってきた。二人同時に照らし合わせたかのように来た事は気に食わなかったが、今後の展開の事を考えるとそれはどうでも良くなった。

「待ってたよ」

「話ってなんだ?」

 私に視線を合わせるでもなくタケルは苛立った表情でそう尋ねた。あの日以来会話すらしていない。久々の会話に私は薄い笑みを向けるが、タケルは舌打ちを漏らし「用があるなら早くしてくれ」と淡々と言葉を返した。その傍らにはユーコもいるが表情は消え失せ、俯いたままこちらの動きを待っていた。

 何か警戒しているのだろうか。ま、幾ら警戒した所でそれは無意味なのだが。

 私は小さく鼻で笑い、タケルを見据えバッグからそれを出して見せた。

「タケルに大事な話があるの」

 緊張に満ちた面持ち。息を呑む音が聞こえる。タケルはそれが何かを知り得ないのだろう。

 当然だ。男子には経験も必要もないものだからだ。

「確認してくれる?」

 私はそれをタケルに差し出した。タケルは警戒心に満ちた表情でそれを手にする。それはスティック状の物で中央に小さなくぼみがあり、そのくぼみには一本の線が通っていた。

「これは……?」

 知り得なかった訳ではない。そんな顔をしていた。恐怖にも不安にも似た顔つきをしている。

 そして傍らで沈黙を貫いていたユーコがそれを見るなり目を見開き、こちらを見遣った。

 驚きと絶望に満ちた表情。私の見たかったユーコの露骨なまでの感情がそこに満ちていた。

「おいっ。こ、これって……?」

 顔を青白くさせたタケルが不安に満ちた表情で尋ねる。溺れたネズミが必死に藁にすがるような顔つきをしていた。――だから私はそんなタケルを絶望の底へと突き落とす事にした。

「妊娠検査薬。その線が入っているのは陽性の証」

 その一言にタケルの感情が奈落の底へ落ちていくのが目に見えた。同時にユーコは頭が狂ったように叫び上げ、髪を振り回して膝から崩れ落ちていく。

「う、嘘よ。嘘嘘嘘……。こんな事、絶対にありえない!」

 抑えていても自然と口の端が吊り上がっていく。哄笑しそうな感情を必死に堪え、顔の表情がぐちゃぐちゃになっていくのを感じた。だがまだ終わりではない。ユーコはもうおしまいだが私はタケルを取り戻さなければならないのだ。

 タケルは呆けた表情でその場に立ち尽くしていた。私は握ったままの妊娠検査薬を受け取りタケルの手を優しく握る。絶望のどん底へと落下したタケルは私が手を握ると同時に僅かな灯火にかすかな希望を抱くが如く視線を向けるのだが、生憎私は蜘蛛の糸を垂らす釈迦ではないので改めて彼に現実の確認を取る事にした。

「責任……、取ってくれるよね?」

 下腹部をさすりそう告げる。タケルの反応は無い。死人のような顔つきのまま重力に従うように頭を垂れた。それを見てユーコが狂ったように絶叫しているがそんな醜い悲鳴は既に耳には入ってこず、私は満面の笑みを見せタケルに抱きついた。

 ギューッと抱きしめ合って、私達は再び仲直りしたのだ。

 狂ったように髪の毛をかきむしりながらユーコは狼狽する。聞くに堪えない罵声や呂律の回っていない言葉混ざりで殆ど聞き取れるものではなかったが、私は一つの決着を付けるためタケルから離れ、薄汚い顔をしたユーコの胸ぐらを掴んだ。

 無言のまま見据える。数日前の喫茶店で水をかけられたユーコはこんな顔をしていた。

 私は額と額が触れ合うほど密接し、彼女の目を見据える。混乱と絶望に満ちた目はぐるぐると回っていた。だから私はその耳によく届くように大きな声で現実を突き付ける事にした。

「でも……。タケルは私の事が好きなの」

 喫茶店で彼女が述べた台詞のオウム返しに過ぎない。だがそれが全てでありそれが現実であり、ユーコは私の言葉を聞いた直後、喉が張り裂けそうな程の絶叫を張り上げ仰け反った。

 水を浴びせる必要も自ら紅茶をかぶる必要もない。

 彼女は終わった。瞳孔の見開かれた眼は何処か遠くを見据え、ボロボロの表情のまま幽鬼如くおぼつかない足取りでゆらりゆらりと公園を立ち去っていく。

 全てが終わり、全てを取り戻し終えた事で私はようやく安堵の溜息を漏らした。

 タケルは茫然自失としたままユーコの背を見送っている。その背を追いかける事はない。追いかけても無駄だという現実を知ってしまったからだ。

「大丈夫だよ。タケル」

 再びタケルを抱きしめてそう告げるが、彼からの反応はない。

 どこか遠くを見据えた目から涙があふれ、一筋の流れは私の手の甲へと流れ落ちた。

 私は【最悪】を要し【幸せ】を手に入れる事に成功したのだ。

 その成功に歓喜し高らかに笑う事も出来たのだろうが、【最悪】を要した事への反動なのか私の心はネズミが喜びそうな穴あきチーズのようになっていて、心にボコボコに空いた空虚な部分を見透かされたくなく、私は胸を押さえ唇を噛み締めた。

 私は【幸せ】を取り戻したのだと自分自身に言い聞かせる。そうしなければ自我を保てない気がした。それは自分を騙しているのかもしれない。自分を偽らなければ、自分を偽り続ければいけない世界がこの先に待っている。その現実を突きつけられ、私はこの世界の【最悪】を享受するために目を閉じ、頷いて見せた。

「タケル……。【幸せ】になるためにこれからもずっと一緒だよ」

 私達は【最悪】の中で手と手を取り合い、永遠の愛と【幸せ】を誓い合ったのだ。



            ○



 午後になって雨が降り始めた。天気予報の通りだ。雨が降った事で気温がぐっと下がったのだろうか肌寒さを感じるようになり、私は少し身震いをした。コンビニで買ったビニール傘を閉じて水滴を払う。外の雨足が次第に激しくなったせいだろうか、剥き出しのコンクリートを跳ねた水音はこの人気のない団地跡地に虚しく響き渡っていた。

 いつ頃建てられたのかは知らない。古くなって人がいなくなってこの団地は封鎖された。来月には取り壊され、来年には大型スーパーが出来る予定らしい。

 そんな封鎖された団地跡地に私はいた。彼女にメールで呼び出されたのだ。既に終わった問題なので無視を決め込んでも良かったのだが、私の穴ぼこチーズのようになった空虚な心がユーコとの再会を渇望し、私は心に誘われる形で指定された団地跡地に向かった。

 階段を上がり五階へとたどり着く。そこには錆びた古い扉があった。インターフォンを押してみるが電気が通っていないので音は鳴らない。ドアノブを回す。鍵は掛けられてはおらず油の枯れた耳障りな音を鳴らして扉が開いた。

 中は解体業者が殆どの仕事を終えたあとなのか、足跡のついた板張りの床と打ち出しのコンクリートの壁しかなく、かつての宿主の置き忘れなのか、殺虫剤の缶を蹴り飛ばすとコンクリートの壁を跳ね、その音は遠くへと響いた。

「来たわよ」

 私は傘を壁に立てかけ、呼び出しのメールを寄越したユーコに声を掛ける。

 彼女はこの廃墟とも呼べる部屋の中で横倒しになったボロボロの箪笥に腰を下ろし、手にした鉄パイプを杖にようにして身を預けている。顔色は悪く、ここ数時間で何十年も老け込んだ様相を見せていた。

 カツンと床板を鉄パイプで叩く。表情は暗く、目は虚ろで病的にも見えた。くしゃくしゃに振り乱された髪はそのままで彼女は呪詛にも似た言葉を呟き続けている。

「何か用があるからここに呼び出したんじゃないの?」

 私の問いかけにも彼女は反応を示さない。念仏のように延々と呟き、口角から泡が吹き出ようが止まらず呪詛を吐く。目は次第に怨念めいたものが宿り始め、木魚を叩くが如く鉄パイプで床板を叩く様は異常に見えたが、私は臆した様子を見せる事はなく、絶えず優位な者である事を知らしめように見せた。

「ねぇ……」

 粘っこい笑みを向けられる。ユーコは鉄パイプを杖がわりに箪笥から腰を上げると老婆のような足取りで近寄ってきた。凶悪な不気味さを前に私の本能はここからの退避を促していたのだが、ここで逃げてはユーコとの決着がつかないので私はあえて対峙する道を選択した。

「私のタケルを返してよ」

 ユーコは一歩歩くたびにそんな台詞を口にした。「私のタケルを返してよ」「タケルは私の事が好きだったの」「ヒカリはタケルの彼女じゃないでしょ」「私が……。私がタケルの」そこまで聞いて、流石に耳を傾ける事にも煩わしくなってきたので、私はユーコに対し哀れみと慈しみの笑顔を蓄えたまま自らの下腹部を優しくさすってみせた。

「でも……。タケルは私の事が好きなの」

 その台詞はユーコの精神を著しく狂わせた。発狂したユーコは慟哭にも似た声を張り上げ頭を掻きむしりながら体を仰け反らせる。おぞましい光景だ。山姥か何かと言われればそうだと同意しかねない形相に私はぞっとする。

「カ、カエセ……。カエセェェェッッッ」

 充血した真っ赤な眼が私を捉えるなり、唾液混じりの口角泡が口から飛び、ユーコはカタコトのような言葉を吐きながら私に襲いかかってきた。

 私の危機意識が撤退を促す。私がそれに従うように背を向け走り去ろうとした瞬間、その背に重い衝撃が走り、私は小さな呻き声を漏らして足をもつれさせ地面に突っ伏した。

 傍らに鉄パイプが転がっている。恐らく私が背を向けた瞬間にユーコが投げつけたのだろう。

 や、もしくは下腹部を狙って投げ放ったものが、背を向けた瞬間に当たったのかもしれない。

 どちらにしろ異常な状況である事は確かだ。私は激痛に息が止まりそうになりながらも必死に立ち上がろうとした。背後では再び呪詛のような呟き声が聞こえてくる。

 武器を失ったユーコは床板をはがす作業の途中で置き忘れたものなのか、放置されたバールを手に取りコンクリートの壁に叩きつけた。無機質な部屋の中に金属音が響き渡る。

「コ、コロス……。オマエをコロス。コロシテコロシテ、コロシツクス!」

 唾液を吐き出しながらユーコはそう狼狽した。もう人間には戻れない精神状態な気がした。

 狂犬病を発病した末期の野犬のようだ。自我が崩壊したのかもしれない。そんな彼女に幾ら言葉を傾けようとも聞く耳すら持たず、その言葉すら理解できないだろう。

 転がっていた鉄パイプを手に取る。「シィィィネェェェッ」という叫び声と共にバールが振り下ろされるのを見た私は仰向けに身を翻すと同時にバールの一撃を鉄パイプで防御した。

 腕が痺れるほどの衝撃。だがユーコは私を仕留め損なった。その間隙を突き私はユーコの腹部に蹴りを入れて突き飛ばすと、そのまま身を起こし鉄パイプを身構える。

 尻餅を付いたユーコは私を見るなり粘っこい笑みを見せ、狂ったような叫び声を張り上げながら再び襲いかかってきた。バールを力任せにブンブンと振り回す。殺意なのか狂気なのかそれの混在したドス黒いものを孕んだその狂者は、唾液の漏れる舌をだらしなく垂らしたままその不気味な形相をぶつけるかのように頭ごとぶつかってくる。

 その滅茶苦茶な突進攻撃に対応出来る筈もなく、ユーコは私に覆い被さるようなタックルから私の体を床板の上に叩きつけ、私の体の上に馬乗りになった。必死に体を動かして逃れようとするがマウントを取られた状態から逃れる方法は限りなく困難である。

 ユーコはその状態からバールを私の顔面に振り下ろした。それはギリギリの所で鉄パイプの防御が間に合うのだが、ユーコはその防御を見越して右手一本でバールを使っていたので左の一撃が私の顔面を捉えた。

 強烈なパウンドに脳が揺れる。だが左拳の攻撃は一撃では終わらない。密接の膠着から二度、三度と強烈な一撃が繰り出される。それこそ顔の骨が砕けグシャグシャのミンチ肉になるまで攻撃は終わらないのだろう。

 意識が吹き飛びそうになる最中、私の右手が床板の上にある何かに触れた。鋭利な何か、それが何かなんて今はどうでもいい。私はそれを掴みマウント状態にあるユーコの太腿に力強く刺し込んだ。肉を穿つ感触と共に「ギィヤァァァァッッッ」という悲痛な悲鳴が漏れ、ユーコからの攻撃が止まる。私はその間隙を見計らいマウントの拘束から逃れると、激痛に顔を歪ませているユーコの顎目掛けて蹴りを放った。

 衝撃でユーコの頭は床板に激しく叩きつけられ、そこでようやくユーコの動きは止まる。

 太腿を穿ったのは鋭利なガラス片だったようだ。握った際に傷を負ったのか血の雫が指先へと伝わっていく。私は興奮する気持ちを抑えるように呼吸を整え、動かなくなったユーコを見据えた。

「まだやるの?」

 ユーコの反応は無い。頭を打った衝撃で失神しているのだろうか。

 虚しい静寂がそこにはあった。外の雨音だけが響き渡っている。ゴロゴロと雷の鳴る音が聞こえた。また雷雨になるのだろうか。

 雨足が一層酷くなった。土砂降りより更に激しく滝流れのような音が響く。同時に閃光のような稲光が周囲を一瞬照らし、間髪置かず轟音のような雷が落ちた。

 衝撃波でコンクリートの壁がビリビリと震える。かなり近い場所に落ちたようだ。

 同時に彼女は目を見開いた。無言のままゆっくりと立ち上がりバールを身構える。

 呻き声を漏らしながら震え、喉をグルルと鳴らし、獰猛な獣のように威嚇をする。

 戻れる最後のチャンスだったのかもしれないが、彼女はそれを拒んだようだ。

「ルゥゥラァァッッ」

 ユーコは唾液をまき散らしながら叫び、バールを振り回しながら再び襲いかかってきた。

 だがその攻撃は単調で動きも以前と変わらず。頭が機能せず狂ったように闇雲に攻撃を繰り出しているのだと判断した私はその一撃を受けるのではなく、捌いて受け流す事にした。

 大振りの一撃を捌かれ受け流されたユーコの体は大きくバランスを崩す。私はバランスを崩した胴部めがけ鉄パイプの強烈な一撃を叩き込んだ。

 ヒキガエルを轢殺したような醜い悲鳴が耳朶に響く。バールはユーコの手を離れどこか遠くに転がっていき、腹部を打ち据えられた衝撃で膝を折ったユーコは吐瀉物を盛大に吐き散らす。

 苦悶の悲鳴が響く。だがその耳障りな音も私の打ち鳴らす鉄パイプの金属音に掻き消えた。

 私は今どんな顔をしているのだろうか。手鏡がないから自分の表情を知る事は叶わない。

 だが……。なんとなく理解できた。

 恐怖に顔を醜く歪ませるユーコを見ていると、自分がどんな顔をしているのかなんとなく理解できた。きっとそれは猫がネズミをいたぶり弄ぶような、そんな顔をしていたのだろう。

 ユーコが何か言葉を発するよりも早く、私は鉄パイプをユーコの頭に振り下ろしていた。

 鈍い感触が直に手に伝わる。手が痺れ、僅かでも油断すればそのまま鉄パイプを落としてしまいそうな衝撃に私は言葉を閉ざした。

 飛び散る血液が私の頬に赤い筋を作る。崩れ伏したユーコの頭部は割れ衣服は血で真っ赤に染まっていた。だがユーコは死んだわけではない。頭を割られた状態でもまだ意識はあり床板の上を羽をもがれた虫けらのようにバタバタともがいていた。

 悲鳴が鳴り響く。煩くて醜い悲鳴に一層苛立ちが増していく。

 私は無言のまま今一度鉄パイプを振り上げた。正直さっさと帰りたかった。体中に降り注いだ返り血をシャワーで洗い流したかったし、この虫けらを早く処分したかった。

 だから私は今一度鉄パイプをユーコの脳天に振り下ろした。

 同時に強烈な衝撃がカウンターのように私の下腹部へとぶつけられる。

 打ち下ろした鉄パイプはユーコの頭部を穿ち、意味深な前衛アートのように彼女の頭の中に埋め込まれていた。

「なに……、これ……?」

 飛び散った脳の破片を踏み締めながら私は呻く。下腹部には先程私が刺した鋭利なガラス片が深々と突き刺さっていた。血糊に塗れた手でガラス片を引き抜くと下腹部にはぽっかりと穴が空き、その空いた穴から血塊がごぼりと零れ落ちる。

「私の、私の【幸せ】が……」

 意識が次第に薄らいでゆく。私は【最悪】を要して【幸せ】を手に入れた。

 その【幸せ】が空いた穴からどんどん零れ落ちていくのを感じた。

 両手で必死に穴を塞ごうとするが、血塊と同時に【幸せ】は私の手の中をすり抜け床板の上にドロドロと流れ落ちて行く。

 果たしてこの結末こそが本当に正しかったのか。そんな疑問を己に投げかけるが、答えは分からず。私はそんな疑問をを心に抱きながら意識の限界を迎え、そのまま崩れ伏した。



            ●



 私は、私の現在置かれている状況を理解出来ていなかった。

 あれから幾日が経ったのか。あれからどうなったのか。何もかもを理解してはおらず、ただ一つの真実として私が生きているという現実だけが私の目の前にあった。

 私は今無機質で真っ白な部屋の中にいる。そこには病院のベッドと簡素な鉄格子の嵌められた窓枠しかなく、分厚い扉には外側から鍵が掛けられ私は自由に外に出る事も叶わなかった。

 一体ここがどこなのか。記憶が酷く曖昧で理解が追いつかない。

「葛西ヒカリさん。まず落ち着いて自分の状況を理解していきましょうか?」

 椅子に腰掛けた白衣を着た女医は、カルテを見遣りながら笑顔でそう言った。

 どうやらここは彼女の仕事場のようだ。女医のいる部屋となると恐らくここは病院なのだろうがではなぜ窓枠には鉄格子が嵌められ、扉は外側から鍵が施されているのだろうか。

「葛西ヒカリさん。貴方は事件を起こしたの。そこで酷い傷を負って今この施設にいるの。それは以前説明したと思うけど、覚えているかしら?」

 私は小さく首を振った。何も覚えてはいない。私の記憶はあの日の団地跡地で途切れ、今この場へと繋がった。あれからどうなったのか私は知らない。

 下腹部に痛みが走り、私は小さな声を漏らした。

「傷は随分深かったわ。あとの調査で分かった事だけど、貴方は妊娠はしていなかった。彼氏との関係を取り戻すために偽物の妊娠検査薬を利用したのね」

 ――そう。私が【ワーストプラン】として利用したものは陽性反応の出た妊娠検査薬だった。私はそれをネットで購入し、タケルに私のものとして見せた。結果彼は認知し、私は彼を取り戻す事が出来たのだ。私は【或いは一つの最悪】を要し【幸せ】を手に入れたはずだ。

「葛西ヒカリさん。同じ女性としては辛いのだけど、一つの真実を貴方に宣告する必要があります。あの日の事件で貴方は子宮に深い傷を負った。結果として貴方は子供を宿せない体になってしまったの」

 私は理解が追いつかず、痛みの残る下腹部に触れた。私の【幸せ】はそこにある。邪魔者をようやく排除できたのだ。あとはタケルと一緒に【幸せ】になるだけなのに。

「タケルは? タケルはどうして彼女の私のお見舞いには来てくれないの?」

 私の問いに対し、女医は小さく首を振った。

「貴方の彼氏は事件の顛末を聞いた後、そのショックでマンションから飛び降りたの。残念ながら即死だったらしいわ」

 私はその事実を呆けた表情で聞いた。何一つ実感がわかなかった。タケルが死んだなんて一体何の冗談だというのだろうか。私は【ワーストプラン】を利用して【最悪】を乗り換えたのだ。【或いは一つの最悪】を要し【幸せ】を手に入れた。その未来に絶望なんてあるはずもない。

 私はそれを認めなかった。きっとそれは誰かのついた嘘だ。だから私は歯牙を見せ嗤い、あの日のようにこの嘘に対し一つの結論を述べた。


「……ダウト」

 私は嗤い、私は絶望した。


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