第12話 記憶の治療
前世の記憶に奇妙な欠落があることが、ずっと気になっていた。
魔神には赤ん坊のころから自我がある。それは純粋に『強い生物』としての性質であり、人間の無力な赤ん坊と同じではない。身体的に未熟な状態で生まれてくるのは一緒だが、赤ん坊の状態でもある程度の魔力行使は可能だ。だから外敵に襲われたとしても撃退することができる。
けれど、更に特殊な例として、私は前世の記憶から引き継いだ自我を持っていた。
そして前世の記憶にある空白地帯に気づいた時、愕然とした。
自分が何で死んだのか全く思い出せない。
記憶にある限り、私はまだ十九歳だった。病気もしていなかったから、交通事故とか何かの突発的なアクシデントで死んだはずなのだが、どうして死んだのかさっぱり覚えていない。
ただ、自分がなぜ死んだのか思い出さねばならない、という焦燥感だけが、ディアネイラ・アシュタルトとして思春期を迎えた頃からじょじょに強まっていった。
私はとても重大なことを忘れている。
思い出せ、早く思い出せ。
そんな焼けつくような焦燥感に急き立てられて、お世話になることになった魔法医が記憶の研究をしているメフィストフェレス博士である。
「いらっしゃいませぇ。よくお来しくださいました~、ゆっくりしていってくださいませね~」
満面の笑みでウェルカムポーズを取っているメフィストフェレス博士を見て、隣のラシードがちょっと後ずさった。無理もない。患者を迎え入れる医者というよりも、これじゃスマイル0円で接客するウェイトレスさんに近い。いや、むしろメイドカフェか。
メフィストフェレス博士は由緒正しい悪魔族の名家の出で、魅惑のナイスバディと黒い角を生やした緑の巻き毛がチャームポイントの、典型的な悪魔美女の姿をしている。しかも眼鏡と白衣という装備つきだ。ちなみに視力に問題はないから眼鏡は伊達である。
聞いたところによると、特徴のある間延びした語尾は山羊獣人のメイドと従姉妹で、仲が良いことに由来しているらしい。
「こんにちは、メフィ博士。こっちにいるのがラシード。どうにも厄介な記憶封じの術にかかっていて、それを解きたいんですけど、治療に不信感があるみたいなので今から私の治療場面を見せることはできませんか?」
「わたくしは大丈夫ですよぅ。アシュタルト公爵は前世の記憶持ちの貴重な患者さんですからねぇ~。いつでも大歓迎ですからぁ」
完全にレアな研究対象としか見られていないのだが、私はそれでもいい。メフィストフェレス博士は記憶の回復に対しても情熱を燃やしており、『前世の欠けた記憶』を取り戻したい私と利害が完全に一致しているからだ。
「……おい、あの間延びした女が本当に治療なんぞできるってのか?」
「大丈夫、大丈夫。天才的な学者は皆どっか突飛なもんだから。メフィストフェレス博士は我が国最高峰の天才魔法医だよ」
しぶるラシードを促して、研究室へと入る。
この部屋に入るといつも、理科の準備室を思い出す。それだけ雑多で混沌とした物であふれかえっているのだ。
本、とにかく本、積み上げた本、四方の書棚に本。でかいテーブルにはフラスコ、ビーカー、乾燥させたハーブの入った瓶の数々、鉱石がたくさん、計測具、様々な種類の筆記用具、ノートは開いたままで、そこらにメモがちらばっている。
きれい好きの人が見たら一目見るなり叫ぶだろう。
片づけろ、と。
「それでは治療室へどうぞ~、いらっしゃいませぇ」
雑多な研究室の奥にある扉をくぐり、治療室へと足を踏み入れる。
研究室とは対照的に物がない部屋だ。
がらんとした空間の中央に革張りの椅子がある。私はこれを見るといつも歯医者の椅子みたいだな、と思う。もしくは美容室の洗髪用の椅子か。とにかく頭を支える部分も肘掛けも完備した、体をある程度寝かせられる構造を持つ椅子だ。
勝手知ったる何とやらで、私はとっとと椅子に深々と座った。
メフィストフェレス博士はガラガラとワゴンを引いて来る。その上には水晶玉やら香草の詰められた瓶やら様々な器具が載せられていた。
「じゃあ治療を始めさせていただきますぅ。あ、ラシードさんはそちらの椅子にお掛けになっててくださいねぇ」
ラシードが見学するには調度良い位置にある椅子に座ったところで、治療がスタートした。
「いつもの質問ですけれどぉ、アシュタルト公爵、前回から今日までの間に前世に関する夢は見ましたでしょうか~?」
「いや、記憶に残るような形では見てないよ」
「では前回の想起媒介『夕陽』と『藺草の香り』から始めましょう~。準備はよろしいでしょうかぁ?」
「いつでも大丈夫」
「では、失礼いたしますぅ~」
メフィストフェレス博士が瓶から香草を取り出す。とたん何だかなつかしい香りがした。前世ではなじみ深かった畳の匂いだ。彼女が指を一つ鳴らすと、部屋には黄昏時そのものの溶けるようなオレンジの光で満たされた。
右手に持った水晶玉を私のひたいに近づけ、博士は催眠魔法を発動する。
治療に用いる魔法はほぼ全て、治療者と患者の魔力をダイレクトにつなげて行う。
アイテムや精霊の魔力と接続するのとは感覚が全然違い、なんだかくすぐったいような、心の中まで暴かれるような感じがいまだに慣れない。
けれど違和感をなるべく無視して、メフィストフェレス博士の治療を受け入れるように意識を平らにしていく。すると急速に意識が落下。
浮遊感に似た感じと共に、私は眠りへ落ちていく。
+++
畳にあお向けで転がっていた。
道場の格子窓から差し込む夕日が、オレンジ色に室内を染め上げている。
稽古中のほてった体に畳はひんやりと心地よく感じられた。
「今日はずいぶんと早く投げさせてくれたわね、どしたの? 調子悪い?」
胴着姿の母が私をのぞきこんで微笑んでいた。
道場の師範。武闘派の猫好き。どこかいたずらっ子みたいな母の笑み。
「……お腹がすいて力が出ない」
「どこのアンパンヒーローよ。まぁ、いいわ。そろそろ切り上げて夕飯の支度しましょ。あの人ももうすぐ帰ってきそうだし」
「お母様よ、アンパンヒーローは顔が濡れると力が出ないんであって、お腹がすくわけじゃないのですよ。まぁ、それよりもさ……休みの日だってのに父さんは競馬、母さんは稽古。ぶっちゃけ夫婦仲は大丈夫なの?」
「あの人、ギャンブルの才能はあるのよねー。大丈夫。負けたら巴投げしてやるから。それでノーストレス、ノーライフよ」
「お母さん、それ『ストレスがなけりゃ人生じゃない』って意味になる」
「あら? そうなの? なんかカッコイイから使ってたわ」
畳から身を起こす。
カナカナゼミのもの悲しい鳴き声が道場に響いている。いくら大学生の夏休みが暇だからって、女性向けの総合護身術講座の手伝いの後、そのまま母さんの稽古につき合うっていう過ごし方はどうなんだろう。
「帰ったぞー。おーい、そっちにいるのかー?」
庭の方から父さんのどこかのんびりした声が聞こえてきた。
母さんはてきぱきと荷物をまとめると笑いながら言う。
「噂をすれば、ね。お迎えにいってあげましょう」
「へーい。ラジャーです」
動き回ってくたくたで、お腹はぺこぺこだった。
夕飯は何かな? 夕飯は何かな?
そうして母さんに続いて道場を出て、そして。
「ねぇ、あれは何かしら?」
母さんも父さんも空を見上げている。
夕焼けに染まってオレンジ色のはずの空が、なぜか白くて。
息が詰まる。
空から。
空から、なにか。
なにかとてつもなく『良くないもの』が降りてくる。
+++
「――――っつつ!」
声にならない悲鳴と共に目を開ける。
頭の中で鐘つきをされているようにグワングワンと痛みが響いていた。こめかみから伝った汗があごから滴り落ちる。
「だ、大丈夫ですかぁ、アシュタルト公爵。顔色が真っ青ですよぅ。重大な心的外傷に触れた可能性がありますのでぇ、治療は一時中断いたします~」
「…………あいつだ」
自分でもぞっとするぐらい低い声が出た。
吐き気と頭痛の中でも、奇妙に静かな確信だけが私を支配していた。
「王都の上空にいた『あいつ』と全く同じ気配だった」
魔王陛下の幼なじみ 石枝 矢羽 @ishieda-882
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