一円玉のアダムとイブ

雨之森散策

一円玉のアダムとイブ


  

 ……とぼとぼと背中を丸め、尻尾を股に隠した負け犬のように俺は夜道を歩いていた。


 その日、俺は虎の子だった五万五千円を競馬で使い果たしてしまっていた。

 最終レースまで付き合った結果がこれだ。

 ものの見事に財布の中身はすっからかん。まさに文無しだった。

 まだ給料日まで半月もあるのに、明日からの生活どうすりゃいいんだ。

「俺のバカヤロー……」

 自分の軽率さを罵倒し、詰りながら俺は暗い家路を歩いていた。


「なあ、兄さん。カネ買わんかね」

 突然呼び止められた。

「あぁ?」

 愛想など出していられない俺は機嫌悪く振り返る。

 その先には一見して焼きそばやたこ焼きなど売ってそうな小さな出店があり、そこで胡散臭い親父がにたりと笑っていた。

 親父は暢気な声で話を続けた。

「兄さん、カネなさそうな顔しとるけの。おっちゃんがええモン売っちゃるわい」

 カネなさそうな顔で悪かったな。俺は親父の出店に一発蹴りを入れて通り過ぎる。

「ちょっと待ちぃや。うちのカネはええ子じゃけ。見ていき」

 店を蹴られた事なんて全く気にしていないようなのほほんとした顔だ。俺は親父の鼓膜までしっかり届くように思い切り舌打ちをした。

「おっさん、さっきからカネ売るとか頭膿んでるんでねえの?」

 そう毒づいてやると、親父は俺の罵倒など耳に入っていなかったようにあっけらかんと言った。

「うちのカネは子供を産むカネじゃけの。大事に育てたら兄さん大金持ちなるで」

 子供を産むカネ? 

 言っている意味がわからずに俺はいらいらと頭をかきむしった。

「オスとメスで二匹。特別価格で百円にまけちゃる。兄さんどうせ財布の中も大したことなかろ?」

 さらりと痛い所を突かれ、俺は一瞬怯んだ。

 確かに財布の中身ではもう缶ジュースの一本すら買えない。

「どうじゃ? 買っていかんか? 大金持ちじゃけえ。大金持ち」

 俺は親父の売り込もうとする『カネ』とやらを、財布に立てこもる最後の残党である百円玉を投げつけて買い取った。

「へへ、兄ちゃん。本当にええ買いモンしたの。ほれこいつらじゃ、大事にしてくれの」

 親父は俺の手に何か握らせ、にたりと笑った。

 掌を開くと、そこには何の変哲もない一円玉が二枚あった。

 俺は支払った百円の代価として親父の額に頭突きを一撃食らわせてから家路についた。


 まったく、ふざけた親父もいたもんだ。

 あの親父、両手で額を押さえながら最後までニタニタと笑っていやがった。

 しまいには『あの子達をよろしゅうの』だと。

 バカにしやがって。グーで殴っとけばよかった。



          ◇



 部屋に戻った俺は早速、明日からの生活というキツい現実と直面する事になった。

 米がない。

 食材がない。

 俺にはない堅実さによって、たっぷりと備蓄されていたはずのインスタント麺や缶詰なども、ここ二ヶ月間の無精な生活を送るうちにすっかり切らしてしまっていた。

 そして、財布の中身は先ほど胡散臭い親父か らおろかにも百円で購入してしまった一円玉二枚、たったそれだけ。

 あの百円は手放すべきじゃなかった。

 今更になって俺は後悔していた。

 百円玉では満足に缶ジュースも買えないが、菓子パンの一個くらいなら何とかなっただろう。

 俺はやけくそ半分で財布をさかさまにして何度も激しく振ってみた。

 糸くずや小さなホコリと一緒に一円玉が二枚、日焼けした畳の上に転がった。

「これだけか……」

 呟いてみるといよいよ絶望感までが襲ってくる。

 俺は計二円の全財産を手に掬いとって眺めた。

 ――あれ? 

 手のひらの上の光景に違和感があった。

 さっきまで一円玉二枚だと思っていた手のひらに、五円玉が一枚混ざっているのだ。

 計二円だと思っていたのは見間違いだったか。

 しかし、五円玉が一枚増えたにしても最悪の状況にいる事には何ら変わりがない。

 口惜しいのは給料が振り込まれる預金口座から既にアパートの家賃や光熱費や携帯料金など諸々の引き落としが済んでしまっている事だ。

 恐らく口座には幾らも金は残っていないだろう。滞納は避けるべき所だが、こんな事態に陥るならせめて何かあった場合の予備費くらいは確保しておくべきだった。

 俺は他に金を隠してなかったかと部屋中を探索した。

 書棚から本を一冊一冊抜き出し調べた。

 カーペットもめくってみた。

 給与明細の封筒に息を吹き込んでもみた。

 ……しかし必死の捜索もむなしく、千円札一枚どころか一円玉のひとつもみつからない。

 どうやらこの部屋にある現金は掌の中の七円以外になさそうだ。そうなるといっそ爽快でさえある。

 銀行口座から預金全額を下ろすしかない。恐らく一万円にも満たないだろうが無いよりは遥かにましだ。その金で半月なんとか食いつなごう。

 ATMのある近所のコンビニまで出かけようと用意していると、ふと手のひらの嵩張る感覚に気付いた。

 七円が握られていた手を開くと、そこには一円玉が二枚、五円玉が一枚――


 ――そしてなぜか見も知らぬ十円玉が一枚、汗ばむ手のひらの上に鎮座していた。

 十円玉? 

 間違いなく七円だったはずだ。これはどういうことだ?


『――うちのカネは子供を産むカネじゃけの。大事に育てたら、あんた大金持ちなるで――』


 あの親父の太平楽な声が頭に響く。

 まさか、あんなヨタが本当であるはずがない。

「……馬鹿か」

 そう思い、親父の夢物語を真に受けようとした俺を自分であざ笑った。

 しかしその笑いは長続きせず冷えていった。

 真実か嘘かを確認したいという誘惑に抵抗しきれなかったのだ。

 

 こらえ切れなくなった俺は一円玉二枚と五円玉一枚と十円玉一枚、それらを畳の上に置き、あぐらをかいて凝視し始めた。

 俺は馬鹿か、と何度もそう呟きながら。


 人を冷やかすような軽薄な音をたてて打ち上げ花火が鳴っていた。

 アパートの近隣に住む家族が外で花火に興じているようだった。

 三分ほど経ったが、計十七円の硬貨たちに変化は訪れなかった。

 ――アホらしい。

 どっと疲れが押し寄せ、思わず溜め息がもれ出た。

 畳の上で大の字に寝転ぶ。まだ公園からは花火の破裂音が聴こえる。種が切れてきたのか、先ほどの軽薄さとはうって変わり散発的で幾分寂しげな音だ。

 なんだか外出する気力もなくなってしまった。預金を下ろすのは明日にして今日は空腹を噛みしめて寝るか、そう思い始めていた。ところが、


 ――チャリン。


 足の間から軽い金属音がした。

 慌てて俺は跳ね起きる。そこには二枚の一円玉と一枚の五円玉と十円玉。――そしてその間に、どこからともなく二枚の五十円玉が湧いていた。

「……ヨタじゃねえ」

 あの親父の言ったことはウソじゃなかったのか。俺は、『子供を産むカネ』を手に入れたのだ。


 俺は親父から買った二円とそこから生まれ出た百十七円を小さなダンボール箱に入れ、経過の観察を始めた。

「そうだよな。子作りの場面なんか、人には見られたくないよな」

 俺が馬鹿だったよ、と、いとしげに硬貨の一家族に声をかけ、ダンボール箱のフタを慎重に閉じる。

 そしてまんじりともせず時間を待った。

 一分一秒がとても長く感じる。こんな風に何かを楽しみに待つなんて事は数年ぶりかもしれない。時間を潰すために見たくもないテレビを付け、タバコに火をつけては灰皿に擦りつけた。

 果てしなく待った。お産の無事をいのる父親の気分とは、きっとこんな感じなのだろう。


 ――チャリン、チャリン。

 

 ダンボールからまた音がした。

 俺はむしゃぶりつくようにして箱を開ける。

 そこには新たなに百円玉一枚と五百円玉一枚が生まれていた。

 間違いない、これは『子供を産んで増えてゆくカネ』だ!

 俺は歓喜して部屋中を飛び跳ねた。やった! やったぞ! これでもう食いっぱぐれることはない。

 今は小額だが、もっともっと増えればいずれ働く必要も無くなるだろう。もっと産め! もっと増やせ! 俺はおカネの家族たちに言い聞かせた。札だ、今度は札を産んでくれ。一万円札だ、万札を増やしてくれ。俺は神妙に拍手まで打って硬貨の一家族に懇願した。

 ――そしてその日、俺は一睡もできずにお金たちの繁殖を観察し、夜を明かした。


 仕事中でも俺は部屋の中の金の事ばかり考えていた。今頃はどれくらい増えたのだろう。総額で何円位になっただろう。

 勤務先のリサイクル工場に出勤する前、ダンボールのスイートホームを覗いたときには既に千円札が登場していた。

 増える金は全部で三千円を越えていた。その日の昼食のために財布に幾らか金を入れておきたかったが、とても勿体無くて彼等を別れさせる事ができなかった。結局俺は実質的には無一文のままで一日を過ごした。


 家に帰ると、俺はすぐにスイートホームを確かめる。

 他にこんなワクワクできることが今の俺の人生にあるだろうか。

 この時の楽しみを取っておくために一日働いていたような気さえする。

 スイートホームの中には新たに数十枚の硬貨と四枚の千円札、三枚の五千円札、そして俺の念願だった一万円札が二枚登場していた。とうとう来た! 一万円札の時代がやってきたのだ!

 俺は新品の一万円札をじっくりと眺める。

 透かしもしっかり入って、通し番号もちゃんとある。これは本物だ。俺は両手でガッツポーズを決めて踊りまわった。

 よォし、と俺は気合の声を上げると次の作戦へと取り掛かった。一万円札をもっと効率よく増やすためにグループ分けを行うのだ。

 一万円札は一万円札とだけつがわせ、五千円札は五千円札、千円札は千円札とだけつがわせる為に別の箱へと移送する。

 あとの硬貨はスイートホームに残し、紙幣の誕生を待つ。 ――まるでサラブレッドの交配のようで心が躍った。

「さぁみんな、お引越しですよぉ」

 自分でも気持ちの悪くなるような猫撫で声を出し二万円を別の箱へと移す。ところが、一円玉がなぜか一万円札の端にくっついてきた。

 一万円札を軽く振ってみても糊付けされたように一円玉は動かない。

「なんだ? お前ら、ひょっとして三角関係か?」 

 俺はしばらく彼らを見渡し、

「悪いが俺のしあわせのために諦めてくれ」

 そう呟いて一万円札にすがりつく一円玉をひっぺがし、ポイとスイートホームに投げ入れた。



          ◇



 あの胡散臭い親父から奇跡の一円玉を買い取った日より二日が過ぎていた。

 グループ分けした紙幣たちは俺の目論見どおり、順調に紙幣の子供を産んでくれていた。数えると、もう三十六万九千円を超える大金になっている。笑いが止まらなかった。

 その一方でスイートホームの硬貨たちは何故かさっぱり紙幣を産まなくなっていた。硬貨をバカにして良いわけではないが、やはり万札数十枚の重みに比べれば数百枚の硬貨の山など数えようという気すら起きない。

 俺は札束を慎重にタンスの引き出しに並べ『産めよ増やせよ』を呪文のように繰り返し唱えて収め、また工場へ出勤した。

 まだ俺は増やした金を一円も使ってはいなかった。「増えるという特性を有難がるあまり自縄自縛に陥っているんじゃないか。金は使ってナンボじゃないのか?」 そう自問することもあるが、やはり消費してしまうのはどうしようもなく勿体ないと感じる。

 今日、俺は硬貨を一握り財布の中に入れている。しかしそれを使う事は恐らくないだろう。こいつらだって、一個一個が子供を産む金なのだ。

 いつかはパーっと、盛大に使ってやろう。そういう気持ちは勿論ある。だがそれは決して今日の事ではなかった。


 工場で潰されたペットボトルがブロック状に梱包されたベールを運んでいると主任から声をかけられた。

「お前、大丈夫か? 足元がフラついてるぞ、顔色も悪い」

 そういえば、と思い返すともう丸三日何も食べてはいなかった。

 睡眠だってロクにとっていない。増えてゆく万札を観察するのが楽しくて楽しくて、つい寝食など忘れてしまうのだ。

「大丈夫です。ご迷惑はおかけしませんから」

 そう薄笑いを浮かべて言うと、

「倒れたりするなよ」

 と、気味悪げに俺を見返しながら主任は去っていった。

 心配はいらないさ、じきに辞めてやるんだからな。こっちには増える金があるんだ。俺はぶつぶつと呟いていた。



 その日の仕事も終わり、バスに乗って帰宅している途中、俺はバスのプリペイドカードが切れかけていた事に気付き、思わず慄然とした。

 カードの残額は二百円。俺の降りる停留所までが二百七十円、七十円も不足が出てしまう。

 金は財布の中に一応用意はしてある。

 だが、それは全てあのひとつがいの一円玉から産まれた『増えるお金』なのだ!

 これを使ってしまうなど、宝の山をみすみす他人にくれてやるようなものだ。

 途中下車しようと思ったが、その時には既に運賃表は二百七十円に跳ね上がってしまっていた。

「お客さん? あと七十円」

 降車する際に魚のような顔の運転手に言われ、俺は慌てた。

 財布から五十円玉一枚と十円玉二枚を取り出す。

 硬化を持つ手は震えていた。

 財布から金を出しながら一向に料金箱に投下しようとせずに阿呆のように立ちすくむ俺を運転手が不審な目で見た。

「くそっ!」

 叫んでいた。

 やっぱり使う事などできない! 俺は手の中の七十円を握り締めバスから飛び降りると全力でダッシュして逃げた。

「あっ、ちょっと! コラ!」

 運転手の慌てた声がスピーカー越しに響いたが、俺は振り返らずに走った。

 その日は強風注意報が発令されていた。

 びゅうびゅうと髪や服を荒らす風のなか、何日も食わず眠らずだった俺の体はすぐに悲鳴をあげた。

 後ろを振り返って見たが、誰かが追ってくる気配はない。

 俺はぜいぜいと息を切らして舗道に倒れこんだ。

 家に帰りさえすれば、そこには金の山が待ってる。

 俺はもうすぐ億万長者になるんだ。自分をそう励ましながら俺はホフク前進で強風の中、家まで這って帰った。


 ――しかし、帰宅した俺を待ち構えていたのは悲惨な運命だった。

 なんと、俺の部屋では有り得ない事に戦争が起こっていたのだ。

 紙幣と硬貨による人種間、いや金種間紛争だ。

 スイートホームに硬貨、タンスの引き出しに紙幣。そうして分離された硬貨と紙幣は、その事によって単一の民族性から引き離され、やがて互いを憎むべき敵と認識してしまったようだ。

 飛び交う硬貨の弾丸、舞い散る紙幣の紙ふぶき。

 この戦争の勝者は考えるまでもなく明らかだ。

 金属製の硬貨に比べ、紙幣は弱い紙製である、強い力が掛かればすぐに破れてしまう紙幣にそもそも勝ち目などないのだ。

 千円札!

 五千円札!

 一万円札!

 俺が三日間かけて必死に育て増やした金が、硬貨の弾丸によって紙くずへと還元されてしまう。

「やめてくれ! やめてくれ、おまえたち!」

 玄関から思わず部屋に飛び込んだ俺は狼狽し、あろう事か涙すら流していた。

 まるで人類の歴史を俯瞰する慈悲の神がごとくに俺は悲しみ、懇願した。

「もうやめてくれ! お前達は同じ祖先から生まれた兄弟、仲間じゃないか!」

 利いた風な事を、本心から叫んだ。

 しかし戦争は収まるどころかますます激化していった。圧倒的に優勢な硬貨たちは本格的に紙幣の駆逐を企図したようである。

 弾丸と化した硬貨たちは部屋中を飛び交い、俺の部屋もろともに紙幣を破壊してゆく。

 窓ガラスはどれも完全に粉砕され、家具は傷つき食器は割れ、そのうち戦火にさらされた家屋そのものとなった。

 割られた窓枠からは先程の強風が吹きすさぶ。

 粉々になった紙幣たちは舞い上がり、別の方角の割れ窓から飛び去ってゆく。ばさばさ、という切ない音をたてながら。

「待ってくれ! 行かないでくれえぇぇぇぇ!」

 俺は床に倒れこみ、まるで男に捨てられた前時代の女のように俺から去ってゆく金たちを呼び叫んだ。

 しかし俺の悲痛の呼びかけも空しく、散り散りにされた紙幣たちは俺の部屋から残らず消え去った。

「あああぁぁぁ……」

 絶叫のあと俺は力尽き、その場に腰を落としてへたり込んだ。

 その時、五百円玉の流れ弾が眉間に命中し、俺は仰向けに昏倒した。


          ◇


 短くも苦しい眠りの中で、それでも俺は次の策を練っていた。

 確かに紙幣は一枚も残らず去ってしまった。

 だが硬貨の一群はまだこの部屋に残っている。

 奴らの紙幣出産率は低下してしまったが、可能性がゼロになってしまった訳ではない。

 もし次に紙幣が産まれたら、二度と同じ愚は犯すまい。

 今度は、完璧に紙幣と硬貨を隔離するのだ、愚かな戦争など二度と起こさぬように。

 そして純粋に、紙幣のみからなる、 純潔な紙幣の王国を作り上げよう。

 それが成ったあかつきには、忌々しい硬貨などはもうお払い箱だ。

 山深くに埋めるのもいいし、海深くに沈めて錆びさせるのもいい。

 これは復讐だ。

 俺の愛しい札束たちを奪っていった奴らへの復讐なのだ。


 しかし、妙だった。さっきから音が聴こえるのだ。

 コロコロ、コロコロと、何かが転がってゆくような音がする。

 コロコロ、ゴロゴロ。

 それは幾つも幾つも重なって大音響となって俺の耳をろうした。

 痛む額を撫でつつ目を開けると、目の前にある筈の物がいなくなっていた。今や俺の怨敵にして一縷いちるの希望、硬貨の一群である。

 紙幣を残らず駆逐した硬貨は我が世の春を謳歌していたのではなかったのか?

 しかし俺の目の前にその硬貨たちは居ない。

 ゴロゴロ、ゴロゴロと音がする。

  俺は背後の玄関へと振り返った。

 なんと奴らは転がってこの家から脱出を始めていたのだ。立ち上がり、横向きに回転しながら。

 一円玉が、

 五円玉が、

 十円玉が、

 五十円玉が、

 百円玉が、

 五百円玉が、

 俺の家から残らず去ってゆく。再び俺は恐慌に陥った。

 まさか、俺の思いを読み取られたのか?

 硬貨などお払い箱だ、などと考えた俺の思考を?

「待ってくれ! 俺が悪かった! 戻ってきてくれ、お願いだ!」

 俺は再び捨てられた女になった。

 玄関を這うようにして出ると硬貨の群れは街路を疾走していた。

 ズボンのポケットに入れた財布からも硬貨が飛び出し、舗道の向こうへと消えてゆく。

 俺の最後の望みが、こぞって群れをなし俺の元から去ってしまう。


 ――俺はこの瞬間、最初の時の事を考えていた。

 最初に、二枚の一円玉が子供を産む金だと気付いた時の事を。

 俺はこの『子供を産む』という、あまりにも稀有な硬貨の一つがいをアダムとイブ、と密かに名づけた。

 そして彼等から生まれてくる名前にカイン・アベル・ロト、と目のつく限りのお金には名前をつけていった。

 そのうち聖書からはネタが切れてマンガやゲームのキャラクターの名前をつけ、最後には友人知人の名前までつけた。

 気恥ずかしさと、金の群れに一度混じってしまうと見分けが付かなくなる事もあって、俺はつけた名前でお金たちを呼ぶことはなかった。

 しかし、確かにあの硬貨の群れは、アダムとイブのすえなのだろう。

 あの街路を疾走し消えてゆく一群の先頭にはきっとアブラハムがいるのだ。

 奴は約束されしカナンの地を目指しているのだ。


          ◇


 俺は巨大な敗北感と喪失感の中で、何故か妙な清清しさも感じていた。

 無一文が短い夢を見て、また無一文へと戻ったのだ。

 ただそれだけだ、という感慨がある。

 俺は無様に路上へ横たわったままの体をむくりと起こすと、金に取り付かれていた頭の中を元の生活へとゆっくり軌道修正させていった。

 空っぽになってしまった財布から銀行のカードを取り出す。

 コンビニのATMから金を引き出そう。そして引き出した金で飯を食うのだ。

 もう腹がぺこぺこだ、今度は金を生かそう。大事に使おう。ギャンブルなんかに費やさず、浪費せずに金を生かすのだ。

 カードを再び財布に戻したとき、俺はふと小銭入れが硬貨のかたちに膨らんでいる事に気付いた。

 中を開けると一枚の一円玉が残っていた。


「おまえ……」

 俺は財布の中に入れた硬貨の中で一枚だけの一円玉にもやはり名前をつけていた。

 ――『希望』と。

「いいのか? お前は、みんなと行かなくて」

 俺は返事などあるわけがない事を知りながら尋ねた。

 やっぱり一円玉は何も言わなかった。


 コンビニでATMから預金を引き出した。

 全部で五千円だった。これだけあれば給料日までの半月、なんとか食べていけるだろう。スーパーで安売りの袋入りラーメンでも買って大事に食おう。

 そう思いつつ千円札五枚を慎重に財布にしまう時、ふと一円玉の『希望』の事を思い、俺は再び嵐のような欲の衝動に駆られた。


 この五千円を全部一円玉に両替したとする。

 そしてその一円玉の群れをスイートホームに移し、そこに『希望』を放り込む、そうしたらどうなる?

 そうすれば、奇跡が起こってもう一度、子供を産むかもしれない。

 どうだ? もう一度チャンスをつかむんだ。


 ――しかし、そんないやしい自分の考えを俺はすぐさま頭から駆逐した。そんな事を思いつく自分のおぞましさから逃げるようにかぶりを振る。

 俺は自分への怒りをそのままにレジへ向かうと、レジ横の募金箱に『希望』を差し込んだ。

 一瞬のためらいのあと、覚悟を決め一気に押し込む。

「いい相手見つけろよ、幸せになってくれ」

 アダムとイブの最後の末裔である『希望』という名の一円玉は、ごく控えめな音をたてて募金箱の中に落ちた。

 その直後、俺は意識が遠くなってゆくのを感じた。



          ◇



 ――目が覚めた時、俺は白い部屋の中でベッドに横たわっていた。

 もうろうとする頭で部屋を見回した。病院の中の一室、処置室なのだろうか。左腕には点滴の針がつながっている。

 しばらくすると看護師がやってきて俺の点滴を取り換えた。

 どうやら俺は預金を下ろしたあのコンビニで卒倒し、救急車でここまで運ばれたらしい。

 三日間、何も食わず眠らずじゃ倒れて当たり前かもしれない。

 まったく、 欲に取り付かれたとは言え馬鹿をしたもんだ。

「後で先生から詳しい話がありますので」

 そう言って看護師は去っていった。

 閉じられた扉はすぐに開かれて女が 入ってきた。

 よく見知った顔だ。

「倒れたって、大丈夫?」

 気遣わしげに言った言葉が意外だった。

 彼女の問いかけには答えず俺は頭を掻いた。

「もう会わないのかと思った」

「ばか、来るわよ」

 笑った。見慣れたその顔がなんだかとても得がたいもののように感じられた。

 俺は今の気持ちを、自分でも驚くほど素直に、彼女に伝えることができた。

「俺が悪かった。戻ってきてくれないか、 希望(のぞみ)」

 彼女は答えなかった。その代わり、暫しの沈黙のあと

「家、二ヶ月の間にひどい事になってるでしょうね。掃除とか全然してないでしょ?」

 そう言った。

「ああ、ひどいもんだ。見たら絶対にびっくりする」

 戦後の廃墟を一緒に掃除しよう、とは言わなかった。



 それから二日経って、俺は退院した。

 『しっかりと栄養をとって、しっかりと睡眠もとって、規則正しい生活を送ること』それが医者の出した退院の条件だった。それに対して、俺ではなく付き添いに来ていた彼女がしきりに頷いていた。


 ――もし、あの金売りの親父にまた会うことがあったなら、頭突きと一緒にお礼でも言ってやろうか。

 大金持ちにはなり損ねたが大事なものは帰ってきたよ、と。


          終

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