夏の川の記憶

綿貫むじな

夏の川の記憶

 その日はうだるような暑さだった。

 私は帰り道、暑さを避ける為に荒川の河川敷を歩いていた。

 昨日まで雨が降っていた為に増水し、水は濁って見えない。

 さながら大蛇の如く川はうねり、あらゆるものを飲み込みながら流れていく。

 夕暮れ時。暑さは幾らかは引いており、散歩するにはちょうど良い時間帯だ。

 川の近くを歩いているお陰か、時折心地よい風が通り抜ける。

 沈んでいく太陽は黄金色に、雲は真紅に染まっている。

 

 夏休みが始まるこの時期になると、いつも思い出す。

 私がまだ幼い頃、祖父母の住んでいる田舎を訪れた時のことを。

 そこは山の中で、両親は夏になると避暑も兼ねて二週間ほど厄介になる。

 私は今まで都会で暮らしており、田舎の風景がとても珍しいものに映った。野山を駆け巡り、昆虫を採る日々を過ごしていた。

 

---

 

 明くる日の、太陽が燦々と輝く午後1時頃。

 朝早くから野山を駆けずり回っていた私は、疲れ果てていたのか昼食後に昼寝をしていたと思う。

 その日、祖父母と両親は近所の方の不幸があり家を留守にしていた。

 代わりに親戚の人が留守番をしていたのだが、その人も急用が出来て少しの間出かける、という事を私に告げていた。

 とはいえ、昼寝に入る前のぼんやりとした頭で聞いただけなので、本当にそういったのかすら覚えていないのだが。

 

 私は居間の隅っこに敷かれた座布団の上に、タオルケットを被せられた状態で眠っていた。

 避暑地として利用される土地とは言え、流石に昼間の暑さは堪えるものがある、そんな時間帯。

 ふと、涼やかな風がヒュウ、と居間を通り抜けた。

 その心地よさに思わず目を覚ますと、軒先に独りの少女が座って居た。

 金色に輝く髪、透き通るような青い瞳、2つに分けたお下げ。

 服はギンガムチェックの、フリルが付いた赤いワンピースを着ていた。

 まるで西洋のお人形さんのような印象を与える、可愛らしい女の子だったと記憶している。

 はて、親戚にこんな子がいただろうか?とぼんやりとした頭で考えて居ると、彼女はこちらに視線を向けた。

 きょとんとした顔で、私を見ている。

 お互いどう話し掛けていいものか戸惑い、気まずい時間が過ぎていく。

 考えあぐねた挙句、私の口から出た言葉は


 「まいねーむいず、マコト=コウモト」


 だった。

 外人と言えば英語、という子供の安易な考えだったが、相手もそれで通じたのか


 「あんしゃんて!じゅ、まぺーる メグ!」

 「メグ?メグっていうの?」

 

 少女、メグはコクリと頷いた。

 

 「おんば じゅうぇ?」

 「?」

 

 何を言っているのかはさっぱりわからないけど、何をするでもなく空を見上げていたり、地面を這いまわるアリを弄くり回しているのを見て、暇なんだろうというのは分かった。


 「一緒に遊ぼうか!あ、そーだ!綺麗な湧水が出る所昨日見っけたんだよ!!」

 

 私はメグの手を無理やり引き、一緒に昨日見つけた川の源流へと向かうことにした。

 メグは時折何かを話しかけてくるけど勿論意味はわからないので適当に相槌を打ったり、私から一方的に日本語で話しかけていた。

 

 「昨日はねー、こーんなにおおきなカブトムシを採ってたんだぜ~!!」

 「かぶとむし?」

 「そうかぶとむし!角が超でっけえの!!あれはSランクの大きさだな~~!

  いっっぱい採ったから明日は戦わせて一番強ええ奴を決めるんだ!」

 「?」

 

 記憶の断片に残った会話はどれもこれもこんな他愛のないものだった。

 全くメグが興味を惹きそうな話の内容では無い。小学生男子の考える事なんざこんなものである。

 川を遡っていくと、大きな岩がゴロゴロと転がる場所に出た。ここは鮎や岩魚、ヤマメといった清流にしか生息していない魚が住まう場所である。


 「よーし、こっから更に上ると湧き水のある場所なんだぜ!」

 「…」

 

  さっきは自分からも話しかけていたメグが、全く喋らなくなりその場に座り込んでしまった。表情を見ると、どうやら早いペースで歩かされて疲れ、不機嫌になっているらしい。


 「疲れた?じゃあちょっとだけ休もっか」

 

 私は持ってきた水筒の麦茶をメグに差し出し、飲ませた。

 よっぽど喉が乾いていたのか、ガブ飲みしてあっと言う間に持ってきた麦茶が無くなってしまった。


 「そんなに疲れてたのかー、もうちょっとゆっくり歩かせた方が良かった?」


 無言で頷くメグ。意味はわかっていないはずだろうが意図は伝わったのだろうか?

 ちょっと休憩して、元気になったのか再び立ち上がる。

 私もペースに気をつけながら、山の先へと進んでいった。

 ここからさらに30分程度歩き、ようやく川の源流たる湧き水が出る所に辿り着いた。そこは鬱蒼とした森の中で、陽の光は木々の隙間から差す程度で昼間から薄暗い。水は落ち葉の隙間からこんこんと湧きだしていた。枯れた葉が湧き水でしっとり濡れ、光で少しだけきらめいている。

 

 「ちょー綺麗でしょ!そんでもって冷たいの!うまいよ!」

 

 まず私から、その水を空の水筒に全て満たされるまで入れた。

 そしてその水を手で掬い、飲む。冷たく、ほのかに甘く、ここまで来た疲れが全て吹き飛ぶような味わいがする。

 思う存分味わったあと、私は手ですくってメグに湧き水を差し出した。

 恐る恐るメグは、水に口を付ける。

 

 「!」


 ずっと無理やり連れ回されて仏頂面だったメグの表情が、ぱあっと明るくなった。

 

 「ね!」

 「ん!!」


 歩き回っていて汗もかいていたし、しばらく二人で水を飲んだり、かけあったりして思う存分冷たい水の感触を楽しんでいた。

 陽の光がオレンジ色に色づき始め、私は夕暮れになろうとしている事に気づく。

 

 「…あーもうこんな時間か。おうちに帰らなくちゃ。行こっ」

 「ん」


 メグの手を握り、私達は山を降り始めた。

 源流から徐々に下れば先ほど通った、鮎や岩魚が採れる上流へと戻る事が出来る。

 私は数日間山の散策をしており、山の土地勘は掴んだと思っていた。

 それが既にうぬぼれの始まりだとは気づいても居なかったが…。


 水の流れに沿って山を下り、上流の岩場へと出たまでは良かった。

 そこから更に下り、分かれ道に出くわしたのだが、目印としていた看板の文字が何らかの傷によって消えかかって読めなくなっていた。


 「あれ?昨日通った時は文字読めたんだけどなぁ…。どっちだったかなこの道…」 


 迷った挙句、私は右へと分かれる道を選択したが、延々と歩いてもちっとも見覚えのある道に出やしない。

 山を降り始めてから何時間経っただろうか。辺りはすっかり暗くなり、目の前が道であるかどうかすら定かではない。

 人が通る道か獣道かも判別出来ないが、立ち止まるのはそれ以上に怖かった。

 進んでいなければ暗闇の恐怖ですくんで動けなくなる。子供心にそんなことを感じていた。

 しかし、遂に私達は足を止めた。傷で擦れた看板のある場所に戻って来てしまったのだ。

 完全に、遭難してしまった。

 気づいた時には遅かった。夜の闇は私達を濃く包み込んでいる。

 

 「やばいやばいやばいやばい…どうしようどうしようどうしよう…

  ここ、どこだよぅ…」

 

 不安で涙が零れそうになる。でも、ここで私が泣いたら、もう山から降りれない気がした。

 メグはずっと無表情だが、両目は赤く涙が溜まっていた。声を上げたらもう歩けない、それがわかっていたようだった。

 

 「帰らなくちゃ…どうにかして、でもどうやって?」


 何か無いだろうかと暗闇に目を凝らしていると、かすかに、遥か遠くに灯りが見えた気がした。 

 誰かの家だろうか?とにかく、いまはそこ以外に頼れそうな場所もない。

 灯りの方へ、灯りの方へと、とにかく向かっていった。

 怖い気持ちと寂しい気持ちと安心したい気持ちがごちゃまぜになって、

 自然と足早に先に先にと進んでいく。半ば走っているに近い状態だった。

 程なくして、竹林の中に藁葺き屋根の古い民家が姿を現した。

 

 「ごめんください!!道に迷っちゃったんですけど…」


 少しの間の後に、白髪交じりのおじさんが玄関を開けてくれた。


 「おお?こんな夜更けに子供が山奥歩いてたら駄目だべさぁ?

  あんた何処の子だ?」

 「コウモトマコトって言います…」

 「コウモト?ああ、コウモトさん家のお孫さんかい!

  いやーずいぶんめんこい子だべした!都会の子はみんなこんな感じなんかねぇ?」

 「それで、申し訳無いんですけど、おじいちゃんおばあちゃんに連絡したいんです…電話を貸してくれませんか?」

 「あーいいよいいよ。幾らでも連絡しなっせ」

 「ありがとうございます!」


 私はおじさんに礼を言い、玄関口のすぐそばにある電話を取ろうとして気づいた。

 メグが見当たらない事に。

 さっきまで、ぎゅっと手を固く握りしめて一緒に歩いていたはずなのに…。

  

 「あれ?メグ?メグは何処に行ったんだ…!?」

 「メグ?そんな子見てねえけんども、もう一人友達でもいたのか?」

 「え?…だって、金髪の子が…あれ?」

 

 いつの間にか、はぐれていた…!

 

 「くそっ!!メグ!!どこだ!!」

 「あ!こらまた遭難すんぞ!戻ってこい!」


 おじさんの叫び声を聞く間も無く、夜の山へと再び戻ってメグを探す。

 しかし土地勘も曖昧で所詮よそ者、しかも夜とあっては見つけられるはずもなく私は再び遭難してしまった。

 フクロウがほう、ほうと鳴いている。

 どこからともなく、犬の遠吠えが響いてくる。心細さを、余計募らせる音だ。

 木々の隙間から見える星空は綺麗だけど、今はそれを楽しむ余裕など皆無だった。

  

 「お腹空いたなあ…メグ、どこではぐれたんだろう…」

 

 私はいつの間にか大樹にもたれ掛かっていた。

 無闇に歩きまわったせいで体力を使い果たしていた。

 水筒の水もない。喉が乾く。もう、一歩も歩けそうに無い。疲れた…。

 このまま、山の中で迷ったまま死んじゃうんだろうか…。

 死にたくない。どうにかして、山を降りなくちゃ。でもひとりではダメだ。

 メグを見つけて一緒に降りるんだ。

 

 (どこに行ったんだ…メグ…

  そもそも、何処の子だったんだろう…

  僕は山から出れるのか…)


 唐突に、がさりと後ろから物音がしたような気がした。

 

 「!?」


 気配を感じて振り向くと、そこには金髪のお下げの少女が佇んでいた。

 

 「メグ!!何処に居たんだよ!帰ろう、一緒に山から降りよう!」

 「…」


 しかし、近づいてみて何かがおかしい事に気づく。

 昼間の無邪気な少女とは雰囲気が違う。

 儚げで幽かな存在感しか感じられない。ここに確かに見えているというのに、そこにいないかのような印象を受ける。

 

 メグは薄笑いをしたまま、こちらに背を向けてどこかへと歩き出した。

 

 「待って!何処に行くんだ!?」


 私はふらふらと立ち上がり、後を追う。

 走ってなんとか追い付こうとするも、メグは歩いているだけというのに一向に距離を詰められない。

 どうして追いつけない?私が疲れているからにしても、この速度の差は全く不可解だ。

 ゆらゆらと揺らめくように見えるメグの姿は、私の目が霞んでいるからだけには思えない…。

 漆黒の闇の中を歩いて歩いて、どれくらい経っただろうか?

 追いかける合間に、木の根に引っかかって転んだり、枝に弾かれて腕はミミズ腫れだらけに。

 至る所に引っ掛けて服はボロボロ。満身創痍。

 それでも、メグを追いかけない訳には行かない。

 

 「ダメだ!何で逃げるんだよ!一緒に帰ろうよ!!」

 

 渾身の力を振り絞って、私はメグに追いすがろうと走る速度を上げた。

 徐々に、徐々に距離を詰めていく。

 息を止めて走り続け、ようやく肩に手を掛けられそうな距離まで追い付いた。


 「追いかけっこはもう終わりだ、帰ろう!」


 息も絶え絶えに私が肩に手を掛けようとした瞬間、メグは目の前から消えた。


 「!?」


 呆気に取られる暇も無かった。

 私は、いつの間にか地面を踏みしめる感触を失っていた事に気づく。地面がない。

 そして前方から聞こえてくるのは水の音。遥か高い場所から真下へと向けて轟々と鳴り響きながら流れていく水流。

 

 (滝…!?なんで、こんな…!)


 私は叫び声を上げる事も出来ずに、真っ逆さまに滝壺に落下していった。

 落下する直前、崖の先端にメグが立って私を見ていたような気がする。

 その表情は、一瞬の事だったからよく見えなかったが…。冷たい、薄ら笑いをしていたような…。

 勢い良く水に叩きつけられた瞬間、私の意識は途絶えた。

 

---


 「おい!生きてるか!?おい!!」


 大勢の大人の叫び声が聞こえる。

 目を覚ました所は病院だった。周囲には両親、祖父母、親戚が私の周りを勢揃いして囲んでいた。

 体のあちこちがズキズキと痛む。どうやら至る箇所を骨折しているようだ。

 まず生きている事に安堵し、後に両親からたっぷりと説教を食らった。

 怪我人だというのに父親から頭にゲンコツを喰らい、更に怪我の箇所が増えてしまった。

 祖父母からも同様の説教をもらい、その年一年分の説教をされた気分だ。

 それだけ心配を掛けたとも言うことだが。


 …怪我が治った後、メグと出会った日のその後の事を両親から聞いた。

 家から居なくなった私を探して、親戚や近所の人、更には警察消防の人が総動員で山狩りに出たらしい。

 近所を探しても見つからず、奥まで迷い込んだのではないかという事でその日は捜査は打ち切り。

 夜が明けるのを待ち、翌日の早朝に山の奥地へと踏み込んだ。

 山の奥の奥、地主以外はほとんど誰も入らないような場所の滝壺の縁に、私は倒れていたとのことだ。

 ただ奇妙なことに、その日に限って何故か滝の水は枯れており、地元の人達ですら知らない洞窟が滝の裏側から姿を現したのだ。

 中を探索してみると、一番奥にすっかり枯れて朽ちた花束らしき残骸と、家族で写っていると思われる色褪せた写真、そして骨壷に納められた小さな人骨があったという。

 

 「その写真にガイジンの女の子、写ってなかった?」


 私が尋ねると、驚いた表情で父が聞き返してきた。


 「…写真見てないのに、何故それを知っている?」

 「なんとなく、そんな気がしたんだ。なんとなく、ね」

 

 それ以降、私は祖父母の住む田舎に行く事を辞めた。

 

 …私が中学生になった頃、今度は祖父母がこちらに遊びに来た。

 夕食の団欒時に、その田舎にまつわるこんな話を聞くことが出来た。

 曰く、自分達が生まれるそのまた昔にヨーロッパから移り住んできた一家族がいた。

 彼らには一人娘が居たが、病弱で幼いうちに亡くなってしまったという。

 娘はこの滝が好きでよく遊んでいたらしく、せめて天国に行ったあとでも好きな場所に戻ってきて遊んでいて欲しい。

 そんな願いを込めて滝裏の洞窟に遺骸を葬ったのではないか?と。

 

 …時代を経て、いつしかそこに葬られた事を忘れ去られてしまい、誰も訪れなくなった。

 ひとりで遊んでいてもつまらない。寂しい。たまに大人は来るけれど、遊び相手にはなってくれない。

 だから、ちょうどその時近くに来ていた私に見つけて欲しかった?

 …まさか、な。

 亡くなった人がどのような想いでこの世に留まり彷徨っていたかなんて、生きている私にはわからない。


---


 とっぷりと日も暮れて、様々な虫の音が響く夜。

 うだるような暑さはすっかりなくなり、過ごしやすい温度になっている。

 私は等間隔に並ぶ電灯が灯る、河川敷をゆっくりとした歩調で歩く。なんとなく帰宅する気分になれなかった。

 歩きながらぼんやりと道の向こう側を見ていると、女の人が私と同じくらいゆっくりとした歩調でこちらへ向かって来ている。

 ストレートロングで綺麗な金髪をなびかせ、透き通るような青い瞳。服は赤いワンピースを着ている。

 見覚えはあるような、ないような。しかし何処か懐かしい、儚げな雰囲気だけは確かにある…。

 彼女は、私を見て微笑んでいるような、そんな気がした…。



END

 

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