Episode 12. Costa 沿海

 夕方、家に帰ってすぐのこと。

 リエラが有無を言わさぬ勢いで僕に告げた。


「響。早速英語やるから、着替えたら早く来てね」

「えっ? テストは再来週からだし、別に今日やらなくても……」

「じゃあ、復習を兼ねてやろうよ」

「あのー、せめて晩ごはんの後にとか……」


 そこまで言いかけて、今更気づく。

 今日の食事当番が彼女であったことに。


「は、謀られた……!」

「ご飯は遅くならないようにはするけど、響の進捗次第だから、頑張ってね?」


 怖い。

 いま目の前に立つにっこりと笑った居候の少女が、一瞬修羅か何かに見えた気がした。


「は、はい……」

「私も着替えてくるから、先に教科書とか用意しておいて」


 そう言い残して、部屋の中へ消える。

 ……うわあ。




 リビングのテーブルにテキストと電子辞書を広げ、リエラを待つこと数分。


「じゃあ、今日はとりあえず最初の章だけでもやろう」

「……はい」


 テスト範囲のページを開く。

 リエラのテキストは書き込みがかなりあった。

 長文読解から講義が始まる。


「この、『if an American』からって、どう訳せばいいの?」

「ここは仮定法過去の文だから、2通りの訳し方があるの。1つは『もし……したら』、もう1つは『たとえ……でも』」


 ジェスチャーも加え、丁寧に解説してくれる。


「……で、その後にくるthat節はその前の『a tone of voice』にかかっているの」

「なるほど。じゃあ、ここはどうなの?」

「そこは、その前にある文章のthatから先のことを示しています」


 サクサクと演習が進んでいく。




「じゃあ、きょうはここまで」


 ああ、この言葉が降ってくる瞬間を待ちわびていたんだ。


「続きは食べてからやろう」

「え……?」

「ウソウソ。冗談」


 悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 僕は深いため息をついた。


「ご飯つくるから、響はテーブルの片づけお願い」

「はーい」


 今日のメインディッシュはサーモンのムニエル。エノキのバター炒めが付け合せで、味噌汁は人参と白菜。

 いったいどこで覚えてきたんだろう。


『いただきます』


 美味しい。ただただ美味しい。

 解放感に身をゆだねながら舌鼓を打つ。


「響、お疲れ様」

「リエラも、ありがとう」

「明日からも頑張ろうね」

「うぐっ」


 またリエラが悪戯っぽく笑う。


「ねぇ、後で数学教えて」

「いいよ」


 こういうことでも頼れる相手がいるのは安心するし、頼られるのは嬉しい。

 この後の勉強時間も確保できるように、食事は早めに済ませた。




 食卓を片付け、今度は数学の問題集を広げようとしたところへ、ようやく両親が帰ってきた。


「おかえりー」

「ただいまー。2人とも、もうご飯は食べたのかな?」

「うん。じゃあ、そっちはリエラの部屋でしようか?」

「いいよ」




 リエラの部屋に入ると、元は物置部屋だったのかと疑うほど様変わりした光景が広がっていた。

 それに、ふんわりとした不思議な匂いもする。

 愛奈の部屋には入ったことがなく、これが女の子の部屋なのか、と少し緊張した。


 部屋の奥の机には椅子が1つだけ。


「椅子、持ってくるね」

「うん」

 一旦リビングに戻り、折り畳みのパイプ椅子を持ち出す。

 机の上には問題集がすでに広げられており、やや新しい本にはページを何度も開いた跡があった。


「お待たせ」

「ありがとう」


 椅子を開き、彼女の横に座る。


「どこが分からないとか、あったら言って。そこからやろう」

「えーっと……」


 パラパラと教科書をめくる音。


「このあたり、かな」


 章題を見て、問題集を開き机の端によけた。


「教科書の例題と証明はわかる?」

「うん」

「じゃあ、問題集の基礎問題解いてみて」


 教科書の隣に並べ、リエラがノートにペンを走らせ始める。白い紙が黒で埋まっていく。

 やっぱり女の子の字は綺麗だな、とその小さな景色を見て思った。




 1時間ほど演習をして、休憩しようと席を立ち大きく伸びをする。

 一方彼女はまだ問題を解き続けていた。


「そろそろひと休みでもしたら?」

「あとちょっとだから、平気」


 ノートをのぞき込んでみると、もう少しで答えにたどり着けるところだった。


「どうしたの?」


 リエラが少し顔を上げる。

 その距離が思ったより近くて、心臓が少しはねた。


「な、何でもないよ、続けて。僕、トイレに行ってくるね」


 そそくさと部屋を出て、トイレにこもり息を整える。

 左胸にこぶしを当ててみると、強い鼓動を打っていた。

 もういい加減慣れてきたころだろうと思ったのに、どうしてだろう。




 しばらくしてから戻ってみると、室内がやけに静まりかえっており、部屋の主は奥の机で、ペンを右手に握ったまま突っ伏していた。


「おーい」


 耳元で声をかけてみるが、反応はない。

 今度は肩を軽くたたいてみる。


「リエラ、大丈夫?」


 すると、右手が小さく震え、ペンを持つ指に力が入った。


「ん……」


 電源がまたつくように体が動き始める。

 ようやく頭を上げたリエラは、目をうつらうつらさせ、不思議そうな顔で僕を見ていた。


「……おはよう?」


 まぶたがのんびりと動く。2、3回ほど開閉を繰り返したのち、ようやく状況を理解するにまで至ったのか、顔を赤くして飛び上がった。


「え、あ、わ、私、」

「疲れちゃった? そろそろ終わりにしようか?」

「まだ、大丈夫」

「無理はよくないよ。結構進められたから、続きはまた明日にしようか」

「じゃあ、明日もよろしくね」

「おまかせ」


 散らかした参考書たちを片付け、消しかすを掃いて部屋を出た。

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蒼海の女神 ー果てなき海の、その先に。ー 並木坂奈菜海 @0013

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