第15話 覚醒と竜王
次の瞬間、伊織は水の中にいた。
薄暗い深海を、様々な魚たちがゆっくりと泳いでいる。
水の中だというのに、息が苦しくなることはなく、冷たいとも感じなかった。
ここは…?
伊織はそう呟いたが、口から出るのは白い泡だけだ。
突然、背後から感じた気配に、伊織は慌てて振り返る。
真っ暗なその先に、確かに何かが潜んでいるようだ。
伊織は焦っていた。
すぐ近くに自分の求めるものがあるのに、手が届かない。もう少しなのに…
おいっ!お前は一体…
こぽっ、こぽっ
泡がまた上に上がる。
「我を…」
声が聞こえた。水を伝う低い、でもなぜか安心感のある声。
「我を呼ぶのはうぬか…」
ゆらり、水が揺れた。
「ああっ!俺は伊織!力が欲しいんだ!お前の力がっ!」
今度は声が出た。
「我の力を…?」
それは、考えているようだった。
「うぬは…我をここから出してくれるのか…。我は永いことここにいる。ずっと、ずっと。我は退屈だ」
「だったら!俺が楽しくしてやる!お前をここから出してやる!俺は悪魔、親友の仇のため、天使をぶっ潰したいんだ!そのために…お前の力を貸してくれ!」
ががががががっ
水が激しく揺れた。魚たちは驚き慌てて海の底に隠れた。
どうやら、それが、そいつが笑ったのだと、気づいたのはそのあとだった。
「面白いではないか!よかろう。我の力、うぬに授けようではないか!」
ちらっ、ちらっ
瞼の裏にあった青い光が大きく揺れた。
ちらっ、ちらっ…
次の瞬間、伊織はその光に包まれ…声を聞いた。
「伊織!おい、伊織っ!」
「伊織!ねぇ、ねぇってば!」
はっと気がついたとき、伊織の意識は教室に戻ってきていた。
心配そうに風雅たちが伊織を覗き込む。どうやら、床に倒れてしまっていたようだ。
「お前…あれ…」
全員が驚きと、恐怖の入り混じった顔で伊織とそいつを見比べている。
リリィたちや…真紀でさえも。
そして初めて、伊織はその姿を見た。
深い緑色に輝く鱗に覆われ、瞳はまるで血のように赤く、威厳に満ち溢れたそいつは、教室の天井付近に、窮屈そうに渦を巻いていた。
「竜王…」
真紀が感嘆の声を漏らす。
伊織自身も驚いて声も出なかった。
だって、それは…
「本当に俺が…?」
伊織が言うと、そいつ、その竜はゆっくりと頷いた。
「外に出るのはいつぶりかのぅ…感謝するぞ」
竜はずいっと伊織に顔を近づけた。
生暖かい息が顔にかかり、伊織は身体を強ばらせる。
「このような少年が我を呼び出すとは…。うぬ、伊織と言ったか。うぬが我が主だ。主よ、我に名を与えよ。さすれば我の力は完全にうぬのものとなろう」
「名前…」
教室中が、伊織と竜のやり取りを息を飲んで見守っている。
「名前は…」
伊織は竜を真っ直ぐに見た。
緑の鱗に覆われた竜は、伊織が今までに見たどの宝石よりも美しかった。
「翡翠」
伊織はそっと口にした。
「翡翠。人間界にある宝石の名前だよ。ちょうど、こんな感じの色のね…」
伊織はそっと手を伸ばして竜に触れた。冷たい鱗の感触が伝わる。
それは、数ある条善寺の屋敷にある宝石の中で、伊織が最も好きな石。
美しく、けれどどこか素朴で。自然を感じる優しい緑色。
「翡翠…。良き響きじゃ。では、伊織よ。今このときを持って、我はうぬに従うこととしよう。我の力をどう使うもうぬ次第だ」
伊織は翡翠の目をしっかり見て頷いた。
「いつでもうぬに呼ばれたら我は出てくるとしよう。だが…」
翡翠はそう言って、一瞬にして姿を変えた。教室の大部分を占めていた巨大な竜の身体が、小さく、伊織の手に収まるくらいまでと縮んでいったのだ。
「久々の外だ。我もいろいろなものをみたいからの。しばらくは世話になるぞ」
小さくなった翡翠は、美しい輝きはそのままで、その姿はまるでトカゲのようにも見えた。
「…何を笑っているのだ」
そんなことを考えてつい吹き出した伊織を、翡翠は不思議そうに見上げる。
「いや…ちょっとね。これからよろしくな、翡翠」
「あぁ」
伊織は翡翠を肩にあげた。
「まさか、竜王を…人間上がりで…?
シャネル…君はもしや、ここまで見抜いていたというのか…」
真紀はそんな伊織たちをみてそう呟いた。
天使と悪魔 藤咲朱海 @Ayami1208
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