硝子の棺

歌峰由子

第1話


 黒檀のように黒い髪。

 血のように紅い唇。

 雪のように白い肌。

 硝子の棺に眠る、彼女の名は『スノー・ホワイト』



 リュウの通勤路には、真白い壁の豪邸があった。その家は代々この街の市長や市議を輩出する家柄で、そのまるで宮殿のような見事な外観から「ホワイト家」と呼ばれていた。

 ホワイト家の当代当主には一人娘がいた。リュウは毎朝通勤途中、必ず彼女を目にする。銀色のレトロ趣味なジョウロで、庭の花壇に水をやる彼女。緩く波打つ黒檀の髪をふんわりと結い、白い肌は抜けるようだ。初々しい朝日を浴びる様は一幅の絵になるが、そんな明るい日差しを浴びればすぐにでも溶けてしまいそうな儚さだった。

 紅を差したようなあかい唇は軽やかに歌を口ずさみ、たっぷりとレースを縫い取ったエプロンドレスがひらひらと蝶のように舞う。

 黒塗りの高級車の後部座席、欠伸を噛み殺しながら気怠く通う朝の路の、それは唯一の楽しみだった。



 そのリュウの密かな楽しみが奪われたのはつい半年前の事だ。ある日突然、彼女はリュウの視界から姿を消した。まるで彼女そのものが、存在すらしなかったかのように。何も変わらぬ日常の中、唐突にその姿だけが消えた。彼女が大切にしていた筈の花壇は、下女と思しき冴えぬ娘が手入れしている。

 最初は体調が優れないのかと心配した。毎朝毎夕、屋敷の前を通るたびに、車の窓に貼り付くようにして屋敷の様子を窺うが、何日経っても彼女の姿は見えない。折角の休みも彼女の事が頭を離れなくなり、翌週になってもその影が無いのを確かめて居ても立ってもいられなくなった。

 重い病なのではないか。何か厄介事に巻き込まれたのでは。あれほど名のある家ならば、身代金や脅迫目的の誘拐なども日常茶飯事だろう。あるいは、政略の為突然誰かの元へ嫁がされたのか。

 悪い想像が頭を巡る。夜も満足に寝られない。

 ああ、だからあんな風に、日の下に晒しては駄目なのだ。眠れぬ夜のベッドの上で、リュウは嘆息する。

 温室から出せば悪い虫が寄って来る。照り付ける日や風雨に晒せば弱ってしまう。あんな美しい存在は、大切に大切に仕舞っておかなければ駄目なのだ。もしもリュウが彼女の家族ならば、決してあんな風に、人目のある時間に無防備な姿を許したりはしないだろう。

 そしてリュウは決意する。自分が彼女を救うのだ。

 リュウはとある大企業の御曹司だった。彼女の住む街の隣街に住まい、毎朝彼女の街にある会社まで通勤している。社内では生き馬の目を抜くような熾烈な派閥争いが繰り広げられているが、仕事に興味の無いリュウは部下に全てを任せて気怠い灰色の日々を送っていた。その中に現れた、美しく芳しい一輪の花が彼女だったのだ。

 無論、自分で運転などはしない。運転するのは、リュウを補助するために特注で造られた秘書型ドール――いわゆるアンドロイドだ。地味で印象に残らない容姿で造られたその秘書型ドールは、車の運転からリュウのスケジュール管理、情報収集や分析、他言語との同時通訳などあらゆる面でリュウをサポートしている。彼女を救う決意をしたリュウは、その秘書ドールに命令した。

「彼女を救い出して僕の元へ連れてこい」

 これで、リュウの重い恋煩いは解消される。救われた彼女はリュウに感謝し、リュウに想いを寄せるに違いない。彼女とリュウは結ばれて、幸せに暮らすのだ。リュウは間違えたりしない。決して、彼女を汚らわしい視線に晒したりはしないだろう。



 だが、リュウの命令を受けた秘書ドールはその半月後、意外な形で彼女をリュウの前に連れて来た。

 ――彼女は眠っていた。永遠に。

 硝子の棺に横たわる彼女の美しい横顔を、リュウは飽きもせずに眺める。

 透けるような白い頬はまろいまま、黒髪の艶も唇の色も褪せてはいない。薄く開くその唇はふっくらと柔らかそうで、胸で組まれた繊手も傷一つ無い。

 秘書ドールは言った。

「毒殺未遂だそうです」

 毒殺を謀ったのは彼女の継母だった。早逝した先妻の娘を煙たがり、その食事に毒を盛ったのだという。彼女はそれと知らず毒を口にし、そして倒れた。毒の作用は劇的で、そして奇怪なものだった。彼女は眠ってしまった。まるで冬眠する動物のように極限まで代謝を落とし、その容色を一切損なわぬまま眠りに就いた。

 その美しさを惜しんだ父親は、この硝子の棺に特殊なガスを充填し、その中に彼女を納める事で、彼女の美しさを永遠のものとした。

 リュウは彼女の父親に感謝した。

 眠る彼女は美しい。まさに、硝子の棺に眠る白雪姫だ。リュウがこの棺の蓋をあけ、優しく口づけすればその目を開くかもしれない。

 だが、そんな事は妄想だ。今や彼女は、その棺の中でのみ時を止める事を許された、儚い朝露でしかない。もしも蓋を開けてしまえば彼女の時間は動き出し、それは即ち目覚めではなく腐敗をもたらす。

 黒檀のように黒い髪。血のように紅い唇。雪のように白い肌。

 リュウは飽く事無く眺める。彼女の本当の名前はユキコだ。ホワイト家の本当の名字は全く別だが、正しく彼女は『スノー・ホワイト』。朝に夕に、リュウは彼女の為に用意した部屋に入り浸っては彼女を眺め愛でる。ユキコの趣味を思い、アンティーク調に揃えた家具の中、シャンデリアの光が優しくユキコを照らす。白い頬に落ちる、睫毛の長い影。薄らと覗く、真珠のような白い歯。桜貝の爪。リュウはどうしても、触ってみたくなった。

 彼女は白雪姫だ。それは間違い無い。ならば、きっと彼女はリュウの口づけで目を覚ます。

 リュウはいつの間にか思い込んでいた。彼女は白雪姫で、自分は彼女を眠りから揺り起す王子だと。

 意を決し、リュウは棺の蓋に手をかける。その厳重な封印を剥がそうとすると、秘書ドールが止めに入った。

「リュウ様。いけません。彼女は――」

「分かっている! 大丈夫、大丈夫だ……」

 止める秘書ドールを振り払い、決して自分の邪魔をするなと厳命した。ドールは主に逆らえない。秘書ドールは引き下がる。その顔に浮かぶ苦渋の表情を、リュウは余計なオプションだと思った。

 棺の封印を剥がし、硝子の蓋を開ける。

 細い継ぎ目に爪を立て、重い硝子をリュウは必死で持ち上げた。ゴトリ、と重い音を立てて硝子の蓋が横にずれる。充填されていたガスが室内に漏れ、ユキコの時が動き始めた。

 さあ、目覚めの口づけを。

 リュウはユキコに唇を寄せる。ふわり、とその冷たく柔らかい唇に触れた。リュウを幸福感が満たす。

 ゆっくりと、間近でユキコの瞼が開く。美しい黒い瞳が、間近でリュウを見つめ返した。

「おはよう、ゆき――」

 ごふっ。皆まで言えず、リュウは口から血のあぶくを零して頽れた。その腹には大きな穴が。白魚のような繊手が、その背中に突き出している。



「…………任務、完了」

 無機質な声で、ユキコが宣言する。主を喪った秘書ドールだけがそれを見ていた。



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Twitter フリーワンライ企画(#深夜の真剣文字書き60分一本勝負)参加作。

使用お題:『息ができないほどに、囚われる』『白雪姫』

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