九 エピローグ

  九 エピローグ


 竜神の祠がある丘を下り、もう一つの丘を登り出したアイネスは、途中で木にもたれて座り込んでしまった。番犬にやられた左手が痛い。戦っているときはなんともなかったのに、今になって、どうしてこんなに痛むのか。また馬車で待っているリドワードをどうしよう。いや、そんなことより自分は一国の王を手に掛けてしまったのだ。

 かわいそうなボウディッカ。

 そしてエーデルワイスは……。

 アイネスは雲が動いていくのを黙って見ていた。西の空がだんだんと赤く染まっていく。この夕空をいつまでも眺めていたかった。

 だがこうしている間にも、オードがどこかで無慈悲な殺戮を行っているかもしれない。止めるのだ。あの人にこれ以上の罪を犯させはしない。だが止めたところで、もう昔のような義兄弟には戻れないだろう。エーデルワイスのあの涙を目の当たりにした以上、生かしておくわけにはいかない。決着をつけねばならぬ。どちらかが死なねばならぬ。

 そして恐らく、死ぬのは自分なのだ。

 聖剣クラウンが本当に無敵の王冠なら、この剣の前の所有者である師はなぜ命を落としたのか。きっとすべては仕組まれているのだ。クラウンの所有者は、ある局面で死ぬことを定められているのだ。滑稽な道化として。

「馬鹿野郎、ちくしょう……」

 アイネスは痛みを堪えながら立ち上がり、歯を食いしばって丘を登り始めた。

 きっと海で死ぬだろう。オードはその運命にこそ勝てとアイネスを鼓舞したのだが、運命とは語り部そのものなのだ。物語の登場人物がその語り部にどうやって勝てというのか。すべては仕組まれている。死は約束されている。それでも行かねばならぬ。

 ――私よりあの男に惚れてるのね。

 フィレーナと別れたときも、こんな風に足が重かった。


 丘の天辺に立ったアイネスは、そこから二頭立ての小さな馬車に視線を投げた。遠目からでもリドワードが御者台でじっとしているのがわかる。彼に対しては良案が思いつかないが、とにかく行って話をしてみるしかあるまい。

 木の間を縫って丘の斜面を駆け下り、馬車にたどり着いたアイネスは、リドワードに声をかけようとして不意に口を噤んだ。

 リドワードは俯いたまま動かない。アイネスがここまで駆けてきたことに気づいてもよさそうなのに顔もあげないし、女王や番犬の姿がないことを問い質しもしない。

「おい」

 そう声をかけても反応がなかった。アイネスはゆっくりと近づいていき、夕暮れを迎えて冷たくなった風のなか、赤い空の下でリドワードの顔を覗き込んだ。リドワードは喉笛を掻き切られて死んでいた。辺りはひっそりと静まり返っている。

 誰が殺した? なぜ殺した? 殺した奴はどこへ行った?

 アイネスは無数の疑問を叩きのめすと身を翻して走り出した。エーデルワイスが心配だった。

 ふたたび丘の稜線を越えたとき、アイネスは丘の鞍部に忽然と人影が現れているのに気がついた。影が細長いものだから最初は若木の一本かと思ったが、間違いなく人である。アイネスが斜面を下りていくと、その人物は狐顔に気さくな笑みを浮かべて片手をあげた。

「よう」

「パリス。なぜここに?」

「そりゃもちろん追いかけてきたからさ。いやあ、苦労した。急いで馬を仕立てて轍を追ってさ、鉄の丘に向かってるって判るまでは、引き離されないよう必死だった。こっちに着いたら着いたで、あのおっさんに見咎められちまって――」

「それで、おまえエーデルをどうした?」

 言葉を遮られたのに気を悪くした様子もなく、パリスは明るい微笑を広げて喋り続けた。

「あのお嬢さんなら見てないぜ」

「本当か?」

「ああ。丘の上に残されてたのは女王と番犬の死体だけだ。それより聞かせてくれよ。いったいなにがあった?」

「わかってるんだろう? 二人とも俺が殺した」

 ひゅう、とパリスが口笛を吹いた。

「あんた凄いな」

 その賛辞にもアイネスが押し黙っていると、パリスは何食わぬ顔で一歩近づいてきた。

「ところで、女王の指には指輪がなかったんだが……」

「王の証か? あれなら俺が預かっている。然るべき人物に渡すよう頼まれた」

「それ、こっちに渡してくれないかな」

 またパリスが一歩迫る。アイネスの方が高い位置にいるのだが、下り坂ということを考えるとこちらが不利だ。足の踏ん張りが利かない。

「そんな怖い顔しないでくれよ。何も持っちゃいないぜ」

 パリスが微笑みながら両手の平をアイネスに向けてきた。なるほど、確かに武器らしきものは手にしていない。だがアイネスは油断なく、パリスに鋭い眼差しをあてた。

「おまえは一体、何者なのだ?」

「察しはついてるんじゃないか?」

 情報を求めていたり、商会の一員になりすましたり、名前を複数持っていたり、ロマーナの銀貨で支払いをしたり……と、アイネスはこれまでのパリスの行動を振り返りながら、うっそりと云う。

「ロマーナ瑞雲国の間諜スパイ

 パリスがにっと笑った。

「もしそうだとしたら、俺が指輪を求める理由もわかるだろう。王の急死は異常事態だ。さらに次の王も決まらないとなれば、戦争を仕掛ける絶好の機会ということになる」

「攻め込んでも旨味はないぞ。ベルギアの金脈は遠からず尽きる」

「知ってるさ。だが五十年、場合によっては百年も先のことだろう? ならば充分だ。戦争をする価値があるよ」

「呆れたものだな」

 アイネスはより一層、眼差しを険しくした。パリスがまた一歩、アイネスに近づく。

「指輪を渡してくれれば、それなりの報酬は出すぜ」

「俺はこの指輪を女王に託された。信義は売らない」

「そこをげてくれないか」

 パリスの笑みに暗いものが淀む。アイネスは剣の柄に右手をかけた。

「要するにおまえは死にたいんだな?」

 夕日が二人に冥い光りを投げかける。若木の影が異様に伸びて魔物が出そうだ。アイネスは全身全霊を研ぎ澄ませてパリスの出方を窺った。だがパリスは突然それまでの暗さをかなぐり捨てて、屈託のない笑みを浮かべた。

「やめとこう。そんなに馬鹿じゃない。指輪は諦めるよ」

「解ればいいんだ」

 アイネスはほっとして剣の柄から右手を離した。

 パリスはすっかり普段の調子に戻ったとみえて、大股で遠慮なく斜面を登ってきた。

「ところであの角耳族のお嬢さんはどこへ行ったんだい? 喧嘩でもしたのか?」

 アイネスは顔をしかめた。

「そのことは云うな」

「ふうん。なんでもいいけど、仲直りした方がいいぜ?」

 パリスはそう云いながら頭の後ろに手をやって、油で固められた豊かな頭髪から小さな刃物を引き出した。

 あっと思ったアイネスは剣を抜こうとしてバランスを崩した。踵が丘の斜面を掴めずに滑る。アイネスは襲いかかってくる敵の前で、嘘のように転んでしまった。

 夕日の赤い光りを浴びたパリスが表情のない顔をしてアイネスに飛び掛かってくる。アイネスに為す術はなかった。

 そのとき弓弦を弾く音と、風切り音がした。ついで鈍い音がして、パリスの体が不自然に固まり、その顔が苦痛と恐怖に彩られた。

「そ、そんな……」

 パリスの手から刃物がきらりと零れ落ちる。パリス自身はアイネスの足の先で倒れ伏した。その背中に一本の矢が突き刺さっている。

 そして向こうの丘の斜面には、金髪のエルフの娘が長弓を構えて立っていた。

「エーデル」

 起き上がったアイネスはパリスの屍を乗り越えて丘を下り、向こうの丘を駆け上ってエーデルワイスのところまでまっすぐ走っていった。

 エーデルワイスはアイネスを頭から足の先までつくづくと眺めたあと、さりげなく云った。

「無事?」

「ああ、助かった。でも、どうして?」

「どうして、ですって?」

 エーデルワイスは信じられないという風に目を見開き、顔を強張らせた。

「さあ、どうしてかしらね。あなたにわからないんじゃ、私にもわからないわ。きっと体が勝手に動いちゃったのよ」

「だって人間は――」

「ええ、嫌いよ。人間なんか大嫌い」

 エーデルワイスはアイネスをじっと憎々しげに睨みつける。

「でもあなたは特別だわ」

 その言葉はアイネスの胸に深く突き刺さった。エーデルワイスはぷいとそっぽを向いてしまう。西の空にかかる太陽が、さっきは毒々しい赤色に見えたのに、今はまばゆい金色の光りを放っているように感じられた。

 エーデルワイスが夕日に向かって云う。

「特別になってしまったのよ」

「エーデル」

 アイネスがひたすら目を丸くしていると、エーデルワイスは今の言葉をかき消すように早口で云った。 

「それにまだ肝心な奴が残ってるじゃない。私の仲間を直接手に掛けた奴が」

「オーディ・オード」

 アイネスが後を引き取ると、エーデルワイスがアイネスにすがめを寄越した。

「あなた追いかけるんでしょう?」

「もちろんだ」

「私もそいつを追うつもりよ」

「じゃあ一緒に来るか?」

 アイネスはエーデルワイスに傷ついた左手を差し伸べた。するとエーデルワイスはその手をちょっと見て、アイネスの顎を掴んだかと思うと、背伸びして口づけてきた。

 魔法がかけられ、アイネスの左手はあっという間に癒された。

 唇を離すと、エーデルワイスはアイネスをじっと見つめてきた。その唇は固い蕾のように閉ざされている。それでいて瞳はなにかを訴えかけるようにしている。

 アイネスは楽になった左手で、思い切ってエーデルワイスの右手を掴んだ。

「一緒に来い」

 ぐいと手を引くと、エーデルワイスは逆らわなかった。アイネスはエーデルワイスの手を引いて丘の斜面を下り始めた。丘陵地帯を抜けて馬車の前を通り過ぎ、ベルンへの街道を踏んだころになってエーデルワイスがやっと云った。

「人間なんか嫌いよ」

「わかってるよ、エーデル。でも俺がオードにやられたら、仇を討ってくれよな」

「いやよ。オードを倒すのはあなたの役目だわ。私はそれを見届けるだけ」

「運命が俺の敗北を定めていてもか?」

「それでも、やるしかないじゃない」

 アイネスは思わず吹き出してしまった。

「やるしかない、か」

 アイネスは夕闇の空に際立つ明星を眺めた。川の流れとともに旅をし、いつか海に注ぎ込むとき、自分の人生は運命の車輪を打ち砕くほどの重さと勢いを備えているだろうか。

 夕焼け空の下、エルフと人間が手を繋いで歩いていく。

 海を目指す旅は、もう一人ではない。

「いいだろう」

 アイネスの胸には風が吹き始めていた。

                                     (了)

▼あとがき

 アイネスの旅はまだ続きます。川の流れに沿って旅をし、いくつかの冒険をこなし、二十七歳でエーデルと結婚して二十八歳で子供が生まれて、それでも旅を続けていたんですが子育てのために旅の休止を余儀なくされて、一つところに落ち着いてこれもいいなあと思いながらもやっぱりオードのことを忘れられず、四十五歳にして妻と長女・次女・長男を連れてふたたび旅立つも、長女に惚れている青年が自分たちを追いかけてきて、「仕方ねえなあ」と言いつつ旅の同行を許してやり、五十歳でやっと海にたどり着いてオードと対決する――という年代記を構想しています。

 が、それを全部書くと途方もなく長くなる上、他に書きたい小説もあり、『いつか海にぶつかる日まで』はひとまずここで閉じさせていただきます。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。もし続編を書くことがあったら、そのときはまたお願いします。

 それではご意見・ご感想などお待ちしております。


 二〇一二年七月二十二日 太陽ひかる


▼補足

 本作は二〇一二年七月より『小説家になろう』で公開しているものの転載です。また二〇一〇年三月には『Arcadia』でも公開しました(現在は削除済みです)。

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