八 運命の車輪
八 運命の車輪
その昔、ベルギア人は鉄の丘に住み、そこから採れる豊富な鉱物資源を元に周辺の国や部族と取引をして生計を立てていたという。やがて時代が下り、ベルギア人も丘を下りて王国を築き上げ、教会の薫陶を受けるようになったが、鉄の丘は民族発祥の聖地として今も崇められている。
アイネスたちはボウディッカとともに馬車に乗り、一路その丘を目指した。
女王ははしゃいでいるようだった。馬車の窓から外を覗く彼女の顔は、気ままな遊びに出かける十六歳の少女のものに他ならない。
アイネスたちを乗せた馬車は、既にベルンの街を出て鉄の丘を目指し、街道をひた走っている。お忍びということで共の騎士はいない。これに関しては出発の際に一悶着あって、結局あのリドワードが御者を務めるということで落着した。
馬車に乗り込む際、アイネスが「いくらなんでも不用心じゃないか?」と尋ねると、ボウディッカは「百人の兵士に囲まれているより、番犬のみを傍に置いた方が安心だ」と寂しそうに微笑んだのだった。
女王の持ち物にしてはやや窮屈な馬車内では、アイネスの隣にエーデルワイスが、向かい側にボウディッカと番犬が座っている。車輪の音がうるさくて、あまり会話をしようという気にはなれない。それに神経が苛立っている。あの番犬と膝をつきあわせて座っているのだから当然だ。
「ねえ」
突然、エーデルワイスがアイネスの耳元で囁いた。
「そういえばあのうさんくさい男はどうしたかしら?」
「パリスか」
すっかり忘れていた。だが目敏く、耳聡いパリスのことだ。女王の馬車が王宮を出たのにも気づいただろうし、そうなれば独自の判断で動くだろう。
「まあ、あとで金蘭亭に赴いて事情を説明すればいいだけのことだ」
「私はもう会わないかもね」
「そうだな。森へ帰るんだろう?」
「当たり前よ。人間なんて嫌いだわ」
「ほう」
と、ボウディッカが揶揄を含んだ声をあげた。どうやらいつのまにか会話の声が大きくなっていたらしい、ボウディッカがエーデルワイスを嘲弄の目で見ている。
「人間が嫌いか」
「ええ。大嫌い」
「私も角耳族が大嫌いだ。どうしてこの世に角耳なんて生き物が蔓延っているのか。絶滅してしまえばいいのに……と、そう思っていた」
そこでボウディッカは、やや優しげな顔つきになってアイネスを見た。
「ちょっと前にこんなことがあった。森へ木を伐りに行った四人の木こりが、突然角耳族に襲われたのだ。三人が瞬く間に殺され、生きてかえった一人も大怪我をした。ひどい話だろう。彼らはただ木を伐ろうとしただけだ。だのになぜ命まで奪われねばならぬ」
するとエーデルワイスが目に角を立てた。
「私たちエルフの目の届くところで木を伐るものは殺されても仕方がないわ」
「死ぬと樹木になるからか?」
思いがけないボウディッカの言葉に、アイネスは目を瞠った。
「知ってるのか!」
「もちろんだ」と、ボウディッカが得意げに笑った。
「ベルギアは角耳族と縁のある国だからな。無知ではいられない」
そう、とエーデルワイスが冷え切った眼差しをボウディッカに注ぐ。
「それを知っていて、森に入って来ようというのね」
「ああ。森を切り拓くところにベルギアの未来があると、私は信じている」
「切り拓く? 切り拓くですって!」
エーデルワイスは絶句したように顎を落とし、ついで怒りに顔を歪めた。
「冗談じゃないわね。そんなことをすれば人間とエルフの間で戦争が起こるわよ」
「ふむ、それはうまくない。しかしアイネス」
ボウディッカがアイネスに目で窓の外を見るよう促してきた。アイネスは大人しく、馬車の扉にはめ込まれた丸い窓ガラスから外の景色を覗いた。馬車は左に弧を描きながらゆるやかな坂道を上っている。大地の色は全体的に赤い。
「どうだ、荒れ果てた土地であろう。こうした土地ではなかなか作物が育たない。私が森の豊かな大地を欲しがるのもむべなるかなと思わぬか?」
「ふむ」
アイネスはエーデルワイスの気持ちを慮って、曖昧に頷いておいた。遠くに首都ベルンの赤い城壁が小さく見える。それに陽ざかりの日を浴びるヒストリア川が、きらきらとして綺麗だった。川はベルンを過ぎた地点で流れを東に転じ、隣国のロマーナへと注ぎ込んでいる。と、ボウディッカの瞳がきつく細められた。
「忌々しいヒストリア川。あの豊かな流れが我がベルギアに注いでくれれば、我が民の暮らしも楽になったものを」
アイネスは意外そうな面持ちでボウディッカを見た。
「ベルギアは金や銀で栄えているじゃないか」
「しかし農耕に弱いというのは国家として問題だ。それに鉱物資源はいずれ尽きる」
「そうなのか?」
そう尋ねると、ボウディッカは窓の外を見たまま、仄暗い微笑を浮かべた。
「ここ百年で半減だ。王国史上、このようなことはかつてなかった。城に集めた学者連の話では、長きに亘って湯水のように産出されてきた金銀をはじめとする鉱物資源が、いよいよ尽きる
「ふむ」
アイネスは横目でエーデルワイスの様子を窺った。エーデルワイスは長弓を肩に立て掛けた姿勢で腕を組み、怒りに満ちた目でボウディッカを睨みつけている。アイネスはため息をつきたい気持ちを怺えながらボウディッカに視線を戻し、重い口を開いた。
「なら、戦争に訴えるのも仕方ないな」
「アイネス!」
エーデルワイスが信じられないといった目でアイネスを見つめてくる。そのエメラルドグリーンの瞳から、アイネスは苦そうな顔をして目を逸らした。
「奪わなければ死ぬというのなら、どこかを攻めるのも仕方ないじゃないか」
「そうだろう。オードもそう云ってくれた」
「オードが?」
「ああ。彼は決して無軌道な殺人鬼ではない。百万人殺すとうそぶいていたが、殺す相手は選んでいるよ。でなければ目についた相手を片っ端から殺しているはずだ。そして角耳族を攻めるのはやむを得ないと判断したからこそ、私に手を貸してくれたのだ。おまえも同じようにしてくれないか」
「それは断る」
「なぜ? 云ったじゃないか――」
「ああ、戦争を否定はしない。だがどうせなら俺は、攻める側よりも攻められる側の味方でありたい」
アイネスがそう断じると、ボウディッカは小さく吹きだした。花の咲いたような少女の笑顔だ。
「本当を云うと、私も戦争などしたくない」
アイネスはと胸をつかれた。意外にもボウディッカの両目は誠実さを湛えている。
「それよりもベルギアを緑溢れた大地にすればよいのではないかと思っている」
「できるのか?」
「私の夢だ」
「なにが夢よ!」
エーデルワイスが即座に噛みついた。
「なにが戦争などしたくないよ。私の里を襲ったくせに!」
そう気色ばむエーデルワイスを完全に無視して、ボウディッカはアイネスに語りかけた。
「アイネス」
ボウディッカがそのまなざしと言葉で、自分の心になんとか火を灯そうとしているのが、アイネスには感じられた。
「わかってほしい」
馬車が揺れる。車輪の音が耳を聾する。ボウディッカはまた窓の外を向き、番犬は大人しい犬のように座っていた。エーデルワイスはつむじを曲げたのか、その美貌をフードに隠してしまう。そしてアイネスは、言葉にできない嫌な予感を覚え始めていた。
馬車は順調に轍を刻み、夕方になったところで鉄の丘に到着した。ボウディッカは丘の北側、少し手前で馬車を止めさせた。
鉄の丘とはどうやら複数の丘が集まった丘陵地帯であるらしい。西に傾いた太陽が稜線を境として、連なる丘を光りと影とに塗り分けている。アイネスとエーデルワイスは並び立って、爽やかな風に吹かれながら、そんな景色を眺めていた。
「ここにみんながいるのかしら」
「この期に及んで女王が嘘を吐くとは思えない。いるさ、きっと」
その女王ボウディッカは馬車の前でリドワードとなにやら話をしていた。
「いいじゃないか。自由に歩きたいんだ、自由に」
「しかし陛下」
「女王に命令するでない!」
鞭のような厳しい声が飛ぶと、リドワードは不服そうに黙ってボウディッカを見返した。ボウディッカが唇だけで笑う。
「私から目を離したら兄上に叱られるか? だが私の足では遠くまで行けぬ。日没までには戻るゆえ、おまえはここで待っておれ」
「しかし女王陛下の身の安全が」
「それこそ無用の心配というものだ。私には番犬がついている」
その一言には揺るぎない信頼があった。実際、番犬は強いというのが、一度剣を交えてみたアイネスの率直な感想である。あのときは手傷を負わせたが、それとてエーデルワイスと二人がかりだ。一人ではまず勝てない。
「よいな」
ボウディッカが声をねじ込むと、リドワードは不承不承という感じで頷いた。不満そうに御者台へと戻るリドワードを置き去りに、ボウディッカが番犬を従えてアイネスたちに近づいてくる。
「さあ、ここからは歩いて行こう」
丘には相当に古い道が一本伸びているだけだった。一行はその道を南へ向かって、ボウディッカを先頭に番犬、アイネス、エーデルワイスの順で進んでいく。
「ここはベルギア竜王国の聖地なのだ。私たちの先祖はもともとこの丘に住んでいた」
「ふむ」
アイネスは緩やかな上り坂を踏みながら、爽やかな風の匂いを嗅ぎ、あちこちに点在する樹木を眺めた。
「しかしなんだな、鉄の丘というより、緑の丘といった趣じゃないか」
アイネスのその声にボウディッカはなんの反応も示さなかった。ほっそりとした後ろ姿を守るように番犬が寄り添って歩いている。アイネスはもう一度辺りを見渡した。よく見るとどれも骨のように細い木ばかりだ。土地が痩せているせいだろうか。
「それでみんなはどこにいるのよ」
最後尾を歩いていたエーデルワイスが、不審と苛立ちを持て余したような声を出した。ボウディッカは初めて振り返った。
「この先に竜神様を奉った祠がある」
「竜神?」
アイネスが意外そうに目を見開いた。
「教会の教えが伝わる前に我らが崇めていた土着の神だ。今は廃れているが、祠は遺跡として国家が保護している」
「そこにみんながいるのね」
エーデルワイスが逸ったように歩を早めた。が、ボウディッカは薄い笑みを浮かべただけで何も云わず、前を向いてしまった。
最初の丘を越えたところで、一つ向こうの丘の上に建物が見えた。
「あれが竜神様の祠だ」
それはそこらの庭園にある
「悪いが、先に行かせてもらう」
アイネスはボウディッカにそう断るとエーデルワイスの後を追って走り出した。
竜神の祠は石造りの小さな建物で、四隅の柱に支えられた石の屋根と三面の壁からできていた。そのすべてが長年の風雨にさらされて朽ちかけている。もし大きな地震でも起これば潰れかねないな、とアイネスは思った。
祠には一面だけ壁がなく、アイネスがその前に立ったとき、エーデルワイスが中から飛び出してきた。彼女は悔しそうに辺りを睨んだあと、祠をぐるりと一周して戻ってきた。
「いないわ」
「なに?」
「みんなどこにもいないわ!」
「ちょっと落ち着け。よく探してみよう」
アイネスは祠のなかに踏み込んだ。日陰の冷気に身を包まれる。そこには小さな祭壇があり、竜を象った像がひとつ置かれているだけだった。ためしに祭壇によじ上って竜の像を押してみるがびくともしない。
「なにやってるのよ」
「いや、なにか仕掛けがあって、隠し階段でも現れるのかと」
「そうなの?」
エーデルワイスがにわかに色めき立ったが、アイネスは祭壇から飛び降り、きっぱりとかぶりを振った。
「いや、俺の見込み違いだったらしい。女王に聞いてみよう」
祠から出たアイネスは、図らずもこの丘陵地帯を一望して息を呑んだ。竜神の祠が建てられているこの丘が、辺りで一番高いらしい。前方から番犬を従えたボウディッカが丘を登ってくる。
アイネスたちの前に立ったボウディッカはやや頬を上気させていた。
「久しぶりに柔らかい土を踏んで歩いた。やはり気持ちいいな」
「そんなことより!」
エーデルワイスがボウディッカを睨みつけた。
「話が違うわ。みんなどこにいるのよ」
「いるさ」
「だからどこに!」
するとボウディッカはアイネスたちに背中を向け、丘を渡る風を浴びて両手を広げた。肩口のところで切り揃えた赤毛が揺れる。珊瑚色のドレスの裾が翻った。細い体をしている。女王の重責には耐えられないように見えた。だがそれでも彼女は竜王国の女王なのだ。
「おまえの仲間は、ここにも、そこにも、あそこにもいる」
アイネスは卒然としてその事実に気がついた。もういちど目を凝らして、鉄の丘に点在する樹木を見つめた。土地が痩せているからほっそりとした頼りない木に育ったのだと思っていた。だが違う。あれはよく見れば、みんな生まれたばかりの若木ではないか!
「ボウディッカ、おまえ!」
アイネスが鬼気迫る声をあげたそのとき、エーデルワイスがか細く長い、悲鳴のような声をあげた。どうやら彼女も気づいてしまったらしい。
ボウディッカが振り返り、にたーっと背筋の寒くなるような笑みを浮かべた。
「我らベルギア人はこの丘よりやって来た。だから我らの国土が緑豊かな地に生まれ変わるのも、この丘からでなくてはならぬ。私の夢がなにかは語ったはずだ。その夢にオードが手を貸してくれた。この丘でおまえの兄は存分に魔剣をふるったよ。角耳どもにな」
言葉もないアイネスをよそに、ボウディッカは辛辣な眼差しをエーデルワイスにあてた。
「さ、角耳の娘よ。事態は把握しただろう? おまえの仲間を一本一本引っこ抜いて、森に連れてかえるがいい」
エーデルワイスががっくりと両膝を落とした。その丸めた背中を見ているのが忍びなくて、アイネスはふたたびボウディッカを睨みつけた。ボウディッカが冷笑を浮かべた。
「怒るなよ。私はベルギアの女王だ。ベルギアの民のことを第一に考えねばならぬ」
「エルフを犠牲にしてか」
「角耳族と人間は違う生き物だ。手を取り合っては暮らせない。ところが殺せばその身はいかなる場所にも根を張る神秘の樹木となり、緑を増やし、我が国の大地を再生させるのに使える。そのうえ森の番人である
「よくそんなことが云えるな」
「いいじゃないか。相手は人間ではないのだ。といっても心配するな。根絶やしにはしない。この地を緑で埋め尽くすことを考えると、牧場のようなものを作って、そこで奴らを繁殖させた方が効率的だろうからな。いずれそういう施設を作ろうと思っている」
「本気で云ってるのか」
「ああ」
「ならば斬る!」
アイネスは剣を鞘から迸らせた。
「わかってもらえぬか」
ボウディッカは残念そうに目を伏せると、深い深いため息をついた。それが目を見開いたときには、威厳に満ちた女王然とした顔に戻っている。
「番犬」
番犬がすらりと片刃の長剣を抜いてボウディッカの前に出た。
アイネスは剣を構えながら、座り込んで項垂れているエーデルワイスを目の端で見る。
「エーデル」
だがエーデルワイスは顔をあげない。
「援護してくれ。こんなところで死にたくないだろう」
反応はなかった。もう一度エーデルとアイネスが呼びかけようとしたとき、ボウディッカが冷たい声を発した。
「二人とも殺してしまえ」
番犬が一文字に襲いかかってくる。アイネスは咄嗟にエーデルワイスの前に立って番犬を迎え撃った。
烈しい斬り合いが始まるや、アイネスはただちに己の不利を悟り、肝を冷やしながら叫んだ。
「エーデル、立て! 立って動け!」
だがエーデルワイスは心を手放したかのように動かない。一方、番犬は間断のない攻撃をアイネスに浴びせてきた。アイネスがそれを何度凌いでも、番犬はしつこく食らいつき、ついにアイネスの左手の甲を切り裂いていく。アイネスは痛みよりも熱を感じた。番犬がなおも攻めてくる。アイネスは噴き出す汗を感じながら懸命に鍔迫り合った。左手から血が滴る。不思議と痛みは感じない。エーデルワイスはまだ顔を伏せたままだ。
ふたたびボウディッカの声がする。
「どうした、アイネス。そこで棒立ちになっていては勝負になるまい。そんな角耳族の娘は見捨ててしまえ」
「断る!」
「ならば番犬、相手は案山子だ。さっさと片付けよ」
すると番犬が突然、身を翻した。いや、回転したのだ。剣を体で隠し、太刀筋を読めなくする。それゆえ反応が遅れた。
縦の斬撃がアイネスの肩に迫る。それを後ろにさがって躱そうとしたアイネスは、エーデルワイスにぶつかってしまった。鋭く振り下ろされた番犬の剣が、アイネスの鎧にまた一つ新しい瑕をつけていく。
そうしてその一撃を辛くも凌いだアイネスだが、完全に体勢を崩していた。膝が折れ曲がり、背中の下にエーデルワイスを押しつぶすような格好で空を見ている。
やばい。
そう思ったとき、番犬がアイネスの真上に高々と跳躍した。剣の切っ先が下を向いている。避ければエーデルワイスが串刺しだ。そう悟った瞬間、アイネスは動けなくなった。
と、そのときだ。
「重たいのよ!」
背中の下のエーデルワイスが身動ぎしたかと思うと、アイネスの体が横に転がされた。そしてエーデルワイスの上に番犬が落ちてくる。
「エーデル!」
アイネスが叫んだそのとき、エーデルワイスは間一髪で体をアイネスの反対方向に転がして避けた。その動きが不自然に止まる。どうやらマントが串刺しにされたようで、いわば地面に
番犬がアイネスとエーデルワイスをいっぺんに見られる距離まで後退した。アイネスはその隙に左手の具合を確かめた。血に染まっているが見た目が派手なだけで傷は浅い。指も動く。問題ない。
「やるぞ、エーデル!」
「云われなくとも!」
エーデルワイスが細身の剣を構えて番犬に突っ込んでいき、めちゃくちゃに斬りかかった。番犬はそれをかろやかに躱し、凌いで、一歩も引かない。
「このっ!」
気色ばむエーデルワイスが剣を大きく振りかぶる。隙だらけだ。番犬がエーデルワイスの首を切り落とさんとする。
「危ない!」
アイネスはエーデルワイスのフードを掴んで彼女の体を後ろに引き倒した。エーデルワイスの悲鳴があがる。そしてアイネスは、いつのまにか突きの態勢をとっていた番犬と目を合わせた。
「あっ」
やられた。エーデルワイスの首を刎ねようとしたのは、アイネスがそれを阻止すると見越してのフェイントだったのだ。そうと気づいたときにはもう遅い。番犬の渾身の突きが放たれ、片刃の剣の切っ先がアイネスの喉笛に向かって迸った。避けられない!
アイネスは死を覚悟して凍りついた。
――しかし、アイネスには当たらない!
瞳を抜かれたような顔をした番犬が、腕をいっぱいに伸ばして突きを放ちきった姿勢のまま静止していた。アイネスは喘ぐように息を吸い、冷や汗をびっしょりと掻きながら、まだ呼吸ができることを不思議に思っていた。番犬の剣は、アイネスの首の横のなにもないところを貫いている。
「な、なぜだ!」
ボウディッカの狼狽した声があがった。
「今、なにが起こった! なぜ仕留められなかった、番犬!」
番犬が茫然としたまま、そろそろと剣を引いていく。アイネスは左手でそっと喉を撫でた。汗のぬめりと、喉仏のごつごつした手触りと、血潮が熱く脈打っているのを感じる。まだ生きている。
「前にもこんなことがあった」
アイネスは我知らずそう呟きながら、右手の剣をやけに重たく感じていた。聖剣クラウン。この剣にまつわる伝承がいやでも思い出される。
「オードが俺を殺そうとして、殺せたはずなのに、殺せなかったのだ。そして奴は運命の力が働いたのだと確信し、俺を運命に立ち向かわせるために魔剣に魂を売った」
無敵の王冠。
滑稽な道化。
信用できない語り部に気をつけろ――その警句は、聖剣の所有者とそれに挑む者と、いったいどちらに向けられたものなのか。
「俺には理解できない。したくもない。なぜ大兄さんは――」
「番犬! 止まるな、殺せ!」
アイネスの言葉に割り込んできたボウディッカの叫びで、番犬はようやく我に返ったらしかった。だが後ろに飛び退こうとした番犬を光りが追いかけ、その場に縫い止めた。
片膝をついたエーデルワイスが、番犬の脇腹に細身の剣を突き立てていた。
「グリンガルムの仇よ」
エーデルワイスがさらに力を込めて、細身の剣を番犬の腹にねじ込んだ。
「番犬!」
ボウディッカが悲鳴のような叫びをあげる。すると苦悶の表情をしていた番犬が、とつぜん激しく胴震いをした。その拍子にエーデルワイスの細身の剣が、脆くも儚い音を立てて折れる。そして番犬が咆哮をあげた。片刃の剣を早業で振り上げ、エーデルワイスの頭蓋に叩きつけようとする! それをさせじと、アイネスの繰り出した剣の切っ先が風切り音をあげて番犬の喉笛に迫る!
どすっという重たい音がした。
番犬が剣をぽとりと落として後ずさる。するとその喉に突き刺さっていたアイネスの剣が自然と抜けて、血しぶきが景気よく迸った。その体が仰向けに倒れていく。紫色の瞳が大きく見開かれ、最後の瞬間に夕空を仰いだに違いない彼は、体を地面に叩きつけられるとそれきり動かなくなった。
血の染みが音もなく大地に広がっていく。エーデルワイスは折れた剣を両手で握りしめたまま、荒い息をつきながら地面に座り込んで番犬の死体を呆然と眺めている。そしてアイネスは大きくため息をついた。
ボウディッカはしばらく立ちすくんでいたが、やがてふらふら歩いてくると、小腰を屈めて番犬の顔を覗き込んだ。見開かれたままの紫色の瞳は、もうなにも映していない。
「こいつが死んだら、私も百年目だ」
ボウディッカがうっそりと呟いた。アイネスがそれに深い頷きを返す。
「たしかに、おまえにそう云わせるだけのことはある。強かった。本当なら、俺じゃなかったんだ。生き残っていたのは」
その声にアイネスが内心の忸怩たるものを滲ませると、番犬の死顔を覗き込んでいたボウディッカがおもむろに顔をあげた。
「そうだ、おまえではない。あのとき勝負はついていた。喉笛を貫かれて地面に転がっていたのは、おまえのはずだった。私の番犬の勝ちだった」
ボウディッカはしだいしだいに声を高めて、ついに叫び声を放つ。
「それなのになにか不可解なことが起こって、運命の車輪が私の番犬を轢き殺したのだ!」
ボウディッカの目線が、つとアイネスが手にしている剣に吸い寄せられた。
「聖剣の所有者が物語を担い、運命の輪を回す……運命!」
呆然とした顔でそう呟いたボウディッカは、出し抜けに
「今、わかった」
不意に哄笑を止めたボウディッカが背筋をまっすぐに伸ばし、アイネスをエメラルドグリーンの瞳で見据えた。
「オードの忠告の意味も、オードがおまえから逃げるように去っていった理由も、あれほども強い男が魔剣に魂を売った心も、全部わかった」
そこでボウディッカは言葉をくぎり、大きく息を吸った。
「答えは、おまえが運命に守られているからだ!」
ボウディッカはこのように嘆くが、では運命とはなんであろうか? 筆者は物語であると即答する。そして物語の担い手たる主人公に死をもたらす要因を、ボウディッカの言葉を借りるなら運命の車輪で轢き殺すということは、他の語り部もこっそりやっていることなのだ。筆者はそれを大っぴらに断行することを企み、聖剣クラウンというガジェットを用意して、これを選ばれし者の手にしっかり握らせて、筆者の語りと作中の事象とに因果を結んだのである。されば筆者が登場人物たちに公平である義務はなくなった。筆者は正々堂々、胸を張って主人公に加担する。アイネスの敵を物語の車輪で粉砕する! アイネスの喉笛を貫くはずだった番犬の剣が外れたのも、まさに語りが事象を上回ったからなのだ!
「ああ、こんなのはずるい! 卑怯だ! 反則だ! 私の、私の番犬の方が強かったのに!」
ボウディッカはぽろぽろと涙をこぼした。それを
「いい気になるなよ。いずれオードがおまえを殺す。彼は運命への挑戦者なのだ」
アイネスはボウディッカが誤解をしていることに気づいた。オードだけではなく、オードとアイネスの二人が運命への挑戦者なのだ。だがそんなことよりも胸を突き刺すものがある。
「嬉しそうに云うんだな」
アイネスの声には失望の響きがあった。するとボウディッカは深い笑みを浮かべて両手をひろげ、丘の上から辺りに点綴するエルフだった若木の数々を見回した。
「運命に抗うのは人の性だと思わんか?」
「そうかもしれない。だがそのために関係のない命を殺していいのか」
オードはエルフを殺した。アイネスを駆り立てるためだけに殺した! アイネスは瞳を燃やし、怒りにはち切れんばかりになりながら、下草を踏んでボウディッカに迫る。
「おまえもだ、ボウディッカ」
ボウディッカがつと頭を動かしてアイネスに視線を据えた。そのままアイネスをつくづくと見つめた彼女は、とつぜん身を翻して駆けだした。アイネスがそれを追う。
ボウディッカが逃げ込んだのは竜神の祠の中だった。といってもそこは小さな空間で、逃げるところも身を隠す場所もない。
ボウディッカは竜神の像にすがりつくようにしていたが、アイネスが屋根の下に入っていくと観念したように振り返った。その喉元にアイネスが剣を突きつける。ボウディッカが云った。
「私を殺すのか?」
「そうだ」
ボウディッカの顔が痛烈に引き歪んだ。
「王国の未来を変えるため、ひいては民草のためだ!」
「だからといってエルフを虐殺するやつがあるか!」
アイネスはボウディッカと、その背後に佇む竜神の像をぎらぎらした目で睨みつけた。
「俺はおまえを許せん! ぶっ殺してやる!」
「私を殺しても誰も戻っては来ない! それどころか、王が死ねば少なからず混乱が生まれる! 戦争になるやもしれぬ! おまえのしたことがより多くの悲劇を生むぞ!」
「云い残すことはそれだけか!」
アイネスは剣を握る手に力を込めた。ボウディッカの顔に汗が伝う。
それでもボウディッカは活路を求めているようだった。エメラルドグリーンの瞳が右に左に機敏に動く。だが希望はないし、助けもこない。なによりボウディッカに剣を突きつけるアイネスが揺るがない。
やがてボウディッカは諦めたように肩の力を抜くと、左手をアイネスに見えるように差し上げ、その薬指を見せた。
「ベルギアには王冠がない。その代わりをなすのが、この指に嵌っている指輪だ。呪力がかかっていてな、一度嵌めると死ぬまで外れん」
「だから?」
「後継者を指名する」
ボウディッカの声はわずかに
「この指輪を、私の上から二番目の兄王子の長男に渡してくれ。まだ若いが、彼ならば信頼できる。私の死後に生じる混乱を、うまく取り纏めてくれるだろう」
そこでことばを切ったボウディッカは左手を垂らし、今にも揺れそうな瞳でアイネスを見た。隠していたいたずらを親に打ち明けるような、そんなまなざしだった。
「頼めるか?」
「承知した」
アイネスは剣を振り上げ、ボウディッカの喉首めがけて振り下ろした。女王の頭がぽとりと落ちる。竜神の像が朱に染まる。
剣を鞘に収めたアイネスは、指輪を懐に収めると、今さらのように痛み出した左手を右手でいたわりながらエーデルワイスのところに戻ってきた。エーデルワイスはまだ番犬の死体の傍に座り込んだままだ。アイネスがなんと声をかけたものか迷っていると、エーデルワイスの方がつと顔をあげた。
「みんな、みんな死んでしまったわ」
「エーデル、その、なんと云っていいか……」
番犬にやられた左手がずきずきと痛む。アイネスは左手をちらりと見た。その一瞬のあいだにエーデルワイスの形相が一変していた。アイネスを見る目に殺意がこもっている。
「人間のせいよ」
エーデルワイスがゆらりと立ち上がった。右手には細身の剣が握られている。折れているが思い切り突き刺せば人一人を殺すくらいのことはできそうだ。
「人間は敵だわ」
アイネスは一歩下がった。まるで熱い炎が迫ってくるようだ。
「落ち着け、エーデル」
「あなたは人間で、私の敵よ!」
エーデルワイスが体をぶつけてくる。アイネスは後ろに倒され、背中を地面にしたたか打ちつけた。そこへエーデルワイスが馬乗りになり、逆手に持ち替えた剣を振り上げる。
アイネスは抵抗しなかった。ただエーデルワイスの頬を伝う真珠のような涙を、綺麗だなと思ってじっと見ていた。ぬるい滴がアイネスの顔に落ちてくる。
エーデルワイスは剣を取り落とし、手で口元を覆って咽び泣いた。だがアイネスが手を伸ばそうとすると、その手を痛烈に弾いてアイネスの上から体をどかした。
むくりと身を起こしたアイネスは、エーデルワイスの、金髪が滝のようにかかる華奢な背中を見つめた。嗚咽混じりの声がしぼりだされる。
「どこかへ行って。二度と私の前に現れないで」
アイネスは声をかけようとして出来なかった。肩に触れることもできない。エルフと人間のあいだの、深い断絶を感じる。
アイネスは残念そうな顔をして立ち上がると、怯える小鳥のように固まって動かないエーデルワイスに視線をあてた。
「さよなら、エーデル」
「人間なんか大嫌い……」
アイネスはひとつ頷くと、踵を返してゆっくりと丘を下り始めた。
このあとアイネスは夜通し歩いてベルンに戻り、然るべき人物に指輪を渡したのち、旅の荷物を調えて、オードが向かったというロマーナ瑞雲国へと旅立つのである。
しかしアイネスはロマーナでオードを捕まえることができなかった。次の国でも、その次の国でも駄目だった。アイネスのオードを追う旅は、生涯をかけたものになるのである。
ヒストリア川に沿って旅をし、流れ流れて、いつか海にぶつかる日まで。
アイネスは三十年後にオードと戦って死ぬ。
その人生の一幕を切り取ったエルフと人間の物語は、実はまだあとひとつのエピソードを残している。それを語って、読者諸賢とお別れすることにしよう。
それではみなさん、フィナーレです!
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