七 対面
七 対面
明け離れつつある空の下、アイネスは澄んだ空気の匂いを嗅ぎながら、宿屋の前に停まった二頭立ての馬車を見た。馬車の広々とした荷台には大きな木箱が四つ積まれている。
エーデルワイスが荷台に跳び乗り、箱の蓋を「重たい」とぼやきながら開けて、硬そうな緑色の実を手に取った。アイネスはそれを見て、御者台から降りてきたパリスに訊ねた。
「あれは?」
「カボの実ってんだ。知らないのか? 煮て食うと美味いんだぞ」
「結構重いわ」
エーデルワイスはカボの実を手のなかで転がしたあと、箱のなかに戻し、箱の蓋をまた重そうに動かして閉めた。それを尻目に、アイネスはパリスとの会話を続けている。
「箱は全部カボの実なのか?」
「ああ、ただし一箱は空だ。そのなかに角耳のお嬢さんとあんたの武具を隠す」
「ばれないだろうな」
「まあ任せておきなよ」
パリスは自信に満ちた笑みを浮かべて片目を瞑った。
アイネスは荷台に上がり、エーデルワイスとともに空だという箱のなかを覗き込んだ。膝を抱えて座れば、なるほど人が入れそうである。
「これは?」
エーデルワイスが箱のなかに手を伸ばして丸められた白い衣類を取り出した。広げてみると、どうやら一着のコートらしい。胸のところに赤い糸で竜王国の紋章が刺繍されている。
「城に入ったら、あんたにはこいつを羽織ってもらう」
「どうやって手に入れた?」
「ちょっとした
「コートだけで変装になるか?」
「竜王国の正規兵には傭兵上がりが多い。多少毛色が違う程度で怪しまれたりはしない」
「なるほど」
納得したアイネスはコートや剣や鎧を次々に箱のなかへと放り込んだ。短剣は懐に隠す。エーデルワイスはというと、箱の中をねめつけて眉間に不愉快そうな皺を刻んでいた。
「あなたたち」
「閉じ込めたりしない」
アイネスが機先を制してそう云うと、エーデルワイスは鼻先で嘆いた。
「いいわよ。自分で協力するって決めたんだから」
エーデルワイスは身軽に箱の縁を跨ぎ越し、長弓を斜めにしてどうにか箱のなかに収めると、膝を抱えて座った。それからアイネスに上目で尖った視線をあてる。
「裏切ったら殺してやるから」
「おまえこそ大人しくしていろよ」
アイネスはエーデルワイスが重たいとぼやいていた木箱の蓋を、楽々と持ち上げた。その蓋が閉まる直前まで、エーデルワイスはアイネスを睨み続けていた。アイネスもまたその視線を受け止め続けた。そして蓋が閉まる。
「これで静かになったな」
ははは、と快活に笑ったパリスは、不意に笑顔を消して御者台にのぼった。アイネスはエーデルワイスが潜む木箱の蓋の角を指で撫でると、御者台のパリスの隣に並んで座った。
パリスがにやりと笑って云う。
「しかし今朝は冷えるね」
「ああ」
「じゃあ行こうか」
パリスが馬の尻に鞭をくれると、馬が不満そうにいななき、車輪が石畳を噛んで回り出した。がたぴしする荷馬車はときどき大きく揺れながら、広い道をゆっくり進んでいく。街の中心部に近づくにつれて道は殷賑を極めていった。買い物籠を持った人、店を開けて商売を始める人、小遣いを握りしめたこどもたちが、十重二十重にすれ違う。
遠くで教会の鐘が鳴った。澄んだ音色が朝空を伝わって街中に広がっていく。パリスがなにか云った。だが荷馬車の立てる音がうるさくて聞き取れない。
「なんだって?」
アイネスが大きな声を浴びせると、パリスも顔を横向けてアイネスの耳に叫んできた。
「市場での取引が始まる合図だ。この鐘が鳴ると、王宮にある十六の門のうち、御用達の商人が使う門が開かれる」
そのとき車輪が小石でも噛んだのか、荷馬車が大きくゆれて、アイネスは尻に突き上げるような衝撃を感じた。この分だと、箱のなかにいるエーデルワイスは騒音と震動とで苛立ちを高めていそうである。
「門の位置がこっちと反対側だから、三十分くらいかかるぞ」
アイネスは了承のしるしに頷きながら、怒り狂ったエーデルワイスが箱から飛び出して来ないことを祈った。
実際には三十分どころか一時間かかった。人垣に行く手を阻まれたり、花を満載した荷車が横倒しになってしまってその手伝いをしたり、泥棒騒ぎがあったりしたからである。
そうしてやっと辿り着いた王宮の門からは、いくつもの荷馬車や大きな袋を背負った商人たちがひっきりなしに出入りしていた。
「この時間は特に忙しい。御用達の商人たちが朝一番で一斉にやってくるからだ。だから自然と荷物の検査も雑になる。それに出入りの商人はみんな素性が明らかだからな」
「おまえは?」
「俺はベルンに大店を構えるアダマース商会の一員ということになってる」
「なるほど」
アイネスは点頭しながらも、パリスの正体に対してまたひとつ疑念を深めるのだった。
やがてパリスの荷馬車が門をくぐる番がやってきた。荷馬車についた兵士が御者台のパリスを見て、兜の下の目を軽く見開く。
「なんだウィッツじゃないか」
「よお、ご無沙汰」
ウィッツと呼ばれたパリスが気さくな笑みを浮かべて手をあげた。兵士は次にアイネスを見た。
「そっちは?」
「俺の相棒。というより、子分だな。うちの商会の新入りなんだ」
アイネスは曖昧な笑みを顔に貼り付けたまま黙っていた。
「そうかい」
兵士は大して興味を覚えた様子もなく、荷台の荷物へと視線を転じる。
「何を持ってきた?」
「カボの実だ」
「これ全部か?」
「そういう発注があったんだよ」
「へえ」
兵士は左手で肉のついた顎を撫でると、ふんと鼻を鳴らした。
「そうか。もう行っていいぞ」
「あいよ」
パリスが馬に鞭をくれると、荷馬車が音を立てて動き出した。しばらくしてアイネスがおもむろに口を開く。
「ウィッツって誰だ?」
「俺は名前が多い男なんだ」
パリスは片目を瞑って微笑を浮かべると、素知らぬ顔で前を向き、手綱をさばいた。本当に、いったいこの男は何者なのか。
ともかく荷馬車は王宮の門をくぐり抜けた。そして朝日に照らされた灰色の王宮が見えた。ずんぐりとして四角い、要塞みたいな城だ。尖塔が三つ蒼穹に聳え、灰色の壁に囲まれている。外壁と内壁の二重構造なのだ。
「商人が出入りできるのは内壁の前までだ」
「ふむ」
外壁と内壁のあいだの広場を、アイネスたちを乗せた荷馬車がゆっくりと進んでいく。辺りには商人と官吏が話をしていたり、荷馬車の荷台から人夫が荷物を運び出したりする光景が散見された。人夫はみな揃いの制服を着た屈強な男たちである。その物腰から本職は宮仕えの兵士なのだと察せられた。
パリスは馬車をたくみに操り、官吏が近づいてこようとするのを、他の荷馬車の陰に入ったりして自然に避けて、内壁の近くまでやってきた。ここまで近づくと王宮の威容は壁に遮られて見えなくなり、僅かに塔の先端が垣間見えるばかりである。
「この壁の入り口は?」
「壁沿いにぐるっと回っていったところに一つある。もちろん見張りの兵士つきだ」
「他の入り口はないのか?」
「そりゃ秘密の抜け道くらいあるんだろうが、俺は知らん」
「ならばどうやって入る?」
「そのための手土産だろう。口実は立つんだから、あとはあんたが上手くやってくれ。下手を打っても、俺を巻き込んでくれるなよ?」
パリスが手綱を引き絞り、荷馬車が軋んだ音を立てて止まった。アイネスとパリスは素早く荷台に移り、人に見られても怪しまれないよう、むしろ堂々とした振る舞いでエーデルワイスの入っている箱の蓋を開けた。
箱のなかを覗き込んだアイネスは、瞋恚を燃え立たせて爛々と輝くエメラルドグリーンの双眸と目を合わせた。エーデルワイスの美しい唇から呪詛の言葉が溢れ出してくる。
「暗いし狭いし窮屈で体の節々が痛むし揺れるしうるさいしお尻が痛いし――」
「エーデル」
ことさら優しく語りかけたアイネスの鼻先に、長剣の鞘の先がつきつけられた。アイネスはそれを受け取ると地面に飛び降り、荷馬車と内壁のあいだに隠れるようにして剣や鎧を身につけていく。さらに兵士の白いコートも羽織った。箱から飛び出してきたエーデルワイスは、アイネスの傍で腕や足を曲げたり伸ばしたりしている。
「ほらよ」
出し抜けにパリスが荷台の上から縄を放ってよこした。
「なんだ?」
縄を受け取ったアイネスはそれを両手で広げながら不思議そうに小首を傾げた。
「角耳族を捕まえたってことにするんだろ? なら腕くらい縛り上げとかないとな」
エーデルワイスが視線でアイネスに噛みついた。が、すぐに諦めたような嘆息を漏らして項垂れた。
「緩めに結ぶ」
「きつくていいわよ」
エーデルワイスがアイネスに背中を向けて手を後ろに回してきた。
「信用してくれるのか?」
「違うわ。協力すると云った以上、最後まで自分の言葉に責任を持ちたいだけよ。裏切ったら殺してやるから」
「その台詞、もう何度も聞いた気がする」
エーデルワイスが上半身を軽く揺り動かした。アイネスは催促されている気がして、手早くエーデルワイスの手を縛り上げた。腕に力を込めて最後の結び目をつくる。エーデルワイスの喉から小さな呻き声が漏れた。
「いくらなんでもきつすぎない?」
その声を打ち消すように、パリスの囁き声が荷台の上から飛んできた。
「おい、頭さげてじっとしてろ」
アイネスとエーデルワイスは二人打ち揃って荷馬車の陰にしゃがみこんだ。ぱたぱたとした足音がこちらに近づいてくる。
「なんでこんなところに駐めるんですか」
不満そうな少年の声だった。
「悪い悪い。馬がちょっとつむじを曲げたらしくてね」
「まったくもう。注文書、見せて下さい」
「ああ」
パリスがなにかごそごそと物音を立てる。アイネスたちは顔を出すわけにはいかないのだが、荷馬車の下から二本の足が見えた。広場に運び込まれた荷物を取り仕切る官吏の一人だろう。
「はい、アダマース商会のウィッツさん。荷はカボの実が三箱……四箱ありますよ?」
「一つは空さ」
「そうですか。まあいいです」
さらさらと何かを書き付ける音がする。
「じゃあこれ。なくさずに商会にお持ち帰りください。期日になったら代金が支払われますから」
「ああ、わかってるよ。初めてじゃないんだ」
荷馬車の下から覗き見るアイネスの視線の先で、官吏の足が反対側を向いた。
「おおい!」
人夫を呼ぶ気なのに違いない。荷台に上がられたら見つかってしまう。
「ああ、待ってくれ」
パリスが官吏を今いちど振り向かせた。
「なんとか馬に云うこと聞かせて、馬車を移すよ。こんなところからじゃ遠いだろ? 運ぶ人も大変だ」
「それもそうですね、じゃあ手早くお願いします」
「よしきた。御者台に乗ってくれ、可愛い官吏さん」
「よしてください。僕はもう十九です」
同い年だ、とアイネスは思った。少年官吏の二本の足が御者台にあがる。と、アイネスたちの隠れている側に、パリスの右腕が差し出された。親指が立てられる。
ほどなくして、けたたましい音をあげながら荷馬車が動き出した。アイネスは左手で長弓を拾い、右手でエーデルワイスの腕をとって立たせると、いささか乱暴に背中を押した。
「行くぞ、歩け」
「見つかるわ」
「わざわざ追いかけてくる奴はいない」
アイネスたちは広場の内壁に沿って足早に進んだ。パリスによると、このまま進めば城内へ通じる入り口に辿り着けるらしい。だがそこにいる歩哨をどうするか、アイネスが上手い手立てを思いつけないでいると、前を歩くエーデルワイスが肩越しに横顔を見せた。
「いつかあなたを逆に縛り上げてやるわ」
「どういう状況で?」
「わからないけど、とにかくやるのよ」
「そうか。そこ右だ。曲がれ」
アイネスたちは内壁の角を曲がった。と、先に立つエーデルワイスが体を強張らせた。
「止まるな」
そう耳打ちしつつエーデルワイスの体を押したアイネスは、前方に一人の兵士の姿を見た。大柄な男で右手に槍を持ち、兜をかぶっている。向こうもこちらに気づいたようだ。
「おい、貴様!」
そう大声を張り上げたのは、兵士ではなくアイネスだった。
「こっちへ来い!」
アイネスに呼びつけられた兵士は左右をきょろきょろと見回している。アイネスはその場でがつんと地面を蹴った。
「貴様だ、貴様! 早くしないか!」
すると兵士は飛び上がって一目散に走り出した。エーデルワイスが恐れたように一歩後退し、アイネスの胸に
「ちょっとアイネス」
「いいから俺に任せておまえは黙っていろ」
エーデルワイスはうつむいて静かになった。必死に息を落ち着けようとしているのがわかる。やがて駆け寄ってきた兵士は、アイネスを見下ろして小首を傾げた。若くて大柄だが、どこか
「ええと、あなたさまは……」
「なにぃ?」
アイネスは露骨に顔をしかめて兵士を睨みつけた。
「貴様ぁ、まさか俺の顔を知らんのか!」
「も、申し訳ありません!」
「この城で何年働いてる!」
「まだ二年目であります!」
「新米だな。それなら仕方ない。いいか、俺はアイネスだ。よく覚えておけ」
「はい!」
「それで女王陛下は今どちらに?」
「陛下でございますか?」
「火急の用があるのだ、さっさと申せ!」
「は、はい! 陛下でしたら今は青の広間におられます! なんでも地質学者のフォブルという方がいらして――」
「ご託はいい、案内しろ」
「はっ!」
兵士は回れ右をすると、きびきびとした所作で歩き出した。大柄で歩幅があるから、アイネスたちは置いて行かれないよう、ときどき小走りになりながらついていった。
「どういう魔術を使ったのよ」
エーデルワイスが小声をよこした。アイネスはその耳元に口を寄せ、フード越しに囁く。
「こそこそしているから怪しまれる。堂々としていれば、なんとかなるもんだ」
そのとき大柄な兵士が歩きながら肩越しにアイネスたちを振り返った。
「あのう」
「なんだ?」
アイネスは動揺をおくびにも出さずにきっと兵士を見返した。しかし兵士の視線はエーデルワイスに注がれている。
「最初から気になっていたのですが、そちらは? 見たところ縛られているようですが」
「女王陛下にとって重要な客人だ。気になるなら教えてやってもいいが、口の堅さに自信がないならやめておけ。陛下の番犬に噛みつかれることになる」
「ば、番犬……」
兵士の顔に怯えのようなものが過ぎった。それを見て、アイネスはわざと意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうだ、聞きたいか?」
「いいえ、遠慮しておきます」
兵士は勢いよく前に向き直ると、先ほどよりも速度をあげて歩き出した。
やがて内壁から王宮内部に続く、縦に細長い扉が見えてきた。扉の両脇には兵士が立っていたが、本物の兵士を先頭に立てている上、アイネスも兵士の服を着ていたので、特に怪しまれることもなく通り抜けられた。
王宮の内部に入ると、空気が冷たく淀んだものに変わった。ひとつひとつの窓が小さくて、廊下は薄暗く、柱は無骨な四角柱だ。外観を目にしたときから感じていたのだが、宮殿というより砦のようである。
やがてたどり着いた扉の前に、他とは少し雰囲気の違う兵士が立っていた。まず目つきが違う。アイネスたちをここまで先導してきた男とは比べものにならないほど鋭く、油断を感じさせない。そして兜の形が違った。頭頂部に羽根飾りがついているのだ。これはこの兵士が特別な地位にあることを示している。まずいな、と思っているうちに扉の前まで来てしまった。大柄な兵士が羽根付き兜の兵士に敬礼する。
「お疲れ様です、リドワード様。女王陛下にお目通り願いたく、まかり越しました」
リドワードと呼ばれたいかつい顔の男は、三白眼でアイネスを睨みつけてきた。
「そいつらは?」
「アイネス様です。ご存じでしょう?」
「いいや、知らんな」
「問答無用」
アイネスが二人のあいだに声をねじ込ませる。
「女王陛下に火急の用だ。通してもらうぞ」
「待て」
リドワードが持っていた槍の石突きで床を叩いた。目の醒めるような戛然とした音がする。大柄の兵士がはっとしてアイネスたちから距離をとった。アイネスはリドワードの面構えを、そこに漲る頑迷な兵士の性を見て取り、これは剣に訴えないと埒が明かないのではないかと思い始めていた。リドワードが角張った顎を動かしてがらがら声で云う。
「俺が取り次いでくる。所属と用件を云え」
「所属……」
「それからそいつのフードを取って貰おうか」
俯いていたエーデルワイスがびくりと震えた。アイネスはリドワードに視線を据えたまま低い声を発した。
「見れば後悔する」
「そいつは俺が判断することだ」
リドワードのごつごつした手がエーデルワイスに伸ばされた。アイネスは咄嗟に長弓を投げ捨てると、左手でリドワードの太い手首を掴んで止めた。するとリドワードのもう片方の手に握られた槍の穂先がすばやくアイネスの脇腹に据えられた。
「おまえは、どこの何者だ?」
アイネスは剣の柄を意識して右手をそろそろと動かしながら不敵に笑んだ。
「俺はアイネス。女王陛下の――」
このときアイネスはもはや剣に物を云わせることしか考えていなかった。なんといっても女王は扉一枚隔てた向こう側にいるのである。二人の兵士をどうにかして倒してしまえばこっちのものだ、というのがアイネスの算段であった。
しかし。
軋む扉の音を先触れとして、気品のある声がアイネスの耳朶を打った。
「騒々しいぞ」
部屋の内側に開かれた扉の向こうに一人の少女が立っている。いや、少女というには、あまりにも大人びて見えた。それは化粧のためか、それとも表情のせいか。
「陛下」
高く伸び上がった声を出したリドワードが肩越しに振り返りかけるが、すぐさまアイネスに油断のない視線を戻した。
「いけません、お下がりください」
「女王に命令するでない。そこをどけ」
威厳に溢れた声でそう云った彼女は、その眼差しをアイネスに据えた。奇しくもエーデルワイスと同じ、エメラルドグリーンの瞳である。ただし似通っているのはそれだけで、肩口で切り揃えた髪は赤く、肌は赤銅色であった。唇には紅を差し、瞼には金粉を混ぜた紫色の墨を塗っている。前身頃に宝石をちりばめた珊瑚色のドレス姿で、髪飾りや首飾り、金や銀の腕環で自らを飾っていた。これがベルギア竜王国の若き女王ボウディッカなのだ。
リドワードが苦虫をかみつぶしたような顔をしながらもアイネスとボウディッカのあいだから体をどける。ただし槍の穂先は依然としてアイネスに向けられていた。
それを無視して、アイネスは右腕を、そこに嵌められた腕輪を、ことさらボウディッカに見せつけるようにした。
「陛下、アイネスです。オードの弟の」
「オードの?」
ボウディッカの顔に軽い驚きが過ぎる。彼女の目がアイネスの顔と腕輪を行き来した。腕輪はオードと揃いのものである。吉と出るか凶と出るか、アイネスが内心で緊張を高めていると、不意にボウディッカの唇から笑い声が溢れてきた。
「ふ、ふふふ。ふははははっ」
ボウディッカはひとしきり哄笑を放つと、小首を傾げて艶然と嗤ってみせた。
「そうか、そうか、おまえが。してアイネス、私に何用あってここまで来た?」
「それを申し上げる前に、どうかお人払いを」
「女王の時間を奪おうというのだな?」
「それに値する手土産は持ってきております」
アイネスはエーデルワイスの肩を上から押してその場に両膝をつかせた。
「陛下は森で暮らす民を所望していると聞きましたので、一人捕まえて参りました」
「見せよ」
「よろしいのですか?」
アイネスはリドワードや名も知らぬ大柄な兵士を見回して云った。
「構わぬ」
ボウディッカがそう断じた。アイネスはエーデルワイスのフードを一息に剥いだ。あっ、と大きな声を上げたのは無名の兵士だけで、ボウディッカもリドワードも冷静にエーデルワイスを見下ろしていた。やがてボウディッカが朱唇をひらく。
「よかろう、入れ」
「陛下!」
リドワードのあげた野太い声に、大柄な兵士の方が身をすくめた。しかし当のボウディッカは優越を絵に描いたような笑みを浮かべている。
「案ずるな。このアイネスはたしかに私の知己だ」
「到底、信じられませんな」
「そして私の傍には番犬がいる」
「だとしても危険です」
「くどいぞ、リドワード。私に命令するな。おまえはここに立っておれ」
リドワードが奥歯を噛みしめたのが、頬の肉の動きでわかった。アイネスは膝をつかせていたエーデルワイスを立たせると、投げ捨ててあった長弓を拾い、リドワードの針のような視線を浴びながらボウディッカのあとに続いて部屋に入った。
そこは青の広間というだけあって、調度品のたぐいはもちろん、壁紙やカーテン、炉棚などが青色で統一されていた。向こうの壁にはテラスに続くガラスの扉が並んでおり、部屋は光りに満ち溢れている。広間の真ん中におかれた大テーブルの傍には一人の学者風の男が立っており、小さな目でアイネスたちを興味深そうに眺めていた。その男にボウディッカが近づいていく。
「フォブル殿、私はこちらのお客人の相手をしなくてはならん。すまないが講釈はここらで終わりにしてもらえるかな?」
「そうですか。いや、わたくしこそ女王陛下の貴重な時間を奪いすぎたようだ。いえ、お気になさらず。わたくしはこれで失礼させていただきますよ」
フォブルはボウディッカに深々と一礼し、アイネスにも目で挨拶をして部屋を出て行った。
扉が閉まると、ふう、とボウディッカがため息をついた。左手で頭を掻きながら、ドレスの裾をさばいて一際豪華な椅子に向かっていく。
「実はちょっと困っていたのだ。フォブル殿は悪い方ではないのだが話が長くてな。特に鉱物学や鉱床学の話になると止まらん。いいところへ来てくれた」
陽光に満ちたガラス戸を背景に、椅子に端然と腰掛けたボウディッカは、テーブル越しに愉快げな視線を投げかけてきた。
「まさかこんな昼間に堂々と乗り込んでくるとはな。さすがに驚いたぞ」
「女王ボウディッカ。おまえに訊きたいことがある」
「オードの行方か? 教えてやってもいいが、その前に角耳の娘をこちらにもらおう」
「エルフをさらってどうする?」
「それはおまえには関係のないこと」
「みんなをどこへやったの!」
エーデルワイスが噛みつくように叫んだ。しかしボウディッカは涼しげな目をして、肩越しにカーテンの方を振り返った。
「出ておいで、番犬」
足音もなく、灰色の髪をした黒革の服の男がカーテンの陰から姿をみせた。番犬だ。
「陛下」と、番犬は透明感に溢れた声を控えめに発した。
「その男はそちらの角耳を守るために戦いました。陛下に角耳を差し出す気など端からありません」
「知っている。前におまえの口から聞いた」
「ではなぜ部屋に入れたのですか」
「フォブル殿を追い払ういい口実になるではないか」
「ばれてるじゃない」
エーデルワイスが囁き声でありながら癇癪を起こしたように叫ぶ。逆にアイネスは笑い出したくなった。
「そういえばそうだったな。こいつが女王に報告してるんじゃ、俺がエルフを手土産に連れてきたなんて云っても信じてもらえまい」
アイネスはエーデルワイスを戒めている縄を、短剣ですばやく断ち切った。エーデルワイスが手首を痛そうにさする。ボウディッカがくつくつと笑った。
「そんな間抜けっぷりでよくここまで来られたものだ」
「意外となんとかなるもんだ」
兵士のコートを脱ぎ捨てていつもの鎧姿をあらわにしたアイネスは、エーデルワイスに長弓を返しながら、注意深く番犬の挙動を伺っていた。今のところ番犬が向かってくる気配はない。
「なあ、アイネス。純粋に不思議なのだが、なぜ人間のおまえが角耳の味方をする?」
「エルフとか人間とか関係ない。困っている奴がいれば助けるさ」
「酔狂な奴だ」
ボウディッカは唇を薄くのばして微笑み、腕環に飾られた華奢な腕を優雅に曲げた。
「オードだがな」
アイネスは自然と前のめりになった。ボウディッカがくすりとわらう。
「実はもう、この国にはいない」
「いない?」
がつんと頭を殴られたような衝撃だった。
「本当につい先日のことだ。東の国境を越えてロマーナへと発っていった」
「ロマーナ」
ヒストリア川が流れ込んでいく国だ。アイネスはまだ一度も足を踏み入れたことがなく、地図上でその名前を確認したのみでよくは知らない。
ボウディッカが深々とため息をついた。
「私としても残念なことだ。あれほどの大剣士はそうはいない。そこな角耳族の里をうまうまと陥落せしめたのも、あやつの力添えがあればこそ。まだ森にある他の角耳族の集落を襲う際にも先頭に立ってもらい、ゆくゆくは我が軍の将として遇しようと思っていた」
「他の里まで襲うですって?」
気色ばんだエーデルワイスが鋭い声をあげたが、ボウディッカはそれには反応せず、両手を膝の上に揃えてアイネスをひたと見つめてきた。
「それより、ひとつ気になることがある」
アイネスは目顔で先を促した。
「私はあの日、番犬を森にやって、次に襲う里の下見や、前に襲った里の残党狩りを行わせていた。そこで私の番犬はおまえと鉢合わせしたわけだが、番犬からその話を聞いたオードは、まるで逃げるようにここを出て行ったのだ。あれほどの男がだぞ? おかしいとは思わぬか?」
アイネスは黙って拳を握りしめた。
「それだけではない。オードは去り際にこんな忠告を残していった。アイネスとは事を構えるな、絶対に勝てないから、とな。私がおまえほどの男でも勝てぬのかと尋ねると、オードはいかにも勝てぬと答えた。ヒストリア川の流れの尽きるところ、大河の果て、つまり海でのみ、唯一の勝機があるのだと。アイネスが奇跡を起こさぬ限り、海においては俺が勝つのだと。そしてその奇跡を期待しながら、俺は持てる力の限りを尽くして海でおまえを葬ってみせることを、アイネスに伝えてくれ。もしかしたら俺の見込み違いで、運命は最後までおまえに味方し続けるかもしれないのだから。いずれにせよ、俺たちの戦いは海でのみ行われるのだ。俺もおまえも川の流れに導かれて旅をする。ならば人生の終着を、決戦の舞台としよう。と、このようなおまえ宛の言伝を私に残して、オードは去った」
しんとした静寂が訪れた。ボウディッカだけでなく、番犬やエーデルワイスの視線までもがアイネスに注がれる。
「わけがわからない。この場で勝てぬのに、ヒストリア川の終わるところでなら勝機があるとは、どういう意味だ? いや、そもそも、おまえはそれほどまでに強いのか」
「いや」アイネスは即座に否定せねばならない自分を不甲斐なく思いながら、悔しげな視線を番犬にあてた。
「俺の腕では、恐らくそこの番犬にも勝てないだろう」
「ならばなぜ」
ボウディッカが椅子から腰を浮かせた。
「おまえにいったい、なにがある?」
アイネスはきっぱりと首を打ち振り、腰に佩いた剣の柄に手をかぶせた。
「俺にはなにもない。あるとしたらこの剣だ」
「それは?」
「我が師は臨終に際して四人の弟子にそれぞれ遺産を残した。俺に与えられたのはこの剣だ。剣の名は、聖剣クラウン。……とはいえ、聖剣とは名ばかりで、この剣にはなんの力もない。ないはずだ。俺は信じてない。だがオードはこの剣にまつわる伝承を真に受けた。そして運命の存在を信じて、あんな馬鹿なことを始めたんだ!」
「どんな伝承なの?」
エーデルワイスが横からそう尋ねてきた。アイネスは一瞬口ごもったが、彼女の瞳に促されるまま告白した。
「聖剣の所有者が物語を担い、運命の輪を回す」
「それだけ?」
「いや……」
アイネスは少し迷ってから、続きを口にした。
「無敵の
アイネスはエーデルワイスからボウディッカに視線を戻した。
ボウディッカは椅子に座り直すと、難しげな顔をして口を切った。
「正直なところ、私も私の番犬がおまえに負けるとは思っていない。とはいえオードの忠告も気にかかる。できればおまえと争いたくない。だがそこの角耳の娘を置いて、オードを追っていく気はなさそうだな」
「ああ、ないな」
「別に私のことなら気にしなくていいのよ。ここから先は自分でやるわ」
むきになったようにそう喋るエーデルワイスを無視して、アイネスはボウディッカを真正面からねめつけた。
「俺はさらわれたエルフたちを取り戻す」
青空のように澄み切った声だった。それを聞いたボウディッカの唇が咲きほころび、「あはははは!」と、嬉しげな笑い声がこぼれだす。まるでボウディッカ自身が光りを放ったようだ。
「なにがおかしい」
「いや、すまん。笑うつもりはなかったのだが」
ボウディッカは目尻に浮いた涙を指尖で払い、アイネスに幾分親しみの籠もった視線をあてた。
「その人柄が気に入った」
ボウディッカはテーブルに頬杖をつき、頬の肉を可愛らしく盛り上がらせた。
「なあアイネス。この際だ、おまえ私の仲間にならないか? これに応じてくれたら、角耳族たちの行方を教えてやってもいい」
「断る」
「つれないじゃないか。こちらにも色々と事情があるのだ」
「そんなものは誰にだってある」
「話を聞いてくれ」
そのとき初めて女王ボウディッカの顔から威厳というものが抜け落ちた。そこには化粧ではごかましきれない、少女のいとけなさがある。アイネスはふと女王が十六歳であることを思い出した。今まですっかり忘れていたが、彼女は自分より歳下なのだ。
「なぜ俺なんだ?」
アイネスはボウディッカの斜め後ろに立つ番犬を見つめた。
「おまえにはその番犬とか、さっきのリドワードとか、部下が大勢いるだろう」
「リドワードは兄上の命令で私を見張っているにすぎん。私に九人の兄がいるということは知っているか?」
「ああ。だが国を混乱させないため、一致団結したのではないのか?」
「違うな」
ボウディッカは頬杖をやめて居住まいを正した。エメラルドの瞳が陰りを帯びる。
「ここだけの話、兄上たちは九人で結託してひとまず私を女王につけたのだ。仮の王を立てて国の安定を図った上で、誰が本当の王になるのかの暗闘を始めたのだよ。私は兄上たちの継承争いに決着がつくまでのつなぎに過ぎん。そのときが来れば、用済みになった私は殺されて指輪を奪われるだろう。私の手駒は番犬一人。阻止することは難しい」
そこでボウディッカは儚げな乙女から夜叉へと変わったようだった。
「だが私もむざむざと殺されるつもりはない。云っておくが権力の椅子がほしいのではないぞ? ただあの欲惚けた兄上たちに国を任せては民が哀れだからだ」
「民のためだと?」
「そうだ。私は女王だからな、民に報いるために動いている。角耳族たちをさらったのも民のためだ」
「どういう意味よ」
エーデルワイスが鋭い声を投げたが、ボウディッカはそれを無視してアイネスにだけ語りかけた。
「味方がほしいのだよ、アイネス。切実に。オードは私の味方になってはくれなかった。だが入れ替わるようにおまえが来た」
「そして俺をオードの代わりにエルフの里へと差し向けるのか」
「角耳族の里の襲撃を諦めたら、味方になってくれるのか?」
「俺はオードの追跡を諦めるわけにはいかない。だがエルフたちを森に返し、二度とこのようなことをしないと誓うのなら、しばらくこの国に留まっておまえを守ってもいい」
「ふむ」
そこでボウディッカはことばを切り、右手を顎にあてて考え込む所作をした。
「角耳族を森に返せばいいのだな?」
「そうだ」
「わかった」
ボウディッカは不思議と穏やかな、優しげな顔つきになって微笑んだ。
「云う通りにしよう。ただし奴らを森まで運ぶのは、おまえたちで引き受けてくれよ」
「もちろん」
ひとつ頷いたアイネスは、ボウディッカからエーデルワイスへと視線を転じた。エーデルワイスはどこか釈然としない顔つきでアイネスたちを見つめている。
「エーデル」
そう呼びかけると、エーデルワイスはため息をついて諦めたように項垂れた。
「私の里にしたことは許せないけど、でも、みんなが戻ってくるなら……」
「いいんだな?」
「ええ」
「よし」
アイネスはボウディッカに顔を戻した。
「で、エルフたちは今どこにいる?」
「鉄の丘だ」
女王ボウディッカは卓に両肘をつき、組んだ手で口元を隠しながら硬い声音で云った。
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