六 パリス
六 パリス
昼下がり、アイネスとエーデルワイスはふたたび金蘭亭を訪れていた。赤毛をした給仕の娘がアイネスの顔を見るなり「あら、いらっしゃい」と、昨日の不躾にもかかわらず、気のいい微笑みを投げかけてくれる。
「パリスさんだったら来てるわよ」
「本当か」
アイネスは顔を輝かせて一歩を踏み出した。そこを後ろからエーデルワイスに押されて転びそうになる。給仕の娘がくすくす
「ほら、あそこ」
アイネスが視線を投げた先で、長い脚をもてあましたように組んでいる狐顔の男が手を振ってきた。前に会ったときと同じ、金茶色の豊かな髪を油で撫でつけている。
「あれがパリスだ」
アイネスはエーデルワイスにそう囁いてから、大股で歩いていった。パリスの方が先に声をかけてきた。
「よお、無事だったかい」
「おかげさまでな」
アイネスはパリスの向かいの席にどっかと腰を下ろした。その後ろに立ったエーデルワイスを見て、パリスの目が鋭さを帯びた。
「そっちは?」
「森で会った」
「森で? てことは、まさか」
パリスが目を瞠り、口をぽかんと開けた。アイネスはこの男から飄然とした印象を受けていたから、こうした間抜け面を拝めるのが愉しくて喉の奥でくつくつ笑った。
「お察しの通りだ」
「連れ去られた私の仲間について、知ってることを洗いざらい話してもらうわよ」
エーデルワイスが底冷えのするような声色を使った。パリスは真面目な顔に戻ると、おもむろに腰を上げ、別の客へ料理を運んでいる給仕の娘に顔を向けた。
「ティカちゃん、ちょっと奥の部屋借りるね」
「注文は?」
「用があったらこっちから呼ぶよ」
それからパリスは店の奥の扉を指さした。
「場所を変えよう」
その部屋は土間ではなく寄せ木張りの床を持っていた。大きな窓からの光りが、部屋の中央に据えられた上等な食卓を照らしている。
「ここは上客や得意客をもてなすための個室さ。俺もしばしば世話になってる」
アイネスとパリスは差し向かいに座った。エーデルワイスは部屋の入り口近くの壁に身を預けて、パリスに鋭い視線をあてている。と、パリスが口元に笑みを浮かべた。
「角耳族だって証拠を見せてくれよ」
「私たちはエルフって云うんだけど」
エーデルワイスは不機嫌に云いながらフードを後ろに落とした。金の髪が溢れ、尖った耳とたぐいまれなる美貌が現れた。
「こいつは驚いた」
台詞とは裏腹にパリスは全然驚いた様子がない。椅子にもたれて打ち寛いだ様子だ。
「さてと。珍しいものを見せてもらったところで、報告を聞こうか」
「その前に聞きたいんだけど」
口を開こうとしたアイネスの機先を制して、エーデルワイスが言葉を投げた。
「あなた何者? どうしてこの件に首を突っ込んでるの?」
「俺が何者かなんてことはどうでもいいことさ。ただ一つだけ云えるのは、俺は角耳族の敵じゃない。本当だ」
エーデルワイスの眼差しが尖る。だがパリスはどこ吹く風といった様子である。
「俺はただ真実が知りたいだけさ」
嘘ではない、とアイネスは思った。ただこの男は肝心なところを語らない。
アイネスから一連の話を聞き終えたパリスは、おもむろに自分の口元を手で覆った。
「そいつは番犬と名乗ったんだな」
「ああ」
アイネスが首肯すると、パリスは腕を組み、眉間に皺を刻んでため息をついた。
「紫色の瞳か」
「なにか心当たりがあるのか」
アイネスが低い声でそう尋ねると、パリスは曖昧に頷いた。肯定の意味にも取れたし、少し頭を動かしただけのような気もした。
「どっちなんだ」
苛立たしげな顔をして食卓に身を乗り出すアイネスを、パリスが琥珀色の瞳で見返してきた。
「ベルギアの王室には親衛隊がいる。彼らは王族の子飼いとして幼い頃から特殊な環境で育てられているため、忠誠心も戦闘力も異常に高い。ベルギアの王族は彼らを伝統的に犬と呼び、特に一番のお気に入りを自分だけの番犬として従えている」
「ずいぶん詳しいんだな」
アイネスは番犬の正体を探るのも忘れてそんな感想を口にした。するとパリスは屈託のない笑みを広げた。
「職業柄、この辺の国のことは頭に叩き込んでるんだよ。ベルギア、アルカイック」
「それにロマーナか?」
すかさず後を引き取ったアイネスに対し、パリスは微苦笑で応えた。
「ふむ、まあいい。それはさておき、ベルギアの兵士が動員されている時点で、この件にこの国が関わってるのは間違いないんだ」
「そうだな。なんといっても、連れ去られた角耳族たちは王宮に運び込まれたんだから」
「それ本当?」
壁にもたれていたエーデルワイスが弾かれたように飛び出してきて、食卓に手をつき、パリスを食い入るように見つめた。
「ああ、一旦はな」
「一旦?」
アイネスが眉宇を寄せる。パリスは大仰に両手を広げた。
「一度王宮に運び込まれたあと、別のところへ移されたんだ」
「どこへよ!」
エーデルワイスが甲高い声を浴びせるが、パリスはゆるゆると首を振るばかりである。
「それがわからないんだ。もちろん後をつけようとしたんだが、途中でおっかない剣士に見つかってね」
「まさか、オードか」
「ああ。青白い怪しげな光りを放つ剣を持った大男だ。さんざん街中を追い回された」
「よく逃げ切れたな」
「逃げ足だけが取り柄だからな。はははっ」
とぼけた笑い声が響く。それが突然のけたたましい音によって断ち切られた。エーデルワイスが歯を食いしばり、両目に憤りを漲らせて、食卓に拳を叩きつけていた。
「結局、何も解らないんじゃない!」
「まあ落ち着きなよ。角耳族たちの直接の居場所がわからない以上、首謀者を突き止めるしかないじゃないか」
「首謀者って誰よ」
「さあねえ」
パリスは皮肉げに眉をひそめ、世間話でもするような気軽さで云った。
「ところで角耳族ってどうなんだ?」
「どうって」
目をしばたたかせるエーデルワイスの方に、パリスが身を乗り出す。
「実のところ、俺が知りたいのは首謀者なんかじゃなくて、奴らが二百人もの角耳族を捕まえてどうする気なのかってことなんだよ。なんでも角耳族は魔術に長けているって話じゃないか。それで人を呪って殺せたりするのかな」
「そんなことができるなら、私がこの国の連中を呪い殺してるわよ」
「ああ、そりゃそうか。じゃあ具体的にはどんなことができるんだい?」
エーデルワイスは少しの沈黙を挟んで口を開いた。
「目くらましとか、方向感覚を狂わせたりとか」
「地味だな」
パリスが渋い顔をする。するとエーデルワイスが鼻先でせせらわらった。
「その地味な魔術で、森に踏み込んできた人間が死ぬまで森をさまよい続けたのよ」
「ああ、森のなかでは覿面に祟る類の魔術だな。森のなかではね。それは認める。が、森の外ではどんな魔術が使えるんだい? 俺としては是非ともそこを知りたいね」
するとエーデルワイスは僅かに身を引き、嫌な臭いでも嗅いだように眉を寄せた。
「あなたなにを不安がってるの?」
「なにも。俺はただ知りたいだけさ」
エーデルワイスは答えない。パリスも重ねて問いかけようとはせず、場に沈黙が生じた。そこへアイネスが厳かな声音を発した。
「パリス」
パリスだけでなく、エーデルワイスまでもがアイネスを見た。アイネスはパリスに尖った視線をあてて、低い声音で云う。
「おまえ、犯人の目星はとっくについてるんだろう」
するとパリスは口だけで笑った。
「ああ、実はそうなんだ。あんたから番犬の特徴を聞いたときに確信した。紫色の目をした番犬を従えてるのは一人しかいない」
「なら教えろ。俺がそいつに会って、真相を確かめてきてやる」
パリスが無言で肩をすくめた。それがまるで無理だと云わんばかりなので、アイネスは怒気もあらわに椅子から腰を浮かせた。するとパリスは仕方なさそうに口を開いた。
「番犬はさ、男なのに声が女のようだったろう?」
アイネスははっとして目を見開いた。指摘されるまで忘れていたが、確かにその通りである。パリスが笑みを深めた。
「高貴な女性に仕える男は、なにか間違いが起こらないように去勢されるもんさ。それで声が男性化しなかったんだ。と、ここまで云えば解るだろう? あんたが遭遇したっていう番犬の主人は――」
「十六歳の女王ボウディッカ」
アイネスがあとを引き取って云った。
「正解だ」
頷いたパリスが食卓に肘を引っかけて身を崩す。
「だが問題は犯人の正体なんかじゃなくて、ボウディッカさんが角耳族をさらってなにをする気なのかってことなんだ」
エーデルワイスがさっと顔を強張らせた。
「いいえ、問題はみんなの行方と安否よ」
「そうだな」
アイネスは首肯して、エーデルワイスに温かな眼差しを注いだ。
「きっと大丈夫だ。わざわざさらったからには、なにか目的があるに違いない。おまえの仲間は、必ずどこかで生きている。だから女王を締め上げに行こう」
「アイネス……」
エーデルワイスのアイネスを見る目が不意に和んだ。が、それはアイネスの見間違いだったかもしれない。今、彼女はことさらに眦を決して長弓を強く握りしめている。
「手伝ってくれるの?」
「もちろんだ」
アイネスがそう請け合ったとき、がたりと椅子の鳴る音がした。パリスだ。
「おいおい、本気で王宮に乗り込むつもりか?」
「当たり前だ。女王に口を割らせればエルフの行方も、なぜこんなことをしたのかも明白になる。それに女王の傍にはオードがいるかもしれん。逃すわけにはいかない」
するとアイネスの顔を穴のあくほど見つめていたパリスの口元に、企みに満ちた不敵な笑みが浮かんだ。
「豪胆じゃないか。云っておくが、女王は九人いる兄王子の傀儡に過ぎないって噂もあるぞ」
「だとしても、女王に会えば道は拓ける」
「よし、わかった。なら俺にも協力させてくれ。良い案がある」
アイネスとエーデルワイスは目を見合わせたあと、視線をパリスに注いだ。
「まず城に入る手筈は俺が整えよう」
「そこが一番の問題なんじゃないの?」
目つきを険しくするエーデルワイスに、パリスは笑って首を振った。
「戦争中じゃないんだ。城には毎日大勢の人間が出入りするし、いちいち細かく見てやしない。大丈夫さ」
「具体的にはどうするつもりだ?」と、アイネス。
「御用達の商人に扮装して城門をくぐるのさ。だが問題はその後だ。城のなかに入れるのと、城のなかを自由に行動できるのとは違う。そこで手土産を使って兵士たちをあざむくんだ。うまいこと女王に会えたら、あとは剣に訴えてもいいし、平和的に交渉してもいい」
「なるほど」
「ねえ、手土産ってなによ?」
そう声をあげたエーデルワイスに、アイネスとパリスは同時に眼差しを据えた。沈黙が長引くと、パリスがアイネスに目で催促してくる。アイネスは苦々しい顔つきになって仕方なく口を切った。
「おまえのことだ」
「私?」
「奴らはエルフを求めてる。ならば適当な理由をつけて、エルフのおまえを連行してきたということにすれば、口実も立つし、信用も得られる。案外上手く事が運ぶかもしれん」
エーデルワイスは絶句し、長い時間をかけてアイネスの言葉の意味を頭に染み込ませたようだった。やがて。
「いやよ!」
雷のような拒絶の声がアイネスの頭上に落ちる。それはそうだろうと思ってアイネスが返す言葉を見失っていると、パリスが口元だけで笑った。目は脅すように尖っている。
「仲間を助けたいんだろう?」
「ええ、もちろん。でもあなたたちは違うでしょう。アイネスはオードを探すことが目的で、あなたは素性も目的もいまいちはっきりしない怪しい男よ」
「否定はしない」
パリスの鋭かった目が笑う。
「ほらみなさい、私たちはみんなばらばらなのよ。あなたたち、自分の目的のために私を体よく利用するつもりなんでしょう」
「エーデル」
アイネスは椅子に座ったまま、エーデルワイスを見上げて神妙に云った。
「そんなことはしない」
「信じられないわ」
「おまえの身に危険が及ぶようなことがあれば、その前に俺が助ける」
「人間は信じられない!」
エーデルワイスが目を見開いて叫んだ。そのエメラルドの瞳の鮮やかな光りに射抜かれて、アイネスはなぜだか憐れみを感じた。
「そんなに怖がらないでくれ」
どうしてそんな言葉が口から零れ出てきたのか、自分でもわからない。ただエーデルワイスの顔が追い詰められたものになったのを見て、アイネスはもうやめようと思った。開花しないからといって、蕾を指で無理やりこじ開けるのは間違っている。
「わかった。俺一人でやる」
驚きに打たれた様子のエーデルワイスを尻目に、アイネスはパリスに目を向けた。
「城に入る手筈を整えてくれ」
「構わんが、兵士に怪しまれたらどうする気だ? 彼女を連れてりゃそういうときに、自分は女王様の命令で角耳を捕まえてきたとかなんとか」
「修羅場にはなれてる」
アイネスは言下にかたくなに云い張った。パリスが小さなため息をつき、油で固められた豊かな金茶色の頭髪に指を突っ込んで頭を掻く。
「よし、わかった。どうせ死ぬとしてもおまえさん一人で俺に類は及ばない。好きにやってくれ。ただし首尾よくいったら俺にも情報を分けてくれよ」
「構わないが、具体的な報酬がほしい」
「なんだ、金がないのか?」
意外そうに片眉をあげるパリスに、アイネスはかすかな羞恥を懐きながら頷いた。
「森を抜けたところを無法者に襲われて荷物をすべて失った。色々と入り用なんだ」
「ははあ、そりゃ災難だったな。いくらほしいんだ?」
アイネスは少し色気を出して、荷物の相場に当座の路銀を足し合わせた額を云った。
「よしわかった。それくらいなら出してやるよ。前金でな。その代わり」
「生還できたら、俺の知ったことを、おまえにはすべて教えよう」
「よし」
パリスはさっそく懐から財布を出して食卓の上に硬貨を積み始めた。そこへエーデルワイスが声をかけてくる。
「ねえ、ちょっと」
「心配するな。俺の目的はオードだが、おまえの仲間の行方も必ず聞き出してくる」
するとエーデルワイスは片手を食卓につき、うつむいて長々と息を吐いた。パリスが硬貨を積み上げていくチャリチャリという音がする。その音が途切れたとき、エーデルワイスがつと顔をあげて前のめりになり、アイネスの面輪をごく近い距離から覗き込んできた。
「いいわ。私も協力してあげる。手土産にでもなんでもすればいいじゃない。でも勘違いしないでね。別に信用したわけじゃないんだから」
「エーデル」
「なによ」
「ありがとう」
エーデルワイスは唇を引き結ぶと、身を引いて背筋を伸ばし、腕を組んでそっぽを向いた。それからうららかな午後の光りに満ちる窓の方へと歩いていく。あたかも彼女自身の輪郭が、日の光りを放っているかのようだった。
「アイネス」
パリスの声に顔を戻すと、食卓に銀貨が三十枚ほども積まれていた。それを一枚手に取り、裏と表をためつすがめつする。ベルギア竜王国の東に接するロマーナ瑞雲国で発行されている銀貨だ。瑞雲国の貨幣は質がよく、信頼度の高いことで有名である。
「気前がいいな」
「どうせ経費で落ちる」
パリスはそう云いながら立ち上がった。
「どこへ行く?」
「給仕を呼んでくる。無事に森を抜けられたら美味い飯をおごるって約束したろ?」
「ああ」
アイネスはひとつ頷いてパリスが出て行くのを見送った。それから銀貨を財布に収めると、椅子から立ち上がり、窓辺に立つエーデルワイスの傍まで歩いて行った。
「給仕が来る。フードをかぶれ」
「ねえ、アイネス」
エーデルワイスは窓外の景色に眼差しを据えたまま黙り込み、やがてかぶりを振った。
「いえ、やっぱりなんでもないわ」
アイネスには、さっぱりわけがわからなかった。実のところ、このときエーデルワイスがなにを云おうとしたのかは、筆者にも解らない。おそらく当のエーデルワイスにも解らなかったのではないか。
ともあれアイネスはこのあとパリスと酒杯を交わしながら今後の段取りをつけた。
翌日、アイネスはその段取りに従って服屋へ行き、そこで鮮やかな青い袖無しのシャツとズボンを仕立ててもらった。また宿屋で風呂を使っていたから、とにかく小綺麗になった。それらが功を奏したのか、エーデルワイスのアイネスに接する態度はいくぶん物柔らかになった。
とはいえ、アイネスもエーデルワイスも気は落ち着かない。こうしているあいだにオードが行方をくらませてしまうのではないか、エルフの仲間になにか危害が及ぶのではないか。そうした危惧が二人の胸を焦がしていた。
そして待ちに待った三日後の朝まだき、商人に扮したパリスが荷馬車でアイネスたちの泊まる宿にやってきたのである。
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