五 首都ベルン

  五 首都ベルン


 ベルンの赤い城壁の基部に穿たれた仄暗いトンネルのなかで、エーデルワイスは鎖で頭上にぶらさがっている、鉄格子の門扉を不安そうな面持ちで見上げていた。鎖は門扉を吊るす重みに張り詰めきっている。

「心配しなくても落ちてきやしない」

 アイネスがそう云うとエーデルワイスは顔を前に戻し、澄まし顔になって云った。

「別にそんなことこれっぽっちも心配してやしないわよ。それよりあなた、大丈夫なの?」

 エーデルワイスは目深に被ったフードの下からエメラルドグリーンの目で前方を睨んだ。そこではトリフェルドの街と同じように、兵隊が出入りする人間に尋問したり、荷物を調べたりしている。ここで問題となるのがエーデルワイスだ。もしエルフということが露見すれば騒ぎになることは必至だった。だがアイネスは楽観していた。

「婦人のフードに手をかける奴も、そうはいないだろう。慎み深くしていることだ。あとは俺が上手くやる」

「でも」

 エーデルワイスの顔は硬く強張っている。その頬をアイネスは指でつついた。柔らかい。エーデルワイスが目を丸くし、ついでアイネスを物凄い形相で睨みつけてくる。

「なにするのよ!」

 その大声に、周囲の人々の視線が集まった。エーデルワイスがぐっと息を呑む。その顔を見てアイネスは呵々と笑った。

「普通にしていろ。でないと怪しまれる」

「私はいつでも普通よ」

「ならいい」

 それから程なくして長身の若い兵士が、整った顔立ちに軽薄そうな笑みをはりつけてやってきた。右手に槍を持ち、白地に赤い糸でベルギア竜王国軍の紋章が刺繍されたコートを羽織っている。そのコートの下から鎖帷子の音がした。

「荷物はそれだけ?」

「ああ。ここにくる途中で無法者に襲われてな。全部なくした」

「そいつは災難だったなあ。お金はあるのかい?」

「財布だけは無事だ。あと、見ての通り武器もな」

 アイネスはベルトに吊り下げられている長剣や短剣を若い兵士に示してみせた。

「あんた傭兵かい?」

「戦士だ。もちろん傭兵をすることもある」

「そうかい、なら仕事が見つかるかもな」

「戦争の予定でも?」

「今のところはないよ。でもうちは金山や銀山がお目当てのお隣さんに、よくちょっかいをかけられるからね。有事に備えて、ある程度の数の傭兵は常に雇い入れてるんだよ」

「治安は悪化しないのか?」

「悪さする奴にはお引き取り願ってる。逆に有望株は正規兵として遇されたりもするぜ。あんたも旅に疲れてるなら頑張るんだな」

 そこで兵士はことばを切り、エーデルワイスの方に視線を移した。長身の背を屈め、フードに隠された顔を覗き込もうとする。

「君も傭兵? 見えないなあ」

「俺の妻だ。ちょっかいかけるのはやめてもらおう」

 アイネスはエーデルワイスの肩を力強く抱き寄せた。すると兵士の視線はエーデルワイスの太股のあたりに移った。膝上までの服の裾から、抜群に長い脚が伸びている。

「その服はあんたの趣味かい?」

「そんなところだ」

「女がスカート姿じゃないなんて、教会の連中に見つかったらうるさく云われるぞ」

「旅暮らしでは男装させておいた方が、色々と厄介事に巻き込まれずにすむ」

「男装ね。坊さんたちが聞いたら、ますます眉をつりあげそうだな」

 兵士は顎を掻いた。

「でもまあいいや、通っていいよ」

 ほっとした様子のエーデルワイスをよそに、アイネスは軽く目を瞠った。

「ずいぶん簡単なんだな」

 エーデルワイスがぎょっとした顔でアイネスを振り返った。どうして混ぜ返すのよ、とその目が語っている。兵士はくすりと笑った。

「荷を満載した行商人ならもうちょっと詳しく調べるけどね、手ぶらも同然の傭兵さんを裸にしたって時間の無駄さ。それに後ろが詰まってる。さあ、行った行った」

「わかった」

 今度こそアイネスはエーデルワイスの手を引き、トンネルの出口を目指して歩き出した。

「おっと待った」

 エーデルワイスが身を強張らせる。アイネスは肩越しにゆっくりと振り返った。

「一つ忠告させてもらうが、男装に関しては上手くいっているとは思えない。遠目からでも体つきで女とわかる。もうちょっと考えた方がいいな」

「参考にしよう」

 アイネスは低い声で答えると、エーデルワイスの手を引いて歩みを再開した。


 城壁のトンネルを抜けた先は広場になっていて、そこから輻射状に広い道が七本も伸びていた。どの道も殷賑として一国の首都に相応しい。アイネスはそのなかから真ん中の道を選んで歩き、途中で左に折れ、小路に入り込んだところで笑いながら振り返った。

「なんとかなっただろ?」

 エーデルワイスはアイネスの手を乱暴に振り解くと、きつい目つきでねめつけてきた。

「どうして私があなたの妻なのよ」

「その方が自然だからだ。女の旅なんて、大半が巡礼か家族連れだからな」

「だいたい教会ってなによ。私の格好になにか文句をつける連中がいるわけ?」

「男は男らしく、女は女らしくすることが、望ましいとされてるんだよ」

「あなたもそうなの?」

「俺は別に。あまり信心深い方じゃないしな」

 そのときアイネスはふと過去の一場面を思い出した。

「……戦争をやるとき、国王や騎士は事前に僧侶を呼んで、これから行う殺人の罪をあらかじめ赦してもらうんだが、俺はそういうこともなかった。むしろそういう連中を、心のどこかで嗤っていたような気がする」

 そこでアイネスは、ふと真面目な顔になってエーデルワイスを見つめた。

「ところでエルフのあいだにも結婚はあるのか?」

「当たり前よ。それよりそのパリスって男はどこにいるの? 早く会いたいわ」

「金蘭亭というところで待ち合わせている」

「それはどこ?」

「ベルンにあるということしかわからんから、人に訊こう。まあ名前からして酒場か食堂だろうが」

「仕方ないわね」

 エーデルワイスはフードをしっかり目深に被りなおすと、日陰の小路から日なたの大通りに踏み出していった。アイネスがその後を追う。

 エーデルワイスは道の真ん中で、物珍しげに辺りを見回していた。通りを行き交う人々は肌の色も髪の色も様々で、商人、町人、アイネスのような傭兵と思しき者までが大勢闊歩している。店や屋台が軒を連ねており、串に刺して炙った牛肉や生きた豚、工芸品、果物、細工物、婦人用の衣類など、ざっと見渡した限りでも種々の品々が売られていた。

 だがエーデルワイスはなにが気に入らないのか、眉間に不愉快そうな皺をつくっていた。

「ねえ、どうしてこんなに臭いの?」

「街だからだ」

「答えになってないわよ」

 アイネスは頭を掻いて嘆息した。

 エーデルワイスのこの疑問には、アイネスに代わって筆者が回答しよう。

 この時代の人々にはまず衛生という概念がない。一部の賢者が清潔にすることが病気を防ぐ手立てになると説いても鼻で嗤う始末である。毎日湯浴みをするのは自宅に風呂を持つ一部の富める者たちだけで、民衆は男であれば月に二度、女であれば月に一度、決められた日に決められた場所で一斉に沐浴をするのみであった。

 またごみや排泄物が道端に捨てられており、ヒストリア川から街中に引かれている幾筋もの小川は事実上のごみ捨て場となっていて、泥色に濁って悪臭を放っている。蝿もぶんぶん飛び回っている。

 このような不潔な環境は、エルフのエーデルワイスには耐えがたいものがあった。


「もういやっ!」

 そんな金切り声を耳にしたアイネスは、顔をしかめながら背後を振り返った。道の真ん中でエーデルワイスが立ち尽くしている。その美貌は嫌悪に歪み、長弓を持っていない方の手には拳が握られているばかりかわなわなと震えていた。

 金蘭亭を探して一時間、道行く人に声をかけてもはかばかしい成果が得られず、途方に暮れていた矢先にこれである。アイネスは大股でエーデルワイスに近づくと顔を寄せて低声こごえで訊いた。

「どうした?」

「ここは、なにもかもが汚濁に満ちているわ」

「そんなことはない。普通だ」

「だとしたら人間という種族が汚濁に満ちているのよ。エルフの生活だったらこんなの考えられない。道端にごみなんか捨てないのが当たり前で、みんな日に一度は湯浴みをして、いつも清潔な服を身につけていたのに」

「そっちの方がおかしい」

「価値観の違いね。やはり人間とは解り合えそうにないわ」

 エーデルワイスは腕を組み、つんとした顔でそっぽを向いた。その横顔に眼差しを据えながら、アイネスはこれみよがしに両手を広げた。

「俺だってここしばらくは風呂に入ってないぞ」

 トリフェルドの街で宿をとったときに井戸の水で体を拭いたのが最後だから、もう一週間ほどになる。エーデルワイスは片目を開けてアイネスをねめつけた。

「道理で垢染みてるわけね。里にいるときにお風呂に入らせておくべきだったわ」

「どこの国でもこれが普通だ。慣れろ」

「死んでも厭」

「じゃあ我慢しろ。おまえの仲間を助けるためだ」

 仲間という単語を持ち出すと、エーデルワイスは組んでいた腕を解いて顔を前に戻した。その美しい唇からため息が漏れる。

「仕方ないわね。それでいつになったら、その金蘭亭っていうのは見つかるのよ」

「根気よくやるしかない」

 だが結局、アイネスが金蘭亭を知っているという人物にぶつかったのは日が暮れてからのことだった。


 首都ベルンの商業区には七本の大通りがあり、金蘭亭はそのうちの一つに店を構えているという。今アイネスたちがいるところからは遠かった。見上げる夜空には月がかかっている。

 アイネスは空からエーデルワイスに顔を戻し、篝火に照らされた彼女の姿を見た。火明かりに染まる白い花といった趣がある。アイネスはちょっと見とれながらも、言葉を忘れたりはしなかった。

「今日はもう休まないか?」

「いやよ!」

 エーデルワイスの目から怒りが迸る。アイネスはうんざりしながら云った。

「じゃあせめて宿を取らないと、野宿する破目になるぞ」

「そんな先の心配より、みんなの方が大切だわ。あなたがもうちょっと要領がよければ、こんな遅い時間にならずにすんだのよ。ああ、それにしても人間の街の夜って最低ね。こんなに火を燃やして」

「明かりを灯さないと危ないだろう。転ぶしぶつかるし、悪さをする奴もいる」

 だから日が暮れると人々はカンテラなどを持ち歩き、店先には篝火が焚かれたりする。青や緑の色ガラスを用いたランプを軒先に吊るしている店もあった。それらの炎が、宵闇を赤々と照らして眩しいほどだ。

 エーデルワイスはそうした無数の炎を、嫌悪を込めて眺めた。

「どこもこんな風なの?」

「繁華街とか盛り場とか呼ばれる場所はそうだ」

「月と星の明かりで充分でしょうに」

 エーデルワイスは不満をぶつけるように地を蹴り、顔をしかめた。どうやら犬の糞を踏んだらしい。

「本当に人間の街って最低だわ」

 エーデルワイスは足元に落としていた刺々しい視線を、そのままアイネスに突き刺した。

「とにかく、金蘭亭にいくのよ」

「わかった」

 アイネスはため息をついて頷いた。


 金蘭亭は一階建ての木造建築で、入り口の扉を開けると鈴が鳴る仕掛けになっていた。土間に食卓と椅子が並べられている店内は客で賑わい、熱気とざわめきに満ちている。換気がうまくいっていないのか、肉を焼く煙が高い天井に渦を巻いていた。

「ここはまた変な匂いがするわね」

「たぶん色んな香辛料を料理に使ってるんだろう」

「香辛料?」

「料理に辛みや匂いをつけるための粉だ」

 そんな話をしていると、赤毛の若い女性が愛嬌をふりまきながらアイネスたちに近寄ってきた。

「いらっしゃい。お二人様?」

「いや、人を探しているんだ。パリスって奴とここで待ち合わせているんだが」

「パリスさん? 今日は見てないわね」

 その反応にアイネスはほっとした。少なくとも顔と名前を覚えられるくらいの常連ではあるらしい。

「留守だって云うの? いつ来るのよ」

 エーデルワイスが食ってかかると、給仕の娘は気分を害したように眉をひそめた。

「そんなのわかんない。ところであなたたちお客さん? なら座ってちょうだいよ」

 アイネスはエーデルワイスの腕をとって自分の方を向かせた。エーデルワイスは店内を厭そうに眺めている。

「ここにいると私の鼻がおかしくなるわ」

「わかった」

 アイネスは給仕の娘にすまなそうな視線を向けて「邪魔をした」と一言断り、エーデルワイスを連れて店を出た。


 春の夜は少し寒い。だがそのおかげで、悪臭漂う街の空気も少しは澄んできたようである。アイネスは顔つきを和ませながら腰に片手をあてた。

「さて、これからどうするか」

「パリスって奴を待ちましょう」

「ここで?」

 アイネスは金蘭亭を振り返り、首を横に振った。

「よせよせ、商売の邪魔になる。兵隊を呼ばれたらつまらんぞ。それに酔っぱらいに絡まれたら面倒だ」

「じゃあどうするのよ!」

 エーデルワイスがアイネスに詰め寄ってきた。はずみでフードが後ろに落ちそうになったのを、アイネスはすんでのところで手を回しておさえた。エーデルワイスがすばやくフードを被りなおす。

「とにかく今日はもう宿だ。明日また出直す」

 アイネスは有無を云わせぬ口調でエーデルワイスを一睨みすると、その華奢な腕を掴み、強引に歩き出した。

「ちょっと、もう、わかったわよ。わかったから離して。自分で歩けるわ」

 エーデルワイスはアイネスの手を振り解くと、ぷりぷり怒って歩いていってしまった。

「宿屋がどこかわかってるのか?」

 アイネスがそう声を投げると、エーデルワイスがぴたりと足をとめて振り返った。

「あなたが案内するんでしょう」

「やれやれ」

 アイネスは頭を掻きながらため息をついた。


 大変なのはそこからだった。宿屋に空き部屋が見つからないのである。三件目の宿を出たとき、アイネスは苛立たしげに吐き捨てた。

「だから先に宿を探そうと云ったんだ!」

「そんなこと云われたって」

 エーデルワイスは悄然とした様子で視線を落とした。

「ねえ、私たちもしかして野宿?」

「そうなるかもな」

「こんな汚いところに寝転ぶなんて厭よ。どうせ野宿するなら街を出ましょう」

「無理だ。この時間じゃもう門が閉まってる。明日の朝まで街を出ることはできない」

「じゃあどうするのよ!」

 さっきも聞いた台詞だ。アイネスは指で眉間の皺をほぐすと、顔を小路に振り向けた。その先は一般的な市民が暮らす住宅街である。家々の窓や隙間から漏れ出る灯りは小さく頼りない。その暗い小路に、アイネスは足を向けた。

「どこへ行くの?」

「いいからついてこい」

 アイネスはエーデルワイスの冷たい腕を掴み、暗い路地へと踏み込んでいった。


 路地に入ると悪臭が一層強くなった。空気が淀んでいるせいだろう、鼻が曲がりそうだ。その臭気に耐えながら、月明かりを頼りに暗く細い道をさまよい歩いていく。アイネスはときおり民家の前で立ち止まり、中の物音に耳をすませていた。今もある一軒の家の前に立ち止まって、なかの様子を窺っているところだ。

「ねえ、なにしてるのよ」

 エーデルワイスが不安そうに辺りを見回しながら小声でそう囁いてきた。

「化け物なんか出やしない。物取りなら俺がやっつけてやるから心配するな」

「それであなたは、いったいなにをしてるの?」

 エーデルワイスはゆっくりとした聞きやすい声で繰り返した。アイネスが無言で肩をすくめたとき、エーデルワイスが突然「きゃっ」と声をあげて抱きついてきた。なにかと思えば野良犬だ。痩せたその犬は、暗がりではどんな色をしているのかよくわからなかったが、アイネスたちの匂いを嗅いだあと、興味をなくしたようにまた闇に消えた。

 やがて落ち着きを取り戻したらしいエーデルワイスが、アイネスから離れてこほんとひとつ咳払いをする。

「とにかく、早く寝床を見つけてほしいわ」

「わかっている」

 アイネスは頭をひとつ掻いたあと、目の前の民家を見つめた。

「もうここでいいか」

 アイネスはそう独りごちると、鍵がかかっていないのを確かめた上で、扉を勢いよく蹴破った。


 その家は土間だがなかなかに広く、奥に続きの間があるようだった。夫婦と思しき男女と三人の子供たちは食事の手を止め、一様に目を丸くしてアイネスたちを見つめている。

 アイネスはそんな彼らを睥睨しながら、堂々と家のなかへ踏み込んでいった。

「おう、腹が減った。飯を食わせろ。ついでに寝床の世話も頼みたい」

 子供たちはどう反応すればいいのか判らないといった様子で一言も発しなかった。一方で夫婦は互いに目を見合わせる。エーデルワイスはそんな彼らとアイネスを交互に見やって、不審そうに眉宇をひそめていた。

 やがて夫婦のうち、妻の方が汚いものでも見るかのような目をしてアイネスに云う。

「帰りな。うちは貧乏なんだ。食わせるもんなんかないよ」

「じゃあこれでなにか買ってこい」

 アイネスは財布から硬貨を取り出すと、二人分の食事にしては大目の金額を食卓の上においた。夫婦の視線が硬貨に釘付けになる。亭主がはっとしたように顔をあげた。

「食事と寝床がほしいんだな?」

「そうだ」

「ふむ」

 亭主は無精髭をしごくと、アイネスが出した硬貨のうちから何枚かをよりわけて妻の方に差し出した。

「おい、おまえ。ちょっと行って鶏かなにか買っておいで」

「うちは宿屋じゃないよ」

「いいから、買っておいで」

 婦人は嫌そうに顔をしかめたが、やがて硬貨を一掴みにすると、ぶつくさ云いながら立ち上がった。アイネスとエーデルワイスは体を横にどかし、婦人に道を開けた。薄汚れた頭巾をつけた婦人は、アイネスたちを軽蔑の視線で切りつけてから、夜の路地へと踏み出して行った。

「来いよ」

 婦人を見送って扉を閉めたアイネスは、エーデルワイスにそう声をかけて食卓に向かった。献立はパンとスープと蒸かしたジャガイモだ。亭主が子供たちに顔を向ける。

「さ、おまえたちはもう寝なさい」

 子供たちはお互いに顔を見合わせたあと、奇妙に静まりかえったまま次々に奥の部屋へと姿を消した。一番小さい男の子が振り返ってアイネスたちに手を振った。と、姉とおぼしき女の子がその男の子の腕を掴んで乱暴に奥の部屋へと引っ張り込んだ。

 アイネスは子供らが座っていた椅子のひとつに遠慮なく腰かけた。壁に弓を立て掛けたエーデルワイスがアイネスの隣に腰を下ろし、亭主の顔を見ながら囁く。

「知り合いなの?」

「いや、初対面だ」

 するとエーデルワイスが呆れたようにため息をついた。

「あなた、どうかしてるんじゃない? それとも人間の世界ではこれが普通なの?」

「普通じゃないが、世の中を渡っていくには、ちょっとくらい強引な方がいいんだ」

「ちょっと?」

 その毒のある呟きを無視したアイネスは、皿に残っていたジャガイモをひとつ手に掴むと、その重さに満足しながら囓りついた。


 この家の主人は名をフリックといって、履き物作りを生業としているそうだ。茶色い頭髪は薄くなりつつあり、また青い服を着た腹は突き出している。

 下を向いて黙っているエーデルワイスをよそに、アイネスはフリックとエールを酌み交わして上機嫌だった。

「そういえばちょっと小耳に挟んだんだが、この国の女王様は十五? 十六歳? とにかく若いんだって?」

「ああ、そうだ。初めはどうなることかと思ったが、なかなかどうして、立派な女王様ぶりだよ。御年十六歳で、名前をボウディッカ様とおっしゃるんだが」

「ブディカ?」

「ボウディッカだ、ボウディッカ」

 フリックは切り口上で云う。

「だけどまあ、ブディカと聞こえなくもないかな」

 そこでフリックはなにがおかしいのか大口を開けて呵った。唾が食卓に飛び、エーデルワイスが嫌そうに身を引いた。

「十六歳の女王か……どういった経緯でそんなことに?」

「さあねえ。前の王様には十人も子供がいて、一番上から九番目までが男だったのに、一番年若で女のボウディッカ様が指輪を継承されたときは国中が驚いたもんだよ」

「指輪?」

「ああ、魔法の品でね……」

「おしゃべりはその辺にしときな」

 食卓にこんがりと焼けた鶏肉の皿がおかれた。鶏を買いにいった婦人はとっくに帰って来ており、アイネスたちが話をしているあいだにせっせと食事の支度をしていたわけである。アイネスは鶏肉の匂いを嗅いで胃袋がぐうと鳴る音を聞いた。更に婦人は温め直した野菜のスープと蒸かしたジャガイモを食卓に並べてくれた。

「いただきます」

 アイネスは素手で鶏の足を掴むと、むしりとってかぶりついた。フリックも同様に手を伸ばす。婦人はふんと鼻を鳴らしたあと、エーデルワイスに侮蔑の眼差しをあてた。

「あんた、家のなかだってのに顔も見せない気かい?」

「えっ、ああ」

 エーデルワイスは自分のフードを指で触り、下ろすどころか目深に被り直した。婦人が面白くなさそうに眉を寄せる。アイネスは肉をかじるのをやめた。

「顔に火傷を負ってるんだ、察してやってほしい」

「まあ」

 婦人は一転して同情的な顔をした。

「そいつは気が利かなくて悪かったね。女の子なのに可哀想に」

「いえ……」

 エーデルワイスは曖昧に頷いたあと、小声でアイネスにだけ聞こえるように云う。

「しゃあしゃあと」

 アイネスは頬に笑みを刻むと、エーデルワイスに身を寄せて囁いた。

「おまえも食べろ」

「私には必要ないわ」

「必要なくても食べるんだ。でないと不審に思われる」

 こうしてひそひそ話しているあいだも、フリックとその妻は胡乱な目をアイネスたちに向けてきている。

 エーデルワイスは少しためらう様子を見せたあと、野菜のスープの入った椀に手を伸ばし、中を覗き込んだ。

「野菜が死ぬまで煮込んでるわね」

「それがベルギア流だからね」

「しかもちょっと変な……独特な匂いがするわ」

「良い鼻を持ってるじゃないか。ちょっとした香辛料を利かせてるのさ。いい匂いだろう」

 エーデルワイスは難しい顔をしていたが、やがて意を決したように両手で椀を持ち上げると、その縁を唇に寄せた。音を立てずにすする。椀の縁から口を離したエーデルワイスは、たちまち顔を輝かせた。

「美味しい」

「だろう」

 婦人の顔に自慢げな笑みが浮かぶ。エーデルワイスは匙を使ってちまちまと野菜のスープを掬っては飲みはじめた。

 アイネスはほっとしながら再び肉をかじり出した。骨に残った肉を指で剥がして口に入れる。と、フリックがエールの杯を片手に、アイネスの方に身を乗り出してきた。

「私たち、なんの話をしていたっけ?」

 アイネスは口のなかのものを咀嚼している間に思い出し、嚥下してから口を開いた。

「女王の指輪がどうとかって」

「そうそう、それだ」

「指輪がどうかしたのか?」

「いやあ、ベルギアじゃ、それが王の証ってだけさ。なんでも一度嵌めると死ぬまで外れない代物らしい」

「ふうん」

 アイネスは骨だけになった鶏の足を皿に戻すと、ジャガイモを一個につき三口で平らげ、野菜スープを飲み干していった。それからナイフを使ってまた肉を取り分けようとしたところで、エーデルワイスがさっきから野菜スープばかり口にしていることに気がついた。

「鶏は食べないのか?」

 訊ねると、エーデルワイスが不機嫌そうな顔つきでごく低い声を出す。

「肉だけは絶対に食べないわ」

「そうか。なら俺が全部いただこう」

 アイネスは切り分けた肉を食べ、ジャガイモの残りも食べ、さらに野菜スープをお代わりして胃袋を満たした。さすがにもう入らないと椅子にだらしなくもたれながら両手で腹をさすったとき、エーデルワイスがやっと一杯の野菜スープを飲み干した。


 奥の部屋は寝室になっていた。部屋の片隅に置かれた燭台に火が灯っている。オレンジ色に照らされた部屋に、二人が並んで横になれる大きなベッドがひとつある。アイネスはそのベッドに腰を下ろし、それが羽布団であるとすぐに気づいて目を瞠った。

「贅沢品だな」

 そう独りごちたとき、アイネスは下から自分に向けられる視線に気づいて笑みを広げた。土間に敷かれた寝藁の上に、三人の子供たちが毛布を被って横になっている。下の二人は眠っていたが、一番上の男の子は起きていて、アイネスをじっと見つめていた。

「今夜はよろしく、坊や」

「父さんと母さんは?」

「今日はあっちで寝るってさ」

「奥さん、なんで私たちが冷たい土の上で寝なくちゃならないんだ、ってぼやいてたわよ」

 エーデルワイスがアイネスの隣に浅く腰掛け、咎めるような視線を寄越す。

「いいの?」

「もちろん。金を払ってるんだからベッドを使うのは俺たちだ」

「俺たち?」

「一緒に寝よう」

「なにもしないでしょうね?」

「もちろんだ」

 アイネスは真面目に首肯した。


 やがて室内にしんとした静寂しじまが訪れた。アイネスは剣を抱えたままベッドに座っていた。風の音がする。蝋燭の火は不安定に揺れていて、今にも燃え尽きようとしていた。隣の部屋から夫婦のいびきが聞こえてくる。

「ねえ」

 静寂を破ったのはエーデルワイスの声だ。人目があるからか、彼女はベッドに横になっていても、フードを被っている。

「なんだ?」

「ちょっと思ったんだけど、こんな見知らぬ人間たちの家に寝泊まりして大丈夫なの?」

「大丈夫なわけないだろ。だから俺は起きてるんだ」

 アイネスは子供たちの邪気のない寝顔に目を落としながら、この家の夫婦が真夜中に自分たちの寝込みを襲ってくるかもしれないと考えていた。

「交代で眠るから、おまえは先に寝ろ。あとで起こす」

「わかったわ」

 背後でエーデルワイスがそう返事をしたとき、蝋燭の火が燃え尽きて部屋が真っ暗になった。

 目が闇に慣れてからしばらくして、アイネスは足元の暗闇から、子供の目がこちらに向けられているのに気づいた。

「起きてるのか?」

 アイネスがそう声をかけると、男の子はちょっとこちらに首を伸ばしてきた。

「子作りしないの?」

 アイネスの背後でエーデルワイスがかすかに身動ぎしたのがわかる。どうやら起きているようだ。警戒されていることを悲しく思っていると、また男の子が口を開いた。

「父さんと母さんは時々するよ」

「俺たちは――」そういう関係ではない、と断じようとしたが、建前として自分たちは夫婦なのだった。

「今日はしない。疲れてるんだ」

「ちぇっ」

 男の子は毛布を被りなおし、アイネスに背中を向けてしまった。やがて本物の寝息が聞こえてくる。アイネスは背後で横になっているエーデルワイスに向けて云った。

「まあ大人の情事を覗き見るのは、男の子なら誰でも通る道だ」

「あなたも?」

「小兄さんが……三番目の兄がそういうの好きでな」

 アイネスはくつくつと笑いながら記憶を紐解き出した。

「新しい街に立ち寄る度にどこからかその手の情報を仕入れてきて、俺を引っ張っていってくれたよ。壁の隙間から中を覗いたりしてな」

「人間はただれてるわ」

 エーデルワイスの声はくぐもって聞き取りづらかった。


 夜半を過ぎてからアイネスはエーデルワイスの肩を揺さぶった。エーデルワイスはすぐに目を開けた。

「交代だ」

 アイネスはブーツを脱いでベッドに飛び乗った。エーデルワイスが体を起こし、アイネスと入れ替わってベッドの端に腰掛けた。その目つきや機敏な動作から彼女がまんじりともしていないことは明白だ。やはり信用されていない。アイネスは内心傷つきながらも表向きは平気な顔をして、人肌の温もりが残る敷布に、剣を抱いて横になった。ほのかにエーデルワイスのいい匂いがした。彼女はいつも花のような香りを身にまとっている。

「おやすみ、エーデル」

 アイネスは目を閉じ、花畑にいるようないい気分で眠りに落ち込んだ。


 アイネスはいつもオードを見上げていた。体つきは巨岩のようで、分厚い筋肉を身に纏い、顔には勇武の相があらわれている。頑固な魂の形を象ったような頭部を、短く刈り込まれた銀髪が覆っている。戦うために生まれてきたような男だった。それでいて瞳は理性的な深い青色をしているのだ。

「大兄さん」

 とオードに呼びかけたとき、アイネスは自分が夢を見ているのだと気づいた。

 これはあのときの夢だ。オードがアイネスを殺し損ねたときの夢だ。アイネスの頭蓋に向けて振り下ろされた巨大な剣が、アイネスの頭を叩き壊すことなく、地面を斬りつけている。

 殺意の乗った一撃だった。オードが仕損じるなどありえない。手心を加えたのでも、誰かが邪魔をしたのでもなかった。アイネス自身、死を覚悟した。それなのにアイネスは生きている。オードは自分の意志に背いた剣を見つめて云った。

「今、わかった。運命の力が働き、俺の剣をねじまげたのだ」

 あのときのオードの声が響いてきて、アイネスは夢とわかっていても反駁せずにはいられなかった。

「おかしいよ、大兄さん。運命なんて馬鹿げてる。でも百歩譲って、大兄さんの考えている通りだとしよう。だとしたら、運命の力にどうやって抗う? どうやったところで、大兄さんは勝利を掴めやしない!」

「いや、一つだけ道がある」

 気がつくと、オードはアイネスに背を向けていた。夢のなかでよくあるように、時間と空間が飛ぶ。

 オードは暁の光りのなかで、ヒストリア川の流れの先を見つめていた。

「このヒストリア川をずっと下っていくと、いつか海にぶつかるだろう。そこでなら俺は、おまえに勝てるやもしれぬ。なぜならば川とは旅であり、人生であり、物語ヒストリアであるからだ。そして海ですべてが完結するとき、選ばれし者の死をもって物語が締めくくられるということは、大いにありうる話だ。そうだろう、アイネス?」

 アイネスは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「そのときは、運命が大兄さんに加担するんだ。裏の裏は表というやつだよ」

「そうだ。だから海で勝利を収めるのはおまえでなくてはならぬ。無論、俺は手加減などしない。この理屈がわかるか? 運命を打倒するのだ」

 アイネスは拳を振り絞った。

「俺がそんな物語に付き合うと思うか!」

「付き合わねば、死人が増えるだけだ」

 そう云ってオードは青白い光りを帯びた剣をアイネスに示してみせた。オードが義弟を殺して奪った魔剣だ。

「魂を喰わせ続ける限り、こいつは俺を生かすだろう。おまえほどではないが、俺にも幸運が舞い込んでくる。俺は海まで行ける」

 それを聞いたアイネスは、オードの考えを悟って愕然とした。そんなアイネスにオードが厳かな声で語る。

「俺が許せんのは、おまえに譲られたそのちっぽけな剣のために師が弄ばれたということだ。俺が悲しいのは、俺とおまえがあの娘を巡って争ったとき、おまえの勝利が不当なものであったということだ。俺が憐れむのは、おまえがこれから先に占めるいくつもの勝利が、仕組まれた虚飾の勝利だということだ。だからアイネス、もう一度あの決闘をやり直そう! 海では、運命が俺に加担する。だから海で勝て。俺に勝て。そしてあの娘の愛を得たのがおまえでよかったのだと、そう思わせてくれ」

 そしてオードは莞爾と笑った。

「殺すぞ。山のように殺す。百万人、殺す。さあ、追ってこい、アイネス!」

「オード!」

 駆け出そうとしたアイネスの手を、引き止める手があった。アイネスははっとして後ろを振り返った。そこに美しい乙女が立っている。銀色の髪をしたその乙女は、濡れ光る紫水晶アメジストの瞳でアイネスを恨めしげに見つめてきた。薔薇色の唇がこう呟く。

 ――私よりあの男に惚れてるのね。


「フィレーナ!」

 自分の叫びで目が覚めた。無意識に剣の感触を確かめつつ、アイネスは体を起こして辺りを見回した。裏庭へ通じる扉の横の、跳ね上げ式の窓から紫色の光りが差し込んでいる。早朝、朝まだきといった時間らしい。心臓がどくどくと高鳴っている。

「起きたの?」

 エーデルワイスだ。彼女はベッドに腰掛け、太腿の上に細身の剣を渡して姿勢良く座っていた。夢から醒めたのだと気づくと、鼓動が鎮まっていく。完全に落ち着きを取り戻してからアイネスは口を開いた。

「おはよう」

 寝起きのしまりのない声だった。エーデルワイスは顔を振り向け、露骨に眉をひそめた。

「よく寝てたわね。いびきまでかいて。なんだか私が馬鹿みたいじゃない」

 アイネスは苦笑しながら身を起こし、エーデルワイスの隣に座っていそいそと冷たいブーツを履いた。

「ねえ」

「うん?」

「フィレーナって誰?」

 アイネスは顔をしかめた。人の古傷に遠慮無く触れるエーデルワイスが憎らしい。しかし悪気はないのだろう。アイネスは片手を膝の上に置き、ぶっきらぼうに云った。

「恋人だった」

「だった?」

「俺はなんとしてもオードを追わねばならなかったが、彼女には高貴な身分とそれに伴う責任があったからな。つまりそういうことだ」

 それ以上は言葉にできなかった。だがエーデルワイスは充分、理解したらしい。その瞳が咎めるように細められる。

「捨ててきたのね」

「そうだ。悪いか」

 アイネスはエーデルワイスを見ずに吐き捨て、乱暴な手つきでベルトを締めた。

「その人は、今でもあなたを待っているの?」

「いや。十中八九、他の男と結婚しただろう」

 アイネスはベルトに剣を留めると、立ち上がって裏口の方へ向かった。

「どこへ行くの?」

「うんこだ」

 するとエーデルワイスが顎を引いて、なぜだか針のような視線を浴びせてきた。

 しばらくしてからすっきりした顔で部屋に戻ったアイネスは、子供たちの頭を蹴飛ばさないよう気をつけてベッドに戻り、行儀良く座っているエーデルワイスに視線をあてた。

「おまえも少し眠った方がいい」

「そうさせてもらうわ」

 エーデルワイスはブーツを履いた足をベッドに上げると、アイネスがそうしていたように細身の剣を胸元に抱いて横になった。

「出て行く時間になったら起こして」

「わかった」

 アイネスがひとつ頷くとエーデルワイスはすぐにすやすやと寝息を立てだした。

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