四 種族問答

  四 種族問答


 翌朝、この里に連れてこられたときと同じで剣と鎧と腕輪しか身につけていないアイネスと違い、エーデルワイスはすっかり旅支度を調えていた。

 初めて会ったときに身につけていた袖無しの緑色の服と膝まであるブーツのほかに、若草色のマントを羽織っている。そのマントにはフードがついていて、目深にかぶると尖った耳を隠すことができるのだった。

「人間のところに行くんだから、エルフだってことがあからさまだとまずいでしょう?」

「まあ、そうだ」

 アイネスは頷いて、エーデルワイスの腰に佩かれている細身の剣を見た。

「それは折れたはずだが」

「予備があるのよ」

「なるほど」

 そしてエーデルワイスはもちろん、左手に長弓を携え持っている。右腰にベルトから吊るしてある矢筒には白い矢羽をつけた矢がぎっしり詰まっていた。

「さあ、行くわよ」

 エーデルワイスは小川に架かった石橋に、溌剌とした一歩を踏み出した。

「そのパリスって人間と待ち合わせてる場所はどこ? 北? 南?」

「南のベルギア竜王国にある首都のベルンというところだ」

「そう、森の外のことは何も知らないから、案内よろしくね」

「それはもちろんだが、その前に荷物を回収したい」

「荷物?」

 肩越しに振り返ったエーデルワイスに、アイネスは広い胸の前で腕組みして頷きを返した。

「おまえと初めて会った場所に俺の旅の荷物を放り出したままなんだ。あれを回収するまでは、俺は断固としてこの森を出ないぞ」

「この非常時に!」

 エーデルワイスが柳眉を逆立ててアイネスに詰め寄ってくる。だが今度ばかりはアイネスも、黒い瞳でエーデルワイスを睨み返した。

「背負っていた荷物にはまず食糧が入っている。それから調理用の鍋、毛布、火打ち石、手斧、裁縫用の針と糸、その他もろもろ、それに買ったばかりの地図もだ。ないと困るんだよ。それからわけても重要なのが短剣だ」

 アイネスは右腰にある短剣の鞘を右手で掴んでしめした。鞘だけである。肝心の短剣はない。なんともみじめな姿だ。

「あれがないと非常に困る。旅暮らしで野宿も多いのに、短剣がなくては話にならない。なのにおまえの矢をしのぐときに投げてそれっきりだ」

「見つかるもんですか」

「断固として探すぞ」

「断固断固うるさい男ね。わかったわよ! まずは私たちが最初に会った場所に行きましょ、それでいいわね」

「ああ」

 満足して頷いたアイネスだが、そこでふと不安そうに顔を曇らせた。

「場所、わかるのか?」

「この森のことなら任せなさいよ。わかったら黙ってついてきなさい」

 勢いよく身を翻したエーデルワイスが、怒りをもてあますような乱暴な足取りで石橋を渡っていく。アイネスは慌てて追いかけ、ふたたび薄暗い森へと踏み込んでいった。


 丸一日が経過して、アイネスとエーデルワイスはやっと目的の場所にたどり着いた。森の木々のなかでも際立った存在感を放つ巨木だ。この木の根にまたがって樹幹にもたれて休んでいたところを、エーデルワイスに襲われたのである。樹幹にはあのときの矢が突き立ったままになっていた。それを見たエーデルワイスが渋い顔をする。

「あなたが避けるから、木に傷がついちゃったわ」

「無茶云うな」

 アイネスはそうぼやきながらも、大樹の根元に自分のリュックを見つけて笑顔を広げた。が、それはすぐ失望に変わる。干し肉や小麦粉といった食糧が散乱していて、ほとんど駄目になっていた。アイネスの後ろからエーデルワイスが荷物を覗き込んで云う。

「動物たちに食べられちゃったのね」

「まあ、仕方ない」

 食糧以外のものは無事だった。それだけでも僥倖とするべきだろう。あとは短剣だ。

 薄暗い森のなか、アイネスは地虫を求める鳥のように下ばかり見ながら辺りを探し歩いた。だがどうしても見つからない。そのうちうっすらとした靄が出てきた。この靄が濃くなるようなら諦めようか。そう思ったとき、エーデルワイスが小腰を屈めてなにかを拾い、アイネスに明るい表情を向けた。

「あったわ」

「エーデル」

 アイネスは感嘆の面持ちで手を差し出した。そこにエーデルワイスが短剣をのせる。まさしく自分のものだ。鞘にぴったり収まる。

「おまえってすごいな」

 そう手放しで誉めると、エーデルワイスはふっと微笑を咲かせた。

「これで満足したでしょう? さっさとベルギアってとこに行くわよ」

「ああ」

 アイネスは満面の笑顔でうなずいた。


 ところでアイネスはいい加減に喉が渇いていた。エルフの里から林檎を数個と水を入れた水筒を持って出てきたのだが、もうとっくに平らげてしまっている。そのことを訴えるとエーデルワイスは諦めたように嘆息した。

「いいわ。近くに川が流れてるから、そこまで行きましょう」

「川? もしかしてヒストリア川か?」

「名前なんかないわ。川は川よ。でもあそこはよく人間の船が行き交ってるから、あまり近づきたくない場所ね」

 してみるとやはりヒストリア川だろう。川に出ればもう迷うことはない。アイネスは気楽な気持ちでエーデルワイスとともに森を進んだ。やがてせせらぎの音が聞こえてくる。川だ。アイネスは顔を輝かせて足を早めた。行く手に光りが満ちている。

 川辺は岩場になっていた。アイネスは丸一日ぶりのうららかな春の陽射しに目を細めながら、岩の縁まで行ってその向こうを覗き込んだ。ずっと下方に清らかな川が流れている。川の流れは全体として緩やかだが、そこは流れが急な場所らしく、水が岩にぶつかって白い泡を立てていた。足場から水面まではかなりの高さがあり、手はとても届かない。

 諦めて岩の縁から離れたアイネスは、エーデルワイスとともに川沿いを南へ進んだ。いくつもの岩を越えていくうちに、だんだん足場が低くなっていく。やがてアイネスたちは手で水がすくえる場所までやってきた。

 アイネスは川の縁に両膝をついて座り、たらふく水を飲んだ。

 そのあいだエーデルワイスは高い岩に座って川を眺めていた。もし人間の船でも通りかかるようなことがあれば、腹いせに矢を打ち込みかねない雰囲気がある。

 手の甲で口元を拭ったアイネスは、そんなエーデルワイスを振り仰いでちょっと眉をひそめた。彼女をいたずらに刺激したいわけではない。だが水ばかり入れた胃袋にそれ以外のものも入れてやりたくなったのだ。だからアイネスは恐る恐る口を切った。

「なあ、火を焚いても構わないかな」

「火ですって?」

 エーデルワイスの顔が嫌悪に歪んだ。そんな彼女に向けて、アイネスは理解を求めるように両手を広げた。

「なにか適当に捕まえてくるから、焼いて食べようと思うんだ。腹が減ったんだよ。人間はエルフと違って肉を食べなきゃ生きていかれないんだ」

 エーデルワイスはなおもアイネスを冷たく見下ろしていたが、やがて金髪を風になびかせながら、川の方に視線を戻して唇を動かした。

「好きになさい」

「ありがとう。じゃあ、ここでしばらく待っててくれ」

 アイネスは荷物を下ろして身軽になると、単身森へ踏み込んでいった。


 しばらくしてから、アイネスは右手に褐色の毛皮をした兎をぶらさげ、左手に枯れ枝の束をかかえて、エーデルワイスのいる場所に戻ってきた。

 岩場に寝かされた兎を目にしたエーデルワイスは、その眼差しに憐憫を込めた。

「かわいそうに」

「そんなこと云ったってしょうがないだろう」

 アイネスは枯れ枝を短く折り、岩場の平らなところを選んで薪を組むと、リュックから小さな袋を取り出した。袋のなかには植物を乾燥させて砕いた黒い粉が入っている。アイネスがその粉を組んだ薪の下に盛っていると、エーデルワイスが高い岩から下りてきて、アイネスの手元を興味深そうに覗き込んできた。

「なにそれ?」

火口ほくちだよ。薪に直接火をつけるのは無理だから、まずこれを燃やして火種にするんだ」

 アイネスが火打ち石で火花を作ると、すぐに火口が小さな火柱をあげた。それに息を送り込んで火を大きくしていく。厭そうに身を引いたエーデルワイスに、アイネスは訝しげな眼差しをあてた。

「エルフだって火くらい使うだろう?」

「おあいにくさま。私たちには火を用いる文化なんてないの」

「だったらその剣とか、鏃とか、どうやって拵えたんだよ」

「これはドワーフ……あなたちの云う鉄人から買ったのよ」

 そう云ってエーデルワイスはベルトに吊るしてある細身の剣の柄に繊手をかぶせた。アイネスは納得がいかずに眉をひそめた。

「人間は駄目でも鉄人ならいいのか? あいつら、木を燃やして火をばんばん使うぞ」

「でも彼らは森を侵したりしない。人間に比べれば遙かにマシだわ」

 そこで言葉を切り、エーデルワイスは手で口元を覆った。

「どうした?」

「煙の匂いって、いつ嗅いでも厭なものだわ」

「それは人間も同じだ。咳き込むし、目がしみるし……」

 アイネスは火の勢いが増してきたのを見ると、視線を兎に転じ、右手でおもむろに短剣を引き抜いた。エーデルワイスが顔色を変えた。

「ちょっと、なにする気?」

「捌く」

 アイネスが短く答えた途端、エーデルワイスは爪先立ちになって後ろに飛び退いた。その美しい顔に信じがたそうな表情が広がる。アイネスはさすがに渋面をつくった。

「まさか肉を捌くところも見たことがないなんて云うんじゃないだろうな?」

「ないわよ」

「どういう暮らしをしてきたんだ」

「エルフは人間みたいな食事はしないって云ったでしょう! お日様の光りと綺麗な水があればそれでいいの!」

 エーデルワイスは腕を組み、つんとそっぽを向いてしまった。

「で、たまに甘い物が食べたくなって、林檎や花の蜜を集めたりする?」

「そうよ」

「なるほどな」

 アイネスは兎の耳を持って立ち上がり、水際まで歩いて行くと、そこに改めて兎を横たえ、短剣でざくざくと切り分け始めた。頭を落とし、内蔵を出し、胴体に切れ目を入れてそこに指をかけ、毛皮を力ずくで剥いでいく。まもなく兎は茶色い毛の塊から赤い肉の塊へと姿を変えた。内臓や他のものは川に捨てた。きっと魚が処理してくれるだろう。

 アイネスは仕上げに川の水で肉の血抜きをしてから焚き火のところに戻った。

 火から遠く離れた場所に膝を抱えて座っているエーデルワイスが、アイネスに冷たい視線をあててくる。

「なんだよ?」

「人間って野蛮だわ」

「そんなこと云われてもなあ」

 アイネスは短剣で先を尖らせておいた木の枝に肉を刺し、火で焼いて食べた。エーデルワイスは兎を食するアイネスを遠巻きにして眺めている。


 食事を終えたアイネスは、エーデルワイスを近くに呼び寄せ、岩場の上にトリフェルドの街で買った地図を広げた。織物の地図で、ヒストリア川を中心とした周辺の地理が模様として織り込まれている。

「汚い地図ね」

 アイネスの傍に膝をついたエーデルワイスは、地図を覗き込みながら触れるのも厭そうに云った。たしかに地図はかなり汚れて黒ずんでいる。

「安かったんだ。でも分厚い布地だし、元は高価な地図だったと思う」

 云いながら、アイネスはまずトリフェルドの街を指差した。そこからヒストリア川沿いに指を地図の下方に滑らせ、森を抜けた先にある都市を示す。

「ここがベルギア竜王国の首都ベルンだ」

「森を抜けてすぐじゃない。これなら明日の朝には辿り着けるわね」

「そうなのか?」

 アイネスが地図から顔をあげて訊ねると、エーデルワイスは爪が真珠のように光る指尖ゆびさきである一点を指した。

「この地図が正確なら、今だいたいこの辺りよ」

 ヒストリア川の西側で、森の南、ベルンにほど近い場所だった。

「ふんふん、確かに一日の距離だな」

「わかったら出発しましょう。もたもたしてると日が暮れてしまうわ」

「よし、行くか」

 アイネスは焚き火を踏みつけて消すと荷物を纏めてリュックを背負った。それから剣の具合を確かめ、準備万端調ったとばかりに振り返る。エーデルワイスは両手に掬った川の水を焚き火にかけて、念入りに火を消しているところだった。


        ◇


 二人は川沿いにひたすら南進し、翌日の昼過ぎに森を抜けた。

 太陽に照らされたアイネスは、鬱蒼とした森から解き放たれた欣快そのままに両手を高々と突き上げて叫び声をあげた。その傍らでフードに髪を詰め込んでいたエーデルワイスが顔をしかめた。

「うるさいわよ」

「悪い悪い。でも気分がよくてな」

「私はあまりよくないわ」

 その声が本当に張りをなくして聞こえたので、アイネスは心配そうな顔を振り向けた。元々白いエーデルワイスの顔が、今はいつにも増して青ざめているように思える。

「森を出るのは初めてか?」

 そう訊ねると、エーデルワイスは目深に被ったフードの下で渋面をつくった。

「いけない?」

「怖いことはないぞ」

「別に何も怖くなんかないわよ」

 エーデルワイスはつんとして、アイネスの先に立って歩き出した。アイネスはその後ろを歩きながら、額に手で庇を作って行く手を眺めた。きらきらとひかる午後のヒストリア川が、森を出て少しのところで大きく東へと流れを変えている。その急な曲線の手前に、ベルンのずんぐりした赤い城壁が見えた。

「あそこ、あの赤い城壁のところに行くんだぞ」

「解ってるわ。地図を見せてもらったんだから」

「なら、いいんだ」

 アイネスは歩調を早めてエーデルワイスに追いつき、並んで歩き出した。

 道々、エーデルワイスは遠くの風景ではなく、足元を注視しているようだった。川に近いせいか土は水気を帯びて黒々としている。だが草はまばらで、灌木や藪もぽつぽつと生い茂っているに過ぎない。視線を遠くに転じれば、黒々とした沃野が、乾きひび割れた砂の色へと変わっていくのが瞭然としていた。そして遙か遠方には峨々たる灰色の山並みが霞んでいる。

「この辺りの土地はどうもよくないわね。緑に見放されてる感じがするわ」

「川の流れのせいじゃないか」

 アイネスは云いながら、ベルンの赤い城壁とヒストリア川を指差した。

「あの川、ベルンを行き過ぎたところで東に大きく曲がってるだろう。その先はもう隣国なんだよ。ロマーナ瑞雲国っていう」

 つまりヒストリア川はベルギアにほとんど恵みをもたらさない。

「風も乾いてるし、どうも水の神様はベルギアが嫌いと見える」

「あまり好きじゃないわ」

 エーデルワイスは憂鬱そうな声を漏らして、若草色のフードを背中に落とそうとした。その手がふと強張る。行く手に男が立っていた。ぼろを着た髭面で、右手に棍棒を持っている。アイネスとエーデルワイスは同時に足を止めた。と、今度は左手の藪から別な男が二人飛び出してきた。一人は剣を手にアイネスたちの後方に走った。もう一人は素手だが筋骨隆々とした禿頭の大男で、動物のような感情のない目をアイネスたちに据えている。そして気がつけば右手にも二人の男が立っていた。五人の男は、ゆっくりと包囲網を狭めてきた。

 エーデルワイスが矢筒に手を伸ばしながら、あたりをぐるりと見回す。

「なんなの、こいつら?」

「無法者だ」

 アイネスはリュックをその場に落とし、剣を抜いて構えた。

「無法者? なにそれ?」

「追い剥ぎ、強盗、食い詰めた傭兵。そういう類だ。街道で人を襲って生計を立てている」

「なにが怖いことはないよ、嘘つき!」

 エーデルワイスが後ろを向いて弓に矢をつがえる。アイネスはその彼女と背中合わせに立って、素早く考えを巡らした。自分一人なら地形を利用してどうとでも立ち回れるが、エーデルワイスを守りながらとなると、彼女の弓矢にも頼らなくてはなるまい。

 アイネスが戦術を立てていると、髭面の男ががらがら声を出した。

「金と女を置いていきな。そうしたら兄ちゃんの方は見逃してやるぜ」

 背中合わせになったエーデルワイスが凍りつくのがわかった。

「エーデル」

 アイネスがそう声をかけても返事がない。もう無法者たちとの距離が狭まっていたので、目を切るわけにもいかず、アイネスは振り返らずに小声で語りかけた。

「五人に同時に襲いかかられたらまずい」

「だから?」

 反応があったことにほっとしながら、アイネスは早口で続けた。

「この際、矢は当てなくていい。牽制してくれれば充分だ。足並みが乱れたところを俺が一人ずつ始末する。どうだ、やれるか?」

 エーデルワイスの返事よりも早く、髭面の男が声を放つ。

「そっちの姉ちゃんを引き渡す話し合いはついたのか」

「誰が渡すか!」

 アイネスが本気で腹を立てながら叫ぶと、それが合図になったのか、五人の男たちが雄叫びをあげて一斉に飛び掛かってきた。

 アイネスは前方の三人を一睨みした。左から棍棒を持った男、石を持った男、短剣を持った男だ。背後でエーデルワイスが弓を引く気配がする。この上は彼女を信じるしかない。

「頼むぞ、エーデル」

 アイネスは云って、不意を打つように飛び出した。狙いは真ん中の男だ。その男はアイネスが向かってくるのを見ると驚いたように足を止めたが、次の瞬間には雄叫びをあげながら、両手に持った石をアイネスの頭部目がけて振り下ろしてきた。アイネスはこれを難なく避けると男の首を鮮やかに斬り飛ばした。血しぶきが爆けた。

 アイネスは次の標的を見定めようとして、思いがけない光景を目にした。エーデルワイスが既に二人の敵を倒していたのだ。素手だった禿頭の大男はもんどりうって倒れ、もう一人の剣を持っていた男も、喉笛に矢を突き立てられて今まさに倒れようとしている。

 ――さすがだ!

 アイネスが心のうちでそう快哉を叫んだとき、エーデルワイスが肩越しに振り返ってアイネスに冷たい視線をあてた。その目を見た瞬間、あるいはその目に見られた瞬間、アイネスは次に彼女がどういう行動に出るのか、わかってしまった。

 果たせるかな、エーデルワイスは片手でフードを押さえながら、アイネスがいるのとは反対方向に駆けだしていく。裏切られた。いや、信じてもらえなかったのだ!

「待ちやがれ!」

 短剣の男がエーデルワイスを追って走った。まずいと思って後を追おうとしたアイネスに、髭面の男が「おりゃあ!」と棍棒で殴りかかってくる。それをかわしたアイネスは剣を鋭く大振りした。これは空を切ったが、相手の面上に怯えの浮かんだのを見て、アイネスは身を翻し、エーデルワイスを追って駆けた。その背中が遠い。

 エーデルワイスは健脚を発揮して軽やかに走っていく。だが倒れている大男の傍らを駆け抜けようとしたとき、その大男がむくりと身を起こし、エーデルワイスに肩からぶっつかった。矢を受けたふりをして、好機を窺っていたのに違いない。地面に押し倒されたエーデルワイスの口から猫のような叫び声があがる。激しくもみ合っているようだが体格が違い過ぎた。エーデルワイスはあっという間に抑え込まれてしまう。更にそこへ短剣の男が殺到していく。

 ――まずい、殺される!

 アイネスは心臓が張り裂けそうな想いで駆けた。しかし意外なことに、大男はエーデルワイスを殺さず、その肩に担ぎ上げた。いや、意外ではない。殺さないのは、女だからだ。エーデルワイスは足をばたつかせていたが、子供が大人に逆らうようなものである。大男と短剣の男はアイネスが追ってくるのを見ると、森を目指して一目散に駆けだした。

 追いかけようと加速をかけたアイネスは、そのとき視界の隅で髭面の男が自分のリュックを背負うのをたしかに見た。旅に必要な荷物が全部入っている。それを丸ごと盗んで、髭面の男は大男たちとは逆の方向へ走り出していく。

 だがアイネスは迷わなかった。

 エーデルワイスを取り戻す!


 エーデルワイスをさらった無法者たちは森に飛び込んでいった。街に住めない無法者は森や山裾にねぐらを構えていることが珍しくないのである。ここは角耳族が住むと知られる森だから深入りはしていないだろうが、それでも森のなかへ逃げ込まれたとなると厄介だ。

 森に入ってすぐ、短剣を持った男の方が姿を消した。エーデルワイスを担いだ大男も、動物のように木の間を縫って楽々と走っていく。一方のアイネスは木にぶつかったり根に足を取られそうになったりと苦闘していた。まもなく、エーデルワイスたちを見失った。声も聞こえない。

 だがまだ近くにいるはずだ。アイネスは自分をそう励まし、足音を忍ばせて走った。

 やがて森の静寂の影から、細切れの悲鳴が聞こえてきた。木の陰からか、それとも茂みの向こうからか。ふたたび声がする。今度ははっきり聞こえた。アイネスは焦る気持ちを怺えて足音を立てずに進んだ。

 そしてアイネスは大きな木の根元に、エーデルワイスと、その上にのし掛かっている大男の後ろ姿を発見した。エーデルワイスが必死に閉じている膝の間に、その巨体を無理に割り込ませようとしている。エーデルワイスは錯乱した様子で男を殴っていたが、男は小揺るぎもしない。細身の剣は取り上げられたのか、鞘ごと脇に投げ出されている。短剣の男の姿は見あたらない。

 アイネスは大股で二人に近づいていった。そのとき業を煮やしたのか、大男がエーデルワイスの喉を乱暴に掴んで揺さぶった。

「じたばたしやがると、ぶっ殺すぞ!」

 エーデルワイスがひっと息を呑む音が伝わってきた。その拍子にフードが落ちる。すると今度は、男の方が凝然として動かなくなった。そして。

「角耳!」

 大男が驚きの声をあげてエーデルワイスから飛び退いた。その瞬間、アイネスは忍ぶのをやめて裂帛の叫びとともに男の背中に剣を突き立てた。男の喉から恐怖とも苦痛ともつかぬ絶叫が迸る。だがそれは男がもがき暴れ、自ら傷口を広げていくうちに勢いをなくして、耳を覆いたくなるような呻き声へと変わっていった。

 やがて男が横倒れに倒れると、アイネスはその体を転がして俯かせ、背中に足をかけて剣を引き抜いた。そして鮮血淋漓としたその剣を、今度は男の首筋めがけて叩きつけた!


 剣に空を切らせて血を振り飛ばしたアイネスは、呆然とした様子で土の上に座り込んでいるエーデルワイスに顔を向けた。

「大丈夫か?」

 エーデルワイスは放心したような顔でアイネスと、息絶えた男とを交互に見た。それからその美しい顔をくしゃくしゃにして泣き出した。

「ああ、よしよし」

 アイネスはエーデルワイスの傍にしゃがみ込み、剣を片手にその頭を撫でてやった。


 エーデルワイスが泣きやむと、アイネスは木の根に腰掛けて剣の手入れを始めた。そのあいだにエーデルワイスは細身の剣をベルトに留め直し、体のあちこちを点検している。アイネスは剣を鞘にしまうと立ち上がり、エーデルワイスを咎めるように見た。

「なんで逃げたんだ」

 するとエーデルワイスはやにわに目を険しくした。

「だってあなたは人間だもの」

「だから保身のために、俺がエルフのおまえを奴らに引き渡すと、そう思ったのか」

 図星を指されたのか、エーデルワイスは気まずそうに顔を背けた。しかし大男の死体に目を留めると、ふたたび鋭い目つきになる。

「この野蛮な男も、あなたと同じ人間だわ」

「人間にも色々だってわかれ」

 エーデルワイスが視線で切りつけてくる。アイネスはそれを受けて睨み返した。だが、やがて馬鹿馬鹿しくなって嘆息した。

「もういい。森を出よう。案内してくれ」

「待って。弓をどこかに落としちゃったわ」

「どこかに落ちてるだろ。運がよければ見つかる」

「なによ、その云いぐさ」

 エーデルワイスが柳眉を逆立てて鋭く息を吸う。言葉の矢を射掛けられる前に、アイネスは上体をねじって背中を見せた。

「俺なんか荷物をまるごと奪われた」

「あら」

 エーデルワイスは初めてそのことに気づいたらしく、目を丸くした。

「ちなみにおまえのせいだ。おまえを助けようと思って追いかけてきたから、他の無法者に持って行かれたんだ。弓は拾えるかもしれんが、俺の荷物はもう二度と戻って来ない」

「それは悪かったわね。でも恩着せがましい男は嫌いよ」

 エーデルワイスは胸の前で腕を組み、つんとそっぽを向いた。

「礼くらい云ってくれてもいいだろう」

 すると意地を張るように瞑られていたエーデルワイスの目が開かれた。エメラルドグリーンの瞳がアイネスをじっと見つめる。

「ありがとう」

 森の静けさに吸い込まれそうなくらい小さな声だったが、確かに聞こえた。

「どういたしまして」

 アイネスがにっこりとわらったとき、エーデルワイスが愕きに打たれた顔をした。

「アイネス、後ろ!」

 その叫びを聞くが早いか、アイネスは前のめりに跳んでいた。土の地面に転がりながら体をねじると、先ほどの無法者の一人で、短剣を持っていた男の姿が目に飛び込んでくる。咄嗟に剣の柄を握るが、体勢が崩れていてうまく抜けない。男が先の曲がった片刃の短剣を逆手に持ち、アイネスに躍りかかってくる。

 その直後、男の顔が苦痛に歪んだ。細身の剣を腰だめに構えたエーデルワイスの、電光石火の突きが男の腹部に放たれたのだ。だが浅い。男が獣じみた声とともに身をくねらせると、剣はあっさり抜けた。

「ひっ! ひっ……!」

 男は顔を恐怖に引きつらせながら身を翻した。だがその逃げ出す足取りはおぼつかなく、すぐに木の根に躓いて転んでしまった。それを見たアイネスは思わずこう罵った。

「なぜ襲ってきたんだ、馬鹿め!」

 無論、男に答える余裕などない。深閑とした森の大気にあって、男の濁った苦しげな呻き声だけが聞こえる。アイネスとエーデルワイスの視線が合わさる先で、男は這って前に進もうとしていた。

 エーデルワイスがアイネスに視線をあてた。

「どうするの?」

「殺そう」

 アイネスは戦士の性から実直にそう答えていた。アイネスのなかで天秤は傾いてしまった。催しかけた惻隠の情は消えてしまった。アイネスはまなじりを決すると歩を運び、逆手に持ち替えた剣を男の背中、心臓の位置に狙い定めた。

 そのとき、エーデルワイスがなにかに気づいたように声をあげた。

「こいつ手がないわ」

 アイネスは這い進む男の両手を見た。その左腕の手首から先が、たしかにない。だが珍しいことではなかった。

「盗みを働いたんだろう。それで罰として左手を切り落とされたんだ」

「どうしてそんなことするのよ?」

「泥棒の手は切り落とす。人間の社会じゃ、どこでも同じだ」

 するとエーデルワイスは、一拍おいてから表情に義憤のようなものを漲らせた。

「そんなのおかしいわ!」

 目をまん丸にするアイネスに、エーデルワイスは甲高い声で食ってかかる。

「だって片手じゃ、できる仕事も限られてくるでしょう? だったら心を入れ替えて真面目に働こうとしても上手くいかなくて、結局また盗みに手をつけてしまうんじゃないの?」

「盗人がそう簡単に心を入れ替えるとは思えないが、もちろん、そういう例もあるだろう。そして二度目の罰ではもう片方の手も切り落とされる。それを嫌がって法の裁きから逃げ出す奴は多い」

「逃げたらどうなるの?」

「法を拒絶した者は法に追放され、二度と法の守護下に入れない。無法者として人間の社会から永久に締め出される。だから俺たちがこいつを殺したところで、俺たちを罰する法はないわけだ」

 アイネスはふたたび冷ややかな眼差しを男の背中に置いた。さっきより少し這い進んでいるが、アイネスにしてみれば楽々と追いつける距離だ。だがその距離を詰めようとしたところで、エーデルワイスがさらに噛みついてきた。

「社会から永久に締め出されると云ったわね? それが解っていて、どうしてこんな取り返しのつかない罰を与えるの? そんなだからこの人たちは街にいられなくなって、人を襲うようになるんじゃない! 悪循環よ!」

 アイネスは目から鱗が落ちる思いだった。

「一理ある……が、おまえはもしかして、こいつを庇っているのか?」

「別にそういうわけじゃないわ。殺すならさっさとなさい。私は目を瞑っているから」

 エーデルワイスは細身の剣を鞘にしまって胸の前で腕を組み、不愉快なものは見たくないと云わんばかりに目を瞑ると、つんとそっぽを向いてしまった。それでも怒りは持て余しているようで、唇からは苛立たしげな呟きが溢れてくる。

「この野蛮な男たちも、こういう男たちを増やしてる人間の社会も、どっちも最低だわ!」

 なおも続くエーデルワイスの罵言を聞いているうちに、アイネスはすっかり殺意を削がれてしまった。男は生きようともがいて、必死に地面を這っている。血の流れている量から推してすぐには死ぬまい。だが腹をやられたのだから、助かる確率は五分五分であろう。

 アイネスは男が木下闇に消えていくのを見送り、剣を鞘におさめた。エーデルワイスが目を開けた。

「それでよかったの?」

「たまにはな」

 アイネスはそう答えて肩をすくめた。


 しかし、このあともエーデルワイスはしばらく不機嫌だった。住み慣れた森を出たところで、いきなり人間に襲われたあげく、さらわれ、乱暴されかけ、あげくにそういった無法者を生み出しているのが人間社会の缺陥けっかんゆえだと識ったのだから、これは無理もない。

 アイネスもそこのところを理解していたから、繰り返される愚痴と小言を黙って受け止めていた。

 だがやがてエーデルワイスもさらわれた仲間のことを思い出した。すると皆の安否が気がかりで居ても立ってもいられなくなり、気を取り直して出発した。森を出たところで幸運にもなくしていた長弓を拾い、エーデルワイスはようやく機嫌をなおしたのだった。

 それから二人は元々の道程を辿り、午後のだいぶ遅い時間にベルギア竜王国首都ベルンに到着した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る