第4章

 朝の光に優しく起こされ目を覚ますと、彩乃はベッドに一人で横たわっていた。

 隣に俊介の姿が無い。半身を起こそうと布団に右手を付いた時、鈍い痛みを感じ、見ると指に白い包帯が巻かれていた。それを見て、昨夜の出来事が頭の中にぼんやり浮かんだ。

 見知らぬ神社、薄気味悪い小柄な老人、そして薄桃色の、人魚。

 ブラインドの上がった窓は開け放され、そこから夏の太陽が明るく差し込み、その向こうで背の高い笹薮が互いにもたれ合いながら風に揺れ、海のような音を立てている。その窓辺に、老人が俊介に持たせた風鈴が掛かっていたが、部屋に風は吹き込まず、ガラス玉に下がった紙の短冊たんざくは、そよぐことも無く音もせず、ただ柔らかい光を通し、絵の具で描かれた真っ赤な金魚が、空を泳ぐように見えるだけだった。

 この爽やかな朝の景色の中では、もはやすべてが彩乃の味方で、恐れるものなど何もないように思えた。

部屋のドアはストッパーで固定され、大きく開かれている。明るい廊下が見え、そして階下から小さくテレビの音声が聞こえてくる。

 彩乃は立ち上がると、ベッドの傍に揃えて置かれた客用スリッパに足を入れ、それから部屋を出て行った。

 リビングへ入っていくと、こざっぱりとした服に着替えた俊介が、カウンターキッチンの中にいた。そして彩乃の姿を見つけると、いつもと変わらぬ笑みを浮かべて言った。


「彩乃、おはよう」


 誠実で、優しい笑顔。それを見て、彩乃は心から安心した。俊介は、少し腫れぼったい彩乃の素顔をじっと見つめた。それから包帯の巻かれた右の手を、大事そうに両手ですくいあげた。


「痛くない?」

「うん」

「よく寝れた?」

「うん、ぐっすり。……俊介、ひょっとしてここで寝たの?」


 ソファーに目をやり心配そうに訊ねる彩乃に、俊介は首を横に振り、少し照れた様子で答えた。


「なんだ、一緒に寝たのに覚えてないの?」

「え?」

「俺の腕枕で、ちゃんと寝てたよ。……可愛かった」

「そうなの?え、もしかして俊介……」


 驚いたように目を丸くする彩乃を見て、俊介は慌てて否定した。


「ち、違うよ、まだ何にもしてない。腕枕だけ。なんていうかその……もったいなくて」


 もったいないという表現が可笑しくて、彩乃は思わず吹き出した。


「俊介は、だいぶ早くに起きてたの?」


 そう言われて、俊介は少し口ごもった。


「う、うん……そうだね」


 早朝に、俊介は下着の中の違和感で目が覚めた。そして長い奇妙な夢の余韻を拭い去るため、そっとベッドを抜け出し、熱いシャワーを浴びた。

 部屋に戻ると彩乃は良く眠っていて、それをしばらく見守っていたが、それから階下に行って、一人でニュースを見ながら彩乃が起きるのを待っていたのだ。


「彩乃、朝食はパンで良い?」


 気恥ずかしくなり、俊介は握っていた彩乃の手を離すと、そそくさとキッチンに戻り、電気ポットに手を掛けた。


「あ、うん。私やるよ?」

「いいよ、包帯してるし」

「そ、そうだね、ごめん……。じゃあ、その間に着替えてお化粧してくる」


 急に素っ気なくなった俊介の態度に、彩乃は自分の腫れぼったい寝起き顔が、俊介を不快な気分にさせたのかと思い、慌てて二階に戻ろうとした。しかしそれを俊介は引き止めた。


「良いよ、化粧なんかしなくても。そのままで、そこにいて」


 マグカップを二つ用意しながら、目を合わせないように言ったけれど、それは俊介の本心で、素のままの彩乃でいて欲しいと思った。髪に寝癖が付いたままの、隙だらけの彩乃が良かった。

 彩乃は戸惑いながらも小さくうなずき、それからソファーに座って、手際よく朝食の支度を始める俊介を見つめていた。

 そして遅めの朝食を済ませた後、二人は今日はもう特別な外出はしないと決めて、午前中はソファーに並んでのんびりとテレビを見て過ごした。

 特に弾んだ会話もなかったが、退屈な主婦向けの番組を見ながら、レポーターのちょっとした言葉に笑ったりしながら平和に時間は過ぎて行く。そして正午を過ぎる頃には、彩乃は自然に俊介の肩にもたれるようになっていた。

 南向きのリビングが、急に暑くなったような感じがして、俊介はまたそわそわと落ち着きを失い始めた。まだ空腹感はなかった。そして夜には長かった。


「庭に涼みに行こうか」


 俊介は思いついたようにポン、と自分の両膝を叩くと立ち上がった。

 彩乃はこのまま二人で寄り添っていたいと思ったけれど、素直に「うん」と頷くと、俊介に従った。

 昨夜、暗がりの中で歩きながら見た、敷地を囲う長い生垣。動物病院の表門。そういえば蔵があると言っていた。一体、どれだけ広い庭なのか、彩乃は見たいと思ったのだ。

 

 玄関を出ると、昨日の雨をたっぷりと吸い込んだ芝の匂いと、眩しい夏の太陽に、彩乃は思わず声を上げた。


「ああ、気持ち良い」


 大きく伸びをし、深呼吸する彩乃を見て俊介はホッとした。

 手入れされた芝の向こうに笹薮が鬱蒼うっそうと茂り、そこを風が通ると涼しい空気が体の熱を優しく癒した。

 午後の一番暑い時間だというのに、不快感は全くない。唸るような蝉の声が耳を圧し、まるでどこか山奥の避暑地に来たかのようだった。

 その時、風鈴の音が耳に届いた。

 二人同時にハッと振り向き、音の方を見上げると、俊介の部屋の軒下にぶら下がった風鈴が、身をよじるように揺れていた。

 彩乃は黙り、しばらくそれをじっと見ていた。

 頭に浮かぶ、昨日の光景。

 彩乃が風鈴を鳴らす度、舞い狂う白い……


「ねえ、俊介……あの子、どうした?」


 一瞬、言葉に詰まる俊介。そしてその問いに答える代わりに、俊介の正直な視線が窓辺の風鈴から玄関傍げんかんわきの睡蓮鉢に、戸惑いがちに流れていった。

 彩乃はその意味を理解して、小さくため息をついた。そして蓮の葉に覆われた大きく深い青の鉢を、二人でしばらくじっと見ていた。


「あの……金魚は、あれはその……大丈夫だと思うんだ……」


 俊介は敢えてあの子とは言わず、金魚と言った。

 人魚という言い方もしなかった。


「そう……それなら良かった」


 彩乃はそれだけ言うと、芝の上の飛び石を、ポン、ポン、と一歩ずつ、飛ぶように歩き始めた。


「あ、待ってよ」


 その後を俊介が追っていく。

 また少し風が吹き、風鈴が呼び止めるように小さく鳴った。

 その音に俊介がもう一度ふり返ると、睡蓮鉢からあふれ出るほど茂った丸い葉が、ザワザワと揺れているように見えた。



 



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睡蓮鉢に棲む人魚 青山羊 @Azuki

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