第7話

雨は地面に向かって降る。コップからこぼれた水は、床を濡らす。誰に教えられたわけでもないが、テルルはずっとそのように信じてきた。しかし、たった今テルルの目の前に浮かんでいる水滴は、テルルの皮膚から滑り落ちたにもかかわらず、舞い上がったり斜めに飛んだり、好き勝手な方向を泳ぎまわっている。テルルは新たな現象の発見を、心から喜んだ。


「これは、落ちてるのか浮いてるのか、どっちなんだ?」


 セレンは体を縮め、抱えた膝ごと回転しながらつぶやいた。


「わかんないね。上も下もない」


 テルルの目は好奇心で七色に輝き、頬が熱く上気していた。髪の毛を伝った一滴の雨粒が、透明な球になって栗色の毛先を離れ、シャボン玉のように浮かんだ。テルルが指先で球に触れると、雨粒の表面がへこんで楕円にひしゃげ、しばらくするとまた元の形に戻った。


 テルルとセレンは、漆黒の宇宙空間を漂っていた。闇色の海水が茫洋とたゆたう波間に、金銀に瞬く星々がきらめいている。青く輝く恒星、表面に縞模様が刻まれた惑星、穴ぼこだらけの小惑星の集団―それらすべてが、目の前にあるように感じられた。テルルは黄色い尾を引く彗星の軌跡を聴き、セレンは木星を覆う霧の匂いを嗅いだ。


「凄いや。ぼく、どんどん大きくなるよ」


 四肢を広げたテルルの体が引き伸ばされて、何倍にも膨らんだ。膨らみ過ぎて破裂し、ばらばらになっても、またかけらを寄せ集めて一つになる。テルルはパン生地のように、ねじれたりゆがんだり、丸まったりした。


「セレン、どこにいるの?」


 テルルが見回してもセレンの姿は見えず、代わりに声だけが聞こえた。


「見つけられるもんなら見つけてみろ。おれは砂粒よりも小さくなれるんだ」


 セレンの声に従って、膨らむ一方だったテルルは縮み始めた。


「隠れん坊は苦手だよ」


 テルルの身長が半分になり、赤ん坊と同じ大きさになり、蟻の巣穴に入れるほど小さくなった。テルルの頭の上を、臙脂色の円盤が群れになって通り過ぎて行く。円盤の中央はくぼんでいて、くぼみに手を入れると、触れた場所から、すうっと鮮やかな赤色が染み出した。


 テルルは、試験管に捕獲された微生物のように動き回った。らせん状に絡み合った二本の縄をよじ登り、分子が結合しては電離する様を見た。しかし、求める姿は何処にもない。テルルの呼吸が浅くなった。エントロピーが増大し続ける世界は、物音に満ちていた。細胞は分裂するたびに小声でささやきあい、ゾウリムシの繊毛がせわしなく蠢いている。鼓膜を叩く音の洪水とは対照的に、テルルの肌を孤独がじわじわと侵食していった。テルルはこの感情の名前をまだ知らなかった。ただ、鳩尾のあたりが冷たくなっていく感覚だけがわかった。テルルの心に焦りがくすぶり始めた。


 テルルは、手始めに母を思い出すことにした。自分を体ごと包んでくれる柔らかい肉体と、蜂蜜を溶かしたお湯の匂いがするエプロン、そして緩く編んだ金色のほつれ毛を思い浮かべた。テルルが目を一度閉じてから開くと、そこには母がいた。テルルは思わず呼びかけていた。


「ママ」


 しかし、テルルの声は届かなかったようだ。テルルがその姿をよく見ようと目を凝らせば凝らすほど、母は薄れ、ほどけて闇に溶けてしまうのだった。

 次に、テルルは父を思い浮かべた。


「パパ」


 テルルが作り上げた父は、てらてらした丸顔と、だいぶ後退した栗色の髪をなびかせていた。海に生きる漁師でありながら、気が小さく、繊細な父。テルルに対して一度も声を荒げて叱ったことのない、優しいばかりの父。テルルは精一杯父の幻影を留めようとした。しかし、テルルの焦りに反して、父も母と同じように、そそくさと姿を消してしまうのだった。


 テルルは途方に暮れた。同じ色の瞳を持ちながら、決して視線が合わない兄。薄く細くなった白髪を、いつも固く束髪にまとめている祖母。どちらも、思い浮かべたそばから消えてしまう。祖母の丸い背中とイオディンの冷たいまなざしの残像が完全に失われた後に、青灰色の毛並みが現れた。


「シアン」


 テルルの呼びかけなどまるで聴こえぬ体で、猫は暗闇の廊下を滑るように渡っていった。その小さな後ろ姿にすがるように、テルルはその後を追った。前のめりに駆ける途中で、何かに躓き、テルルは危うく転びそうになった。


 反射的に空を掻いたテルルの左手が、革の背表紙に触れた。指先でなぞる革表紙の列は、部屋の端から端まで、どこまでも続いているように見えた。テルルが詰めていた息をそっと吐き出すと、降ってきた埃のかけらがふわりと浮かびあがり、また床へ向かって沈んでいった。いつの間にか、追いかけていたはずのシアンの姿は消えていた。


 おんぼろの椅子は、座った人間が身じろぎするたびに軋みを上げて抗議する。椅子の主はランプの明かりに照らされて、禿げ頭を光らせていた。テルルの目の前に、いつか見た、懐かしい祖父の背中があった。


 ノックの音がして、書斎の扉が開いた。「お義父さま」と声を掛けて、ルビーが入ってきた。きっと、炊事の支度の真っ最中に追い立てられたのだろう。ルビーはところどころ油染みの出来た、皺だらけのエプロンを着けていた。


「お義母さまが、もう夕食ですって。そろそろ食堂に来てくださいな」

「ああ、わかった。今行くよ」

「テルルは私が連れて行きます」


 ああん、と祖父の腕の中からぐずる声が聴こえた。


「ほらテルル、ママのところへ行きなさい……本当にこの子は、本が好きなんだねえ。書斎から離れようとしないんだよ」


 目を細めるゲルマ爺さんの前で、ルビーは独り、複雑な表情をしていた。


「あの、お義父さま。お義母さまが、あまりテルルを書斎に連れ込まないでくださいって……」

「でも、書斎に行くとこの子はとても喜びますし、何よりお義父さまと一緒に居るのが一番嬉しいみたいなんですけど……でも、お義母さまが……」

「そうかい。それはすまなかったね」 


 エプロンの裾を揉んだりひねったりしながら、ルビーがぼそぼそと姑の言葉を読み上げる間、ゲルマ爺さんの目は努めて遠くを見ていた。


 テルルを抱いたルビーが大きな尻を振り振り、食堂へ向かっていく後ろ姿を見送って、ゲルマ爺さんは一度椅子から立ち上がった。が、すぐにもう一度座り直した。


 ゲルマ爺さんは机の引き出しを開けると、そこから古い紙箱を取り出した。時間の経過で形が歪んだ紙箱の蓋をそっと開けると、その中にはベルベットの切れ端に包まれた万年筆が一本、そっとたたずんでいた。あまり使われた形跡のない万年筆のキャップを引き抜くと、ペン先をインク壺に浸してインクを吸い上げる。長年眠っていたせいで滑りの悪いペン先を根気よく古新聞紙に滑らせる作業を続けるうちに、ゲルマ爺さんの両目が突然大きく見開かれ、やがて堪えきれぬ笑みが満面に浮かんだ。何かを思いついた時の表情だった。


 ゲルマ爺さんは再度机の引き出しを開けて、奥深くにしまい込まれていた紫檀の箱を引っ張り出し、その蓋を開いた。色あせた木箱の中には、何年か前に書いたまま忘れられた、三つ折りの紙片が入っていた。爺さんは黄ばんだ紙切れを慎重に開くと、最後のページの一番最後の行に、万年筆で何事か数行の文句を書きつけた。そして紙片を丁寧に畳むと、箱の蓋をしっかりと閉めた。


 ぱたん、と蓋が閉められたのと同時に、テルルの耳元で秋の嵐が唸っていた。屋根を叩く氷雨の音。漏った天井から垂れた雨の一滴がテルルのうなじに直撃し、テルルは思わず飛び上がった。


 同じ部屋なのに、書斎の空気は先ほどよりもずっと冷えていて、暗く、湿っぽかった。テルルのうなじに落ちた雨だれが背中を伝い、テルルはぞくぞくと身震いした。


 視界が、少し明るくなってはまたすぐに暗くなるという現象を繰り返しているので、テルルは最初ランプのろうそくが消えかけているのだろうと思った。しかし、すぐにその考えを改めた。


 書斎の中央に置かれた玉座に、主が座っていた。背中はつい先ほど見たときよりも明らかに薄く、細くなり、肺からは息をするたびに、ぜいぜいと喉をやすりで擦られているような音が聴こえた。書斎の主は、ふらふらと身体を前後に揺らしつつ、かろうじて自らの玉座にしがみついていた。頬がこけ、目は濁っていたものの、その全意識は目の前の本に向けられているようだった。


 やがて、その時がやってきた。ゲルマ爺さんは、ふと俯いていた顔を上げ、頭上を仰ぐような仕草をした。見上げた先には、天井から床までぎっしりと埋め尽くされた本たちがひしめいていた。ゲルマ爺さんは開いたままの本を手前に置き、一瞬、何かを探すような表情をした後、ゆっくりと机にうつ伏せた。ゲルマ爺さんの身体から力が抜け、放り出された両腕がだらりと垂れた。


「ああ」


その時、テルルにも何が起こったかわかった。ゲルマ爺さんは、既に停止していた。全ては終わった。無に帰した。祖父の生命は、もう、終わってしまっていた。


「あああ」


 テルルは後ずさり、書斎の本棚に手をついた。ざらざらした革表紙の感触が、手のひらに刺さるようだった。空気が刺すように冷たくなり、世界が閉じていった。壁が迫ってきて、空間がばたんばたんと折り畳まれた。テルルの身体は半分の厚さになり、四分の一になり、八分の一になり、さらに圧縮されていった。押しつぶされた肺と心臓が悲鳴を上げる。テルルは全身全霊を振り絞り、虚空に一声呼びかけた。


「セレン」


 応えは無かった。テルルは肩を落とし、どんどん小さく、見えないほどに小さくなっていった。肌は色あせ、体が厚みを失っていく。やがてテルルは揮発し、淡い気体となって拡散していった。


「もういいよ」


 この声に、テルルはにわかに輪郭を取り戻した。テルルは、両足に力を込めて空間を蹴り出し、走った。姿は見えなくても、存在の居場所は感じ取れた。


 テルルは闇を駆けた。永遠に続く暗闇の深淵を、銀色の鴫が渡っていく。光の粉を弾いて舞う鳥は、一瞬テルルの傍に寄ると、羽根の一振りで頬に伝った涙を散らした。鴫を見送ったテルルは、無意識に微笑んでいた。黒い髪と瞳は、もうすぐそこにあった。


「セレン、見つけたよ」

「思ったより遅かったな

二人の間を、乳色の塵が流れていった。濃淡さまざまなガスが集まって雲を作り、その雲が渦を巻いて一つの流れとなる。いくつも分岐した支流は、見えない引力に引き寄せられて光の帯となった。


楕円に巻いた銀河の中心で、巨大な熱の塊が燃えていた。紅色に燃え立つ太陽は、時折表面に炎の柱を吹き出しながら、星々を引き寄せては突き放す。太陽の操り糸にぶら下がった惑星たちは、それぞれの軌道を生真面目に進んでいた。まれに、二つの惑星がぎりぎりまで近づいたときは、互いにほんの少し軌道を逸れて会釈する。惑星たちはそれぞれの言語で会話していて、静寂に包まれているように見えた宇宙は、とてもにぎやかだった。


「みんな、繋がってるんだ……」


 テルルがつぶやいた。

 突如、セレンは胸に突き上げるような痛みを感じた。恒星が燃え、惑星が瞬き、彗星が走る広大な宇宙は、すべてが完璧に調和している。なのに、その中で自分だけが異質な存在に思えた。


「おれは、独りだ。独りぼっちだ。独りぼっちなんだ……」


 腹から嗚咽が沸き上がり、黒い髪が凍えて霜が降りた。セレンの足が震え、すくんだ指先を恐怖が這い上がってきた。喉が詰まり、視界がにじんだ。いびつで半端な自分が、あまりにみじめだった。


「ひとりじゃ、ないよ」


肩に手を置かれて、セレンは顔を上げた。


「ぼくがいるよ。ずっと、いるよ」


 肩から伝わる掌の温かさが、氷にひびを入れた。セレンは潤み、揺らいで、内側からじんわりと溶けだした。


「帰ろう。一緒に、帰ろうよ」


 テルルはセレンの手を取り、黒い帳の裾を掴んだ。重さも厚みも無い、闇色のカーテンの向こうから、夏の陽光が差し込んできた。二人の両手が、宇宙の帳を持ち上げる。まばゆさが双つの目を射し、弾みで滑り出した水滴が一粒、球になってきらきらと転がった。


「帰るよ、テルル。二人で、帰るんだ」



 

 さんざん大暴れした黒雲は、今や散り散りになって逃げ去った。雨で洗われた青空には、しみ一つない。地面はしっとりと濡れ、顔を伏せていた草花は元のひたむきさを取り戻しつつあった。太陽の光は黄色く、暖かい。大気に甘い香りが満たされ、蜜蜂がヒマワリの花の間を往来し始めた。


 頭のてっぺんから靴の底まで、テルルとセレンは水浸しだった。髪の毛がまぶたの上に張り付き、雨を吸った布靴がぐしゃぐしゃと間抜けな音を立てる。


顎から水を滴らせながら、テルルはセレンを、セレンはテルルを、生まれたばかりの赤ん坊のようにまじまじと見合った。

 

そして、二人で笑った。


       


(終わり)

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妖精の環 丸井山田 @tellurium52

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