第6話

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木立のカーテンを介さずに吹き付ける海風は、動く者にとってもはや暴力に近い。四方から見えない拳で殴りつけてくる風に、テルルは何度も体ごとあおられてはふらつきながら、道なき道を歩いた。時には地面に手をついて、四つん這いにならなければ崖にしがみついていられない。布靴の底を通して、足の裏に露出した岩の感触がごつごつと伝わってくる。ひとたび転べば、尖った岩肌で全身傷だらけになってしまうだろう。テルルは無意識に両足の親指に力を入れ、一歩一歩を踏ん張りながら進んだ。


上空では入道雲がいよいよその顔の黒さを増していた。猛烈な勢いでちぎれてはくっつくことを繰り返し、渦を巻いて巨大な雲の天井となった。あれほど明るかった世界は徐々に暗くなり、吹く風はぬるく、重苦しい。テルルから三歩ほど前を歩くセレンの髪に、海風の置き土産がこびりつき、あっという間に風で乾いて白い結晶になっていった。


突風の隙間から見えるセレンは、歯を食いしばり、唇を真一文字に引き締めて、前方をにらみつけていた。薄い皮膚を通してこめかみに静脈が浮き上がり、血流が熱く怒っている。一歩ごとに大きくなる一本松は、風にあおられて柳のようにしなっていた。


「見ろよ、あともうちょっとだ」


強風が海面を巻き上げ、波しぶきが細かい水滴となってまき散らされる。セレンは舌先で、顔にまぶされた海の塩をなめとった。テルルの耳奥で、遠い太鼓が低くとどろき始めた。


「あそこに、雲と地面の境い目があるんだ……松の木のてっぺんと雲はつながってるんだ……」


テルルの脳内を駆ける空想は、雷よりも足が速かったに違いない。視界に閃く稲光にセレンが身をすくめる脇で、テルルの瞳は金色に燃え上がり、とろんときらめいた。

一本松は、波に削られて階段状になった崖の先端にあった。階段を上ろうとしたテルルを制して、セレンが前へ出た。


「おれが先に行く」


雷鳴はますます近づいてきていた。この時、もし二人が眼下に意識を向けていれば、大急ぎで港に戻る漁船の群れを目にしていたことだろう。しかし、天の放電現象が引き起こす騒音は、セレンから意識を広げる余裕を奪っていた。今のセレンにとって、常にテルルより前に進むことと、震える両足を気取られないことこそが最優先事項だった。


一方、テルルは雷などまるで気に留めていなかった。テルルの頭はすっぽりと空想の繭に覆われ、ページを繰るのと同じ興奮を、踏み出す一歩に覚えていた。


突然、二人はつむじから両足の指先まで、全身の体毛が逆立つ感覚に襲われた。テルルの半歩前を行くセレンが思わず振り向いた鼻先を、紫色に輝く電流のしっぽがかすめていった。束の間、海鳴りと風の音、心臓の鼓動までもが聴こえなくなった。テルルとセレンは、足の裏が地面を離れ、わずかに浮き上がるのを感じた。


 世界が光で満ちた。二人は天を割った稲妻が、柱となって一本松を直撃する瞬間を見た。直後の轟音に、大気が砕けて飛び散った。一陣の熱い風が、どうと吹いた。地面が揺れ、衝撃が骨に響き渡り、いつまでも収まらなかった。視界は白く染まった後に暗転し、目を開けているのか閉じているのかわからなくなった。ぽかんと開いた二人の口に、大きな滴が一粒、また一粒と溜まっていった。


初めに戻ってきた感覚は嗅覚だった。樹脂の焦げた臭いが鼻を突いた。次に、視覚が息を吹き返した。松の幹に、電流が通った道筋が出来ていた。ひび割れた焦げ跡から白い煙が立ち上ると同時に、衝撃波が丸い輪になって広がった。空間を揺らめきながら進む波は、小石を割り、岩の隙間に生えた草をなぎ倒して、セレンとテルルの前方、胸のあたりに到達した。刹那、二人は仰向けに引っくり返った。ぶつけた背中の痛みで、二人の鼓膜は音を取り戻した。


 土砂降りの雨が二人の顔に降り注いでいた。しばらく、二人は死体のように崖に横たわったまま、身動きしなかった。


「おい、動けるか?」


 先に起き上がったのはセレンだった。遅れて痺れがじわじわと体を抜けていき、セレンは目をぎゅっと閉じてその感覚をやり過ごした。ぬるい雨が髪を濡らし、黒い筋となって額に張り付いていた。その傍らで、テルルは目を見開いた状態で硬直していた。まず、固まった指先が動き、肘が持ち上がり肩が動いて、ようやく上半身に脳からの指令が行き渡るようになるまで、結構な時間がかかった。


「ほら、起きろって」


 セレンに腕を引き上げられて、ようやくテルルは立ち上がった。相変わらずその口は開いたままで、どうやら閉める方法を思い出せないらしい。その姿を見て、セレンの唇の両端がわずかに持ち上がったが、本人はそれに気付いていなかった。


「あれ、何だろう……」


 テルルの右手が作り物のようにぎくしゃくした動きで、焦げ跡のできた一本松を指した。降りしきる雨の中、雷が引き裂いた幹の割れ目に、黒い渦巻きがくるくると回っていた。渦巻きは一呼吸ごとに大きくなり、環のかたちに広がって、止まった。渦の中心から夜空が吹き出し、黒いスクリーンのように揺らめいた。今度こそ本当に、二人は開いた口の閉じ方を忘れた。


 雷が砕いた天の割れ目から漆黒の宇宙が染み出して、いま、二人の前で環になって回っているのだった。


 テルルは、どちらかといえば過保護に育てられた子供だった。鋭いはさみも熱いヤカンも、すべてテルルが実際に触れる前に遠ざけられた。そのためテルルは、本人の責任ではないものの、世界に存在する危険と対峙した経験がほとんど無かった。だからこそ、テルルは得体のしれないもの、不審なもの、危険なものに向かって躊躇せずに飛び込んでいく、蛮勇の持ち主に成長した。夜空を包んだスクリーンは、ひらひらと蠢いてテルルを誘った。いつの間にか、大気は冷えきっていた。


 内に宇宙が広がる環は、大人一人が余裕を持って通れるだけの大きさがあった。テルルはふらふらと環に近づき、その中に片手を手首まで差し込んだ。


「おいお前、そこ、入れるのか……?」


 やっとのことでセレンが絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。開きっぱなしの口はからからに渇いている。対して、テルルの声は弾んでいた。


「入れる。向こうへ行けるよ」


 テルルは環の中に差し込んでいた手を、思い切って抜いた。入れる前と後で、その手は何も変わっていないようにセレンには見えた。テルルはもう一度、今度は両手を差し込んでみた。スクリーンの向こうに広がる冷たさが心地よかった。


「この先へ、行けるよ」


 もはやテルルの顔は半分、環に飲み込まれていた。耳元を抜ける彗星の息吹に頬をくすぐられ、テルルはくすくす笑った。


「おれが先に行く」


テルルの足がスクリーンに吸い込まれるのと、セレンが環をくぐるのはほぼ同時だった。夜空の水面に子供二人ぶんの波紋が広がり、しばらく揺らめいた後、消えた。


(続く)

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