第三章 消えた姉(未)



 十五年前。


 古くはあるが、歴史を感じさせるその外観は、傍目から見ても明らかに豪邸と呼べるそれで、ここに住む家族が裕福なことは優に想像できる。経退町と他の町との、ちょうど境に建っているその豪邸は、門をくぐると広い庭の中央にある噴水がまず目に止まる。そしてその奥には、鯉が飄々と泳げるほどの池も。全体的に和で統一された家は平屋で、正面から見ただけでは目測できないほどに、広く、大きく、堂々とそこに建っていた。

 西暦二〇〇〇年。八月九日。空は橙に染まり、辺りには夜の匂いが少しずつ漂い出していた。


「ねえ、お姉ちゃん大丈夫?」

「任せてよ、この間学校で習ったばっかりなんだから」

「もう、ちゃんと見ながらしないと危ないよ」

「わかってるって、ーーーーぁいたっ!」

「ほら、言わんこっちゃない。見せてお姉ちゃん」


 トントン、と小気味良く続いていた音が止む。小学生が利用するにはまだ早すぎるほどの、しっかりと設備の行き届いた台所で、少女は母親に喜んで貰うため、料理をしようとしているところだった。しかしやはり小学生。一度実習で経験した程度では足りなかったのだろう。案の定、指を切ってしまう。

 するとそこへ、ゆっくりと横開きの扉を開けながら母親が入ってくる。端正な顔立ちで、邪魔にならないようにする為なのか、肩のラインに沿って髪は短く切り揃えられている。年齢は三十代後半。

きちんとしていれば綺麗なその顔も、けれど今はひどく荒れ果て、やつれきっていた。何が原因なのか。主婦業か。夫か。はたまた目の前にいるこの少女か。


「……………なに、やってるの?」

「あ、お母さん。お母さんいつもお料理してくれてるから、たまには私が作ってあげようと思って。でも上手くいかなくて、手切っちゃった」

「どうして?」

「ごめんねお母さん。でもお姉ちゃんなら大丈夫。軽く切っただけだから、すぐ治るよ」

「………違う。…………違う違う!」

「お母、………さん?」


 頭をボリボリとかきむしりながら、段々と母親は鼻息を荒くしていく。その際、床には大量の髪の毛が抜け落ちていた。普段から異常なほどのストレスを抱えていない限りこうはならない。

 少女に向けられた顔は、最早親が子に向けるべき顔ではなかった。眉間に深く刻まれた皺。むき出しになっている歯。それはまるで鬼のようだった。

 一歩ずつ、おぼつかない様子でフラフラと少女に近付いていく母親。その手は拳を作っていた。


「私の場所なの。…………勝手に入らないで!!」

「ーーーーーーーきゃあっ!!?」

「や、やめて!何するのお母さん!礼花をいじめないで」


 何度も何度も執拗に。骨が砕けてしまうまで続くのではないかと思ってしまうほどに、母親は自らの拳で我が子を殴り続けた。あるべき家族の姿ではない。そこに躊躇も遠慮も一切存在していなかった。


「い、………痛い!痛いよお母さん!!やめてよ」

「あなたが悪いのよいつもいつも!私を苛つかせるから。どうしていつもそうなのよ!どうして私の望む通りに育ってくれないの!!」

「お願いだからもうやめて!礼花が可哀想だよ」


 それでもやめない母親。少女が感じている痛みももう限界を越していた。心に刻み込まれてきた傷のせいで、その心にはひびが入り、そして今日、大きな音を立てて砕け散った。少女の中に衝動が芽生えてからは早かった。


「嫌だ!やめて!こんなの私たちのお母さんじゃない!ぃや、ーーーーーぃやあぁああぁ!!!」

「お姉ちゃん!?」

「ーーーーッ!?…………え?なによ、これ……?」


 少女が握っていた包丁は、本来の用途とは外れ、今はこの母親の腹部を容易く貫いていた。まだ小学生である彼女には、それはあまりにも凄惨すぎる経験だった。

 母親の暴行から逃れるために、その強すぎる思いから起きてしまった惨事。薄桃色だった服が少しずつ真っ赤に染まっていく。少女自身、何が起きたのか全く理解できていなかった。

 そして不幸は重なる。母親が床にぐったりと倒れ込んでしまったちょうどその時、玄関には仕事を終え帰宅してきた父親の姿があった。

 これが、少女の悲劇の始まりだった。



■シンタ


「また来たんですか」


 十月二十五日日曜日。正午。

この場所は最早経退町ではない。全身の肌に纏わりつくようなジメジメとした空気。光の差し込む場所は三十センチ四方の天窓一つのみ。およそ学校の教室ほどの広さのあるこの場所に出入りするのは、俺くらいのものだろう。霧子でさえも、おそらくそれを知ることはできない。

塗装のはげた木材でできた白い椅子には一人の男が座っている。年齢は俺とほぼ変わらない。白いシャツに白いジーンズ。それだけならばまだしも普通の人間と大差ないのだろうが、この男の場合、顔色や髪の毛、更にはその瞳までもが、吐き気がするほど白く染まっていた。その顔はこれ以上ないほどの不気味な笑顔で飾られていた。

 商い通りでも、滅多に人の入らない通りがある。偶然辿り着けるようなところじゃない。明確な意思を持ってそこを目指そうとしない限り、ここに来ることはできない。その通りの突き当たりに一つだけあるマンホール。もちろんダミーだ。その蓋を開け、見える梯子をひたすら降りていく。そして足をつけたのが、今立っているこの場所だった。


「何度でも来るさ。お前が喋るまでな」

「いやぁ、ほんとに関心させられますね。僕が協会とこの町の探偵とのパイプ役だと見破ったのはあなたが初めてですから」

「お前の言葉は最初から最後まで、全てが嘘だったからな」


 すると男は立ち上がり、まるで操り人形のように不自然な動きでこちらへ近寄ってくる。地下室独特のカビ臭い空気が呼吸する度に俺の体を侵食していく。もうすでに、気がおかしくなりそうだった。


「僕の、名前は?」

「くどいぞ!」

「最初に会ったときに約束したじゃないですか。僕が人でなくならないように、僕が誰なのかを、あなたが、僕に、教えてくれるって。そのためには、僕には名前という記号が必要なんですよ」

「相変わらず反吐が出る」

「褒め言葉として受け取ります。さあ、早く」

「…………樺洲かばしま満州緒ままお。」

「これでまた、僕は人外にならずに済みました」


 いつもこうだ。こいつのペースからはどうやったって逃れることはできない。人を弄ぶような瞳は、色に反して輝きというものは一切存在していない。こいつは人であることを最初から投げ出している。寧ろ人外と、人害と呼ばずして何と喩えられよう。


「しかし残念ながら、協会について僕が申し上げられることは何もありません」

「てめぇ………!」

「と、いつもの僕ならば言っていたでしょう。でも今日は機嫌がいい」


 サイズの合っていないジーンズを引きずりながら樺洲はこの地下室内を歩き始める。

長居するわけにはいかない。本来人の来るべき場所ではない。人としての心が、人格が崩壊してしまいそうになる。それはまるで、倒錯的であるとも言える樺洲に対して、本能が拒絶しているかのようだった。


「最近仲の良い女の子がいるみたいですね」

「そんな奴はいない」

「安心してください。手を出そうとか、そういうのじゃありませんから。だからいいことを教えてあげます。あなたに一つだけ情報をあげましょう」

「………情報、だと?何を企んでる」

「言ったでしょう?機嫌がいいだけですよ」


 額に滲む脂汗を乱暴に拭う。俺が必死に自我を保とうとしているなか、樺洲は楽しそうにしながら再び椅子に腰かけた。


さい。それが、協会を作った者の名称です」

「…………宰」

「あなたたちを監視し、寝首をかこうとしている者ですよ。それが個人なのか、はたまた組織なのか。この僕でさえも、会ったことありませんからねぇ。何もわかりません」

「ほんとは知っているんじゃないのか?」

「あなたの特技で僕の音も聞いてみてはいかがです?」


 それだけは、絶対にしたくない。樺洲の音を聞くことに対して、俺の中には恐怖があった。


「誰なんだ宰ってのは。ーーー答えろ!」

「だから、知らないって言っているじゃないですか。…………でも案外、近くにいるかもしれませんね。灯台もと暗しってやつですよ」



□サキ


 十月二十七日火曜日。

 火曜日というのは、どうにも勉学に身が入らない。まだ午前中の三限目。始まったばかりで、尚且つ午後の授業もこれから待ち構えている。

月曜日ならば諦めがつく。これから一週間が始まるのだから、仕方がないと思いながら学校まで行くことができる。金曜日は我慢ができる。その日さえ乗り切れば、次の日から休日を満喫できるんだから。

でも火曜日から木曜日にかけてが一番中途半端で集中しきれない。まあ、それもこれも全てわたし次第なんだけれど。

 そんなこんなで三限目、四限目が終わり昼休みに入る。いつもわたしが仲良くしてる二人と、わたしを入れて三人で普段からこうして机を合わせご飯を食べている。高校ではよくあることか。

 するとわたしの右前に座っている悠紀ゆき(先刻くだらない駄洒落を言っていた子)が不思議そうに、不自然にわたしを見つめている。


「どうしたの?ご飯粒ついてる?どこ?」

「いやいやぁ、そうじゃなくて。こないださぁ、んー、二週間くらい前かな。商い通りでモジャモジャ頭の人と歩いてた?なんか咲希っぽかったんだけど」


 おっと、これはいけないぞ。


「え、……えぇー。た、たぶん違うと思うけど。わたし商い通りなんて行ってないよ」

「そう。じゃ、やっぱりわたしの見間違いか」

「でも咲希この前、急に約束断ったよね。あんとき何してたの?」


 左前に座っているのは、先日わたしが初めてモジャさんの家に行った日に、先に予定の入っていた、加えて言えば、わたしから誘ったにも関わらずドタキャンしてしまった友人で、名前は深月みつきという。

その節はどうも本当に申し訳なかったと思ってるんだよ。


「ん?いや、ちょっと急用が入ってね。お家のことで…………」

「へー、そうなんだ………」

「な、なに?」

「…………すごく怪しいよね、悠紀」

「うん、怪しい」


 女という生き物はいつの時代も往々にして鋭い生き物で、ましてやその手の話題に一番敏感な年頃である高校生ともなれば、センサー的なものが最も研ぎすまされてしまっているようで。ここで顔色一つ変えようものなら自白してしまっているようなものだ。油断大敵。平常心。


「まさか!あんたわたしたちに内緒で彼氏でもできたんじゃないでしょうね!」

「違う違う!あの人はそんなんじゃないって。ありえないありえない」

「「………………………」」


 二人揃ってだんまりを決め込んでいる。そしてみるみるうちに二人の口角は常人以上に吊り上がっていく。不気味だ。もはやホラーだ。


「あの人、ってだぁれ?」

「しまったぁ………」


 失言してしまった。二人はこれを狙っていたのか。こういうときのコンビネーションは驚愕するほどに目を見張るものがある。


「なんでもないって。彼氏でもないし友達でもないし、ただの愛想のないおじさんだって。たまたまお世話になっただけっていうか………」

「ふーん。ま、そうよね。親が警察官じゃビビって咲希には近付かないか」

「ぅぐ………、それは言わない約束ではないか」


 他愛もないやりとりにも終わりがやってきて、五時限目を促すチャイムが無駄にエコーを効かせながらわたしの耳朶を揺らしにくる。それを聞いて再び鬱に入りながらも大人しく自分の席につくと、本来五時限目の教科には一切関係のないはずの担任が教室のドアを丁寧に開き入ってきた。

 後ろからは見慣れない女の人がついてきている。誰だろう?どうして今?


「はい静かに。どうして今なんだ?とか思ってるかもしれないし急だが、今日から副担任としてこの学校に赴任してもらうことになった」


 おのれこの担任、エスパーか。ちなみにこの人は小山内先生。担当科目は数学。

 って、副担任?


「他の学校から異動してこられた。まだ教師になって間もないから、一応俺の元で副担任として補助してもらうことになってる。こんな中途半端な時期に申し訳ないが、まあそれが社会ってもんだ。じゃあ先生、一言ご挨拶を」

「あ、はい!」


 そう言われて教壇から一歩前に出たこの女性はなんというか、とても綺麗な人だった。短く整えられた髪は毛先がくるくると巻かれ、身だしなみにも気をつかっているのが傍目でもわかる。清潔感があって好印象。

なんだこの人、完璧じゃん。


「本日より赴任しました、升永ますなが礼花れいかと言います。あ、申します」


 律儀に言い直すところがまた可愛い。


「至らないところだらけですが、どうぞ、よろしくお願いします」

「と、いうことだ。じゃあ、授業に戻るぞぉ」


 それから授業が終わってからのホームルームでは、升永先生は大人気だった。

年齢は二十五歳。元々この町出身で久しぶりに戻ってきて、この町の変わりように驚いたという。そんなに変わったかな?まあでもここ七、八年でだいぶ町も活性化、都市開発も進んで景観的には変わってしまっているのかもしれない。

 隣町にアパートを借りて独り暮らしをしている先生は、毎朝わざわざ電車で一時間かけて学校まで来ているらしい。まあ、わたしも人のことは言えないけれど。ほんと、なんでこんな中途半端な場所にあるんだろうこの学校。

 放課後になってからも話の種が尽きることはなく、各々聞きたいことを聞き飽きた者から順に教室を後にした。一番最後まで残ったのはどうやらわたしたちらしい。


「先生彼氏とかいないんですか?こんなに綺麗なんだからモテモテでしょ?」

「それ、よく言われるんだ。でも、残念ながら、いや、だからこそなのかな。決して自分でそう思ってるわけじゃないよ?けどやっぱりちょっとお高く見られちゃうみたいで。あんまり私と仲良くしてくれる人いなくて」

「えぇ!?なんてもったいない。最近の男どもは腑抜けだねぇ」

「ほら、悠紀も深月も。あんまり話してると先生帰れないでしょ」

「んあぁ、そうか。ごめんね先生。………先生?」


 すると先生は突然暗い顔で俯く。もしかして隠し事ができない人なのかな?明らかに何か悩みがあることは明白だ。こればっかりは霧子さんじゃなくてもわかる。


「ん?いやいや、何でもないよ。さあ、もう下校時間過ぎてるよ。早く帰らないと」


 半ば強引に、追い出されるようにわたしたちは外に出された。相当勘づかれたくないことなのか、だったらもっと隠す素振りを見せてくれてもいいだろうに。あからさまだなぁ。

 今日初めて会った人だけれど、なんだかほっとけないんだよなぁ。なんというか、すごく脆くてあっという間に壊れてしまいそうな、あの人にはそういう雰囲気があった。

 だから、待つことにした。

放課後正門。下校時間終了後。午後十九時。


「せーんせっ」

「ぅわっ!びっくりしたぁ………。えっと」

「福満咲希です。すいません突然」

「どうしたの?こんな時間まで。もしかして私が終わるまで待ってたの?」

「先生、なんか思い詰めてるみたいだったから。それが気になっちゃって。すいません出すぎた真似を」

「そっか。バレてたか………。でも、大丈夫。気持ちだけで十分。せっかく待っててくれてたのにごめんね」

「って、言うと思ってたけどそうはいきませんよ。溜め込むのは良くないって、わたしこの間身をもって経験しましたので今から行きましょう」

「行くって、どこに?ん、え、ちょっと!?」


 それだけ言って今度はわたしが強引に先生を連れ出した。ちょうど停まっていたバスに乗り込み、奴のところへ向かう。もうすっかり抵抗がなくなってしまったことには少々疑問を抱きたいところだが、それでも先生の悩みの早期解決を優先し、商い通りへ向かった。

何か言いたげな先生を、有無を言わせることなくあの錆びた螺旋階段を一緒に上っていく。

 そうだ。大きめのノックで嫌がらせしてやろう。


「こんばんはー。いますかぁ?モジャさーん!」

「も、もじゃ………?」


 部屋の奥からは乱暴な足音が聞こえ、そして雑に、勢いよく扉が開かれた。

中からは鬼のような形相をしたモジャさんが顔を出す。もしかして寝るところだったのだろうか。でも、寝るにしては時間が早すぎるよね。お年寄りの方々のような生活を送ってるのかなこの人。


「………あのなぁ。なんだ突然押しかけてきて!今日はもう仕舞いだ。とっとと帰れチビ!!」

「あぁ!いきなりそういう言い方はどうかと思いますけど?それに商い通りの人たちがここは夜九時までやってる八百屋さんだって言ってましたよ」

「俺が、いつ、八百屋になったんだ。俺が野菜売ってるとこ見たことあるか?あ?」

「意外と似合うと思いますけど。うん、ピーマンとか」

「じゃあ俺がお前にピーマン売ったら帰ってくれるんだな。ピーマン買ったら満足するんだな。よしわかった。持ってきてやるから待ってろ!」

「買いませんよピーマンなんて。何言ってるんですか」

「んの野郎…………!」


 などとまた下らないやりとりをしていると、喧嘩しているとでも思ったのか、妙におどおどしながら先生はどうしていいのかわからず困惑している様子だった。

先生こんな顔もできるんだ。わたしの中でまた好感度が上がる。勝手に。

 このままぐずぐずしているとほんとにモジャさんが引きこもってしまいそうなので、手っ取り早く用件だけ伝えることにした。


「この人、今日新しく赴任してきた先生なんですけど、何か困ってるみたいなんです。相談に乗ってあげてください」

「は?そんなこと急に、言われ………ても」


 まるで一時停止でもしたかのようにモジャさんの動きがピタリと止まった。一体どうしたというのだろう?変な顔。

一方の先生の方を見てみると、これまた先生もモジャさんと全く同じ顔で静止していた。おやおや?これは。

 そして二人は同じタイミングで言葉を発する。


「もしかして、礼花?」

「もしかして、来井君?」


■シンタ


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心音ーホンネー 「来井探偵屋」 高出清幸 @ha-ppy

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