第4話 石畳の街と影を歩む者たち
石畳の道は、昼間と夜とでまったく違う顔を見せる。昼は商人たちが声を張り上げ、馬車の車輪が響き渡り、子どもたちの笑い声が路地に弾む。だが夜になれば、街灯の魔導光に照らされた影が濃く伸び、風に揺れる看板の音すら不吉に思える。
俺――葛城秀次郎は、そうした夜の街を一人歩いていた。
異国の空気には、いまだ慣れない。石畳を踏みしめるたびに、革靴の底から伝わる硬さが、故郷の土とは違うと告げてくる。日本の田舎であれば、夜道は暗闇に沈み、せいぜい提灯の灯が心細げに揺れるだけだ。だがこの街は違う。魔導機関によって生み出された光が、規則正しく並ぶ街灯に満ち、夜を白々と照らしている。
――これほどの技術が広がれば、確かに人は夜を恐れる必要はない。
そう認めざるを得ない一方で、胸の奥では苛立ちが燻っていた。
光は確かに眩しい。だがその眩しさの裏で、どれほどの自然が犠牲になったのか。山を削り、川を堰き止め、幻獣や精霊の気配を追いやってまで得た繁栄だ。人々はそれを誇らしげに享受しているが、俺には、どこか虚ろなものに見えて仕方がなかった。
政府の派遣留学生としてヨーロッパにやってきた以上、この文明の仕組みを学ぶのが俺の務めだ。だが、心は容易に馴染もうとはしない。
「……任務だ」
思わず小さく呟く。まるで自分自身に言い聞かせるように。
今夜は、帝都から届いた手紙の指示を果たすため、この街の北区にある書庫を訪ねねばならなかった。魔導機関と妖術との互換性を調査し、日本に伝えるための記録が必要とされている。俺がここにいるのは、決して異国の夜に酔うためではない。
だが、心を乱す存在は、思いがけず近くにいた。
――エリーゼ。
あの船の上で出会った少女。
黄金の髪が光を受けて輝き、サファイアの瞳が真っ直ぐに俺を見た。魔導具の力に頼ることなく、俺の妖術を正面から讃えた存在。
彼女の笑顔を思い出すたび、胸の奥が熱を帯びる。だが同時に、俺は己を戒める。彼女はヨーロッパの名門一族の娘であり、魔導師としての資質も優れている。俺の役目は彼女に惹かれることではなく、異文化を学び、日本へ持ち帰ることだ。
「……余計なことを考えるな」
俺は歩みを速めた。
北区の街並みは、昼間の賑わいとは違い、ひどく静かだった。石造りの建物が整然と並び、夜風が窓を叩く音だけが耳に残る。灯りの消えた家々の前を過ぎ、曲がり角をいくつも越えるうち、背筋に冷たいものが走った。
気配だ。
異国の地でも、妖術師の勘は鈍らない。誰かに見られている。しかも、人ではない。
俺は歩みを止め、呼吸を整える。周囲は静まり返り、石畳の街路が真っ直ぐ闇に伸びているだけ。だが、影の奥から忍び寄るものがある。
「……出てこい」
低く呟き、袖口に指を滑らせる。そこには依り代として仕込んでいた布切れ――一反木綿がある。
布を指先で弾くと、ふわりと宙に浮かび、細長い影が夜気に舞った。瞬く間にその姿は伸び、路地の闇を裂くように翻る。
「周囲を見張れ」
命じると、一反木綿は風に乗って舞い、影の中を縫うように飛んだ。
次の瞬間、建物の屋根の上から、何かが軋む音を立てた。
黒い影――それは人の形をしているようでいて、輪郭が溶けるように曖昧だ。
魔導師の使い魔か、それとも別の存在か。
俺は一歩前に出る。異国で無用の争いをするつもりはない。だが、こちらを害する気があるなら容赦はできない。
「異国の街で影に潜むとは……随分と卑しい真似をするな」
声をかけると、影はかすかに揺れ、屋根から別の路地へと飛び去った。追うべきか。だが任務を忘れてはならない。
俺は深呼吸をし、一反木綿を手元に戻す。布切れはするすると袖の中へ収まり、ただの布に戻った。
「……厄介なものが潜んでいるな」
北区の街並みに、俺の足音だけが響く。やがて目的の書庫が見えてきた。重厚な扉と石壁に囲まれ、いかにも歴史を感じさせる建物だ。
扉を叩こうとしたその時――
「こんな夜更けに書庫を訪ねるとは、勤勉な方ね」
背後から澄んだ声が響いた。
その声に、胸が一瞬跳ねた。
振り返れば、街灯の光に照らされて立つ一人の女性。
黄金の髪が夜風にふわりと舞い、シルクのような柔らかさを帯びて揺れる。
晴天の海を思わせるサファイア・ブルーの瞳が、真っ直ぐこちらを射抜いた。
白雪のように透き通る肌に、落ち着いた微笑みが浮かんでいる。
――エリーゼ。
船の上で出会った、あの少女。
一度は別れたはずの彼女が、まさかこの街で姿を現すとは。
「君は……あの時の……」
言葉が自然に零れた。名前を呼びそうになるのを、寸前で抑える。まだ彼女は自己紹介をしていない。だが、忘れられるはずもなかった。あの航海の記憶は、鮮やかに胸に刻まれている。
「覚えていてくださったのね」
エリーゼは小さく笑った。その声音は夜の静けさに溶け込み、しかし耳の奥に深く残った。
「こんな所で何を?」
俺は努めて冷静に問いかける。任務中であることを思い出し、自分を律した。
「偶然よ。この書庫には私の家から寄贈した古い魔導書が収められているの。点検のために足を運んでいたの」
そう言いながら、彼女は扉に目をやる。その仕草は自然でありながら、気品に満ちていた。
やはりただ者ではない。名門一族の娘――ローゼンベルクの名は、ここヨーロッパでも重んじられる家柄だと聞く。
「あなたこそ、どうして?」
今度は逆に問われる。
「俺は……政府の指示で、この街の魔導技術を調べている」
嘘偽りなく答えるしかなかった。隠し立てをすれば、彼女の瞳に映る自分が小さくなる気がした。
「なるほど。やはり、あなたはただの旅人ではなかったのね」
エリーゼは頷き、少し歩み寄った。その距離の縮まり方に、胸がざわめく。
――いけない。任務を忘れるな。
頭ではそう分かっているのに、視線はどうしても彼女から離れない。
「そういえば」
彼女は声を潜めた。
「さきほど、影があなたを追っていたように見えたけれど……気づいていたかしら?」
俺は思わず息を呑んだ。やはり彼女も感じ取っていたのか。
「ああ、気づいていた。使い魔か、あるいは別のものか……」
「ここ最近、この街には不穏な噂があるの。夜ごと影のようなものが徘徊し、時には人を襲うと」
エリーゼの横顔が街灯に照らされ、真剣さを帯びた。
「あなたも用心したほうがいいわ。異国の地で傷つくのは、ご自身だけでは済まないでしょうから」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。彼女は俺を心配している。名門の娘であり、魔導師である彼女が――。
「忠告、感謝する」
短く答えると、エリーゼは微笑んだ。
「また会えるといいわ。あなたのように、妖術を操れる人は珍しいもの」
そう言い残して、彼女は静かに踵を返し、石畳を歩き去っていった。
黄金の髪が街灯に照らされ、夜風に揺れながら遠ざかる。
俺はしばし、その後ろ姿を見つめて立ち尽くした。
胸の奥に残るのは、任務を果たさねばという責務と、どうしようもない高鳴りだった。
「……気を引き締めろ」
自分に言い聞かせ、再び書庫の扉へと向き直る。
だが、エリーゼの残した言葉は、影のように心に付きまとって離れなかった。
妖・洋・記~妖術師の俺がヨーロッパで頑張る話~ シルヴィア @dasdbbjhb
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