文字書の矜持

貝塚伊吹

文字書の矜持

 この街では、声が形を持つ。


 誰かが何かを叫べば、その言葉は粘り気のある塊となって空気に垂れ落ち、地面にこびりつく。発話者の思考から完全に切り離され、数秒もすれば、濁った液体に変わり、悪臭を放ちながら腐っていく。


 感情が込められていればいるほど、その塊は肥大し、ねっとりとした悪意の塊となって、人の身体にまとわりつく。罵声は巨大な渦となり、叱責は濁流のように押し寄せる。


 男はその街に生まれ、何年もその腐臭の中で、ただただ暮らしてきた。


 朝、家を出る前から、親の叱責の声が彼の身体にぶちまけられる。罵倒は重く、濡れた毛布のように皮膚に張りつき、体温でさらに腐敗を早めていく。路上や学校でも同じだ。廊下を歩けば、笑い声や陰口がぬるりと足元に広がり、知らぬうちに彼の靴元で世界に陰鬱とした黒い斑模様を生み出し始める。


 男は決して言い返さない。反駁はさらなる声を生むと知っているからだ。声は声を呼び、悪臭は指数関数的に膨れ上がる。反論は自らの首を絞める行為でしかない。だから、男はただ受ける。ぬらぬらと鈍い光を照り返す声の塊を浴び、身を腐らせながら。


 ホームに立つと、そこにも腐臭は漂っている。人々が残していった悲痛な叫びが黒ずんだ塊となって積み重なり、ホームの上を、そしてレールの上を何重にも覆っている。そこを切り裂いてように、人々の悪意を乗せた列車が、何度も何度も軌道の上にある汚物を蹴散らすのだった。


 ある朝の駅のホーム、男は目の前で声そのものに呑まれた人間を見た。高校生ほどの若い女のように見える。悪意に当てられすぎた人間が、人の形を保てなくなり、腐った声の塊とともに線路へ崩れ落ちていった。列車の音とともに、世界から完全に消えていった。ぐしゃりと音を立てながら、線路で揺蕩う悪意の塊の中に砕けて溶けていった。


 その光景を見ても、誰も驚かなかった。ここではそれが、ただの日常の一部に過ぎないからだ。


 男には、ただひとつの抵抗があった。


 手のひらの中で強く握りしめられた紙とペン。生み出された声は必ず腐る。しかし、文字は腐らない。たとえこの街がどれほど腐臭に満ちても、文字はなお黒々と全てを刻み続ける。


 夜、男は机に向かい、紙の上で何度もペンを踊らせ続ける。


 ――明日へと息吹を残すように、今日を生きる。


 それが、男の生き延びる唯一の方法だった。

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文字書の矜持 貝塚伊吹 @siz1ma

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