第5話

インターホンが鳴った。

その音が現実だと気づくまでに数秒かかった。

耳をふさいでも、チャイムの余韻が頭の奥にこびりついて離れない。

心臓が暴れて、呼吸が浅くなる。


スマホを開くと、画面にはメッセージが並んでいた。


「着いた」

「今、お前の部屋の前にいる」


古谷だった。

本当に来てしまったのだ。


布団を頭までかぶり、身を丸める。

全身が硬直して、動かない。

足音が廊下に響く。ドアの前に立っている気配がする。

吐き気が込み上げ、視界がにじむ。


――どうしよう。

会いたくない。

でも、会いたくないと言えない。

会ったらきっと、何も話せなくなる。

笑えない顔を見られる。

「変わったな」と思われる。

それが怖くて仕方なかった。


しばらくして、ドア越しに声が聞こえた。


「……開けなくてもいい。無理しなくていい。俺はここにいるから」


その声は、驚くほど静かで、強制の響きがなかった。

ただ「待つ」という意志だけが伝わってきた。

その穏やかさが、逆に胸を締め付けた。


布団の中で涙がにじむ。

会いたい気持ちと、逃げたい気持ちが交互に押し寄せる。

しばらくの間、布団の中で震え続けた。


やがて、体の奥で小さな声がした。

――このままじゃ、ずっと変われない。


ゆっくりと布団をめくり、足を床に下ろす。

膝が笑う。立ち上がると、頭がくらりと揺れる。

けれど、数歩だけ前に進んだ。


玄関に近づくと、ドアの向こうで気配が動いた。

ノックはされなかった。ただ、静かにそこにいる気配だけが伝わってくる。


震える手でドアノブに触れる。冷たい金属の感触が掌に食い込む。

呼吸を整えようとしても、うまくいかない。

それでも、ほんの少し力を込めてノブを回した。


軋む音とともに、ドアが数センチだけ開く。

隙間から差し込む光が、久しぶりに部屋の中に入ってきた。


そこには、古谷の姿があった。

彼は驚いた顔もせず、ただ穏やかにうなずいた。


「……来たよ」


その言葉を聞いた瞬間、僕の喉の奥が詰まり、何も言えなかった。

けれど、確かにドアは開いていた。






ドアを開けたあと、しばらく言葉は出なかった。

古谷は無理に踏み込んでくることもなく、ただ廊下に立ち尽くしていた。

沈黙の中で、僕の心臓の音だけが大きく響く。


やがて彼が言った。


「少し、外を歩かないか」


その一言に、体が強張った。

外――。

その響きだけで胸がざわめき、足がすくむ。

けれど、不思議と「嫌だ」とは言えなかった。

彼の声が、強要ではなく、ただの提案に聞こえたからだ。


玄関に靴を並べる。

数か月ぶりに履くスニーカーは、少し埃っぽかった。

靴紐を結ぶ手が震える。

古谷は横で黙って待っていた。


ドアを閉め、廊下を歩く。

足が重い。視線が下に落ちる。

それでも一歩ずつ進むたびに、床の硬さが足裏に伝わってきた。

エレベーターに乗り、扉が閉まる音がしたとき、耳が詰まったような感覚になった。


外に出ると、夜風が頬を撫でた。

湿った空気と川の匂い。

こんなにも濃い匂いを久しぶりに感じた。


隅田川沿いを歩く。

街灯が水面を照らし、波の揺れに合わせて光が揺らめく。

人影が遠くに見えるたび、体がこわばる。

視線を逸らし、肩を縮める。

そのたびに、古谷が少し歩幅を緩めてくれた。


「大丈夫か?」

「……うん」


返事は小さく、震えていた。

それでも声に出せたことが自分でも驚きだった。


橋の上で立ち止まると、川面に映った光がいっそう鮮やかに揺れていた。

僕はその光を見つめながら、深く息を吸った。

胸の奥が少しだけ軽くなる。


古谷が隣で尋ねる。


「歩けてるか?」


一瞬、言葉が喉に詰まった。

でも、今度ははっきりと答えられた。


「……歩けてるよ」


その言葉を口にしたとき、足の裏から確かな感覚が伝わってきた。

地面は冷たく固いけれど、確かに僕を支えていた。


川面に映る光は遠くにあるようで、実際には足元まで届いていた。

そのことに気づいた瞬間、胸の奥で何かがほどけていった。


――歩けている。

それだけで、今は十分だった。

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足元の光 津坂 洋 @Tsusaka

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