理不尽の終わり
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理不尽の終わり
病室の窓から見える空は、今日も意地悪なくらいに青かった。まるで、この閉塞した病室で朽ちていく俺を嘲笑うかのように、どこまでも澄み渡っている。体を起こす気力もなく、ただ天井のシミを数える。シミの形が、歪んだ人の顔に見えてきて、思わず目を閉じた。もう、何日同じことを繰り返しているのか。
「調子はどうですか?」
ノックと共に、いつもの看護師が入ってくる。貼り付けたような笑顔。マニュアル通りの言葉。その職業的な明るさが、俺の神経を
「……見ての通りですよ。死ぬのを待ってるだけです」
嫌味を込めた言葉に、彼女は一瞬表情を曇らせたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。プロフェッショナルなことだ。手際よく点滴を交換し、体温を測る。その無駄のない動きをぼんやりと眺めながら、俺は自分の人生という名の喜劇を反芻していた。
理不尽。
ありふれた言葉だが、これ以上にしっくりくるものもない。真面目に、誠実に、人を信じて生きてきた、つもりだった。その結果がこれだ。若くして不治の病に蝕まれ、誰にも看取られることなく、消毒液の匂いが染みついたこの白い箱で、ただ消えていく。神様がいるとしても、とっくにこっちから見限っている。救いを求めるなんて、愚の骨頂だ。
思い出すのは、学生の頃のくだらない一幕だ。クラスの隅で本を読んでいれば、波風は立たないと思っていた。
「おい、これ面白いから読んでみろよ」
クラスの王様然とした男が、気まぐれに漫画を貸してきた。どうせ、つまらない人間関係の布石だろう。だが、無下にするのも面倒で、一応、目を通した。翌日、俺は彼に話しかけた。
「昨日貸してくれた漫画、読みました。主人公が仲間を助けるために自己犠牲を選ぶシーンですが、功利主義的には非合理的でも、義務論的な倫理観に基づけば崇高な行為だと解釈できますね。カントの言う『定言命法』にも通じるものが……」
「……は? 何言ってんのお前。キモっ」
予想通りの反応。彼は漫画をひったくると、猿の群れに戻っていった。周りから漏れる嘲笑。分かっていたことだ。
「空気を読む」とは、評論家の山本七平が定義したらしいが、要するに多数派の馬鹿げた同調圧力のことだろう。思考停止した人間たちの、心地よい淀み。俺はただ、思ったことを言語化しただけ。それが、この国では罪になるらしい。
社会という、より大きな檻に入っても、何も変わらなかった。
「悪いんだけど、この資料、今日の夕方までにまとめてくれないかな? 君、こういうの得意だろ?」
無能な先輩は、いつもそう言って仕事を押し付けてきた。俺が断れないのを知っていて、だ。
「……はい、分かりました」
反吐が出るのを堪えて、俺は彼の仕事を片付けた。そして後日、案の定、その手柄は彼のものになっていた。
「君の作った先日の資料、とても分かりやすかったよ。よくやったな」
「ありがとうございます! いやあ、少し徹夜して頑張った甲斐がありました!」
厚顔無恥とは、彼のためにある言葉だろう。俺は給湯室の隅で、冷めたコーヒーを啜りながらそれを聞いていた。怒りよりも先に、諦めが来た。これが社会というものだ。正直者が馬鹿を見るようにできている。
「やりがい搾取」なんて言葉で誤魔化しているが、要はただの奴隷労働だ。人の善意に付け込むハイエナ。そんな連中ばかりが、この世界では上手くやっていける。
人間へのわずかな信頼を木っ端微塵に砕かれたのは、唯一の友人だと錯覚していた男のせいだ。
「なあ、お前にだけ教える、絶対に儲かる話があるんだ」
陳腐な詐欺師の口上。だが、当時の俺はまだ、人を信じる愚かさを捨てきれずにいた。
「俺、そういうのはよく分からなくて……」
「大丈夫だって! 俺を信じろよ。これは、お前のために持ってきた話なんだ」
「お前のために」。魔法の言葉だ。この一言で、愚か者は簡単に首輪をつけられる。俺はなけなしの貯金を、ドブに捨てた。
結果は言うまでもない。人間は、自分が信じたいものを信じるようにできている。俺は「友情」という幻想を信じたかっただけだ。金よりも、その事実のほうが、よほど堪えた。
恋愛も、滑稽な茶番だった。
良かれと思ってやったことは、すべて相手を窒息させるだけだった。
「ごめん、もう無理。あなたのそういうところ、息が詰まるの」
「……君のためにと思って、俺なりにやってきたつもりだったが」
「それが重いの! 監視されてるみたいで……」
結局、誰もが自分に都合のいい人間関係を求めているだけだ。誠実さなんて、相手にとっては重荷でしかない。俺はただ、誰かに必要とされたかった。その承認欲求が、醜悪だった。
俺の両親は、俺が高校生の時に死んだ。二人とも、馬鹿がつくほど真面目な人間だった。葬儀の日、親戚たちが口にする「可哀想に」という言葉の、薄っぺらな響きを今でも覚えている。お前たちの言う同情は、優越感の裏返しに過ぎない。
それ以来、ずっと一人だった。誰にも期待せず、誰からも期待されず、ただ息をしているだけだった。
――そこまで考えて、俺の意識が急速に薄れていくのを感じた。
体の感覚が消える。痛みも、息苦しさも、遠ざかっていく。ああ、ようやく終わるのか。この無意味で、くだらない人生が。安堵が、冷たい水のように全身に広がった。
その時だった。
「久しぶりだな」
懐かしい声。
ゆっくりと目を開けると、ベッドの脇に二つの人影が立っていた。
「父さん……か」
そこに立っていたのは、記憶の中の父だった。
「こんなになるまで、一人で頑張ったんだな」
隣には、母もいる。
「もう、辛い思いはしなくていいのよ」
二人の声を聞いても、すぐには実感が湧かなかった。心は、乾ききっていたから。
「どうして……ここにいるんだ? ああ、そうか。臨死体験だな。脳が酸欠状態になることで見る幻覚の一種だ。側頭葉の異常な興奮が原因で、亡くなった人に会ったり、光のトンネルを見たりするという……」
「相変わらず、難しいことを知ってるんだな。でもな、もしこれが幻覚だったとして、何か問題でもあるのか?」
父は苦笑しながら、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。その手の感触は、あまりにもリアルだった。
「幻覚でも、夢でも、いいじゃない。あなたが私たちを感じてくれるなら、それで十分よ」
母が、そっと俺の頬に触れた。その手は、驚くほど温かかった。幻覚のはずなのに、確かな温もりがあった。
「……俺の人生、何だったんだろうな。父さんの教え通り、正直に生きてきた結果が、これだ。騙され、利用され、捨てられ……。何の価値もなかった」
俺の言葉に、二人は悲しそうな顔をした。
「……そうだな。お前は、不器用すぎた。優しすぎて、自分の身を守る方法を知らなかった」
「父さんのせいだぞ。正直者が救われるなんて、嘘を教えたのは」
「……すまなかった。だが、お前がその教えを、最後まで守ってくれたことは、俺たちの誇りだ」
誇り、か……。
ひび割れた大地に、一滴の水が染み込んでいくような感覚。ずっと誰かに言ってほしかった言葉。誰にも認められなかった俺の人生を、肯定してくれる、たった一言。
「……なに、言ってんだよ、今更……」
声が、震えた。視界が滲んで、父と母の姿がぼやける。涙なんて、とうの昔に枯れ果てたと思っていたのに。
「辛かったでしょう。痛かったでしょう。もう、大丈夫。こっちへ来なさい」
母が、両手を広げている。 母が、両手を広げて俺を呼んでいる。父も、その隣で優しく頷いていた。
もう、理屈はどうでもよかった。これが都合のいい幻覚だって構わない。この温もりだけは、本物だと思いたかった。
俺はゆっくりと体を起こした。あれほど俺を縛り付けていた鉛の重さは消え、体が羽のように軽い。ベッドから足を下ろし、裸足で床に立つ。
「行こうか」
父が俺の肩を抱き、母が俺の手を引く。
理屈じゃない。これは、幻覚なんかじゃない。温かくて、確かな、愛情だ。
「……ああ」
病室の壁が消え、眩い光に満ちた道が現れる。これもまた、よく聞く臨死体験のイメージかもしれない。だが、もうそんなことはどうでもよかった。
どこへ行くのかは知らない。でも、もう一人じゃない。それだけで、十分だった。
「……その、なんだ。……ありがとうな」
照れくさくて、顔を上げられないまま、俺は小さな声で呟いた。
◇
――ピッ、ピッ、ピッと鳴り響いていた電子音が、長く単調な音に変わった。
様子を見に来た看護師は、モニターのフラットラインを見て、静かにその時を悟った。彼女は、彼の最期の顔を覗き込んだ。
彼がよく見せていた、苦痛や皮肉の表情はどこにもない。その口元には、まるで照れくさそうに、はにかんだような微笑みが浮かんでいた。
彼の人生が、決して幸せなものではなかったことを、彼女は知っていた。見舞いに来る人もなく、いつも寂しそうに窓の外を眺めていた青年。その最期が、こんなにも穏やかな顔をしている。
「……良かったですね」
誰に言うでもなく、そう呟いた彼女の声は、静まり返った病室に、優しく溶けていった。
窓の外では、空が相変わらず、どこまでも青く澄み渡っていた。
理不尽の終わり サンキュー@よろしく @thankyou_
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