マリッジブルー

りな

第1話 マリッジブルー

連休前の金曜日、雨の外来は珍しく静かだった。診療を終えて医局に戻る途中、私は部屋に寄って学会のスライドの最終確認を部長に頼んだ。ずっと憧れてきた逞しい背中を、ぼんやり眺めていると、いつもの穏やかな口調で彼が言った。

 「ここ、もう少し強めに主張しようか」

 「はい」

椅子に座ろうとしてバランスを崩し、体が前のめりになる。彼がとっさに私の腕をつかみ、その力が想像よりも強く、体温が驚くほど近い。慌てて離れようとした瞬間、廊下の灯りが落ち、急に部屋が薄暗くなった。

 「すみません」

 「いいんだ」

しかし、彼の手は私の腕をつかんだまま離れない。左手にある婚約指輪の冷たい感触が一瞬だけ私を現実に引き戻したが、雷に打たれたようにビリビリとした感覚が走り、その手を振りほどくことができなかった。

 「部長…」

声が、自分のものとは思えないほど弱々しい。数秒間視線を絡めたのち、彼はゆっくりと手を離し、何かを振り払うように首を振る。

 「君が後悔することはしたくない…」

それは、私の選択を尊重するという合図でもあった。

雨の音が遠くで強くなる。私はうなずいて、そっと彼の頬にキスをした。

空虚さを埋めるための刹那的な感情だとわかっていたが、長い年月の憧れと、今日の静けさと、掴まれた手首の拍動が、私の背中を押した。

―—扉が静かに閉まる音、白衣が椅子に掛けられる気配。

誰にも見られないように慎重に、けれど迷いのない動作で彼は私のそばに立ち、いつもの口調と同じように穏やかな雰囲気のまま、そっと私の肩を抱き寄せた。むさぼるような口づけに口紅の味が消え、背中に触れた逞しい手の感覚を味わいながら、私は目を閉じて祈った——どうか、神様…。


―—時計の針は気づけば日付をまたいでいた。帰り道、濡れたアスファルトにネオンがにじみ、スマートフォンの画面に未読メッセージが光る。嘘はつかない、ただ全部は言わない。呼吸を整え、私は病院の方向を一度だけ振り返る。憧れは現実になった。そして、現実は、また、私に未来を選び続けることを求めてくる。

連休明け、休憩室で、彼はいつもどおりブラックコーヒーを私の前に置いた。そして、視線をモニターに向けたまま、「無理はしないで」と短く言う。私も「ありがとうございます」とだけ返す。誰にも気づかれない距離で、私たちはいつもの仕事を始める。カルテに打つ文字は正確で、声の調子は変わらない。けれど、白衣の奥に、あの夜の温度が微かに残っているのを、二人だけが知っている。

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マリッジブルー りな @Lina-

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