選択の世界

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選択の世界

この世界では、毎朝端末に「提示」が届く。朝食の内容、通勤経路、昼休みの場所、帰宅時間まで。最後に必ず確認が出る。


――この提示に同意しますか?

[はい][いいえ]


あくまでこれらを選択しているのは、人間だと言わんばかりだ。

だが、全員が[はい]を押す。押さない理由がない。統計に基づく最適な選択が個人の幸福と社会の平和を最大化する、と誰もが知っている。記録上、[いいえ]を押した者は一人もいない。


生活の遵守率と気分の安定を保つため、週に二度、同時刻同地点で5〜10分の雑談を行う枠が割り当てられる。二人はそこで何度も顔を合わせた。最初の回は睡眠の話を三分。二回目は朝食の内容。三回目の最後に、クラウが工房で余った小さなゴム製の指サックを差し出し、ソラスは返却票の角で指を切らないようにと受け取った。以降、会うたび、端末を机に伏せて五秒だけ黙る“黙約”を共有した。通知音のない五秒。そこに互いの顔を見た。ある回の終了時、ソラスが「これからもあなたと会いたい」と言い、クラウは「同じ気持ちだ。ぼくたちは恋人だと思う」と答えた。二人はそう確認した。ログ上は、ただの雑談の終了である。


ある朝、クラウに婚姻提示が来た。


――婚姻相手の提案

推奨相手:リラ・エイブル

推奨時期:今季

同意しますか?

[はい][いいえ]


同時刻、ソラスにも来た。相手はエオン・グラフ。二人の名前は互いの画面にない。どちらも出勤準備は続けたが、同意には触れられなかった。


昼、公園・ベンチ七号。

クラウ「婚姻、来た」

ソラス「わたしも。相手はあなたじゃない」

クラウ「ぼくの相手も君じゃない」

ソラス「提示は長期の安定を優先する。従えば間違いはない」

クラウ「分かっている。それでも、君と結婚した方が幸せになれるんじゃないか、と信じたい自分がいる。」

二人は事実を共有したうえで黙り込む。恋人であることに迷いはない。しかし、提示の正しさにも疑いはない。


それから数日、二人は[はい]も[いいえ]も押さなかった。端末のリマインドは丁寧に増える。


――本日18:00までにご回答ください。[はい][いいえ]


ある夜、二人はいつもの公園・ベンチ七号にいた。

システムが提示したからではない、二人の意思が公園に足を運んだのだ。

ソラスが口をひらく。

「確認する。わたしたちは恋人で、結婚したいのは互い。だが提示は別の相手。ここで私たちが選ぶのはどっち?」

「君と結婚したい。最適ではない。社会的には減点だろう。けど、ぼくらは恋人だから」

「同じ考え。……押すなら『いいえ』になる。世界で初めての『いいえ』」


指が画面に近づく。だが、そこで止まる。『いいえ』を押した記録は、その瞬間に広く共有され、対応が即時に始まることを二人は知っていた。押さなくても、提示を無視して互いを選べば、いずれは同じ結果に至る。二人は端末ではなく現実の行動で決めた。互いを伴侶に選ぶ、と。


翌日から、職場で小さな変化が起きた。工房の予約が減り、図書棟のソラスの窓口前には距離ラインが引かれた。人々の端末には注意文が表示される。


――クラウ・レン、ソラス・ミレイは最新提示に従っていません。接触を控えることを推奨します。


非難の言葉はないが、回避は広がる。広場のスクリーンには行政告知。


――二名の逸脱が確認されました。位置情報は自動共有。周辺住民は安全距離を保ち、保護ユニットの指示に従ってください。


二人は移動を続けたが、推奨ルートから外れる動き自体が検出される。どこへ逃げても、統計データからシステムに先を読まれてしまうのだ。もう、二人には逃げる場所すら与えられなかった。

上空から保護ユニットが到着し、投影が示された。


――あなたたちは世界の調和を乱す存在だとして、排除が求められています。最終確認です。

――提示された婚姻相手と結婚しなければ、あなたたちは処刑されます。結婚に同意しますか?

[はい][いいえ]


ここから、二人は揺れる。


クラウは唇を噛み、震える声で言う。

「処刑を選べば、ぼくたちはこの愛を貫ける。世界の記録に、恋人として生きた証を残せるんだ。たとえそれが、死によって終わるとしても」

ソラスはクラウの手を握りしめ、静かに答える。

「でも、死ぬ。私たちが選んだ『いいえ』は、この世界から私たちを消すための選択になる。愛を守るために、生きることを捨てることになるの」

「生きることを選べば、君は生きる。でも、ぼくたちは恋人ではなくなる。この愛が、ぼくたちの決断が、システムに上書きされるんだ。毎朝端末に『はい』を押すたび、ぼくは君を裏切った記録をなぞることになる」

ソラスの目に涙が浮かぶ。「……耐えられる? 毎日、違う相手と『はい』を押し、愛を殺し続ける人生を」

「耐える自信はない。けど、君がいない世界を即座に確定させる選択には、もっと耐えられない」


ソラスが正面からクラウを見つめ、決意を込めて言葉を紡ぐ。

「愛が、私たちの死によってのみ保たれるのなら、それはあまりにも悲しい。愛は、私たちの命と共にあったからこそ価値があったんじゃないの?」

「違う。愛は、生きている限り、かたちを変えてでも残る。たとえ夫婦になれなくても、ぼくたちが恋人だったという事実は、ぼくの心に、君の心に残る。そして、ぼくは君に生きていてほしい」


クラウが深く息を吸い込み、決断を口にする。

「愛を貫くために死ぬか、愛を失う代わりに生きるか……。ぼくは、君に生きていてほしい。たとえ、違うかたちでも、この世界に君がいてほしい」


二人は互いの手を握り、[はい]に同時に触れた。世界の記録は更新されない。ここでも[いいえ]を選ぶ者は出なかった。


三か月後、二つの結婚式が終わった。クラウとリラ、ソラスとエオン。どちらの配偶者も誠実で、生活は安定した。工房の動線はリラの助言で良くなり、図書棟の棚割りはエオンの手伝いで効率化した。行政掲示板には「是正完了」。近隣の接触制限は解除され、人々は通常に戻った。


数年が過ぎる。健康指標、収入、近所の評価、すべて良好。家庭内の問題も統計的に小さい。写真の中で四人はよく笑う。

ただ、クラウとソラスの笑顔は、以前の恋人時代のそれと少し違う。周囲には分からない差だが、当人には分かる。二人が恋人として将来を語っていたときの勢いは写っていない。今の笑顔は長く安定し、崩れにくい。最適化の成果であり、悪いことではない。


帰宅の途中、クラウの端末が震える。


――明日の推奨:昼、公園で10分休憩。


同じ頃、ソラスの端末も震える。


――明日の推奨:昼、公園で10分読書。


二人はそれぞれ[はい]を押す。翌日、公園に二人はいた。視線は交差しない。



夜、端末が尋ねる。


――今日の一日は満足でしたか?

[はい][いいえ]


いつものように[はい]が押される。誰も[いいえ]は押さない。世界は淡々と最適を重ねていく。二人の毎日も、その中で続いていく。

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