第8話 特別編 人の不在

 小雨が降る夕方、二人はかつて炭焼き小屋のあった谷へ向かった。

 そこはもう小屋の影もなく、石の土台が草に覆われているだけだった。


「ここで夜通し炭を焼いたって、親父がよく話してたな」

 山師のシゲルが、濡れた土台に手を置いた。

 かつては男たちが木を運び、女や子どもが薪を割り、煙が空に上っていた。

 その煙は村の生活の匂いであり、山と人とをつなぐしるしだった。


 今は何もない。鳥も鳴かず、草の間に竹が侵入している。


「祭りもなくなったな」

 マタギのミツがつぶやいた。

 春の山開き、秋の狩猟祈願。どちらも人が集まってこそ成り立った。

「若ぇもんがいねぇから、担ぎ手もいない。……神さまに祈る声も絶えた」


 人が山を離れたのは、仕事を失ったからだ。

 林業は海外材との競争で値がつかず、炭も薪も石油や電気に押され、担い手は消えた。

 過疎で村は空き家だらけ、田畑は耕す人をなくして荒れ野と化した。


「人がいなくなれば、山は自由になる……そう思ってた」

 シゲルの声はかすれていた。

「けど実際は、自由じゃなくて荒れ果てただけだ。竹が伸び、獣が増え、森は若返らねぇ」


 ミツは辺りを見回した。

 雨に濡れた斜面には、かつて栗や椎があった場所が広がっている。今は竹と笹ばかりだ。

「里山は、人が手を入れてこそ生きてたんだな」

「山と人は両輪だ。一方が欠けりゃ、もう一方も転がらねぇ」


 沈黙の中、小さな音が聞こえた。

 崩れかけた石垣の隙間に、小さな芽が伸びていた。

 それは雨に打たれながらも、確かに葉を広げている。


 ミツはしゃがみ込み、その芽にそっと指を触れた。

「……人がいなくても芽は出る。けど、このままじゃ育たない」

「そうだ。守る手も、狩る手も、伐る手もなきゃ、山はただ朽ちていくだけだ」


 二人は立ち上がった。

 雨脚は弱まり、雲の切れ間から光が差し込んだ。

 それは小さな芽を照らし、ほんのわずかに輝かせていた。


「人の不在が山を殺す。……だから、まだここに俺たちがいる」

 シゲルの言葉に、ミツは頷いた。


 人も獣も木も、互いに手を貸し合わねば生きられない。

 その真理を胸に、二人は再び山道を歩き出した。

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ヤマシノ 桃神かぐら @Kaguramomokami

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