第8話 つまらない話をするより、「共相問題」について語る方がよっぽど意味がある

 絶景かな、絶景かな。

 今この瞬間、俺は一句詠みたい気分だった。

 眼下に広がる美しき……いや、物騒な光景への感慨を表現するために。


 城壁の下にうごめく、聖理教会の軍勢?

 ……知らん。どうせ時が経てば解決する。

 もちろん、解決(物理)されるのは、俺たちの方だが。


 見ろよあいつら。陰鬱な空の下、鎧がギラリと冷たい光を放っている。規律正しく、殺る気満々だ。

 そして我が背後。俺が守るべき……。

 ……ああ、もういい。滅びろ。早いとこ滅んで、来世に期待しよう。


 つい先ほどのことだ。手に入れたばかりのマイホームを守るため、俺は麾下の勇猛なる帝国兵たちを前に、感動的な就任演説をぶちかまそうとしていた。


「えー、ゴホンッ! イリヌス帝国が誇る、勇敢なる兵士諸君!」


 腹の底から絞り出した、渾身の第一声。

 城壁の下は、しん、と静まり返っていた。

 いや、完全な静寂ではない。


「大富豪。革命だ」

「うげっ、俺、平民に落ちた……」

「スペ3返し! ハハハ! 金だせ金!」

「てめぇ、さては俺のカード覗いてただろ!」

「くぅーっ、たまんねぇ! もう一杯!」

「おいおい、〇〇のヤツもう潰れてやんの、ダッセー! これだから童貞はよぉ」

 ……。


 俺の麾下の兵士たちは、城壁の陰にうずくまり、それはもう真剣な面持ちで……カードゲームに興じ、酒を酌み交わし、挙句の果てには、この後、野球拳で負けたやつの装備を全部ひん剥いで売り飛ばそうぜ、などと物騒な相談まで始めていた。

 誰一人として、俺を見ていない。


 俺の感動的な演説は、離陸する前にエンジンから火を噴いて墜落した。

 マジふざけんな!

 そして俺は、今この「賽は投げられた(後は野となれ山となれ)」状態に至るわけだ。


 《あら、可愛い総司令官。あなたのスピーチは、修辞学的に見て、いくつかの明白な誤りを犯していますわ》

 カントさん、あんた、めちゃくちゃ楽しんでません?


 《滅相もございません。あなたのことを心配して、よき道を示して差し上げようとしているだけですわ。まず、『兵士諸君』という呼びかけが包括的すぎて、個への配慮に欠けています。これでは聴衆との感情的な繋がりを築けません。次に、声が上ずりすぎ。内心の緊張がバレバレですわ。そして最も重要な点……あなたは指導者としての人格的カリスマを、全く示せていない。まるで、焦りから事を急ぐあまり、丁寧な前戯で少女の秘奥をじっくりと濡らす術を知らない、経験の乏しい童貞のようですわね……》


 はいはい、カント先生のご高説、痛み入ります。

 あんたの言うテクニックが俺にあれば、今頃とっくに帝国の皇帝にでもなってるっつーの。あるいは、芸大に落ちた後、ビアホールで危険思想をブチまけてるかもしれん。


 それにしても、この軍規、この士気。よく今まで生き残ってこれたな。国の天然記念物に指定されてないのが不思議なくらいだ。

 俺は今、本気で疑っている。聖理教会は表向き異端討伐を掲げちゃいるが、裏ではこいつらからガッツリみかじめ料を受け取って、生かさず殺さず飼い慣らしてるんじゃないのか?


「ギィ……ギィ……」


 その時、セシィが奇妙な形状の道具を満載した手押し車を押して、俺の元へやってきた。


「なんだ、これは?」

「ご報告します、総司令官。私が最新理論に基づき開発した、新型哲学兵器の全てが前線に到着いたしました。ご検閲を」


 うん、その呼び方は悪くない。

 史上最もセシィが礼儀正しい瞬間だ。少なくとも、今の彼女の目には俺が人間として映っているらしい。

 だがしかし! 「哲学兵器」という不穏な四文字が、こいつらが役に立つという期待を微塵も抱かせてくれない!


「……まあ、せっかく持ってきたんだ。見せてみろ」


 仕方ない。ふんぞり返った態度だけは、総司令官っぽくしておかないと。

 セシィは頷くと、車の中から、何の変哲もない……矢? を一本取り出した。


「矢、です」

「はあ?」

「ただの矢ではございません。最新の理論に基づき、『アキレスが決して追いつけないアレ』と呼称すべきでしょう」

「効果を言え、効果を!」

「この矢は、古代の賢者ゼノンの『飛ぶ矢は動かず』というパラドックスを応用した傑作。いかなる物体も、終点に至る前には、まずその中間点に到達せねばならない。そしてその中間点に至るには、さらにその中間点に……かくして無限に分割されるがゆえに、運動そのものが不可能である、という理論に基づいております」

「で?」

「つまり、この矢は、発射後、目標との距離の中間地点で、永遠に静止します」


 彼女は説明しながら、手にした小型の弩を俺に向け、引き金を引いた。


「おい!」


 俺の心臓が、喉からまろび出そうになった。


 ビュッ!


 矢は弦を離れ、空気を切り裂く音と共に、俺の顔面めがけて飛んでくる。

 そして……俺の鼻先、わずか数ミリのところで、ピタリと、静止した。


「うおっ! いきなり人で試すな! しかも中間地点で止まるんじゃなかったのかよ! これ、もう俺の鼻の穴に突き刺さってんぞ!」

「いえ、今、私が狙ったのは、あなたの背後にいた蝶々ですので」

「絶対ワザとだろ、てめぇ!」


 こいつが「虚啓の四騎士」じゃなかったら、間違いなく城壁から逆さ吊りにしてやるのに。


「で、結局、何に使うんだ、これは?」


 俺は恐怖でひきつった表情をなんとか取り繕い、平静を装った。


「もちろん、有用です! 一切の誤差を生じない中間点のマーカーとして! 測量学や天文学において、これは革命的なブレークスルーと……」

「待て待て待て! 俺が聞いてんのは、戦争でどう使うんだってことだ! 敵を殺せるのか!?」

「殺せません。ご覧の通り、永遠に目標には当たりませんので」

「……」

「あるいは、目標を敵の背後、地中深くに設定すれば、理論上、敵に命中させることも可能かと」

「……」


 俺たちをゴルゴ13か何かと勘違いしてやがる。


「次だ、次!」

「ヘラクレイトスの足湯です」

「そのふざけた名前、どうにかならんのか」

「この薬剤は、古代の賢者ヘラクレイトスの有名な言葉――『人は二度、同じ川に入ることはできない』――という偉大なる理念を、実践的に創造したものです!」


 セシィは瓶の栓を抜くと、有無を言わさず中の液体を俺の足元にぶちまけた。


「おい! 何しやがる!」

「さあ、司令官。右足を上げ、今一度、先ほど踏んだ場所を踏んでみてください」


 わけもわからず、俺は言われた通りに……。

 ……踏めない?

 見えない力が、俺の足の裏と地面の接触を阻んでいる。


「これは……?」

「単純なことです。ヘラクレイトスの理論によれば、万物は流転する。あなたの足元のこの『川』も、あなたが最初に踏んだ瞬間、もはや元の『川』ではない。ゆえに、知的生命体であるあなたは、概念上、永遠に二度目、この場所を踏むことはできないのです」

「おおっ! すげぇじゃん! つまり、この水を城門の下に撒いておけば、敵は永遠に突撃してこれないってことか!?」

「いえ、普通に飛び越えられます」

「……」

「あくまで『踏めない』だけですので。多分」

「……」


「……まだあるのか?」


 俺の声には、もう絶望の色が滲んでいた。


「もちろんです。これが、今回の目玉商品です」


 セシィの顔に、再び狂信と興奮が入り混じった、いつもの変態スマイルが浮かんだ。

 彼女はまるで聖遺物を扱うかのように、車の中から、禍々しい記号がびっしりと描かれた巻物を取り出した。


「これぞ、『共相の巻物』!」


 彼女は恍惚とした表情で、愛しい男の肌を撫でるように、その巻物を優しく指でなぞり、挙句の果てには舌でペロリと舐めた。

 おい変態! 得体の知れない古文書を舐めるな! どんな古代のヤバい菌が付着してると思ってんだ!


「これは、中世における普遍論争に対する、私の実践です! 果たして『普遍』は実在し、『個物』に先立つのか。それとも『個物』のみが唯一の真実で、『普遍』とは空虚な名前にすぎないのか。千年にわたるこの論争に、今日、私が終止符を打ちます!」

「要点を言え!」

「簡単です。これを使えば、任意の二つの目標を指定し、その二つが持つ全ての『個別性』を強制的に剥奪。彼らが持つ最も根源的な『共通項』、すなわち『共相』のみを、一分間、抽出することができます」

「……さっぱりわからん」

「それは、あなたが選ぶ二つの目標の『共通項』が何かによりますわ。イノウィン司令官、この未知と可能性に満ちた感覚こそ、人を溺れさせるほどの快感じゃございませんこと?」


 こいつ、完全にイッちまってる。


 ……


 ドォン――ドォン――ドォン――


 重苦しい戦鼓の音が、教会の陣営から響き渡る。

 第一波は、教会の重装歩兵部隊だ。

 人の背丈ほどもある巨大な盾を構え、一糸乱れぬ足取りで、城門へと進軍してくる。


「矢を放て! カードゲームは終わりだ!」


 城壁の上の兵士たちは、ようやくしぶしぶとカードを捨て、パラパラと矢を射かけ始めた。

 だが、そんな貧弱な矢は、敵の分厚い盾に当たり、「カン、カン」と痒い音を立てるだけだ。


「ダメだ、全然効かねぇ……」

「あの鉄クズども、硬すぎだろ。どうすんだよ」

「逃げるぞ、お前ら! 司令官を盾にして今のうちに!」


 背後で、兵士たちの心が早くも折れ始めている。

 いやいや、まだ始まったばっかだろ!? お前らの根性、豆腐より脆いのかよ!

 あと、最後に喋ったやつ、お前の顔は覚えたからな。


「全員、射撃やめ! その……『足湯』! 全部持ってこい!」


 兵士たちは「は?」という顔で、瓶詰めの「ヘラクレイトスの足湯」を運んできた。


「俺の命令を聞け! 全部……ぶちまけろ! そうだ、城門の前の地面にだ! 一点集中でな!」


 俺の意図はわからんだろうが、兵士たちは命令通り、城門の前の地面に広大な水たまりを作り上げた。

 やればできるじゃねーか! さっきまでのやる気のなさは演技か、オイ!


 向こうの歩兵部隊は、俺たちの奇行に一瞬足を止めたが、すぐに進軍を再開した。

 第一列の兵士、左足が水たまりに着地。

 問題なし。

 そして、彼らが右足を振り上げ、二歩目を踏み出そうとした、その時……。


 ……彼らの右足は、地面に着地する寸前で、一斉に空中で固まった。

 効いた!


「な、なんだこれは!?」

「小細工だ! 構わん、進め!」

「隊長! 足が! 足がつきません!」

「貴様ら、それでも軍人か! 命令に従え! 城門は目と鼻の先だぞ!」

「もう無理だ! せーのっ、ジャンプ!」

「隊列を乱すな! 跳べ!」

「おい、押すな! みんなで跳ぶぞ!」


 数百、数千の、重鎧を纏った屈強な男たちが、俺たちの城門の前で、一斉に……ケンケンを始めた!?

 鉄壁を誇った盾の壁は、瞬く間に崩壊し、ガタガタになった。

 城壁の上で、誰かが「ぷっ」と吹き出す。

 それを皮切りに、爆笑が城壁全体に響き渡った。


「ハハハ! あいつら、何やってんだ!?」

「総司令官の魔法だ!」

「総司令官、万歳!」


 さっきまで絶望していた兵士たちが、手のひらを返したように、俺を崇拝の眼差しで見つめてくる。

 だが俺はちっとも嬉しくない。その視線は、城壁に吊るされた屈辱の日々を思い出させる。

 この戦争、俺のIQを無慈悲に削り取っていく。


「弓兵、魔術師部隊、援護射撃! 制圧せよ!」


 敵の指揮官が、新たな指示を飛ばす。

 一斉に、雨あられのような魔法の矢が、俺たちの城壁へと降り注いだ。


「うわぁぁ、避けろ!」

「魔法矢だ! 防げねぇ!」


 勝利の喜びに浸っていた兵士たちは、再び蜘蛛の子を散らすように、遮蔽物を求めて逃げ惑う。

 ほら、これだよ!


「セシィ! なんかこう、すごい魔法でバリアーとか張れないのか!?」

「申し訳ございません、総司令官。私の魔法の才能は、アルコールランプに火を点けるのが限界です」


 この役立たず! お前、どうやって「四騎士」になったんだよ!

 刻一刻と、天を覆う矢の雨が迫ってくる。

 矢……。

 俺の視線は、城壁に転がる、あの「半分矢」(仮称)に向けられた。

 半分……半分……。


「全員! あの当たらねぇクソ矢を、天の矢の雨に向かって撃ちまくれ!」


 俺は、ヒステリックに叫んだ。


「はぁ? 司令官? あれ、役に立ちませんぜ?」

「いいからやれ! 命令だ! 目標、空!」


 ビュビュビュッ!


 数百本の「半分矢」が空へと放たれる。それらは、狙い通り、中空でピタリと静止した。

 矢そのものに、殺傷能力はない。

 だがしかし!

 それらは、俺たちの城壁の前に、高密度の見えない壁を形成した。


 ドゴォォォン! バキィィン!


 降り注ぐ魔法矢が、次々とその「見えない壁」に激突し、爆散していく。

 ほんの数発が壁を抜けてきたが、もはや脅威ではない。

 空が、爆炎で真っ赤に染まった。


「おおおおおおおーーー!」

「総司令官は神だ!」

「勝った! 俺たち、勝ったんだ!」


 俺……もしかして……マジで天才なんじゃね?


「聖殿騎士団、出撃!」


 俺が悦に浸る間もなく、教会の陣営から、白馬に跨った新たな部隊が突撃してきた。

 その速さは、まさに稲妻。ケンケンしている歩兵たちを巧みに避け、側面から城壁へと迫る。

 先頭に立つのは、長槍を構えた女騎士。そして戦場の反対側では、神官が杖を掲げ、詠唱を始めている。

 ヤバい。

 一気にケリをつけに来たか。

 俺の手は、無意識に、懐に忍ばせた切り札に伸びていた。

 あの、「共相の巻物」に。

 軍法会議にかけられてもおかしくない、とんでもないアイデアが、俺の頭をよぎった。


「指定……目標一、あのクソ強い女騎士! 目標二、あの呪文唱えてる神官! ……合体だぁぁぁーーー!」


 巻物はまばゆい光を放ち、灰と化した。

 戦場で突撃する女騎士と、詠唱中の神官。二人の身体が、同時に金色の光に包まれる。

 女騎士の豪華な鎧は、ただの布切れに。神官の宝石を散りばめた杖は、ただの木の棒に。

 二人の顔は、次第にぼやけていき、やがて、何の変哲もない、のっぺらぼうのような「人間」の顔になった。

 なんというか……「ああ、これ、人間だわ」としか言いようのない、没個性的な顔だ。


 まあ、そんなことはどうでもいい。

 二人は、本能に従うかのように、互いに視線を交わした。

 そこにいるのは……自分と、同じもの。

「同類」。

 同類ならば、やることは一つ。

 数万の兵士が見守る中、二人の「人間」は、ゆっくりと互いに歩み寄り……。


 そして、固く、抱き合った。


 ……戦場で抱き合うな!

 お前ら、お見合いパーティーに来てんじゃねーんだぞ!


「い……今のうちに、魔法で二人まとめて気絶させろ!」


 哀れな二人は、反応する間もなく、仲良く地面に突っ伏した。


「か……勝った?」

「俺たち、勝ったのか!?」

「総司令官、万歳! イリヌス帝国、万歳!」


 一瞬の静寂の後、城壁は割れんばかりの歓声に包まれた。

 兵士たちが、俺を担ぎ上げ、胴上げを始める。

 ……悪くない気分だ。


「……ふざけた真似を。後方部隊、'哲学兵器'を召喚せよ!」


 全ての歓声が、凍りついた。

 息もできないほどの威圧感が、教会の陣営の奥から、戦場全体を覆い尽くす。

 一本の聖なる光が天を突き、空を切り裂かんばかりに輝いた。

 ケンケンしていた者も、逃げようとしていた者も、教会の兵士たちは皆、その光を見て動きを止め、一斉にひざまずき、祈りを捧げ始めた。


「……まずい」セシィの顔から、いつもの笑みが消えた。「教会の最終秘奥……全ての神官の信仰心を、一つに束ねた……」

 《とんでもないモノが出てきましたわね。わたくしの悟性をもってしても、カテゴリー化しきれない存在……》


 天を突く光の中から、一人の人影が現れる。

 顔はない。荘厳な主教の衣を纏い、ただ静かに、そこに立っている。殺気は、一切ない。

 だが、その存在が放つプレッシャーは、先ほどの数万の軍勢の、さらに数千倍にも感じられた。


「あれが……」


 アウレリウス・アウグスティヌス。

 教会の、切り札。

 人の世を歩く……神の、欠片。


 ……で、誰だよ、そいつ。聞いたことねぇぞ。

 彼は、戦場の全てを無視していた。ひざまずく信徒も、俺たちの虚しい抵抗も。

 ただ、まっすぐに、帝都の城壁へと、歩みを進めてくる。


「……厄介ですね。彼の存在は、もはや物理法則を超えている。通常の錬金術は、彼には通用しません……」

 《彼の世界観は、絶対的な『二元論』。彼の判定において、教会の定義する理性と恩寵に合致せぬものは、全て浄化すべき罪であり、異端。そして、私たちは、どうやら全員、その『異端』側にいるようですわね》

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