死の国のラッパライネン先生

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　とても静かな場所だった。緑豊かな森が、透明色の空が唯一落とした影というように辺り一帯に広がっていて、田畑の絨毯はそこから溢れ出た絵の具のように見える。土の匂いがあちこちに立ちのぼっている。普段だったらどこかに腰を下ろし、ゆっくりスケッチでもできたら、と思っただろう。

　しかしわたしが対峙（たいじ）しているのは、オッドアイの恰幅（かっぷく）のいい男だった。先ほどからずっと──屋外で太陽も時計もないから時間がわからないが──彼と睨み合っていた。大理石でできた筒型のテーブルと椅子。手元に置かれた一枚の鉄の板。

　わたしは先端が少し尖った黒い石をつまんで、右に一マス移動させた。すると相手の男の灰色と琥珀（こはく）色の虹彩（こうさい）が生き物のように揺らめいて、持ち上がった口角が感情を裏付けていく。

「同じ逃げるにしても、かなり慎重を期しているようだね。わたしはマジで、将棋が好きなんだよ。どうせなら特徴ある相手とやりたい。記憶に残るような勝負をね。君は期待に応えてくれるようだね」

　男は黒い分厚いコートを着ていて、その胸ポケットから駒を取り出す。新たに盤上に加えたのは小さな建物の模型のような駒だった。それを自陣の中央に据える。

「あなたが好きなのは相手をいたぶることでは？」とわたしは口を利いた。「それなら狩猟とか、ビジネスだっていいわけだ。弱い相手ほど興奮するタチでしょう、きっと」

「弱い人間はそこまで逃げはしないさ」と男は嘯（うそぶ）いてみせた、唇を尖らせて。「君のその〈逃げ〉は強い意志の下（もと）に行われている」

　一人ぼっちのわたしの駒。一方で、見掛け倒しのマジシャンみたいに駒を出現させては自分の城を手厚くしていくオッドアイの男。わたしは最初から、彼のてのひらの中にいる孫悟空だった。孫悟空──あれは神の捕虜に違いない。今はまだ遠くにいる敵兵たちも、ただ広げた指を握られていないだけ──のこと。わたしに五本の指全部を確認させるまで泳がせておこうというねちっこい戦法なのだろう。

「ところで、」と男が声のトーンを変えた。「さっきの話の続きを聞きたいな。病気になった職場の経理の人がどうなったか」

「続きなんてありませんよ」わたしはズボンのポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。正直、暑くもないし寒くもない。それでもどこか胸の迫る重苦しい空気があった。森も田畑も蜃気楼みたいに遠くにある。「会社の駐車場に藤棚があって、平べったい豆みたいなものがぶら下がっているんです。畑（はた）さんがそれに気づいて、『あれってなんだろうね？』って言って、今度一緒に収穫しようと約束したんです。畑さんが癌（がん）の治療で休職したので実現されなかったというお話です」

　男はまた気味の悪い微笑を浮かべた。「その畑さんが癌になって、どう思った？　次は自分の番かもしれないと……」

　わたしは男のオッドアイを見返した。「わたしが言いたかったのはこうです。豆を収穫しようみたいなささいな約束も叶わなかったという、そういう傷心の方が大打撃だった。病気云々（うんぬん）よりも。こういうセンチメンタリズムはあなたの好みじゃないだろうけれど」

「いや、おもしろいと思うよ」

「そりゃ、あんたは──」わたしは顔を歪ませて、それでも続く言葉を飲み込んだ。

　わたしは一歩、また一歩と駒を動かし、生き長らえる道を探った。わたしの駒は上下左右に一歩ずつしか動かすことができない種類のものだった。持ち駒はこの一つのみ。つまり、わたしは「歩」であり「王」でもあった。

　男は少し背を反らして、片目を細めて情勢を見渡すふりをした。陳腐なパフォーマンスを毎手番ごと忘れない周到さだったが、やることはいつも同じ。ポケットから新しい駒を取り出して陣地に置くか、今ある駒を一歩だけ進ませるかだ。翼を生やしたコンドルのような駒もいるのに、随分と宝の持ち腐れをしている。

　わたしはあることに気づいて、口にした。「あんたの頭、どうしたんだ？」

　男の額の一部、肌色の皮膚が破れて、白い骨のようなものが覗いていた。

「どんなものにもタイムリミットはある」男は顎を引いて、めずらしく表情を引き締めて言った。「人の生命にも、ゲームにも」

「あんたには寿命はないのかと思った」わたしは駒に手を伸ばしかけて、やめた。

　こんなふざけたルールの将棋、ものの数分で片づくと思っていた。相手はわざとそうならないために、わたしの逃げ道を潰さないための工夫をしている。なぜか？　

　あるとき、男はわたしの駒の二マス先に小さな瓶の形をした駒を置いた。そしてこう言った。

「さあ、これは薬だ。欲しければ取りに来い」

「行けば終わりでしょう。わたしの駒が取られる」わたしはそう答え、左に一歩動かした。

「そっぽを向いたか。後退りしないところがいいねぇ」喜色を湛えた顔だった。「君がもしこの勝負に勝ったら、君の病気をなんとかしてやると約束しよう。わたしの友人に医者がいてね。Ｔ・ラッパライネンというんだが」

「あなたは何者なんだ？」とわたしは訊いた。

「迷い来た者を、受け入れる者だ」オッドアイがわたしを見据えた。

　勝てる道などどこにある？　自由にいくらでも増やせる彼の駒。その中に王様らしい見てくれの駒は一つもない。あったとしても、わたしの駒は一歩しか動かせないから、彼の駒に近づけば、次に狩られるのはわたしなのだ。そう、こういうルールである以上、わたしは逃げることしかできなかった。

　もう彼の顔を凝視できなかった。顎も全部白くなっていたし、オッドアイも片方が髑髏（どくろ）の眼窩（がんか）と化していた。

「おい、死神」とわたしは横柄な口を利くことになった。「もう、さっさとわたしを狩ればいいだろう。なにをぐずぐず引き伸ばしてるんだ？　あんた、骸骨になっちまうぜ？」

「生と死しかない人生なんてつまらないだろ？」彼は両手を胸の前で結んだ。指もところどころ骨が見えていた。「ゲームのやりとりの中にドラマがある」

「逃げ惑う者を見るのがそんなに楽しいか？」たっぷりと怒りを滲ませてやった。

「じゃあ、君の手で終わらせればいい」男は急に静かになった。「奮闘も絶望も放棄して、好みの駒の前へ来てひれ伏しなさい。ほれ」

　新たな駒が追加された。それは人型で、手に道具を握っていた。おそらく医者なのだろう。

　わたしはまた一歩逃げた。「おもちゃの医者など信用できない」

「いいねぇ、そうこなくちゃ」

　何軒もの病院を巡って、脳波もＣＴも撮ったが、結局、体中に走る痛みの原因は判明しなかった。わたしは若い頃から健康に無頓着だったから、医療の敗北とか限界とかを偉そうに言うつもりはなかった。人間が万能じゃないことは百も承知だ。畑さんに比べたら……。それでも、舌が曲がりそうなくらい苦い漢方薬を数年、効果もわからず飲み続けている。五十年近く両親と一緒に住んだ古い家に煮出した薬草の匂いという新たな染みが上塗りされ、分厚くなっていくのを感じる。

「あんたの名前、なんだっけ？」とわたしは訊いた。もうすっかり、相手は髑髏になっていた。肉付きのいい体も自慢のオッドアイもどこにもない。もしかすると、わたしの時間切れなのかもな、とぼんやり思った。盤上ではなく、ここでわたしは……。

　男の動きが止まった。「知ってどうする？　担当医でもないのに」わたしをからかって喜んでいた厚みのある声ではなく、ひどく澄んだ、落ち着いた音色だった。

　わたしは西洋人みたいに肩をすくめた。「どっちにしろ、この将棋には負けるから、わたしがラッパなんとか先生に助けてもらえる可能性はゼロだ。あんたの知り合いとか信用できないし」

「わたしは考古学者のアバネシー教授だった」

「だった？」

　カタカタカタ……と男の体が震えはじめた。そして「ふわり」と肩が上下し、コートの袖がゆっくりと持ち上がる。骨の指が鉄製の将棋盤を差した。「こういうのは時間の無駄だ」

「はっ？　あんたがはじめたんじゃないか」

「そろそろカタをつけた方がいい。わたしの勝ちでもいいし、君の負けでもいいし」

「必要ない」わたしは首を振った。「あんたが本当に死神なら、わたしは最初から打つ手なしだ。そもそもこのゲームに勝つ方法がない。くだらない。付き合ったわたしがばかだったが、あんたの言うとおり、時間を食うことはできた」

「君の様子はもう十分に見せてもらった」男は大真面目な調子で言った。「君がどういうふうに病気と戦ってきたのか」

「病名もわからないのに」わたしは舌打ちをした。「対戦相手の名前もわからず、おかしなルールの将棋をしているみたいなもんだったんだよ。原因がわからないから戦えなかった。……わたしの名前は行島（ぎょうじま）学（まなぶ）だ。もうすぐ閻魔帳（えんまちょう）に載るんじゃないか？」

「ギョウジマ……」

　突然、わたしの耳から風船が膨らみ、どんどん大きくなった。わたしが驚いて身を縮こませると、「パンッ」と弾けて割れた。

　わたしはしばらく放心状態で、ただ髑髏と見つめ合った。髑髏が言った。

「ギョウジマ・マナブ。わたしの患者。君の体の毒素をとりあえず外へ放出した」自分の頭蓋骨の側面、耳の辺りを指差してから、くるりと横を向いて。「あとは森が浄化してくれるだろう」

　体の変化にすぐに気づいた。スッと憑き物が落ちたみたいに楽になっている。息苦しさは空気のせいではなかったのだ。「なぜ……」

「なぜって、君がわたしを頼ってここへ来たからだよ」髑髏は将棋盤の駒を片づけはじめた。「わたしがＴ・ラッパライネンだ」

「いつの間に……。アバネシー教授は？」

「あいつは屋敷へ帰った。替わってもらったんだよ。わたしの仕事──死者の手当てがとりあえず落ち着いたんで、そこで入れ替わった。気づかなかったか？　わたしの方がハンサムなのに」

　わたしはてのひらで風船が出た耳を押さえていた。

「あとは君の国の医者に診てもらいたまえ」ラッパライネン氏は言った。「わたしは普段〈世界の入口〉にいて、ここへやって来たばかりの霊たちの治療を行っている。人は死んでもなお、生前の苦しみを抱えているものだよ。わたしの手助けを待っている霊は大勢いる。だから、生者に関わっている暇はない。君とて、道楽学者とくだらない将棋を何度もやりたいとは思わないだろ？」

「ありがとうございます」わたしはいまだ放心がとけず、言った。「変わった治療で……痛くはなかったですが、再びお世話になりたいとは」

「じゃ、お開きでいいね？」

　ラッパライネン氏を名乗る男は大理石の椅子から立ち上がると、分厚いコートのポケットに手を突っ込んで、そこから一輪の花を取り出した。穴があいているだけの鼻の前に持っていくと、香りを嗅ぐ仕草をして、去っていった。鉄製の将棋盤の上にはもう誰もいなかった。

　その後、わたしは畑さんとの約束を守り、藤棚の実を収穫した。山で趣味のスケッチも再開している。体の痛みもあれ以来、薄らいで──