金魚の人魚

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紫銀末の髪を束ねし女人来訪

 おだやかな夜雨を白い手で捲り上げて、来客が訪れた。

 妙齢の女性が金魚鉢を持ってやって来た。両の手で大事に抱えてやって来た。

 どこかとぼけた雰囲気を纏う彼女は、紫銀末の髪を耳に掛けていた。

 鉢の中身がちゃぽりと跳ねる。

 鮮やかな金魚が幽濫めいた。

 しかし果たして此処は動物病院である。魚の診療は行っていない動物病院である。

 彼女は神妙な面持ちで、鉢を受付にソッと置くと、肩掛けカバンから保険証を探し始めた。

 珍妙な客である。


 ──────────・・・


 私がこの医院を引き継いだのは約二年前のことであって、前院長であるところの私の叔父は、ぽっくりと、唐突にクモ膜下出血で逝ってしまった。

 あまりに唐突に亡くなったものだから、彼の財産分配は一族に混乱をまき起こすかと思われたが、しっかりと遺書が書いてあったので大きな問題にはならなかった。作文用紙四十二枚に及ぶ大作には、医院は私に譲るように、と記されていたし、また、生前彼を支えた助手の内、最も優秀な人を私に付けるとも書いてあった。

 斯くして私は、幼少より憧れていた獣医という職業に、まんまとありついたわけである。


 

「もし」

 来客は保険証と共に恭しく挨拶をすると、夜食のらーめんを啜っていた私を驚嘆させた。それはなに故かと問われれば、曇ったグラスの先で、しかし彼女はその美しさを失うどころか、みずちの吐く霧の向こうで、むしろその幻想性を増していたからである。

 私が目玉を丸くしていると、彼女はもう一度か細く、しかし芯の通った声で「もし」と述べた。私は、私の眼鏡越しの視線が彼女には通じていないことに気付くと、急いで蛤らーめんと決別し、椅子のキャスターを転がして受付へと急いだ。

「はい、はい。急患ですか」

「急患でお願いします。うちの金魚の喜平八さんが風邪をひいてしまいました」

 金魚も風邪をひく時代である。

 言われてみれば手足の消毒も叶わない魚類たちの風邪というのは、深刻な問題なのかもしれない。

「うちでは魚の──金魚の診療はやってないんですが」

「えっ」

 彼女はその霽月が如き両眼を大きく見開かせると、それからしおしおと萎れ始めた。心無しか、その紫銀末の髪も精彩を欠くように想われた。

 私は何か、酷く酷いことをした罪悪感に襲われた。こんな夜雨降りしきる中、愛する金魚のために病院にまで駆け付けた思いやりを、こんな風に簡単に無碍にする自分が矮小に思えたのである。

「でもお医者様」

 はっと、息継ぎのように顔を上げ、彼女のしっとりとした声が映えた。

「前のお医者様は、うちの金魚を治してくださいました」

 私はどんどん居心地の悪くなるのを腰のあたりのもにょもにょから感じつつ、一つ咳を打つ。

「私は彼からこの医院を受け継いで二年になりますが、それは何年前のことでしょうか」

 叔父が死んだことは伝えない方が良かろう。得てして動物好きの人間は、命の温かさを知る人であることが多いし、一縷の望みたる我が叔父が、もうこの世にはいないなどという事実は、彼女の爪痕も消えないようなやわらなか心に、いたずらに傷付けるだけである。

 金魚の彼女は幾らか思案した後、ひのふのみと指折り年を数え始めた。そしてそのしなやかな琴線の移動が収まると、彼女は述べた。

「十五年前です」



 一先ず金魚の容態は、すぐに命に関わるものでは無いことは言外に理解されたので、叔父の遺品から酸素吸入器を取り出して、洗って、金魚鉢に差し込んでやった。

 心無しか尾ひれの花弁が、その輪郭を鮮明に写し始めたように思えて、私と金魚の彼女はほっと息を吐いた。

 金魚の彼女の名は神家晶子さんと言うらしい。

 私は神家さんと金魚の喜平八さんを待合に待たせて、叔父の遺品を漁りに行った。

 壁掛け時計は一時を指していた。こんな夜更けに、しかも雨の中、神家さんと喜平八を追い出しても、恐らく碌な行き場は無い。金魚の風邪というのは初めて見る症状だが、十五年前に叔父が診療しているならば資料が残っているはずである。

 叔父はまめな人で、今まで診療した動物たちのカルテもしっかり残していたし、自分の食事も必ず記録していた。ナンパした女性の記録まで付けなくてもよかったのでは無いか、と私は思うのだが、しかしまあ、個人にして故人の趣味嗜好に文句を言っても仕方が無い。

 叔父はそんな感じで中々ふざけた人間だったので、葬式にて坊主が読経する間にも、後列では三親等のマダムがひそひそと叔父の悪口を宣い、最後列では二親等のシニアたちが呪言を吐き連ねていた。ね、面白い人でしょう。

 しかし彼の持っていた、動物を愛する気持ちは本物であったし、彼に救われた命は沢山あるのだから、私は彼を嫌いではない。むしろ好んで話を聴きに行ったくらいである。

 そう、彼に救われた命は沢山ある。その証拠に、山のようなカルテが今も遺されているのである。

 天井までぎっちりと詰まった箪笥の、その戸を開いてやると、叔父の手書きの文字が図書館の匂いと共に息を吹き返す。少しして、私は神家さんと喜平八のカルテを見つけ出すと、件のキャスター付きの椅子に深く体重を預けて、そのカルテを読むこととした。

 特段変わったことの無いカルテであった。確かに症名には【カゼ】と書いてある。喜平八は十五年前も風邪をひいたらしい。

 叔父は神家さんに栄養剤入りの餌を渡し、予後が悪ければまた来院するように伝えたらしい。会計は無料でやったようだ。珍しい。

 そして叔父のカルテには、美人の女性が飼い主の場合には別途で備考が書いてあるわけだが、案の定神家さんのことも書いてあった。

『シンリョウヒゼロエン也、カワイラシイオジョウサマ、ニンギョノゴユウジン』



 指先で顎を支えながら、私は己に問う。

 以下は私の、一瞬の想像である。

 ──叔父のような軟派な人間が『カワイラシイ』と評したうえで、会計をタダにしたあたり、神家さんは十五年も前から見目麗しい方であったことは推察される。見たところ二十代前半のように思えるが、しかしあの森閑なる雰囲気は、彼女の見てくれの詳細などというものを、まるで隠すヴェールであるかのような感じである。

 それに、『ニンギョ』とはなんであろう。

 尋常に考えればキンギョの書き損じだろう、と冷静な左脳の私が述べた。

 しかしその刹那、私の脳天にふわりとした直感が降りて来たのである。長い間探していた道具の場所を、唐突に思い出したかのような稲妻の感覚であった。その神憑り的発想は、神家さんの紫銀末の髪が、しっとりとした挽歌を奏でるハープの弦のように視えたことも確かに起因する。

 彼女の髪を思い浮かべると同時に私は気付く。愕然と気付く。そう、窓に目をやるが、まだ夜雨はしとしとと続いているのである。だと言うのに、彼女はまるで濡れていなかった。肌触りの良さそうなブルーのワンピースには、一瞬だって色のほつれは無かった。受付に置かれた喜平八の鉢にも、一滴の雨粒だって映っていなかったではないか。

 そうそれはまるで、水というものに誑かされ、邪魔だてされることなど一切在り得ないように。水中にて息を続ける神聖のように。

 私には、永遠の波間の中で、生きた水中花となって煌めく神家晶子さんの姿が、ありありと想像できた。彼女の足が喜平八と同じ、金色と紅色の花弁となって、煌々と陽射しを跳ね返す様が──私の脳裏で鮮やかに拍動したのである。

 私の中で天啓が降臨した。神家さんこそが、人魚なのだ。


 叔父は神家さんとの邂逅で何を想ったのだろう?

 私は想起する。

 何があって、彼女が人魚であることを知ったのだろう。彼は、永遠を生きる海の神秘との会話の中で何を知り、何を感じたのだろう。

 私には、叔父が死んでからの二年間、彼についてずっと考えていたことがあった。それは、何故叔父は遺書をしっかりと書いていたのだろう、ということである。

 彼の死因は唐突なクモ膜下出血であって、医者にも周りにも、誰にも予想できなかったのだ。当然自分自身も予期できるものではなかっただろう。しかし、彼は原稿用紙四十二枚にも及ぶ遺書を書き上げ、私にこの医院を託してくれたのである。

 このキャスター付きの椅子も、もう二十年以上前から院長を支え続けている、彼の残した逸品なのだ。

 終活をするような殊勝な人だとは思えないし、亡くなったのは五十二歳であったから、そもそも死について考えるにはまだ若いだろう。

 私にはそのことが、ずっと魚の小骨のように喉元に引っかかったままで、しかし死人に問いただすことも出来ないからと、諦めていたわけである。

 しかし神家さんが人魚であり、不老不死のいきものであったと考えたら、どうだろう。

 私も医者であるから、不老不死については人一倍考えた機会がある。老いず死なずの永遠の命。その灯火が実現すれば、医者の仕事は無くなるのだろうか?

 私はそうは思わない。何故ならば、如何に不老不死と言えど怪我はするだろうし病気にも罹るだろうからだ。それに、不幸な事故でぽっくりと逝ってしまうこともあるだろう。それこそ、叔父のように。

『不老不死という奴は、不幸な事故すらも跳ねのけてしまうのだろうか?』

 そう呟いた私は彼方、過去のセピア色の写真の中で、額縁の檻から出られずにいた。

 しかしどうだ。もし、不老不死の人魚には未来だって見えるとしたら? それ故に人魚は不幸な事故すらも跳ねのけることが出来るとしたら?

 神家さんが、叔父が唐突なクモ膜下出血によって死ぬことを予言していたとしたら?

 叔父が遺書を書くことも、全く不合理ではないではないか。

 私の脳の裏庭で、秘めたる文学性が爆発した。

 


 私は立ち上がると、勇み足で待合の神家さんと喜平八の元へと向かった。ぱたぱたと鳴るスリッパが雨音と揃って、何時しか私の脈拍となる。

 私も私の未来が知りたかった。私は何時死ぬのだろう。どう、死ぬのだろう。世界には、自分の死期など知りたくないという人が大半であろう。しかし私には、自分が何時まで満足に働けるか、知る必要があるのである。それは半ば義務であった。叔父から受け継いだ仕事と場所を、何時まで貫いてゆけるのか、私は知りたかった。

 廊下を走り、待合室の扉に手を掛ける。ひやりとした感覚はまるで魚の鱗。

 私は薄っすらと英雄的な心地で扉を開けた。

 刹那私は、以上の誇大妄想がバカげた遊戯であったことを悟ったのである。

 神家さんは待合のソファに浅く掛け、その視線は一心に、金魚の喜平八へと注がれていた。酸素ポンプが立てるちいさな泡沫が、彼の尾びれや胸びれにひっついては、一呼吸置いてから昇ってゆく。

 幽濫めく喜平八の姿に、しかし神家さんは屍の吹くような冷たい息を吐くのだ。紫銀末の髪は光を喪い、その小さな背中は咲き終えた花のように頼りない輪郭に臥していた。彼女は喜平八との思い出を、その金と紅のひれを通して覗いているのである。無人の教会のステンドグラスを見上げるように、小鳥の影を追うように──

 私は己の頭をはたいた。

 

 ──────────・・・


 後に神家さんは語る。自分は二十一歳の大学生であること、喜平八とはもう十六年の付き合いであること、前院長に診察して頂いた時には、自分はまだ六歳の年端も行かぬ童女であったこと。

 喜平八がまた風邪をひいた時、初めに思い浮かんだのがこの医院であったことを、彼女は訥々と語った。

 私はそれで、色々なことを改めて理解したのだ。何故叔父が、無料で神家さんと喜平八に薬餌を渡したのか、何故カルテに『カワイラシイオジョウサマ』と付け足したのか。

 私は思い浮かべるのだ。あたかも水面に浮かぶ泡沫のようなまるい想像で、額の裏っかわ辺りを満たしてやってみた。

 齢六つの少女が、重たそうに、しかし慎重に金魚鉢を抱えてやって来た。その目元には涙が溜まっている。そして大きく背伸びをして、高い受付台に、やはりソッと鉢を置く。か細く響く硝子の音。後に降る静寂しじま

 誰もが息を呑むその瞬間に、少女は保険証を探し始めるのである──



「では何故だろうなあ」

「何がでしょう」

 口から零れた独り言を神家さんが拾い上げる。私はちょっと躊躇してから、叔父の遺書の話を、やはり訥々と話す。

 彼女は叔父が亡くなったことを知ると、僅かに唇を噛んでから、ふるえる声で『ご愁傷様です』と頭を下げた。私もそれに従って頭を下げて、それからまた、話し始める。

 それは叔父の遺書の話と言うよりも、叔父そのものの話であった。

 私の無意識の中では、叔父の死を悼んでくれるこの麗しき女性に、叔父が碌な人間ではなかったことを伝えると同時に、叔父の活き活きとした生涯を語ることで、その寂寞を和らげてやりたいという密かな想いがあった。

 静かに私の長話を聴き終えた神家さんは、円い目をぱちくりと瞬かせて、それから慈愛の込められた笑みを浮かべた。

「私が思うに、その遺書は……」

「はい」

「沢山の動物たちと触れ合う中で、自分の命についても考えるところがあったのではないでしょうか。自分が、あとどれくらい仕事に従事できるのか、それは天命にだってわかりません。前院長様は不安になったのでしょう。自分がいなくなった後に、誰がこの命を救うのか、と。──ですから生前の内に、死後、自分の仕事を任せられるようにと遺書をお書きになられたのではないでしょうか」

 彼女は金魚鉢を撫でた。

「優しいおじ様でしたから」


 ──────────・・・


 それ以来、神家さんと喜平八は来院しない。

 彼女と彼が健やかであることを仏壇の前で祈りながら、今日も、明日も。恐らくは明後日も、私は叔父の遺志を継いでゆく。

 二人がまるで濡れていなかった理由については、まだ謎のままである。





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