最後の一杯

キートン

ノックの音が……

 丑三つ時。時刻は午前二時過ぎ、人間の眠りが最も深くなる時刻だ。


 ベッドでぐっすり眠っていた私は、かすかな物音で目を覚ました。トントン、トントン……。どこからか聞こえる鈍い音。眠気まなこで耳を澄ますと、それは玄関ドアの方から聞こえてくるように思えた。


「…宅配便か? ありえないよな」 深夜配達なんてあるわけがない。夢かと思い、再び寝返りを打とうとしたその時も、トントン、トントン……。音は微かだが、確かに続いている。


 うんざりしながらも、無視するには不気味で気になる。仕方なくベッドから起き上がり、居間を通って玄関へと向かう。フローリングの冷たさが足の裏に伝わる。


 のぞき穴から外を確認する。廊下の照明は切れており、薄暗い。誰もいない。 「……幻聴か、それとも」 イタズラかもしれない。用心深く、チェーンロックはかけたままドアを細めに開ける。


 ぎいっ…と扉が鳴る。


 そこには、小柄な老女が立っていた。ぼんやりと闇に浮かぶ和装の姿。足元が見えない。 「ど、どちら様ですか?」 声を詰まらせながら問いかける。こんな時間に、まして見知らぬ老女が訪ねてくるなど、尋常ではない。


 老女は無表情で、ゆっくりと首をかしげた。 「お茶が飲みたいのですが、お湯を分けていただけませんか」


 その言葉に、私は凍り付いた。あまりに唐突で、意味不明な頼み。しかも、その声にはどこか艶やかさ、と言うより湿り気のようなものがまとわりついている。


「……今、何時かご存じですか?普通、こんな時間に……」


「喉が渇いてしまいましてね。すぐに失礼しますから、ほんの少しだけ」


 老女は微動だにしない。断るのが当然と思えるのに、なぜか強く拒む気力が湧いてこない。ただ、ただ不気味で、早く帰ってほしい。


「……わかりました、ちょっと待っていてください。お湯を……」


 私はチェーンを外し、ドアを閉めようとした。ほんの数十秒、キッチンでやかんを火にかける間だけですら、この老女と扉越しでも二人きりになるのは耐え難い。


 その時だ。老女の背後、廊下のさらに奥の暗がりから、もう一人の人影がすーっと現れた。それは背の高い、痩身の男のように見えた。顔は影に隠れて判別できない。


「…あ、待て」

 

 老女が呟く。私の動作を止めるように。


「旦那が迎えに来ました。どうやらお茶は必要ないようです。お邪魔しました」


 老女は深々と頭を下げると、振り返らずに男の元へ歩み寄った。二人は何の会話も交わすことなく、暗闇の向こうへと消えていった。


 呆然と立ち尽くす私。やがて我に返り、急いでドアにチェーンをかけ、その場にへたり込んだ。心臓が高鳴る。


 あれは何だったんだ。夢か? 現実か?


 次の朝、何事もなかったように日は昇ったが、あの出来事は頭から離れない。隣人に聞いてみても、そんな老女のことは知らないという。


 数日後、新聞の片隅にある記事が目に留まった。ほんの数行の小さな記事。『××駅近くの路地裏で、深夜に行き倒れになっていた老女を発見。死亡は数日前と見られる』。場所は私のマンションから至近距離。推定死亡時刻の欄に、冷たいものが背中を伝う。


『午前二時~三時頃』


 私はその時、思い出した。あの老女が「お湯を分けて」と言った時、その口元からかすかに漂ってきたのは、ほのかな腐敗の臭いだったことを。










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