第17話 真夜中の敵
僕の部屋の机の上には、一枚の伝票が、まるで果たし状のように置かれている。それは、あの日デパートで渡された、浴衣のレンタル予約伝票だった。光沢のある上質な紙に、明朝体で無慈悲に印字された「黒木 圭 様」という文字列。それはもはやただの紙切れではない。僕に課せられた過酷な試練の象徴であり、来たるべき処刑日への、正式な召喚令状でもあった。
僕は、この一週間、徹底的な現実逃避を決め込んでいた。夏休みの宿題という名の、分厚い問題集の山を築き、その陰に隠れるようにして、あの伝票から目を逸らし続けてきたのだ。見なければ、存在しないのと同じだ。そんな、意味不明な理屈をこねながら、僕はただ、無為な時間を過ごしていた。
しかし、運命の日――夏祭り――は、僕の都合などお構いなしに、刻一刻と、その歩みを進めてくる。
祭りまで、あと二日。僕は、ついに覚悟を決めた。今夜、僕は、桐谷美咲から突きつけられた、あの途方もない宿題と、向き合わなければならない。
『帯は自分で結ぶのが基本だから』。
問題は、どうやって?
僕の手元には、練習すべき「帯」そのものが、存在しないのだ。レンタル品は、当日に受け取ることになっている。僕は、武器を持たずに、最強の敵との戦い方を、シミュレーションだけでマスターしろと、そう言われているのだ。
僕は、途方に暮れながら、クローゼットの扉を開けた。そして、帯の代用品になりそうなものを、探し始めた。
ベルト? いや、短すぎるし、硬すぎる。
マフラー? 季節外れにも程があるが、長さは十分だ。僕は、クローゼットの奥から、数年前に母親が買ってきた、趣味の悪いチェック柄の、毛糸のマフラーを引っ張り出してきた。しかし、そのふにゃふにゃとした感触は、僕が記憶している、あの帯の、ぱりっとした張りとは、あまりにかけ離れていた。
僕は、最終手段として、風呂場から、一番長いバスタオルを持ってきた。
これなら、どうだ。僕は、その、使い古されて少しごわごわになったバスタオルを、腰に巻き付けた。僕の、孤独で、そして、ひどく滑稽な戦いが、今、始まった。
僕の部屋は、戦場と化していた。
机の上には、僕のスマートフォンが、まるで司令塔のように鎮座している。その画面の中では、穏やかな笑顔を浮かべた、初老の男性――おそらく、その道の師範と呼ばれるような人物――が、流れるような、淀みない手つきで、帯の結び方を解説していた。
「はい、ではまず、手先をこれくらい取っていただいて」
「ここを、こう持って、こうですね。はい、綺麗に形ができました。簡単でしょう?」
画面の向こう側の、その涼しげな声と、完璧な手さばき。
それとは、対照的に。
現実世界の僕は、汗だくで、髪を振り乱し、まるで巨大な白いアナコンダとでも格闘するかのように、バスタオルという名の、ただの分厚い布に、全身を締め上げられていた。
五感が、悲鳴を上げている。
視覚が捉えるのは、部屋の姿見に映る、自分の、あまりに情けない姿。Tシャツ一枚に、腰には、不格好に巻き付けられた、くたびれたバスタオル。額に滲む汗、Tシャツの背中にできた、大きな汗ジミ。
聴覚が拾うのは、バスタオルの、目の詰まったパイル地が、必死に抵抗して擦れる、「ゴソ、ゴソ」という、乾いた悲鳴のような音。画面の中から聞こえてくる、師範の、落ち着き払った、どこか僕を馬鹿にしているかのような声。そして、僕自身の、「ハァ、ハァ…」という、荒い呼吸音。
触覚が感じるのは、額から顎へと、ツーっと伝う、生温かい汗の感触。そして、僕の指先の自由を、完全に奪い去る、このバスタオルの、分厚く、そして、全く言うことを聞かない、頑固な感触。
何度やっても、うまくいかない。
師範が、いとも簡単に作り上げる、あの美しい「貝の口」という名の結び目。しかし、僕の手が生み出すのは、ただの、ぐちゃぐちゃに絡まった、布の塊だけだった。それは、貝というよりは、洗濯機の中で無残に絡まり合った、哀れなタオルの成れの果て、とでも言うべき、代物だった。
僕は、画面の中で、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている、あの師範の顔に対して、次第に、純粋な感情が芽生え始めているのを、自覚していた。簡単、なわけがないだろう。僕の心の中で、悪態が、嵐のように吹き荒れていた。
どれくらいの時間が、経過したのだろうか。
部屋の時計の針は、とっくに、てっぺんを越えていた。窓の外は、完全な闇に包まれ、僕の部屋の明かりだけが、まるで孤島のように、煌々と灯っている。
数時間に及ぶ、壮絶な死闘の末、僕の体力は、完全に、限界を迎えていた。精神力もまた、すり減り、摩耗し、もはや、塵のようになりかけている。
僕はついに、床に横たわる、もはやただの布切れと化したバスタオルの亡骸を、力なく見つめながら、両手両足を投げ出して、フローリングの上に、大の字になった。冷たい床の感触が、汗ばんだ背中に、心地よかった。
もう、無理だ。
僕には、不可能だ。本物の帯に触れることなく、この代用品で、あの複雑な結び方をマスターすることなど、できはしなかったのだ。
僕は、震える手で、枕元に転がっていたスマートフォンを、掴んだ。何か、何か、言い訳を送らなければならない。降伏のメッセージを、打たなければならない。
『すまない。僕の家のバスタオルが、帯になることを、断固として拒否している』。いや、駄目だ。ふざけていると思われる。
『どうやら、僕の指先の不器用さは、人類の想定を、超えているらしい』。これも、駄目だ。ただの、惨めな言い訳だ。
僕の、完全にオーバーヒートした脳内を、そんな、支離滅裂で、どうしようもない言い訳の断片が、ただ、駆け巡っていた。僕が、その、屈辱的で、惨めな降伏のメッセージを、打ち込もうとした、まさに、その時だった。
ピコン。
僕の手の中で、画面が、静かに、光った。それは、催促でもなければ、命令でもなかった。僕の、この惨状を、まるで、全て見透かしていたかのような、そんなタイミングで届いた、彼女からの、短い、短いメッセージ。
ただ、一言。
『明日、楽しみにしてるから』
その、何の変哲もない、たった一文。
そして、そのメッセージには、小さな、本当に小さな、可愛らしい線香花火の絵文字が、ぱちぱちと、火花を散らすアニメーション付きで、一つだけ、添えられていた。
その、予期せぬ、そして、ほんの少しだけ、彼女の体温が、感じられるような一言。それは、僕の、完全に折れかけていた心に、まるで、魔法のように、不思議な力を、与えた。
「楽しみにしてる」
その言葉が、僕の頭の中で、何度も、何度も、反響する。
そうだ。僕は、ただの「命令された役」を、こなすだけではないのだ。彼女が、「楽しみにしている」という、明日という名の、その特別な舞台を、僕の手で、成功させなければならないのだ。僕が、ここで諦めてしまえば、彼女のその、ささやかな期待を、裏切ってしまうことになる。
僕は、ゆっくりと、まるで、年老いたロボットのように、ぎこちなく、体を起こした。そして、もう一度、床に、無残に横たわる、あの白いバスタオルを、手に取った。
先ほどまで、僕の心を殺意で満たしていた、画面の中のYouTube師範。その穏やかな笑顔が、今は、まるで、頼もしい相棒のように、僕には見えた。
僕は、深呼吸を、一つした。そして、今度は、焦らなかった。怒りも、苛立ちも、全て、心の隅へと追いやった。ただ、丁寧に、画面の中の、師範の、その流れるような指の動きを、真似ていく。
布と戦うのではない。布を、導くのだ。そう、自分に、言い聞かせながら。右に、左に。上に、下に。分厚いタオル地が、僕の指先で、少しずつ、形を変えていく。
そして、数十分後。
ついに、その時は、訪れた。鏡に映った僕は、ひどく疲れていて、髪もぐちゃぐちゃだった。目の下には、うっすらと、隈ができている。
けれど、その腰には。
画面の中の、師範の、あの完璧な作品とは、比べ物にならないくらい、不格好で、少し歪んでいて、そして、武骨だったが。確かに、「貝の口」の形をした、バスタオルが、結ばれていた。
僕は、その、自分の手で作り上げた、不格好な勝利の証を、そっと、指でなぞった。窓の外が、ほんの少しだけ、白み始めていた。
学園ヒロインの「彼氏役」に、背景モブの僕が指名された件 紘 @hiroki555777
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