まだ月は綺麗じゃないから

夏凛

 

「『月が綺麗ですね』って言葉、知ってる?」

 甘いものを食べたときは、喉に何かが引っかかったような違和感が残る。この言葉を聞いたときにも、それに似たものを感じた。

「何それ? 合言葉か何か?」

「ううん、すっごい昔の小説家の言葉で、『I love you』って意味なんだってさ」

 そう得意げに語りながら、彼女はコーヒーを一口飲み、窓から差す月灯りとにらめっこをしている。カフェのおしゃれな窓ガラスでも、繁華街のようなその光は抑えられていないようだ。

「なんでその言葉が、そんな意味になるのさ」

「それは分かんないけどさ。昔の人にはそういう感性があったんじゃない? 平成ロマンってやつ?」

「平成の人だったの? その人って」

「いや、それは知らないけど」

 彼女のこういう発言は、大抵が適当なものだから、鵜呑みにしてはいけない。そのことは長い付き合いからよく分かっている。

「もしその人がさ、今の月を見たらどう思うんだろうね」

「さぁ……少なくとも、いい気持ちにはならないだろ」

 僕は窓から夜空を見上げながら言った。

 人工衛星『ザ・ムーン』。百年ほど前に砕けた月の代わりとして、数十年前に打ち上げられたものだ。それは僕が生まれる前から宇宙に浮かんでいて、だから僕は、『月』がある夜空も、『月』がない夜空も知らない。

「ねえ……、君はさ、月は綺麗だと思う?」

「いや、別に。ゴツゴツしててあんまり好きじゃないかな」

「ふーん、そっか……君って鈍感だもんね」

「……? どういうこと?」

「感性が乏しいってこと。もうちょっと風情を感じなさいよ、君は」

「風情って……あんな無機質な塊から何を感じ取ればいいのさ」

「そういうとこだよ、ホント」

 わけが分からなかったから、なんとなくまた月を見上げた。

 人の手によって打ち上げられた月は、何食わぬ顔で地球と共に回っている。

 眩しすぎるあの人工天体のことは、まだ好きにはなれないけど、どうせいつかは綺麗だと思ってしまうんだろう。

 人の心なんて、そんなもんだ。

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