幽霊に魅入られて。

伝々録々

幽霊に魅入られて。



 ある雨の夕方、僕は美しい幽霊を見た。

 幽霊だとわかったのは、雨がその体をすり抜けていたからだ。


 白装束の似合った、儚げな女の霊だった。

 

 僕はその場に立ち尽くした。

 何故か彼女から目が逸らせなかったのだ。

 まるで、超常的な力がはたらいたかのように。


 しばらくして、幽霊は僕の視線に気づいた。


「あなた、私が見えるの?」


 透明な声は、傘を叩く雨音をすり抜けた。

 僕は頷き、幽霊の隣に歩み寄った。

 

「気が付いたらここにいたの」


 幽霊はポツリと漏らした。

 そこは大病院近くの路地だった。

 彼女が何故ここにいるのか、詮索しようとは思わなかった。


「辛いね」


 僕の言葉に、彼女は「どうかしら」とだけ答えた。

 何にも関心を抱いていなさそうな、無感動な声だった。


 僕らはしばらく隣にいた。

 会話はなかった。

 でも、きっと、互いの存在を感じていたはずだった。


 また来ます。

 別れ際の僕の言葉に、彼女は何も答えなかった。



    ◇



 また雨の日、僕は幽霊に会いに来た。


「……嘘じゃなかったんだ」


 相変わらず無感動にそう言う幽霊は、道端の白い花を見ていた。僕にとっては雑草と区別のつかない、名も知らぬ小さな花だった。


「私はね、見ているだけなの」


 幽霊は言った。

 

「花の匂いも、雨の冷たさも、私にはわからない。こんなに寒くて、痛いのに」


 いつもここにいるの? と僕は尋ねた。

 ここにしかいられないの。と幽霊は答えた。


「身体があれば、どこへだって行けるのに」


 でもそれはかなわぬ願いだ。

 彼女は幽霊なのだから。

 その儚さが、僕を惹き付けてやまない。


「また来るつもり?」


 もちろん。

 僕は迷うことなく頷いた。


    ◇


 明かりに誘われる虫のように、また彼女の元へ赴いた。

 最近不調で重い体も、ここへ来るときは軽くなった。


「あなたが来ると、安心するわ」


 光栄だ。

 それに彼女の隣に立っていると、僕も心が安らいだ。


「ねえ。あなたの体、貸してくれない?」


 名前も知らない花を愛でながら、彼女は言った。


「少しだけでいいの。触れたり、匂いを嗅いだりしてみたい」


 生きてきたときみたいに。


 僕は迷いなく彼女を受け入れた。

 彼女の力になれるなら本望だ。

 好きな人の力になれるだなんて、こんなに幸せなことはない。


 彼女は僕の体で様々なものに触れて、様々なものを感じた。

 その喜びは、体を貸している僕にも伝わってきた。


 どうやら体を貸すと、僕らの感情は共有されるらしかった。


    ◇


 それから、僕は会うたびに彼女に体を貸した。

 花を、鳥を、風を、月を、二人で感じた。

 幸いなことに、僕が彼女の元を訪れる機会は加速度的に増えていった。


    ◇


 またある日の夕刻、僕は彼女に会いに来た。

 いつもの大病院近くの路地だ。

 彼女はいつもここにいる。


「また、来てくれたのね」


 彼女は嬉しそうな笑顔でそう言った。


「体、借りてもいい?」


 僕は頷いた。迷う余地はなかった。


 彼女が僕の中に入って、僕の体は彼女のものになる。

 彼女が喜んで、僕の中にも喜びが生じた。


 この頃にはもう、僕が笑うのは彼女とひとつのときだけだった。


 

    ◇


 いつものように訪れた僕を見て、彼女が驚く。


「また来たの……?」


 最初の頃からは考えられないほど、だ。

 、それはたぶんいいことだと思う。


「どうして……?」


 僕は何も答えない。

 答える必要がない。


 彼女はそれを知っているはずだ。

 僕らは何度もひとつになったのだから。


 僕の中にまだ僅かに残る感情を、彼女は知っている。

 彼女が言葉にしていない黒い望みを、僕は知っている。


「また、体を貸してくれるのね?」


 僕は頷いた。

 断るという選択肢は、まったく思い浮かばない。 


「そう……」


 一瞬だけ、幽霊は悲しそうな顔をした。

 でもそれは本当に一瞬で、すぐに見惚れるような笑顔に変わる。


「じゃあ、借りるね」


 僕は当然に頷いた。

 好きな人と一つになれるだなんて、こんなに幸福なことはない。





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幽霊に魅入られて。 伝々録々 @denden66

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