第4話 2人を照らす月


 試合が終わった。

 歓声は大波みたいに押し寄せては引き、最後に白い泡だけが残る。

 私は舞台の真ん中で、息を整えていた。胸が上下し、義肢の接合部が微かに温度を持つ。金属は冷たいはずなのに、今は体温を覚えている。


 目を閉じる。

 暗闇の向こうから、彼の声がやってくる。

 やわらかくて、少し不器用な声。「月が綺麗だ」と笑う声。港の匂いと一緒に思い出される、あの夜の気配。


 港の欄干に手をかけて、私は空を仰いだ。

 月は大きく、海は黒く、風は塩の味がした。

 「月が綺麗だから」と言ったとき、私はたぶん、誰よりも自分に言い聞かせていた。

 “私はここにいる。怖くない。見える。綺麗”

 そうやって、言葉で自分の輪郭をなぞる。


 気づけば、この身体はもう私だけのものではなくなっていた。

 義肢の軋み、金属の重さ、夜ごとに取り替えるケア用の液体。

 稽古中、汗が接合部に流れ込まないように、私はタオルをこまめに当てる。

 鏡に映る姿は、昔の私じゃない。けれど――


 この“今の私”を、私は嫌いじゃない。

 だって、ここまで連れてきてくれた彼がいたから。

 彼が支えてくれた背中の熱を、私はまだ覚えている。

 歩幅を合わせるとき、彼は一歩だけ後ろにいた。私がつまずくと、彼の手が必ずそこにあった。

 それは、稽古のときの話。舞台の上では、私はひとりだ。

 でも、孤独ではない。

 孤独とひとりは、違う言葉だと、今なら分かる。


 目を開ける。

 視線の先に、マリオがいる。

 関係者席。椅子の縁に指をかけ、まっすぐにこちらを見ている。

 逃げずに。目を逸らさずに。

 胸の中に、暖かいものが広がる。痛みと似ているけれど、これは痛みじゃない。


 私は、彼に届くように唇を動かした。


「……今日も、月が綺麗だと……思う?」


 遠いのに、頷きが分かった。

 ほんの少し、彼の顎が動いた。

 それだけで充分だった。

 言葉の続きを欲しがったのは私じゃない。あの夜に遮られた言葉を、今度こそ彼に届けたかっただけ。


 舞台の板は固く、汗は塩辛い。

 義肢の内側に熱がこもり、皮膚が微かに痺れる。

 でも、この痺れを私は嫌わない。戦いの後にだけ訪れる、世界が少しだけ静かになる時間。

 耳を澄ませば、観客が帰り支度を始める衣擦れの音、係員の短い指示、清掃用のカートが車輪を鳴らす音。

 その雑音の向こう側に、彼の呼吸がある気がする。

 錯覚でもいい。私はそれを聞く。


 ――白亜の妖精。

 いつの間にか、私の名前になった呼び名。

 名が先に来て、その中身に追いつくのは大変だ。

 けれど私は、追いつくことをやめない。

 私は私の方法で、美しく、苛烈に、正確に――生きる。


 私は最後に、もう一度だけ客席を見た。

 そこにいる。

 彼はまだ座っている。

 それだけで、私はまた舞台に立てる気がした。


 ゆっくりと踵を返す。

 板のすれた音が一歩ごとに鳴り、義肢の金属が淡く返事をする。

 幕が下りれば、次の稽古が始まる。

 稽古の隣には、生活がある。

 生活の隣には、また舞台がある。

 そうして私は、生きていく。


 


 外に出ると、夜空を漂っていた雲が、ふと月を隠した。

 時間が止まったみたいに、あたりが一瞬だけ暗くなる。

 けれど次の瞬間、風に流されて雲がほどけ、光がするすると舞台の天井まで戻ってくる。

 白亜の光は揺るぎなく、舞台を――そして私たちを――もう一度、優しく照らした。


 私は空を見上げ、小さく息を吐いた。

 「……うん。今日も、綺麗」


 その言葉は、誰に向けたでもなく、夜へ溶けた。

 でもきっと、彼に届く。

 月の光は、そういうふうに出来ている。

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『Deus Ex FairyTales/白亜の妖精』 ナナハ @nanah

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