人の最果て
中原圭
人の最果て
少女の眼前に、奇妙な物体が転がっていた。
転がっている、という表現は適切ではないかもしれない。だが、彼女の語彙には、それをより適切に表現する言葉がなかった。
寝そべる、でもない。崩れ落ちている、というわけではない。
ただ「転がっている」のだ。
少女の目に、それは、自らそこに横たわることを望んでいるようには見えなかった。
少女は目を細め、横たわる物体を観察した。やがて徐々に焦点が合い、その姿が、鮮明に映し出されていく。
――人間。
少女が遅れて、それが「ホモ・サピエンス」だということを理解した。同時に、はてと首を傾げる。
――ヒト、というものはかくも面妖なものであっただろうか。
目の前に転がる物体は、少女の記憶する「ホモ・サピエンス」の姿とは大きく異なっていた。
彼女の記憶にある「ヒト」というのは、直立二足歩行が可能な存在。コミュニケーション能力を有し、動物的な本能から解脱し、理性によって統率の取られた社会コミュニティを営む。――他の哺乳類とは一線を画したもの。
それが、ホモ・サピエンス――人間であるはずだった。
だが、目の前にある、コレはどうだろうか。
四肢を持ち、霊長類らしい骨格的特徴を有している。
――ヒトであろう。
だが、それが持つ四肢は細く、枯れ木のように老いさらばえている。痩せ衰えた筋肉は、自ら動かすことなど叶わないだろう。ただ、喘ぐように呼吸を繰り返すのみで、自らの口で食べ物を嚥下することもできず、薄く開かれた瞳は濁り、どこをみているのかさえ分からない。
その目に、実際に何か映っているのかすら、少女には分からなかった。
「先生。アレはなんですか?」
自らの隣に立つ老人を見上げ、少女は問うた。
「――ヒト、だよ」
老人――先生は短く答えた。
少女は彼の名を知らない。ただ「先生」だと認識している。
少女の知らぬ世界を知り、彼女に分かる言葉に置き換えてくれる彼の存在は、辞書に記載されている「師として学問・技術・技芸などを教える人」という注釈に沿っている。
故に、少女は彼を先生と呼んだ。
而して、先生の言葉は少女にとって、理解し得ぬ事だった。
「先生。アレはヒトではありません。ヒトは、立ち、歩き、言葉を発し、理性的な思考を持ち、社会を織りなす。――そういう存在ではありませんか」
アレは違うでしょう。
少女は言いながら、目の前の物体に視線を戻した。
面妖な存在は、相変わらずそこに転がり、下顎を震わせながら、浅い呼吸を繰り返している。
十分な呼吸筋すら残っていないのだろう。その呼吸は、先生のものと比べてずっと弱々しいものだった。
先ほどは特に気にしてはいなかったが、鼻から管が伸びていた。あそこから食事を取っているのだろう。
知識に照らし合わせながら、少女はその存在の状態を分析した。
衰えた嚥下機能と、四肢の筋力では自らで摂食・嚥下する事が叶わないのだろう。
外部にそれらを委託し、ただ、呼吸と鼓動だけを繰り返すだけの存在。
「アレはヒトではないでしょう」
「そうだな――」
先生が苦笑を零す。少し考え込むように、自分のこめかみを叩く。
自分が理解していることを、どう説明しようかと悩むような仕草だ。
目の前の物体の零す、弱々しい呻き声にも似た微かな声と、呼吸音だけがその場にあった。
そして、数分は経っただろうか。
やがて先生が口を開く。
「これもまたヒトだ。正確には『ヒト』だったものだな」
「――だったもの、ですか」
少女の言葉に、先生は頷いた。
「かつてヒトだった。そう表現する方が、分かりが良いだろう。ヒトのガワだけが遺された、人類のなれの果て」
それがコレだと、先生が言う。
「中身はヒトではないのですか」
少女が重ねて訊ねれば、また、先生が悩むように閉口した。
「ヒトの定義によるな――」とぽつりと落とされた言葉は、返答を求めたものではないのだろう。その言葉は、ただ空間を転がり、空気に溶けていった。
「アレ――彼。彼女は、不幸、ですか」
少女は訊ねる。
多くのことを知ったと思ったが、まだわかり得ぬもののことが多い。
目の前にある存在を物体として扱うべきか、或いは先生のようにヒトとして扱うべきか悩み、そして同時に、それが雄・雌のどちらに属するか分からず。故に、辿々しくなった疑問を先生に投げかけた。
「不幸か。――もう、それを感じる思考すら遺されていないだろうさ」
先生は言った。そして、少女の頭を撫でた。
先生の掌は、温かく、そして柔らかい。少女には持ち得ぬものだった。
「ヒトは、自らの思考を放棄した。悩み、思考し、苦心した上で決断を下す。そうした、全人的な営みの全てを、機械に代替させた」
使われなくなったものは、総じて衰えていく。
先生はそう言って続けた。
「筋肉が使われなければ衰えていくように、脳もまた、衰えていく。そうして、生活や営みに関する全てを機械に代替させたなれの果てが、アレだ」
「では、アレは不幸なのですね」
先生が「アレ」といったから、あの物体に対する代名詞は「アレ」で良いのだろう。
少女はそう判断し、問うた。
「君には、アレが不幸だと思うか」
「不幸、でしょう」
少なくとも、アレが幸福という言葉に相当する存在にはないと少女は思った。
不平や不満がなく、満ち足りたことが「幸福」というのであれば、自ら動き、食べ、文化的営みすらなすことのできなくなったあの存在は、「幸福」には属さないだろう。
「アレにはもう、それを感じる心すら存在しない。だがな、他覚的にみて憐れに映るからと言って、それを『不幸』と評価するのは横暴だろうさ」
先生は言った。そうして、一層、柔らかな手つきで少女の頭を撫でる。
「君は、アレが不幸と思うか」
「ええ」
先生の言葉に、少女は頷いた。
目の前の物体――かつてヒトだったものを見つめる。
「私がああなったらと思うと、少し、ここがザワつきます」
そう言って少女は自らの胸元を撫でた。
ひどく落ち着かない。
底のない穴に落ちていくような、暗くて怖ろしい気持ちが、少女を襲った。
生存本能に根ざした、動物的な恐怖に苛まれ、身が震える。
「そうか」
しみじみと噛みしめるように、先生は言う。
「そう思うなら、
先生は目の前のヒトのなれの果てをぼんやりと見つめている。
望郷か、或いは追憶だろうか。
住む場所を奪われ、追われた異邦人のような陰りを、少女はその姿にみた。
しかし――。
その瞳と、言葉に滲む深い哀愁を、
人の最果て 中原圭 @K_Nakahara
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