見えなくなった朝

じーさん

見えなくなった朝

夜、歯を磨こうと洗面所へ行ったときだった。

蛇口の下、白い洗面台の端に、ひときわ大きな影がうずくまっていた。

目を凝らすと、それは掌ほどもある蜘蛛だった。

艶やかな脚が八本、まるで黒い糸を張り巡らせるように広がり、動かぬまま私をじっと見ていた。


思わず後ずさった。

けれど、なぜか恐怖よりも奇妙な納得感があった。

――今日は朝から蒸し暑かったからだろう。

涼しい洗面所は、彼らにとっても過ごしやすいのかもしれない。


私は歯ブラシを手に取り、蜘蛛を横目にしながら磨き始めた。

口の中で泡立つミントの味と、視界の端にいる異物の存在。

その対比に、不意に笑いが漏れた。


「……お腹、空くよな」


自分でもなぜそんなことを呟いたのか分からない。

ただ、ふと頭に浮かんだのだ。

夜の来訪者に空腹を覚えられては困る、と。


そこで思いつき、私は洗面台に落ちていた自分の髪の毛を数本つまみあげた。

昼間、抜け落ちたものだろう。

ごみ箱に捨てるつもりだったが、蜘蛛の方へそっと置いてやった。

人間にはただの不要物でも、彼にとっては糸を紡ぐ資源になるかもしれない。


蜘蛛は動かない。

黒い塊のまま、ただ黙ってこちらを見ていた。

私はそれ以上干渉せず、「おやすみ」と小声で告げ、洗面所を出た。


翌朝、目を覚ますと、胸の奥がわずかにざわついていた。

夢を見たような気がする。

暗い部屋で、何かが頭上を這う夢だ。


確かめるように洗面所へ行くと、蜘蛛の姿はもうなかった。

洗面台の端も、鏡の前も、どこにも影は残っていない。

ただ、昨夜置いたはずの髪の毛だけが跡形もなく消えていた。


私は鏡に映る自分を見つめた。寝起きのぼさぼさの髪。

だが、一本一本の毛先が妙に軽く、何かを吸い取られたような感覚がした。


「……食べられたのは、どっちだろう」


蜘蛛がいなくなった安堵よりも、背後に気配が残っているような不安が勝った。

けれど、不思議と嫌ではなかった。


あの夜の訪問者は、もうどこかで私の髪を糸にして、巣を編んでいるのかもしれない。

その巣が、やがて私の夢の中まで広がっていくのではないか――

そんな予感を抱きながら、私は歯ブラシを口に運んだ。


鏡の中、わずかに揺れる影が見えた気がした。

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見えなくなった朝 じーさん @OjiisanZ

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