前を向いて歩くということ

美女前bI

 でも……


 無意識で彼女の左腕を掴んでいた焼き鳥屋の前。


 油断した自分の失敗。それに気付いて立ち止まってしまったことも油断……


 きょとんとする彼女はわかっていない。でもその表情が少しずつ曇る。


 酔いが回ってるせいで、良い感じのいいわけが思いつかない。僕は焦る。焦るほど後悔という言葉で脳は埋め尽くされてしまう。


 この右手はとっくに過去においてきたはず。どうして今さら……


 彼女は気を利かせたのか、入りたいの?と聞いてくれた。彼女の指先は店の扉に向けてある。それは渡りに船。でも僕は頷けない。


 君、鶏肉だめじゃん。


 卑怯者の僕は、唇を優しく奪った。何をどう誤魔化していいかわからなかった。


「もっと」


 離れる度に、何度も彼女に引き寄せられる。それは執念か自棄か。違う。彼女は不安なのだ。つまり安心するまで離すつもりはないということ。だから満足してもらうしか他にない。想定外だ。


 場所も良くない。店の出入り口近く。


 常識外れ、迷惑、不快。僕らを見たらそれしか思わないだろう。


 わかってる。でもそれを避けるのは保身としか思えなかった。その計算に似た勘違いは、彼女に対する誠意ではない。だけど何もかもが裏目。本当に最低だ。


 今日の僕はおかしい。たぶん表情だって、幾度となく深刻に映って見えただろう。だけど理由なんて言えない。言えるわけがない。言ったら終わりだ。僕は終わらせたくなんかないんだ。


 だから彼女が安心できるまで、今は優しいキスを繰り返す。


 扉が開く音。そして漏れ聞こえるベースライン。


「まじか……」


 焼き鳥屋から出てきた客だった。


 頼む。後で何でもするから今は許してくれ。


 僕の願いは届かない。冷やかしの声は他にも聞こえた。でも今はそれよりも流れているバンドの曲のほうに意識が向けられてしまう。扉は開いたままらしい。


 よりによってなぜこのタイミングなのだろう。


 神様は僕のことが嫌いなのではないだろうか。本当に今日はツイてない……


「もう、もっと!」


 怒っているようで、悲しい声。僕はさらに丁寧に唇を重ねる。心はもうぐちゃぐちゃだ。


 彼女の好きなバンドだった。彼女の前で僕が興味のないふりしている3人グループ。今流れている曲は恋人からキスを求められるという歌だ。


 二年ぶりに聞くその新曲は、ベースとドラムが加わった。あの日、弾き語りで聴いた曲。彼はあの時のように、同じ声で僕のあだ名を優しく呼んでいる。嬉しくなるから歌詞くらい変えてほしかった。タイトルなんかにしないでほしかった……


 彼と同じ色同じ柄のスカジャンを着る同じ背丈の彼女。彼の声を聞きながら、あの頃の彼の服装をする彼女と、あの時のようにキスをしている。


 こんなことなら、行動しなきゃ良かった。いつものように取り繕えば良かった。


 何度も間違えかけたのは、心の中に彼がこびりついてしまっていたからだ。とっくに忘れたと思っていたのに。


 でも結局間違え。狼狽え。誤解され。キスで誤魔化し、彼を思い出し、キスで彼を消し去ろうとさらに激しくしてしまう最低な僕。


 知らないアイドルグループの曲に変わっていた。


 いつしか彼女でいっぱいになってることに気付いた。最後のギターが、彼のギターが僕の罪悪感を連れてってくれたらしい。


 心の中の欲望は君が欲しいと言い始めている。


 初めて彼女を求めることができているような気がする。彼女はようやく満足して、締めのキスを僕の両頬にしてくれた。


 微笑む彼女がいつも以上にとても綺麗だった。


「いい歳こいてみっともねえ」


 背中で聞こえたそれは、僕が僕自身に感じている言葉そのもの。仰るとおりだと思った。だから反論なんか出てこない。けど、自分の意思とは反対にこの口が勝手に動いてしまう。


「いい歳こかなくてもみっともねえもんだよ。でも」


 僕は振り向いて、堂々と彼女を見せつける。


「こんなイイ女の前じゃ、そんなのどうでもよくなっちゃうんだな」


 俺は高笑いをしてしまう。今、唯一愛しているのはこいつだけ。自分にはもったいないくらいとびっきり素敵な彼女を連れて、その場を後にした。


 どうせあの男は心の中から消えちゃくれない。本当に酷い奴。ジタバタするのももうこれで終わりだ。


「恥ずかしいから、もうあんなことやめ……」


 はにかんだ彼女がまた愛おしくなって、今度は人目のない場所で口付けをした。素直に受け入れてくれるその嬉しそうな唇も愛くるしい。


 もう間もなく今日が終わりを迎える。俺達は余韻に浸って見つめ合うと、互いの手を取り合った。


 繋いだのは俺の左手と君の右手。


 星空の下。明日に向かって歩く、でも


 今後はもう間違えることなんてないだろう。若者に放った言葉が、自分の魂に刻まれてしまったから。


 あの頃の彼になりきるのももう終わりだ。これからは彼女だけを見つめて生きていく。


「あ、なんかいつもより手があったかい」


 俺はもうあいつじゃないからね。


 

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