これからの約束
らぷろ(羅風路)
これからの約束
母から「足が痛くて不自由だから、実家に戻って暮らしてほしい」と言われたのは、雨の粒が編集部の窓に水平に叩きつけられていた午後だった。原稿のゲラは机の上で湿気を吸い、紙の縁がわずかに波打っている。わたしは四十二歳、都内の出版社で雑誌の編集をしている。独身で、兄弟はいない。電話口の母は、言葉を選びながら、それでもはっきりとした調子で言った。「もう、ひとりで動くのがしんどいんよ。家に戻ってきい」。
実家は山に囲まれた小さな町にある。家業があるわけでもない。出版社の支局など、もちろん見当たらない。わたしの仕事は東京という回転軸の上でしか成立しないのだと、つい最近まで信じていた。だからといって母を突き放すわけにもいかない。東京で一緒に暮らさないかと提案しても、母は「知らん土地では落ち着かん」と短く言った。父が亡くなって二年、家の中に父の時計や工具の影だけが残り、そこに根を張るように暮らしている母を、たやすく引きはがすことはできそうにない。
その夜、同僚であり数少ない友人の中村に、居酒屋のカウンターで打ち明けた。中村はグラスを指で回しながら、「面倒を見るって発想そのものがもう時代遅れなんだよ」と言った。「うちの親なんかさ、子どもに迷惑かけたくないって、体が動くうちは一人でなんとかする。動かなくなったら施設に入るから、お前は心配すんなって。そういうもんだろ、今は」。
わたしは頷いたが、手の中のグラスは少し汗ばんでいた。言葉は理にかなっている。けれど、わたしの親は逆を生きてきた。父は口数こそ少なかったが、最後まで「家は家族で守るもんだ」と言い続けていたし、母もまた、頼られることを誇りに変える人だった。中村の言う「今」は、わたしの育った「昔」をたやすく上書きする。その紙の重なりが、胸のどこかをざらつかせる。
数日後、久しぶりに母へ電話をすると、裏庭で転んで膝をすりむいた、と明るい声で報告された。「たいしたことない」と笑う気配が受話器越しににじむ。たいしたことがないならなおさら良い。なのに、気持ちはざわついたままだった。翌日、編集長に頭を下げて二日だけ休みをもらい、朝一番の新幹線に乗った。
車窓の景色は何も変わらない。稲の緑は年相応に濃く、川は年相応に浅い。駅に降りると、町は少しだけ縮んだように見えた。バスを降りて実家の玄関を開けると、古い靴箱の上に父の腕時計が置かれたままになっている。電池は切れ、針は二年前のどこかで止まっている。居間から出てきた母は、わたしの顔を見るなり、まるで不意打ちを食らったように目を見開き、「何しに帰った」と言った。
心配して帰ったのに、なんて言い方だ、と胸の奥で小さな火花が散った。けれど口に出すと、子どものように怒りに頼ることになる。そのみっともなさをわたしは知っている。代わりに靴を揃え、荷物を廊下の隅に置き、台所へ向かった。
家の中には、見慣れない貼り紙がいくつかあった。スイッチの横に「電気を消す」。玄関には「戸締り」。冷蔵庫の扉には「月曜木曜ゴミの日」。字は母のものだ。若いころの癖はそのままなのに、線の一本一本が少し頼りない。貼り紙は、母が自分の生活を、外から見つめ直そうとしている証のようにも見えた。
「そんなもん、いちいち書かんでも」と言いかけると、母は半笑いで肩をすくめた。「あんたのように頭が回らんのよ。貼っといたら、忘れてても怒られんでええやろ」。誰に怒られるのか、と訊きたくなったが、黙った。怒る対象は、たぶん母自身だ。
昼、近所のスーパーに行って食材を買い、煮物を作った。味は濃い。父の好みに合わせて母が長年作ってきた味だ。ふたりで食卓を囲み、母の膝の傷を見せてもらった。擦り傷だが、腫れは少しある。「病院、行ったんか」と尋ねると、「行ってない」と返事が来た。「病院行ったら、余計な病気見つけられる」と母は冗談めかす。
午後、押し入れの奥から古い段ボールを引っ張り出して、いらないものをまとめた。母は「捨てるな」と言い、しかしどれも何年も触れていない。父の作業着、色の抜けたバスタオル、引き出物のカタログが期限切れでうす汚れている。「残すものと捨てるもの、今日だけ決めよ。続きは今度でええ」と提案すると、母は「今度はいつや」と聞いた。
答えられず、窓の外に目をやった。裏庭の柿の木に小さな実が鈴なりになっている。転んだのは、あの木の下だろうか。母は裏口のスリッパを指さし、「わたしが転んだのは、スリッパがすり減っとったからや」と断言した。何十年も履いて、底が薄くなったスリッパ。わたしは新しいのを一足買って帰ろうと思った。
夕方、母が風呂に入っている間に、貼り紙のひとつを見直した。「月曜木曜ゴミの日」。裏に目をやると、母の走り書きで「来週は祝日で火曜」と小さく書いてある。町内会の回覧板の内容だろう。その小さな文字が胸に刺さった。母は忘れっぽくなっている。でも、忘れまいとする力もまだ残っている。
風呂上がりの母が髪をタオルで拭きながら、「あんた、東京の仕事はどうするん」と聞いてきた。「どうもしない。戻るよ」と答えると、母は「そうし。こっちには、こっちの時間があるから」と言った。自分を納得させるための言葉ではなく、ただの事実の報告のような口ぶりだった。
夜更け、居間で茶をすすっていると、母がぽつりと言った。「この家は、あんたのためにも残しときたいんよ」。わたしは茶碗を置き、言葉の先を待った。「あんたが嫌なことあっても、帰るところがあったら、もうちょいだけ頑張れるやろ」。
わたしは東京での生活を思い浮かべた。締切、赤字、校了、取材の段取り、埋まらない頁。どれも手触りのある現実だが、そこに「帰るところ」の絵は含まれていない。わたしはいつも「戻らない前提」で動いていた。帰る場所があるという前提は、甘さの別名だと思っていた。だが、母は甘やかそうとしているわけではない。ただ、座布団一枚分の逃げ道を用意してやろうとしている。その道が、わたしの中で急に現実味を帯びた。
翌朝、近所の整形外科に母を連れていった。膝は打撲で済み、湿布と軽い運動を勧められた。医師は「足腰は使わないと弱るからね」と穏やかに言った。母は頷きながらも、「わかっとる、でもね」と苦笑した。帰りにドラッグストアで新しいスリッパを買い、玄関に置くと、母はしばらくそれを見つめてから、「ええ色や」とだけ言った。
昼、町の役場に寄って地域包括支援センターの窓口で相談した。週一回の見守り訪問や配食サービス、いざというときの緊急通報の仕組み。窓口の人は実務的で、余計な情は挟まない。わたしはメモを取り、母に説明した。母は「そんな大げさな」と顔をしかめたが、拒絶ではない表情だった。
「全部いっぺんには要らん。まずは様子見。配食も、たまにでええ」と母が言ったので、「たまに」をカレンダーに落とした。冷蔵庫の貼り紙の近くに、わたしの字で新しいメモを足す。「第二火曜・配食」。文字の調子が母の字に寄ってしまうのを感じて、少しおかしくなった。
午後の列車でわたしは東京に戻った。社内チャットは溜まり、校了は待ってくれない。編集長は「親御さん、大変だね」と短く言って、わたしの机に次号の企画書の束を置いた。わたしは「ありがとうございます」と言い、束の上に手を載せる。その重さは、さっきまでのスリッパより軽い。紙の角が指に当たり、現実が戻ってくる。
夜、自宅でメールをひと通り返した後、母に電話をかけた。新しいスリッパはどうか、と聞くと、「まだ様子見」と言う。「様子見って、履かんと様子もないやろ」と返すと、電話口の向こうで母は笑った。「そうやね」。
わたしは言葉をつかみかけた。東京に来ないか、という誘いの言い換えを。けれど、受話器の向こうの気配が、わたしにブレーキをかけた。実家がいいという母の気持ちは、観念ではなく生活の温度でできている。わたしの言葉がいくら整っていても、その温度に触れることは難しい。
それからは、週に一度は電話をし、月に一度は帰ることにした。仕事の合間にこっそりと新幹線のチケットを取る。母は帰るたびに「何しに」と言うが、徐々にその語尾が丸くなっていくのがわかった。貼り紙は増えたり減ったりした。「電気を消す」は残り、「戸締り」は玄関の外側に移動していた。「ゴミの日」は書き直され、字の震えが少しだけ小さくなっていた。
あるとき、冷蔵庫の貼り紙の隅に、母の字で小さく「息子が月一で帰る」と書いてあって、わたしはその場所で少しだけ立ち尽くした。母は「あんた、見たら恥ずかしい」と言って、すぐにその紙を剥がしてしまった。「書いとかな、わたしが忘れる」。そう言って笑った。
東京の生活は変わらない。締切は来て、過ぎ、また次が来る。ある特集では「家族のかたち」を扱った。ライターの原稿には、離れて暮らす親子、介護と仕事の両立、施設選びのチェックリスト、制度の隙間の話が並んだ。校正記号で行を直しながら、わたしは自分が編集しているものの輪郭が、だんだんとぼやけてくるのを感じた。正しい情報は載っている。だが、わたしの母の貼り紙の手触りは、どこにも載っていない。
その晩、わたしは台所の壁に小さなメモを貼った。「第二火曜・母」。自分に向けた貼り紙だ。忘れないために、忘れようのないことを書いておく。母と似たやり方に、少し安心する。
冬が来るころ、母は杖を使い始めた。電話口で「もう走らんように」と冗談めかして言う。わたしは「元から走ってないやろ」と返す。やりとりを重ねるごとに、わたしたちは言葉の角を削り合って、丸い石のようにしていった。
ある帰省の夜、こたつに入ってテレビの音を小さくしていると、母がぽつりと言った。「あんたはあんたの人生を生きなさい」。
わたしは驚き、黙った。「それは、わたしを置いていけ、ということか」と喉まで出かかった言葉を飲み込む。母は顔をこちらに向けず、爪を眺めながら続けた。「誰の人生も、誰かに預けられん。その代わり、預けられんぶん、頼ってええ。頼るのと預けるのは違うから」。
わたしは「東京に呼ぶ話は、しばらく置いとく」と言った。母は「それがええ」と言った。ふたりの間に、こたつの電熱の匂いが流れていく。昔、父が眠そうにあくびをしていた冬の夜と、ほとんど同じ空気だ。
春先、編集部で過労気味の後輩が倒れた。救急車に同乗し、病院の長椅子で朝を迎えた。窓の外に薄い光が伸び、それに触れるうちに、わたしは突然、自分がどこにも根を下ろしていないことに気づいた。東京の賃貸の床も、実家の畳も、わたしにとっては仮住まいだ。根の代わりに持っているのは、行き来する足だ。
根がないことは不安だが、足があることは救いだ。行けるし、戻れる。わたしは帰りの電車で、母に電話をかけた。「次、第二火曜より早めに帰る」と言うと、母は「勝手にしなさい」と言って笑った。笑い声は少し息が混じり、聞き慣れた癖が増えている。癖もまた、生きている証拠だ。
その次の帰省で、台所の貼り紙はまたひとつ増えていた。「火は消した?」。母は「これは、あんたにも必要やろ」と言って、わたしの背中を軽く叩いた。
帰り際、玄関で靴を履きながら、わたしは母に言った。「もし、ほんまに無理になったら、そのときはこっちに来てくれ」。母は少し考えてから、「そのときは、考える」と言った。「なるようになるさ」。そう付け加え、わたしの新しいスリッパをちらりと見た。
電車に乗り、座席に体を預ける。窓に映る自分の顔は、少しやつれ、少しやわらいで見えた。携帯のメモを開き、次の「第二火曜」を確認する。紙にも、画面にも、わたしは同じ字で同じことを書く。忘れないために。忘れても、戻れるように。
東京に戻り、編集部に着くと、机の上にまた企画書の束が置かれていた。「家族と仕事のこれから」という仮題がついている。わたしは束を持ち上げ、ページをぱらぱらとめくりながら、窓の外を見た。雲が流れ、光がビルの壁を移動させていく。わたしの生活も、母の生活も、光と影のように入れ替わり続けるのだろう。
しかし、その移ろいの中で、貼り紙は壁に留まる。母の字と、わたしの字。二種類の震えが、同じ家の、同じ台所の壁に並んでいる。
わたしはペンを取り、企画書の余白に小さく書いた。「『頼る』と『預ける』の違い」。下線を引き、蓋を閉める。差し迫った正解はここにはない。だが、正解の不在を怖がらないでいられるだけの往復の距離は、もう手に入れた気がする。
なるようになるさ。
声に出さずに言ってみる。小さな貼り紙のような言葉が、胸の壁にぴたりと貼り付くのを感じながら、わたしは次の締切に向けて、静かに椅子を引いた。
これからの約束 らぷろ(羅風路) @rapuro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます