唯月さんが俺に結婚を迫ったのには理由があった

春風秋雄

唯一の肉親である親父が亡くなった

親父の葬儀だというのに、俺は涙のひとつも出てこなかった。父の幸三は、くも膜下出血でいきなり逝ってしまった。すでに母を亡くし、唯一の肉親である親父が亡くなったのに、悲しみは沸いてこなかった。それほど親父とは疎遠になっていた。喪主の席に座っているのは長男の俺ではなく、親父の奥さんである文江さんだ。文江さんは親父の再婚相手だ。そして俺の隣の席に座っているのは、文江さんの娘さんの唯月(ゆづき)さんだ。唯月さんと会うのは久しぶりだ。もう3年くらい会っていなかった。

葬儀は厳かに進み、火葬場へ移動した。しばらく時間がかかるなと思い、喫茶室でコーヒーを飲んでいると、唯月さんが近寄ってきた。

「樹弥(みきや)さん、こんなときに何ですけど、今後のことについてお話させていただきたいので、落ち着いてからお時間をとっていただけないでしょうか?」

どうやら家の相続の問題や、今後の文江さんの生活のことだなと思った。

「いいですよ。来週にでも時間をとりましょうか?」

もっと先の話になるだろうと予想していたようで、来週と聞いて唯月さんは驚いていたが、お願いしますと言って、連絡先のメモを渡してくれた。

「じゃあ、来週連絡させて頂きます」

俺がそう言うと、軽く会釈だけして文江さんのところへ行った。

相続問題か。面倒だなと思いながら俺はメモをポケットにしまった。


俺の名前は片瀬樹弥(かたせ みきや)。32歳の独身だ。俺のお袋は俺が高校3年の時に病気で亡くなった。その後、俺は大学進学で東京へ行き、親父は一人暮らしとなった。男やもめで、ちゃんと生活できるのだろうかと心配していたのだが、盆正月に実家に帰ると、部屋はちゃんと片付いているし、冷蔵庫にも食材が色々入っている。お袋が体調を崩してからは、外食や店屋物、下手したらコンビニ弁当ですましていたのに、親父は料理ができたのかと不思議に思っていると、俺が二十歳になったときに、再婚すると言い出した。それが文江さんだ。文江さんも10年くらい前に旦那さんを亡くして、女手ひとつで娘の唯月さんを育てるため、苦労していたらしい。唯月さんは俺より2つ下で、来年大学受験を控えていたらしく、進学費用などの面倒を親父がみるつもりだということだった。再婚しても唯月さんは養子にはせず、相続人の権利は持たせないので安心してくれと言われたが、俺は納得できなかった。相続云々よりも、お袋が他界してからまだ2年ちょっとしか経っておらず、先日三回忌が終わったばかりではないか。おそらく俺が家を出てから文江さんがうちに通って家事の面倒をみていたのだろう。だったら、いつから関係が始まったのだ?単純に考えれば、お袋がまだ生きていた時からということになる。俺は親父に対して、言いようのない憤りを感じた。

親父が再婚すること自体に反対する気はないが、文江さんを快く受け入れる気にはなれなかったのだ。

それ以来、盆正月に帰ると、文江さんと唯月さんがいるので、俺は帰省しづらくなった。次第にお袋の墓参りのためにお盆だけは帰省するが、正月は友達とスキー旅行へ行ったりして帰らなくなった。大学を卒業してから地元で就職が決まったが、実家には帰らず、俺はマンションを借りて独り暮らしをすることにした。だから、実家にはほとんど行くこともなく、文江さんや唯月さんとはもちろんだが、親父とも疎遠になってしまったのだ。


翌週唯月さんに連絡して実家へ行くと言うと、文江さんがいないところで話したいというので、俺のマンションの近くの喫茶店を指定した。

「時間をとって頂いてありがとうございます」

「いいえ、どうせちゃんと話さなければいけないことですから」

「単刀直入に申しますが、あの家に母と私が住み続けたいと思っているのですが、了承していただけないでしょうか?」

「文江さんに関してはそうするしかないと思っていますが、唯月さんも住み続けるのですか?」

唯月さんは俺の質問の意図がわからなかったようで、ポカンと俺の顔を見た。

「つまり、唯月さんは結婚はされないのですか?それとも結婚しても、その旦那さんも一緒にあの家に住み続けるつもりなのですか?」

唯月さんは俺の質問の意図がわかって、はっとした顔をした。

「まだ結婚については何も考えていなかったものですから・・・」

「いまお付き合いしている人はいないのですか?」

「ええ。今はそんな人いません」

「そうですか。じゃあ、結婚の話が出てきたときにまた考えるということにしましょう。とりあえず、私はあの家に住む必要はないので、今まで通りお二人で住んで頂いていいですよ」

「ありがとうございます」

「あと、文江さんのこれからの生活ですが、唯月さんの収入だけで何とかなりそうですか?」

「何とも言えません。母も働かなければいけないと思っているのですが」

文江さんは親父と再婚してから仕事を辞め、家庭に入っていた。

「文江さんは今おいくつでしたっけ?」

「56歳です」

「まだお若いので働ける年ですけど、問題は良い働き口があるかどうかですね」

「そうなんです」

「親父の預金はどれくらいありましたか?」

唯月さんは預金残高と保険等でもらえる金額、そして会社から支給される死亡退職金の金額を教えてくれた。思ったより少なかった。それだけで暮らしていくのは無理だろう。ましてや、その半分は本来俺が相続する金額だ。

「当面、そのお金を使ってください」

「でも、半分は樹弥さんの相続分ですから」

「だったら、家の名義を私にして、お金はすべて文江さんが相続するということでどうですか?」

唯月さんの顔が一瞬こわばった。

「心配しなくても、私の名義の家だから出て行ってくれとはいいませんから。今は家の所有者が亡くなった場合、期限内に相続人に名義を移さなければ罰せられるという法律ができたので、いずれにしても文江さんか私の名義に移す必要があります。あの家の資産価値からいって相続税はかからないと思いますが、相続すれば毎年固定資産税がかかります。少しでも負担を減らした方がいいでしょ?」

「でも、そうすると将来樹弥さんのお子さんがあの家を相続することになりますよね?」

「なるほど、確かにそうなりますね。でも、今のところ私も結婚の予定はないですし、そんな相手も今はいません。仮に将来子供ができたとしても、少なくとも文江さんよりも私が長生きするつもりですから」

唯月さんは黙り込んだまま何も言わなかった。いくら俺が口で言っても信じられないというのが本音だろう。


親父は地元企業で部長職にまでなっていた。それなりに収入はあったのだろう。文江さんが働かなくても生活は十分できていたようだ。

唯月さんは地元の大学を卒業した後、地元企業に就職した。普通のOLなので、とびきり収入があるわけではない。文江さんと質素に暮らす程度の収入だと思う。しかし、このまま文江さんの面倒をみながら過ごすのだろうか。器量も良いので、言い寄ってくる男性もいるはずだ。結婚は考えないのだろうか。


司法書士に依頼し、土地家屋の名義を俺名義に変更してもらった。その報告を唯月さんにしたところ、再び話があると言ってきた。金曜日の夜なら大丈夫だと返事をすると、駅前のシティーホテルのラウンジを指定してきた。待ち合わせ時間に行くと、唯月さんは先に来て待っていた。

「遅くなってすみません」

「いえ、私が早く来たので」

「それで話とは何でしょうか?」

「この前言おうかどうしようか迷って、結局言わなかったことがあるんです」

「一体何でしょう?」

「生前お父様が言ってらしたことなんですが」

「親父が?」

「唯月は樹弥と結婚して、ずっとこの家に住めと言っていました」

「親父がそんなこと言っていたのですか?」

「はい。ことあるごとに言っていました」

「それをどうして今改まって伝えるのですか?」

「樹弥さん、私と結婚してくれませんか?」

いきなりのことで、俺は声も出なかった。

「樹弥さん、いまお付き合いしている人いないのですよね?」

「ええ、今はいません」

「私とでは嫌ですか?」

「いいとか嫌とかではなく、今までそんなこと、考えたこともなかったので、ただ戸惑っています」

「これは言ってみればお父様の遺言のようなものです」

「そう言われても・・・」

「今日、このホテルに部屋をとっています。一緒に泊まっていただけませんか?」

唯月さんの目は真剣だった。俺はどうしていいのかわからなかった。思わず俺が実家を出る前の18歳、19歳の頃の唯月さんの姿を思い出した。胸がチクリと痛む。しかし、しばらくして、俺は我に返った。今は流されてはいけない。

「お話はわかりました。とりあえず、今日は帰ります」

俺はそう言って唯月さんを置いてホテルを出て行った。


唯月さんは、将来的に俺があの家を処分したり、名義を盾に自分たちを追い出すかもしれないと思ったのかもしれない。それなら俺と結婚してしまえば、その心配はなくなる。確かに現状でも生活は楽ではないのに、あの家を追い出されて新たに住居を構えれば、その家賃負担が大きくのしかかってくる。ましてや文江さんがこれから年を取っていき、介護が必要な状況などが生じれば、あの家を出ていくわけにはいかない。そんな計算が働いたのかもしれない。

しかし、そんなことで好きでもない男と結婚をするのだろうか?

いくら親父の遺言だとは言え、俺と一緒に生活したことはないし、まともに話したのも今回が初めてだ。昭和時代のお見合いではあるまいに、今どきの女性が、そんなに簡単に結婚すると言えるのだろうか。

少なくとも、俺は今の段階では唯月さんと結婚する気にはなれない。何より文江さんと同居するというのは、お袋のことを考えると俺にとっては苦痛でしかない。


唯月さんから親父の初盆は家族だけで取り行うので、必ず来てくださいと連絡があった。俺に異論はなく、実家にお寺さんを呼んで取り行われることになった。

法要が終わり、墓参りを済ませれば俺は帰るつもりだったが、夕食の準備をしているので、食べて行ってくださいと言われ、無下に断るのも大人げないと思い誘いに応じることにした。

実家にあがるのは久しぶりだった。驚いたことに、俺が住んでいた頃と何も変わっていなかった。てっきり文江さんの好みで模様替えなどを行っているものだと思っていたが、お袋が使っていた花瓶などもそのまま同じ位置に置いてあった。

リビングに座っていると、文江さんと唯月さんがテキパキと料理をテーブルの上に並べている。法要が始まるまでにはすでに準備していたのだろう。

準備ができたというので、テーブルにつくと、唯月さんが俺のグラスにビールを注ごうとした。

「車で来ているので、ビールは・・・」

「今日はここで寝ればいいじゃないですか。ここは樹弥さんの家なのですから」

「そうですけど、泊まる準備は何も持ってきていないので」

「樹弥さんの部屋はそのままにしてありますよ。タンスに着替えも入っているのではないですか?」

確かに学生時代に帰省したときは、ここで寝泊まりしていたので、多少の着替えは置いておいたが、もう10年も前の話だ。

「樹弥さんの着替えは新しいのを買ってタンスに入れてありますよ」

文江さんがいきなりそう言った。

「そうなんですか?」

「ええ、幸三さんは無駄になってもいけないから、そんなことしなくていいって言っていましたけど、いつ戻ってこられてもいいように買っておいたのです」

驚いた。文江さんが俺にそこまで気を使っていたとは。俺は思わず唯月さんが注いでくれたビールを飲み干し、ずっと聞いてみたかったことを文江さんに聞いてみた。

「文江さんと親父は、どうやって知り合ったのですか?」

文江さんが「おや?」という顔をした。

「幸三さんから聞いていなかったのですか?」

「まったく」

「あなたのお母さんの紹介です」

「お袋の?」

あまりにも予想外の話で、俺はとまどった。

「あなたのお母さん、芳美さんが入院されていた病院に、私も入院していたのですよ」

「文江さんも病気をされていたのですか?」

「幸い私は早期発見のガンでしたから、簡単な手術で治ると言われていましたけどね。芳美さんは私と会ったときは、もう覚悟されているようでした。同じ病棟に同年輩の女性は他にいなくて、私たちはよく話すようになりました」

そういえば俺が見舞いに行ったとき、他の患者さんと仲良さそうに話していたのを見たことがある。顔まで覚えていなかったが、あれが文江さんだったのか。

「私たちはお互いの身の上話をよくしていました。芳美さんは自分がいなくなった後のことを心配されていました。食べ盛りの樹弥さんがいるのに、幸三さんは家事が何もできない人なので、心配されていたんです」

お袋はそんなことを心配してくれていたのか。

「それで芳美さんが私に、家政婦をやらないかと言ってきたんです。1日に2時間でいいので、夕飯だけでも作ってくれないかと頼まれたのです。時給ははずむように幸三さんに言っておくからと。病気のことで今まで通りに働けない私としては、1日2時間でも時給がもらえるのは魅力でした」

そうか、文江さんは最初は家政婦としてうちに来たのか。しかし、お袋が亡くなってから、俺が東京へ行くまでは文江さんはうちには来ていなかった。

「私はその気になっていました。唯月は大学進学をあきらめていましたが、何とか大学へ行かせてあげたいとも思っていましたし。ところが、芳美さんの病状が進むにつれ、芳美さんは気弱になってきたのです。芳美さんは、そのうち家政婦ではなく、自分がいなくなったら幸三さんと再婚してくれないかと言い出しました。他の変な女性と再婚されたら樹弥さんが可哀そうだと言うのです。それに幸三さんはそれなりの収入があるので、幸三さんと結婚すれば唯月の大学進学の面倒もみてくれるはずだからと言うのです」

お袋が再婚を勧めたのか。意外だった。

「私は迷いました。唯月のことを考えると良い話だなと思いました。しかし、はっきり言って、幸三さんは私のタイプではなかったのです」

そうなのか?だったらどうして?

「私が迷っている間に芳美さんは、幸三さんにそのことを言ってしまわれました。幸三さんから、話は聞いたけど、そんなことは気にしなくていいと言われました。そして幸三さんは心配しなくても芳美は必ず治るからと笑顔で言われました。その顔は、本当にそう信じ切っている顔でした。この方は、本当に芳美さんのことを愛しておられるのだなと思いました」

親父の意外な一面を知った気がした。

「そのうち芳美さんは歩き回ったりすることができなくなりました。私が病室まで行くと、弱弱しく笑顔を見せて迎えてくれました。芳美さんはしきりに文江さんと出会えてよかった。最後に本当に良い人に出会えたと言ってくれました。そして、文江さんと、うちの幸三が再婚して、将来は樹弥と唯月さんが結婚してくれたら最高なのにねと言っていました」

唯月さんとの結婚は、お袋が言い出したことなのか?

「お母さん、お義父さんが樹弥さんと結婚しなさいと言っていたのは、芳美さんが言い出したことなの?」

「そうなの。芳美さんが幸三さんにそう言ったみたいで、幸三さんは芳美さんの望みをかなえてあげたくて、唯月を養子にもしなかったし、ことあるごとにあなたにそう言っていたの。樹弥さんは自分の好きな女性と結婚するのが一番の幸せなのだから、もう言わないでやってくれと幸三さんには言っていたのだけどね」

「それで、タイプでもない親父との再婚を決めたのですか?」

「芳美さんが亡くなったあと、幸三さんとお話しして、再婚の話は置いておいて、とりあえず落ち着いたら家政婦としてお手伝いさせてもらいますと言ったのだけど、私の病気が再発したの。それで2回目の手術をして退院した頃には樹弥さんは東京へ行ってしまったの」

「そうだったんですか」

「家政婦として働かせてもらっていたけど、定期的に病院へも行かなければならないし、他の仕事の方がうまくいかなくてね。入院費用などで貯金も使ってしまったし、このままでは唯月の大学どころか、生活が厳しいなと思って、幸三さんに相談したの。そしたら、芳美の遺志でもあるので、結婚しましょうと言ってくれてね。文江さんが嫌なら結婚しても寝床は別々で構いませんからと言うの。なんて優しい人なのだろうと思いました。芳美さんが生涯の伴侶として選んだ理由が、そして最後の最期まで、幸三さんのことを心配されていた理由がよくわかりました。それで結婚することにしたのです」

俺が想像していたストーリーと全然違っていた。

「最後に芳美さんと会ったとき、芳美さんは私の手を握って、この世にやり残したことがいっぱいあるけど、文江さんに出会えたので、安心して逝けると言ってくれてたけど、感謝するのは私の方。芳美さんのおかげで、私たち親子はひもじい思いをすることもなく、唯月を大学まで行かせてあげることができたんだもの。芳美さんと幸三さんには感謝してもしきれない」

文江さんはそう言いながらこらえきれずに顔を覆った。


久しぶりに実家の風呂に入り、2階の自分の部屋に入った。部屋は俺が出て行ったときのままで、綺麗に掃除してあった。

ベッドに横になり、文江さんの話を思い出していた。親父はどうして話してくれなかったのだろう。いや、俺が聞く耳を持たなかったのかもしれない。親父が再婚すると言った途端に俺は反発していた。俺の態度を見て親父は話すきっかけを逃してしまったのかもしれない。いまさらながらに、文江さんにも親父にも申し訳ないことをしたと思った。

唯月さんが風呂からあがったようで、隣の部屋に入る音がした。俺は部屋を出て唯月さんの部屋をノックする。

「はい、どうぞ」

中から唯月さんが応えた。中に入ると唯月さんはパジャマ姿でベッドに腰かけていた。

「ちょっと話したくて」

「いいですよ。母の話、どうでした?」

「私は、ずっと誤解していました。てっきり親父と文江さんは母の生存中から関係があったのだと思っていました。文江さんにも親父にも、申し訳ないことをしたと思っています」

「誤解がとけたのならよかったです」

「それと、もう一つ、言っておかなければならないことがあります」

「何でしょう?」

「私がこの家を出たのは、文江さんがいたからではないのです。唯月さんがいたからです」

「私がいたからなのですか?」

「はい。唯月さんがこの家に来たのは高校3年生の時でした。その時から可愛い子だなと思っていました。それが、帰省するたびに唯月さんはどんどん大人の女性になって、綺麗になってきました。この人と同じ屋根の下で暮らすのは、男として辛いと思いました」

唯月さんは意味がわからないというように、首を傾げた。

「唯月さんと一緒に暮らすようになったら、私は唯月さんのことを好きになってしまうのではないか、そして変な気を起こしてしまうのではないかと思ったんです。でも、文江さんへの反発心から、絶対にそれだけはダメだと思って家を出たんです」

「樹弥さん・・・」

「以前、唯月さんは私に結婚しようと言いました。それはこの家に住み続けるためですか?」

「もちろん、それもあります。でも、私はずっと幸三さんから樹弥さんと結婚しろと言われ続けて、いつの間にかそれが当たり前だと思うようになったんです。樹弥さんがたまにこの家に帰ってこられたとき、いつもドキドキしていました。いつかはこの人と結婚するんだと思っていました。しかし、いつの間にか樹弥さんはこの家に帰ってこなくなりました。そして幸三さんも樹弥さんと結婚しろとは言わなくなりました。そのうち私の中でこの話はなくなったんだと諦めるようになりました。でも心の中にはいつも樹弥さんがいたのだと思います。他の男性を見てもときめかないのです。幸三さんの葬儀で久しぶりにお会いして、忘れていた思いがぶり返してくるようでした。家のことで相談したとき、やっぱり私はこの人のことが好きなのだと思いました。あの日、家に帰って色々考えました。でも、この気持ちを伝えないまま人生を終わりたくないと思ったのです。でもどう伝えれば良いのかわからず、家のことにかこつけて、あんな言い方になってしまったのです」

「そうだったのですね。私と唯月さんが結婚することを母が願っていたとは思いませんでした。唯月さん、私と結婚してください。でも、これは母の遺志を尊重するためではないです。純粋に私が唯月さんと結婚したいからです」

唯月さんが「はい」と言って俺に抱きついてきた。俺もそれに応えて抱きしめた。唯月さんが俺の耳元でささやいた。

「私、この日を、ずっと待ってた」

唯月さんの切ない言葉が耳をくすぐり、愛しさがこみあげてきて、俺は唯月さんを抱きしめたまま、静かにベッドに沈んでいった。

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