第49話
ヴァルドラ要塞の石壁が夜の冷気を閉じ込めていた。
奥の書斎では油ランプが淡く揺れ、古い地図と帳簿が壁一面を覆っている。デルム川の水音だけが遠くから微かに響き、部屋を深い静寂が満たしていた。
カイエル伯爵は背筋を伸ばしたまま長い沈黙を守っていた。
やがて、澄んだ声が静かに落ちる。
「先生。熟慮を重ねましたが、心は定まりました。
この計画を実行いたします。
領民の未来を閉ざすぐらいなら、たとえ諸侯すべてを敵に回すことになりましても、この地を守るため私は進んで責を負いましょう」
低く、しかし揺るぎない声だった。
書斎の空気が、一瞬だけ張りつめた。
颯真はゆっくり頷く。
「伯爵……その覚悟があれば十分です」
机の上の地図に指を置きながら、颯真は穏やかに続けた。
「では一歩ずつお話しします。
まずは銀行を設けます。名は後ほど決めますが、場所はこの要塞の中。出入りを厳しく制限できる区画に本店を置きます。
資本は商業ギルドから手形を現金化して確保します。ただし一度にではなく三度に分けて。市中の金が急に減らぬように」
伯爵は小さく頷き、視線を落とした。
「業務は、領民や商人から金属貨を預かり、同額の預かり証を渡します。
その証はいつでも必ず金属貨に交換できる。
領民や商人が安心して証を持ち歩けるようにするのが第一です。
この約束が揺らぐことはありません」
「人々は金貨を持ち歩かずに済む……」
伯爵の瞳がわずかに見開かれる。
「信用を守るため、二重帳簿を用います。
一冊は金庫にある実際の金属貨、もう一冊は外に流通している預かり証の総額。
毎夕必ず突き合わせます。
数字そのものが誠実さを示すのです」
「……民も安心しますね」
「次に税です。
領税はすべて預かり証で納めます。
銀貨や金貨しか持たない者も、まず銀行窓口で預けて証に換え、隣の納税窓口で納める。
同じ場所で完結します。
税が証の価値を裏づける仕組みです」
「税が通貨を保証する……理解しています」
「偽造を防ぐため、証そのものに複雑な封印式を織り込みます。
そして口座を開いた者には心眼スクロールを一つ授与します。
一度使えば誰でも簡易鑑定の生活魔法を覚えられる。
以後は指先で札をなぞり“心眼”と念じるだけで、本物なら淡い青光、偽物なら灰色に光ります。
魔力を使うのはごくわずか。魔法が強いのは人ではなく証そのものです」
「全員が自分で確かめられる……心強い」
「ここまでが準備段階のすべてです。。
数字で信用を示し続ける。それが第一歩です」
颯真は穏やかに懐中時計を取り出した。
「伯爵、これをお持ちください」
真鍮の外殻は長年の使用で黒ずみ、白銀の家紋も磨耗している。
誰が見ても古い懐中時計に過ぎない。
カイエルは首をかしげながら蓋を開いた。
淡い青光が浮かび上がり、複雑な数値と地図が空中に投影される。
「……これは?」
驚きに目を見開く伯爵。
ポット:「伯爵様、初期化完了しました。
領内経済データ、発行残高、治水計画……必要な情報を思い描けば、即座に表示します。」
伯爵は目を細め、机上の古文書に視線を移した。
心の中で〈材質と年代〉と念じる。
パネルに文字が瞬時に踊る――「羊皮紙・約百五十年前・保存状態良好」。
「思うだけで……これほどまでに」
颯真が微笑む。
「伯爵が知りたいと願えば、この時計はすべて応えます。
鑑定魔法とPODの技術が融合した、領地経営のための道具です」
―― 「ポット、次の図を」
「第五。会計の分離。伯爵家の私財――農園や家産の収益と、伯爵領政府の会計は完全に分けます。前者は家計、後者は公金。銀行は公金の出入りだけを扱い、混ぜない。この原則に例外はありません」
ポット:「先生、公金と私財の誤混同チェック、毎晩の自動監査に入れておきます。伯爵様、数字が一桁でもズレれば、私が遠慮なく鳴らします」
伯爵は小さく目を見開き、それから静かにうなずいた。
次の図を呼び出す。
「第六。政府の資金調達は“ここまで”。ここが今日の核心です。民間への貸付はしません。そうではなく――伯爵領政府が銀行から借り入れることを認めます。ただし、上限は預かり金残高の三割まで。“準備高の三割”と覚えてください」
伯爵の喉がまた小さく動く。私は言葉を重ねる。
「仕組みは単純です。伯爵領政府の勘定に“枠”を設け、必要に応じてそこからインフラ投資の支払いを行う。支払先は領内の職人・商人・労働者に限る。つまり――雇って、使う。お金は領内で回り、仕事が生まれ、賃金が再び預金として銀行に戻る。領外には出さない」
パネルには港の断面図、街道の橋梁、堤の土留め。各工事の支払先と人数、週ごとの賃金支払いスケジュールが線で結ばれていく。
「第七。支払のやり方。工事契約はすべて領内登録の業者・職人に限定。賃金は預かり証で週払い、希望者には両替の場を用意。物資の購買も領内調達を優先し、やむを得ず外から買う場合でも、支払は段階分割で資金の流出速度を抑えます」
「ポット、一旦控えます。伯爵が疲れています」
ポット:「えっ、でも今いい流れで――」
伯爵は苦笑を浮かべ、深く息を吐く。
「先生、感謝します……」
颯真は静かに腕を組み、ほんの少しだけ口元を緩めた。
伯爵は静かに時計を閉じた。
淡い光が消え、再び古びた懐中時計に戻る。
ランプの炎がわずかに揺れ、デルム川の水音がふたたび静寂に染み込んでいった。
召喚されたけど即帰宅。34歳おっさん、知力特化でやり直す 風待ちの桶屋 @siba777
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