二度目の初恋

@Nisitsukiamane

記憶



 意識が戻ったとき、最初に見えたのは白い天井だった。

 蛍光灯がちらちらと点滅していて、目を細める。体が重い。頭に鈍い痛みがある。ここはどこだろう。


「春馬君!」


 突然、誰かが僕の名前を呼んだ。顔を横に向けると、見知らぬ女の子が椅子から立ち上がろうとしている。長い黒髪に、大きな瞳。きれいな子だ。でも、誰だろう。

「よかった、本当によかった」


 女の子は僕の手を握って、泣き始めた。温かい涙が僕の手の甲に落ちる。なんで泣いているんだろう。なんで僕の手を握っているんだろう。


「あの、君は……?」


 僕がそう言うと、女の子は驚いたような顔をした。


「春馬君、私よ。七海。水野七海」

 七海。その名前を聞いても、何も思い出せない。


「覚えてない……の?」

 七海の声が震えている。僕は首を振った。


「ごめん。君のこと、覚えてない」

 その時、白衣を着た男性が部屋に入ってきた。医師らしい。


「気がついたようですね。桜井春馬君」

「先生、春馬君が私のことを覚えてないんです」


 七海が慌てたように医師に向かって言う。医師は困ったような表情を浮かべた。


「ああ、そのことですが……」


 医師は僕の両親を呼び、家族と七海を前にして説明を始めた。


 僕は三週間前、交通事故に遭った。頭を強く打って、意識不明の状態が続いていた。幸い命に別状はなかったが、記憶障害が残った。特に、高校に入学してからの記憶がすっぽりと抜け落ちているという。


「つまり、息子は高校での出来事を何も覚えていないということですか?」

 母が震え声で尋ねる。


「残念ながら、そうです。ただし、それ以前の記憶は残っています。時間はかかりますが、少しずつ記憶が戻る可能性もあります」

「七海ちゃんのことも……?」


 今度は父が口を開いた。なぜか父も母も、この七海という子のことを知っているらしい。


「春馬の恋人の七海ちゃんのことも覚えていません」

 恋人?僕の?


 僕は七海の方を見た。彼女は俯いて、小さくうなずいている。

 この子が、僕の恋人?



 退院してから一週間。七海は毎日のように僕の家を訪れた。


「今日は一緒にお散歩しましょう」


「昨日見せた写真、もう一度見てもらえる?」


「春馬君の好きだった音楽、聞きましょう」


 七海は一生懸命だった。僕に記憶を取り戻してもらおうと、必死に頑張っている。でも、申し訳ないことに、何を見ても聞いても思い出せない。


「ごめん、七海。やっぱり思い出せない」

 そう言うと、七海は寂しそうな笑顔を浮かべる。


「大丈夫。焦らないで。私、待ってるから」


 その笑顔が、なぜかとても切なく見えた。


 学校に復帰したのは、退院から二週間後だった。クラスメイトたちは僕を温かく迎えてくれたが、やはり誰のことも思い出せない。


「桜井、お疲れ様」


 昼休み、一人の男子生徒が僕に声をかけた。がっしりとした体格で、人懐っこい笑顔を浮かべている。


「君は?」

「大輔だよ。田中大輔。お前の親友」


 大輔。親友?


「覚えてないか。まあ、仕方ないよな」


 大輔は寂しそうに笑った。でも、なぜか彼の笑顔には、何か隠しているような雰囲気があった。


「大輔、僕と七海のことを教えて」

 僕がそう言うと、大輔の表情が一瞬曇った。


「七海ちゃんのこと?そうだな……」


 大輔は言葉を選ぶように話し始めた。


「七海ちゃんはいい子だよ。お前のことを本当に大切に思ってる」

 でも、何か言いかけて止めるような素振りを見せる。


「でも?」


「いや、何でもない」


 大輔は首を振って、話題を変えてしまった。


「今日は特別な場所に案内するね」


 七海がそう言って僕を連れて行ったのは、町の中心部にある小さな水族館だった。


「ここで私たちは初めてデートしたの」

 七海は嬉しそうに話す。僕は周りを見回したが、やはり記憶にない。


「あそこのベンチで、春馬君が私の手を握ったの」

 七海が指差す先には、大きな水槽の前にベンチがあった。色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。


「そうだったんだ」

 僕は相槌を打ったが、実感が湧かない。


「もう一度、手を握ってもらえる?」

 七海は恥ずかしそうに手を差し出した。僕は迷ったが、彼女の手を取った。小さくて温かい手だった。


 でも、何かが違う。

 この手を握ったことがあるという実感がない。初めて触れる手のような気がする。


「どう?何か思い出した?」

 期待を込めた七海の瞳を見つめていると、胸が苦しくなった。


「ごめん、やっぱり……」


「大丈夫」


 七海は僕の言葉を遮って微笑んだ。


「時間をかけて、もう一度恋に落ちてもらうから」


 その言葉に、僕は心を動かされた。この子は僕のために、こんなに一生懸命になってくれている。記憶がなくても、きっと僕は七海のことを好きになっていたのだろう。


 次の日、七海は僕を桜並木に案内した。


「ここで初めて『好きだよ』って言ってくれたの」


 桜の季節はもう過ぎていたが、青々とした葉が茂っている。


「その時のこと、詳しく教えて」

「夕方だったの。桜の花びらがひらひらと舞い散って、とてもロマンチックだった。春馬君は恥ずかしそうに『七海のことが好きだ』って」


 七海の話を聞いていると、なんとなく情景が浮かんでくる。でも、それが記憶なのか、それとも想像なのかわからない。


 その後も七海は僕をいろいろな場所に連れて行った。一緒に勉強した図書館、初めてキスをしたという公園、お弁当を分け合った学校の屋上。


 でも、どの場所に行っても、記憶は戻らなかった。


 記憶が戻らないまま、一ヶ月が過ぎた。


 七海は相変わらず僕に優しく接してくれる。僕も、少しずつ彼女に惹かれている自分を感じていた。記憶はないけれど、七海の笑顔を見ると心が温かくなる。彼女の泣き顔を見ると、胸が締め付けられる。


 でも、時々妙な違和感を覚えることがあった。


 クラスメイトたちと話していると、みんな口を揃えて「七海ちゃんはいい子だけど……」と言いかけて止める。何を隠しているのだろう。


 また、僕の机の中から見つかった手紙やメモを見ると、七海以外の女の子の名前が書かれていることがあった。「美月」という名前だった。


「美月って誰?」


 七海にそう聞くと、彼女は一瞬表情を強ばらせた。


「クラスメイトよ。でも、もう転校しちゃったの」

「僕と仲が良かったの?」

「普通の友達だったと思うけど……」


 七海の答えは曖昧だった。


 そんなある日のことだった。大輔が僕を校舎の裏に呼び出した。


「春馬、お前に話しておかなければならないことがある」


 大輔の表情は今までになく深刻だった。


「七海ちゃんのこと?」


「ああ」


 大輔は深く息を吸ってから口を開いた。


「お前は七海ちゃんと付き合ってなんかいなかった」


 僕の頭の中が真っ白になった。


「え?」


「七海ちゃんはお前に片思いしてたんだ。でも、お前には別に好きな子がいた」


「別に……?」


「美月だよ。橋本美月。転校生で、とてもかわいい子だった。お前は彼女に一目惚れして、猛アタックの末に付き合うことになった」


 美月。僕のメモに書かれていた名前だ。


「でも、その美月ちゃんが急に転校することになった。お前は必死に引き止めようとしたけど、結局ダメだった。事故に遭った日は、美月ちゃんとの別れ話の直後だった」


 大輔の話を聞いて、僕は混乱した。


「じゃあ、七海は嘘をついているの?」

「そうだ。お前が記憶を失ったのをいいことに、自分が恋人だったと嘘をついた」


 信じられなかった。あんなに優しい七海が、そんな嘘を?


「でも、なんで教えてくれなかったの?」

「最初は様子を見てたんだ。七海ちもんなりに考えがあるのかもしれないし、お前が幸せならそれでもいいかなって」


 大輔は申し訳なさそうに続けた。


「でも、これ以上黙ってるのは良くないと思った。お前には真実を知る権利がある」




 その日の放課後、僕は七海に直接確認することにした。

「七海、僕たちは本当に付き合っていたの?」


 七海は図書館で一緒に勉強していたが、僕の質問を聞くと顔が青ざめた。


「どうして急にそんなことを……」


「答えて。僕たちは付き合っていたの?」


 しばらく沈黙が続いた。周りの生徒たちがちらちらとこちらを見ている。


「外で話しましょう」


 七海は立ち上がって図書館を出た。僕も後を追う。


 中庭のベンチに座って、七海はようやく口を開いた。


「嘘だったの」

 小さな声だった。


「私たちは付き合ってなかった。私が勝手に、そう言っただけ」


「どうして?」


「私、春馬君のことがずっと好きだったの。でも、春馬君には美月ちゃんがいた」


 七海の声が震えている。


「美月ちゃんはとても可愛くて、頭も良くて、完璧な子だった。私なんか全然かなわない。春馬君が美月ちゃんを見つめる目を見てるのがとても辛かった」


 涙がこぼれ始めた。


「そんな時に事故が起きて、春馬君が記憶を失った。それで私は思ったの。これが最後のチャンスなんだって」


「七海……」


「記憶を失った春馬君になら、私を好きになってもらえるかもしれない。私のことを見てもらえるかもしれないって」


 七海は泣きながら続けた。


「嘘から始まった時間だったけど、私にとっては本物だった。春馬君が私の話を聞いてくれて、私の手を握ってくれて、私のことを大切に思ってくれてるって感じられて」


「でも、それは嘘の上に成り立ってることじゃないか」

「わかってる。でも、やめられなかった。春馬君と過ごす時間が、あまりにも幸せで」


 七海はハンカチで涙を拭いた。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、最低よね。記憶を失った人を騙すなんて」


僕は何と言っていいかわからなかった。怒りよりも、混乱の方が大きかった。


「美月のことを教えて」

「美月ちゃん?」

「僕は彼女のことを本当に好きだったの?」


 七海はうなずいた。


「とても。春馬君は美月ちゃんに夢中だった。朝から晩まで美月ちゃんのことばかり考えて、美月ちゃんのことばかり話してた」


 そんなに好きだった人のことを、僕は忘れてしまっている。


「美月ちゃんは今、どこにいるの?」


「北海道に転校したって聞いた」


 北海道。遠い場所だ。


「春馬君、記憶が戻ったら、私のことは忘れて。そして、美月ちゃんを探して」


 七海は立ち上がった。

 

「さようなら、春馬君。短い間だったけど、ありがとう」


 七海は走り去っていった。




 七海が去ってから、僕は一人でベンチに座り続けた。

 頭の中が整理できない。七海の嘘、美月という存在、失われた記憶。すべてが混乱している。


 美月のことを思い出そうとしても、何も浮かんでこない。本当にそんなに好きだった人のことを、僕は完全に忘れてしまっている。


 でも、なぜだろう。七海のことを思うと、胸が締め付けられる。嘘をつかれていたことへの怒りもあるけれど、それ以上に、彼女が去ってしまったことが寂しい。


 家に帰ると、母が心配そうな顔で僕を迎えた。


「春馬、七海ちゃんから電話があったの。もう会いに来られないって」


「そう」


 僕は自分の部屋に向かった。


「何かあったの?」

 母が後を追ってくる。


「七海と僕は、付き合ってなかったんだ」

 母は驚いた表情を浮かべた。


「えっ?」


「七海が嘘をついていた。僕には美月って子がいたんだ」


「美月ちゃん……」

 母は何かを思い出すような表情をした。


「ああ、そういえば美月ちゃんのことを話していたわね。とても好きだって」

 やはり本当だったのだ。


「でも春馬、七海ちゃんのことはどう思ってるの?」


 母の質問に、僕は答えられなかった。




 それから一週間、七海は学校に来なかった。風邪を引いたと連絡があったが、本当のところはわからない。


 僕はその間、ずっと考え続けていた。


 記憶の中の美月への想いと、現在の七海への気持ち。どちらが本物なのだろう。


 大輔が心配して声をかけてくれた。


「春馬、大丈夫か?」

「わからない」


 僕は正直に答えた。


「美月のことを思い出せない。本当に好きだった人なのに、何も感じない」

「記憶がないんだから、仕方ないよ」


「でも、七海のことは違う。記憶がなくても、彼女といると心が動く」

 大輔は黙って聞いてくれた。


「嘘をつかれたことは許せない。でも、七海がいなくなって、僕は寂しい」

「それが春馬の本当の気持ちなんじゃないか?」


「でも、これは七海の嘘から始まったことだよ」


「嘘から始まったかもしれない。でも、お前が七海ちゃんに対して感じている気持ちは本物なんじゃないか?」


 大輔の言葉に、はっとした。


 そうだ。七海が嘘をついていたとしても、僕が彼女といて感じた温かさや、彼女の笑顔を見た時の気持ちは、偽物ではない。


「記憶の中の恋と、現在の気持ちは別物かもしれないな」

「そうだと思う」


 大輔はうなずいた。


「美月ちゃんのことは過去の春馬の恋だ。でも、今の春馬が好きになったのは七海ちゃんなんだろう?」

 

 その通りだった。


 僕は記憶を失った自分として、七海に恋をしていた。それは確かな事実だ。


「七海を探そう」


 僕は立ち上がった。




 七海の家を訪ねたが、誰も出てこなかった。学校に電話しても、まだ体調不良で休んでいるという答えだった。


 僕は七海がよく行く場所を思い出して、探し回った。水族館、桜並木、図書館。でも、どこにもいない。


 最後に思い出したのは、初めて手を握ったという水族館のベンチだった。


 夕方、もう一度水族館に行ってみると、七海がベンチに一人で座っていた。


「七海」


 僕が声をかけると、七海は驚いて振り返った。


「春馬君?どうして……」

「君を探してた」


 僕は七海の隣に座った。


「もう会わない方がいいよ。私、春馬君を騙してたんだから」


「話がある」


 僕は七海の方を向いた。


「僕は君に騙されてた。それは事実だ」


 七海は俯いた。


「でも、この一ヶ月間、僕が君に対して感じていた気持ちは本物だった」


「春馬君……」


「記憶の中の美月のことは思い出せない。でも、今の僕は君に恋をしてる」


 七海が顔を上げた。


「それでいいの?記憶が戻ったら、美月ちゃんのことを思い出すかもしれないのに」

「思い出すかもしれない。でも、それは過去の僕の恋だ。今の僕の恋は君なんだ」


 僕は七海の手を取った。


「記憶を失った僕に恋をしてくれてありがとう。今度は記憶のある僕が、君に恋をする番だ」


 七海の目に涙が浮かんだ。


「本当にいいの?嘘つきの私でも?」

「君が僕を好きだったっていう気持ちは嘘じゃなかった。それだけで十分だ」


 僕は七海を抱きしめた。


「もう一度、最初から始めよう。今度は嘘じゃなく」


 七海は僕の胸で泣いた。


「ありがとう、春馬君」


 水槽の中で、色とりどりの魚たちが泳いでいる。僕たちは新しいスタートラインに立っていた。




 それから半年後。


 僕の記憶は少しずつ戻ってきたが、美月のことは結局思い出せなかった。でも、それでよかった。


 七海と僕は、本当の恋人になった。今度は嘘偽りのない、本物の恋だ。

「春馬君、今度の日曜日、水族館に行きましょう」


「また?もう何回行ったかわからないよ」


「いいじゃない。私たちの特別な場所なんだから」


 七海は笑顔で言った。


 そうだ。僕たちには二度目の初恋があった。記憶を失って出会い直した、奇跡のような恋。


 過去の自分がどんな人を好きだったとしても、今の僕は七海を選ぶ。それが僕の答えだった。


 人は記憶で恋をするのではない。現在の気持ちで恋をするのだ。

 七海の手を握りながら、僕はそう思った。

 二度目の初恋は、最初の恋よりもずっと深く、ずっと確かなものだった。


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